岩田聡

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岩田 聡
いわた さとる
生誕 (1959-12-06) 1959年12月6日[1]
日本の旗 日本北海道札幌市
死没 (2015-07-11) 2015年7月11日(55歳没)[1][2]
日本の旗 日本京都府京都市
京都大学医学部附属病院
国籍 日本の旗 日本
教育 東京工業大学工学部情報工学科卒業
配偶者 あり[3]
子供 あり[3]
岩田弘志、元・北海道室蘭市長)[4]
'業績'
勤務先 ハル研究所(1982年 - 2000年)
任天堂(2000年 - 2015年)
受賞歴 Golden Joystick Awards 2015 生涯功労賞[5][6]
D.I.C.E. Awards 2016 生涯功労賞[7][8]

岩田 聡(いわた さとる、1959年12月6日 - 2015年7月11日[1][2])は、日本プログラマ経営者[9]

任天堂の元代表取締役社長で、HAL研究所代表取締役社長なども歴任した[9]

経歴

生い立ち

北海道札幌市出身。札幌市立真駒内中学校、北海道札幌南高等学校東京工業大学工学部情報工学科卒業。

高校時代、岩田はヒューレット・パッカード社のプログラム電卓「HP-67」の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と父親の援助によって購入、その魅力に取り憑かれて独学でプログラムを学び、『スタートレック』を題材とした自作のゲームを教室の隣席の友達に披露していた。また、そのゲームをヒューレット・パッカード社の代理店に送ったこともあった。あまりの出来の良さに驚いた同社からは、大量の資料が送られてきたという[10][11][12]

大学1年時の1978年には、大学の入学祝いを頭金にローンを組んでコモドール社のホームコンピュータPET 2001」を購入し[12]、それを販売していた西武池袋本店のパソコン常設コーナーに毎週のように通っていた。そこで同じくプログラミングを愛好する友人と出会い、彼とは後に、後述の「HAL研究所」で共に仕事をすることになる[13]

HAL研究所時代

大学在学中、前述の西武池袋本店に勤めていた店員が「株式会社HAL研究所」(通称「ハル研」)の設立に関わることになり、店の常連だった岩田と友人は誘いを受けてアルバイトとして勤務する。そこで岩田はプログラミングに熱中し、大学卒業後、そのままHAL研究所の正社員となる[13]。それまでのHAL研究所にはソフトウェア開発を担当する社員がおらず、岩田はその第一号となった[11]。ちなみに、当時のHAL研究所は社員数5人の零細企業であったため、岩田の両親は息子の進路に反対し、特に父親とは入社から半年ほど口を利かなかったという[14]

入社2年目の時、1983年7月15日に、任天堂から家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ」(ファミコン)が発売される。これに強い関心を持った岩田は、京都市にある任天堂に直接出向いて仕事請負の申し出を行い、結果、『ピンボール』『ゴルフ』といったファミコンソフトのプログラミングを担当することになった[13]。また、1985年1月に発売された『バルーンファイト』のファミコン版の担当時には、既存のアーケードゲーム版よりも滑らかなキャラクターの動きを実現した。アーケードゲーム版のプログラマだった株式会社SRD中郷俊彦は岩田の元を訪れてノウハウを聞き、それが、同年9月に発売される『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされることになった[15]。更に、『ドラゴンクエスト』の北米版『Dragon Warrior』を任天堂が発売する際にはローカライズ作業を担当した[16]。なお、後に深く関わることになる任天堂の宮本茂とは、1988年発売の『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』で初めて共同開発を行った[17]

HAL研究所社長時代

1992年、HAL研究所はゲーム事業の不振と不動産投資の失敗により多額の負債を抱えて経営危機に陥り、和議を申請する。そうした中で、1993年3月、取締役開発部長であった岩田が代表取締役社長に就任した[18][19]。これは、「岩田が社長をやるなら助ける」という援助者が現れたことがきっかけといわれている[20][注釈 1]

岩田はそれまで経営とはほぼ無縁の立場であったが、社長として優れた経営手腕を発揮。『星のカービィ』シリーズなどのヒット作品が生まれたこともあり、15億円あった負債を6年間で完済、HAL研究所の経営再建を成し遂げた[19]

