平将門

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平将門
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 天慶3年2月14日940年3月25日
氏族 桓武平氏房総平氏

平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東豪族

平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫[注釈 1]

下総国常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。

しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

死後は御首神社築土神社神田明神国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富なを利用して騎馬隊を駆使した。

生涯

生年について

平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、延喜3年(903年)とする[1]元慶8年(884年)頃とする説もある[注釈 2]

生い立ちと平氏一族の争い

父の平良将下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っているが、根拠となる史料はない。また、母[注釈 3]の出身地である相馬郡で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の豊田猿島両郡であったと考えられている。将門は地方より15 - 16歳のころ平安京へ出て、藤原北家氏長者であった藤原忠平を私君とする(主従関係を結ぶ)。将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らも桓武天皇の五世であったが、藤原氏の政権下では滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの官位は低かった。将門は12年ほど在京して、当時軍事警察を管掌する検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが入れられなかった(日本外史神皇正統記は「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」とするが、現実的でなく、謀反は「制度に対しての行動」としている『山陽外史』[3]の見方がある)。この後将門は東下する。この東下の際、叔父の平国香平貞盛の父)らが上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃したが、叔父で国香の弟にあたる平良文が将門を援護し、これを打ち破っている[4]。ただし、この戦は後の蚕飼川の戦い(子飼渡の合戦とも)がモデルで、妙見神を讃えるために創作されたもので実在しなかったという説もある[5]

以後「平将門の乱」へつながる騒擾そうじょうがおこるのだが、それらの原因についていくつかの説があり、いまだ確定できていない。

  • 長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていたため争いが始まった、という説。
  • 常陸国茨城県)前大掾源護の娘、或いは良兼の娘を巡り争いが始まったとする説(『将門記』などによる)。
  • 源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まったとする説[注釈 4]
  • 「源護・源護の縁者と将門の争い」ではないかとも言われている(将門が当初は伯父らと争っているため、「坂東平氏一族の争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の良将とは違うことから)。

承平5年(935年)2月に将門は源護の子・らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にした。そのまま将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際に伯父の国香を焼死させた。同年10月、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙たいじするが、この軍も将門に撃破され、良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放置できず国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集め、承平6年(936年)6月26日上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、下野国栃木県)の国衙に保護を求めた。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。

同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)を連れ帰る。だが弟たち(『将門記』には「舎弟と語らいて」とあり公雅公連とされている)の手助けで9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る。そこで朝廷は同年11月5日に1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞盛、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。

天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守興世王(出自不明)と介源経基清和源氏の祖)が、足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた[注釈 5]。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。

この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。

平将門の乱

この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明庇護ひごを求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(940年1月3日)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した[注釈 6]。結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日下野に出兵、事前にこれを察知した藤原弘雅大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。続いて同月15日には上野に出兵、迎撃に出た藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を自称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らに反対されたが、将門はこれを退けた。

なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である[注釈 7]。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない[注釈 8]

将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年(940年)1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には参議藤原忠文征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷に帰ることなく討伐軍長官として出立したという。

同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索している。10日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を“浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。

間もなく、貞盛が下野国押領使藤原秀郷と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて2月1日を期して出撃した。将門の副将藤原玄茂の武将多治経明坂上遂高らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始するも、元来老練な軍略に長じた秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将門軍と合戦となる。将門自ら陣頭に立って奮戦したために貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。

この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けるために幸島郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門らにより世が治まらないことを嘆いたという。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸島郡の北山を背に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。

2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した[注釈 9]

その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古く確実な例が、この将門である。

この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」と呼ばれる。

補足

王城下総国の亭南(猿島郡石井という説がある)と定め、檥橋を京の山崎相馬郡の大井の津を大津になぞらえて、左右大臣・納言参議など文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、坂東に京に模した国家を樹立しようとしたとされている。

評価の変遷

関東一円では武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話伝説として人々に語り継がれてきた。これは、将門が重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられたためだと考えられる。

中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。

神田明神は戦国時代太田道灌北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。

また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。

なお、神田明神は幕府によって江戸城鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」とは首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」である。

明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして1874年明治7年)には教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。一方で明治時代後期になると阪谷芳郎織田完之らによる将門復権運動が行われた。

第二次世界大戦終結後、皇室批判へのタブーがなくなると、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年(昭和51年)には将門を主人公としたNHK大河ドラマ風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年(昭和59年)になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。

このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。近年ではより学術的な面からの研究が期待されている。最近の研究により教養豊かな知識人であったことも分かっている。

伝説

将門伝説の研究者である郷土史家村上春樹は将門伝説を以下のように分類している[7]

  1. 冥界伝説(地獄に堕ちた将門の伝説)
  2. 調伏伝説
  3. 祭祀伝説(将門を祀った神社)
  4. 王城伝説(将門が建設した都の伝説)
  5. 首の伝説
  6. 鉄身伝説(将門はこめかみにだけ弱点があると言う伝説)
  7. 七人将門の伝説(将門の影武者の伝説)
  8. 東西呼応の伝説
  9. 将門一族の伝説
  10. 追討者の伝説

調伏伝説

千葉県成田市成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(940年)海路にて上総国尾垂浜に上陸、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持つ。

このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加するが、将門が主人公であった1976年昭和51年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。

同じく、現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地は城址と言い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわるとされるも祀られている。校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った桔梗姫[注釈 10]にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。