社長就任後、会社や仕事への不満を聞き取る目的で全社員との面談を実施した。この中で、社員との対話を重ねることが組織運営力や勤務意欲の向上に繋がると感じた岩田は、以降、この面談を半年に一度のペースで行うようになった[22]。ちなみに、後に任天堂社長になった際には、全社員ではないものの、直属に近い部下に対して同様の面談を行っている[23]

社長業の傍らでプログラマとしての活動も続けた。当初は開発に関与していなかった『MOTHER2 ギーグの逆襲』が約4年の歳月を経ても完成せずに行き詰っていた際には、開発現場に出向き、「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」と申し出て開発を請け負った。その後、宣言通りに半年で大枠が出来上がり、そこから更に半年で内容に磨きを掛けて、結果、約1年で完成させた[24][25]。この作品の開発がきっかけとなってシリーズ生みの親である糸井重里との親交が深まり、その後、糸井のホームページ『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げにも協力した[26]

また、『ポケットモンスター』(ポケモン)シリーズを手掛ける株式会社クリーチャーズの役員を岩田が務めていた縁もあり、『ポケットモンスター 赤・緑』(以下、『赤・緑』)の海外向けローカライズ作業や『赤・緑』の戦闘プログラムの『ポケモンスタジアム』への移植、更には『ポケットモンスター 金・銀』のグラフィック圧縮ツールの作成も行った[27][25]

任天堂時代

2000年6月、任天堂社長の山内溥に経営手腕を買われて任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任した[1]

2001年5月に米国で行われたゲームの見本市「E3 2001」では、同年9月14日に発売を控えていた新型ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」に関するプレゼンテーションを行った[28]

大乱闘スマッシュブラザーズDX』の開発が遅れ、発売予定の2001年11月までの完成が危ぶまれる事態に陥った際には、山梨県HAL研究所に出向いて開発現場を指揮し、不具合を調べる作業(コードレビューデバッグ)を行った。これがプログラマとしての最後の仕事となった[12]

2002年、42歳のときに山内から指名を受け、6月1日付けで任天堂の代表取締役社長に就任した。任天堂は、1889年に山内溥の曽祖父である山内房治郎が創業して以来、山内家の同族経営であったため、当初、次期社長は山内溥の長男山内克仁か娘婿の荒川実だと思われていた。そうした中での入社2年目の岩田の抜擢は、異例中の異例であった。なお、それまで会社の意思決定は社長に一任されていたが、岩田の社長就任以降は取締役会によって決定されることとなる。これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えた山内からの提案である。

2003年に開催された東京ゲームショウの中で岩田は基調講演を行い、「日本のゲーム市場では、ゲーム離れ現象が進行している」と、業界全体への危機感を示した。こうした状況を打開するため、任天堂は「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として位置づけ、幅広い層を対象としたハードソフトの開発に取り組むことになる[29]

その一環として、2004年12月2日に、タッチパネルを搭載した2画面携帯型ゲーム機ニンテンドーDS」を発売。年末商戦期に投入されたこともあり、年末年始のみで約150万台を売り上げた。

翌年の2005年からは、多くの世代が手に取ることを目指したソフト群「Touch! Generations」を展開し、ミリオンセラーのソフトを複数生み出した。特に『脳を鍛える大人のDSトレーニング』は社会現象となり、略称の「脳トレ」は流行語として広く浸透した。また、ニンテンドーDSで利用できる「ニンテンドーDSブラウザー」や「ワンセグ受信アダプタ DSテレビ」などの周辺機器も発売した。

2006年11月19日には、リモコン型コントローラで操作する家庭用ゲーム機Wii」を発売。このWiiでは本体の電源を毎日入れてもらうことを目指し、天気やニュースなどの様々なコンテンツを含む「Wiiチャンネル」が内蔵された[30]。また、歴代のゲーム機で発売されたゲームソフトをダウンロード購入してプレイできる仕組み「バーチャルコンソール」も導入された。

同2006年からは、任天堂ホームページ上で岩田が社内の開発者にインタビューする企画「社長が訊く」を開始する[31]。当初は発売を間近に控えたWii本体や同時発売のWii用ソフトの開発者に話を聞くものだったが、その後、新作ソフトが出る際などに定期的に行われるようになり、他社のクリエイターを招いて話を訊くこともしばしばあった。

2011年より、発売予定のゲームソフトに関する情報を動画で岩田が直接伝える試み「Nintendo Direct」を開始[32]。後に、岩田だけでなく任天堂や他社のクリエイターも登場するようになった。

2011年2月26日に発売したニンテンドーDSの後継機「ニンテンドー3DS」は普及が進んだものの、本体価格の値下げによる逆ザヤ状態での販売が続いたことなどが響き、2012年3月期の決算で通期営業赤字に陥った[33]。また、2012年12月8日に発売したWiiの後継機「Wii U」は販売台数で苦戦し、特に海外市場での販売鈍化が目立った。2013年には任天堂の米国法人CEOも岩田が兼任することとなった。

晩年

2014年6月に、健康診断で胆管腫瘍が発見されたことを公表した[34]。切除手術は無事終了したものの、療養のため直後の株主総会を欠席した[35]。その後、同年8月に復帰[35]。10月の経営方針説明会で公の場に再び登場した[36]

2015年2月からは、療養以降休止していた「社長が訊く」を再開[31][37]。同年6月に米国で開催された「E3 2015」の期間中には、姿は見せなかったもののTwitter上で情報を発信した[38]。また、6月末に行われた株主総会には姿を見せ議長を務めた[35]。しかし、7月に入ってから体調を崩して入院し、その後11日に容態が急変。代表取締役社長に在職中のまま、胆管腫瘍のため、京都市左京区京都大学医学部附属病院で死去した。満55歳没(享年57)。逝去の事実は、13日に任天堂より公表された[1][2]。また、岩田の死は世界でも大きく報道された[39][40][41]

最晩年の2015年3月期の決算では、4期ぶりに営業黒字に回復[42]。2015年3月には、ディー・エヌ・エーと業務・資本提携してスマートデバイス向けサービスを共同開発することや、新型ゲーム機「NX」(コードネーム、後のNintendo Switch)を開発中であることを発表した[43]。業績が上向き、事業構造の変革や新規ハードの製作に乗り出した途上での急逝となった。