首の伝説

京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれるようにして小さながある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。

言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人藤六左近がそれを見てを詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。「太平記」に、さらしものになった将門の首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれている。将門の首は何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。しかし、ある時、歌人藤六左近がそれを見て

将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて[注釈 11]

を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。

また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。

御首神社に伝わる話では、将門の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。

昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏小説帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。

将門一族の伝説

遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。

「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、坂東の分与・独立を意味する前者を排除し、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した源頼朝を投影したものだとする関幸彦の指摘がある。

子孫

男系としては、将門の嫡子の将国常陸国信田郷を本貫として、その子の文国信田氏と称したことから始まる。文国の末裔の師国の代に嗣子がなく、同族の相馬師常を養子に迎えた時点で将門の男系血筋は途絶えた。

女系としては、平将門の次女・春姫が従父の平忠頼(将門の従弟)の正室となり、平忠常を産んだ。忠常は平忠常の乱を起こして、に護送される途中で美濃で病没したが、その子らは赦されて上総氏千葉氏、そしてその分家の相馬氏へとつながる。千葉氏は小田原征伐後北条氏に属し大名としては滅亡したが、地主や庄屋となって一部は続いた。また分家の相馬氏は戦国時代を生き延び相馬中村藩主として幕末を迎えた(養子を数回迎えているものの、女系で血縁を維持している。系譜を参照)。その他の春姫の子孫は秩父平氏として栄えた。その一族からは秩父氏河越氏江戸氏などが出ている。

関連作品

浄瑠璃・歌舞伎
歌舞伎や浄瑠璃では将門の娘(滝夜叉姫、俤姫)の復讐譚が多く題材とされている。
史伝
小説
映像作品
戯曲

祭り

脚注

注釈

  1. 祖父・平高望の父が葛原親王の場合は4世子孫。
  2. 一部の書籍(特に児童・生徒向けに書かれた物では疑問符付き)で903年とするが、これは将門が火雷天神菅原道真)の生まれ変わりとするとの伝承からきていると考える者もいる。梶原正昭は、将門が反乱を起こした際に藤原忠平に宛てた書状の中に「(私こと将門は)少年時代にあなた様の家臣となって以来数十年云々」という意味の記述があることから、数十年を40年と仮定すると将門が忠平の家臣となったのは899年頃、その頃の将門の年齢は15 - 6歳であろうか、との可能性を示唆している[2]
  3. 『尊卑分脈脱漏』『坂東諸流綱要』等によると、「犬養春枝女」または「県犬養春枝女」となっている。
  4. 『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」には、始め伯父の平良兼との間で争い、次に平真樹なる者に誘われて平国香や源護らと事をかまえるに至ったとしている。
  5. 『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられている。
  6. 『摂政忠平宛将門書状』には、「維幾の子為憲が公の威光を傘に猛威をふるったため、玄明の愁訴によってそれを正そうとして常陸に赴いたところ、為憲と貞盛が示し合わせて戦いを仕掛けてきた。」とある。
  7. ただし『将門記』では興世王の献策に対して「將門ガ念フ所モ、啻斯レ而巳。(中略)苟モ將門、刹帝ノ苗裔、三世ノ末葉也。同ジクハ八國ヨリ始メテ、兼ネテ王城ヲ虜領セムト欲フ。」と答えたとしているが、この答えは後に出てくる『摂政忠平宛将門書状』の内容とは矛盾する。
  8. 海音寺潮五郎は『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠として指摘している[6]
  9. 扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『和漢合図抜萃』では、秀郷の子の千常が将門を射落とし首級をあげたとされている。
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  11. こめかみの「こめ(米)と俵藤太の「俵」を掛け合わせたもの。

出典

  1. 赤城宗徳 1970, p. 196
  2. 梶原正昭 1976, pp. 
  3. 中川克一 『山陽外史』 至誠堂、1911年、。
  4. 稲毛の歴史”. 千葉市. 2013年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.
  5. (4)相次ぐ骨肉の争い”. 写真で追う平将門. 2014年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.
  6. 海音寺潮五郎 『悪人列伝』古代篇、文藝春秋文春文庫〉、2006年、。ISBN 4167135485。
  7. 村上春樹 『平将門伝説』 汲古書院、2001年。ISBN 4762941611。

参考文献

  • 赤城宗徳 『平将門』 角川書店〈角川選書〉、1970年。ISBN 4-04-703032-5。
  • 梶原正昭(訳注) 『将門記』1、平凡社東洋文庫〉、1975年。ISBN 458280280X。
  • 梶原正昭(訳注) 『将門記』2、平凡社〈東洋文庫〉、1976年。ISBN 4582802915。
  • 福田豊彦 『中世成立期の軍制と内乱』 吉川弘文館、1995年、ISBN 4642027475
  • 森田悌 『日本古代の政治と宗教』 雄山閣出版、1997年、ISBN 4639014597
  • 谷本龍亮(平将門直系)『平将門は生きていた』 叢文社、1997年、ISBN 4794702485
  • 関幸彦 『蘇る中世の英雄たち』 中央公論社、1998年、ISBN 4121014448
  • 川尻秋生 『平将門の乱』 吉川弘文館、2007年、ISBN 4642063145
  • NHK取材班 『その時歴史が動いた33』 KTC中央出版、2005年、 ISBN 4877583467

関連項目

外部リンク