人物・エピソード

  • 古くからのMacintoshユーザーで、プレゼンテーションでは「Keynote」を使用し、携帯電話は「iPhone」を愛用していた。また、1989年発売の携帯型パソコン「Macintosh Portable」も所持しており、当時から常にプログラムを記述できる環境下にあった[44]
  • HAL研究所時代、MSX上でMacintoshのようなGUI環境を実現するOS「HALNOTE」(1987年発売)の開発に関わった。
  • 糸井重里にMacintoshの使い方を教えたり[45]、『ほぼ日刊イトイ新聞』(以下、『ほぼ日』)の立ち上げ及びPC環境の整備に協力していることから、『ほぼ日』において「電脳部長」という肩書きを持っていた。『ほぼ日』の立ち上げ時にはコンピュータの手配やプロバイダーとの契約のほか、床を這いずりまわってLANケーブルの配線をしたという[26]
  • プログラマ時代から宮本茂に対して尊敬の念を抱いており、宮本の考え方や言葉を常に観察していたことから、自らを「宮本ウォッチャー」と称していた[46]。また、宮本の方法論を言語化できたらゲーム業界のためになるのではないかという使命感を持っていた。宮本の持論の一つである「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」という考えは、岩田が方々で紹介したことにより広く知られるようになった[47][48][49]
  • 岩田には「プログラマはノーと言っちゃいけない」という持論があった。これは「どんなに困難なプログラミングが想定されたとしてもノーと言った時点で企画そのものが駄目になるから、とにかく実現を目指し、無理だった際の代案も考える」という理念である[50][20]
  • かなりの読書家であり、多忙な中でもビジネス書をはじめとした読書を欠かさなかった。元々はそれほど読書をしていたわけではなく、糸井重里からもらった本を読む程度だったが、次第に読書量が増え、逆に糸井へ薦める程になったとのこと[51]。また、HAL研究所時代には『ドラゴンボール』『NARUTO』『めぞん一刻』といった漫画を愛読していた[21]
  • 中学時代には鉄道に夢中になっており、地元の北海道で運行していたSLの写真を撮影しに行ったり鉄道模型を集めたりしていた[52]
  • 海外でのイベントでは自身が英語でスピーチを行うことも多いが、学生時代は英語が苦手で、HAL研究所時代に急遽アメリカに出張することになり、必要に迫られて話せるようになったという[53]
  • ゲーム番組ゲームセンターCX』にゲストとして登場し、出演者の有野課長(有野晋哉)と共に、自身が開発した『バルーンファイト』をプレイした[14]
  • ニコニコ動画を見ることがあるといい、その中で、自身が弄られている動画を見ることについて「めちゃくちゃシュールな体験」と語っている[54]
  • Wii用ソフト『メトロイドプライム3 コラプション』に収録されている岩田のメッセージの中で、「悩みがあると痩せるのではなく太る体質で、多忙であっても疲れているように見られない」と語っていた。
  • 菓子が好きで、特に麦チョコなどのチョコレート菓子を好んで食べていた[21]
  • 晩年の闘病生活中は最新の医学書やネット上の医学情報の検索によって自らの病気について学び、どのような治療プランが最適かについて主治医と議論していたという[21]
  • Nintendo Direct」では、岩田が両手を体の前でハの字にした後に「直接!」と言いながら突き出すポーズをとるのが恒例になっていた(「情報を“直接”お届けします」という言葉の「直接」の部分で使用)。当初は岩田のみが行っていたが、後に他の社員や他社のクリエイター、ゲストなどが出演する際にも同じポーズを取るようになった。このポーズは、岩田没後の「Nintendo Direct」でも出演者によって2016年まで用いられた。
  • 岩田の没後に発売されたNintendo Switchの本体内には岩田がプログラマとして関わった『ゴルフ』がイースター・エッグとして組み込まれていた。これは、命日である7月11日にコントローラの「Joy-Con」を持った状態で「直接!」のポーズを取ると起動する仕組みだったとされているが、後の本体アップデートにより削除された[55]
  • アニメ『ポケットモンスター』シリーズに登場するキャラクター「マサト」は岩田の息子がモデルで、マサトがかけている黒縁眼鏡は、初登場の『ポケットモンスター アドバンスジェネレーション』の放送当時に岩田がかけていたものが元になっている[21]
  • ゲーム『ポケットモンスター』シリーズでは『金・銀』で使われたグラフィック圧縮ツールなど様々な場面で開発への協力を行なっている。『ポケットモンスター ウルトラサン・ウルトラムーン』では、作中に登場する「ゲームフリークのモリモト」が岩田への感謝の言葉を述べている[56]

作品

※岩田が任天堂社長になる以前に関わったゲームソフトのタイトルを記述する。

ゲーム機の略称
FC:ファミリーコンピュータ、FCD:ファミリーコンピュータ ディスクシステム、NES:Nintendo Entertainment System、SFC:スーパーファミコン、GB:ゲームボーイ、GBC:ゲームボーイカラー、N64:NINTENDO64、GC:ニンテンドーゲームキューブ

略歴

脚注

注釈

  1. 一部では、この「援助者」は当時の任天堂社長だった山内溥なのではないかという説もある。これについて、当時のHAL研究所の一般社員で、現・HAL研究所代表取締役社長の三津原敏は、座談会記事[21]の中で「細かい事情は把握していません」と語り、一方で「ハル研が経営に困ったときに、任天堂から開発機材を貸していただけたことは事実です」とも語っている。

出典

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  62. 土本学 (2013年4月25日). “任天堂、複数の役員交代を発表・・・6.7歳若返り、米国法人CEOも岩田氏が兼任へ”. iNSIDE. http://www.inside-games.jp/article/2013/04/25/65950.html . 2015閲覧. 

参考文献

関連項目

外部リンク

ビジネス
先代:
山内溥
任天堂社長
第4代:2002年 - 2015年
次代:
君島達己