徳川綱重

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徳川綱重
時代 江戸時代前期
生誕 正保元年5月24日1644年6月28日
死没 延宝6年9月14日1678年10月29日
幕府 江戸幕府
甲斐甲府藩
氏族 徳川氏甲府徳川家

徳川 綱重(とくがわ つなしげ)は、甲斐甲府藩主。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男[1]。母は側室の夏(順性院)、養母は天樹院(千姫)乳母松坂局

概略

母・夏が綱重を懐妊した際、父の家光は厄年にあたっており、災厄を避けるために姉の天樹院(千姫)を養母とした。

1651年慶安4年)、甲斐甲府藩15万石に封じられ、城地として甲府城を与えられ独立した大名となる。所領は甲斐、武蔵信濃駿河近江に散在した。ただし、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していた。その後参議に補任がなされ、その唐名から甲府宰相の異名で呼ばれる。

1654年承応3年)、甲府浜屋敷(後の浜離宮)が建築される。

1678年(延宝6年)、兄の第4代将軍・家綱に先立って35歳の若さで死去した。

墓所は東京都港区増上寺1959年に移転改築された際、6月から9月に遺体の調査が行われたが、四肢骨から推定した身長は160.1センチメートルであった。この調査については、鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』を参照。

弟の綱吉が後に第5代将軍となったが、子がなかったため、綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して第6代将軍となった。

政治は、関孝和を抱えるなど学問に理解があり、甲府湯島聖堂と同様の聖堂を作ろうとした。綱重自身が甲斐へ赴いたことはないが、綱重期には在国の家臣団が主導し、釜無川の治水における徳島堰の開削などが行われた。

『武家勧懲記』によれば「綱重卿ハ自然ト権威備リ、剛勇有テ物毎好悪ノ意地ナク、行跡悠然トシテ、聡明叡智ノ御器量タリ」と評されており、その人望はきわめて高かったとされる。死因は酒害というが、不明である。

経歴

※日付は旧暦

  • 1651年慶安4年)4月3日、甲斐府中15万石に封ぜられる。
  • 1653年承応2年)8月12日、元服し、将軍徳川家綱の諱を一字賜わり、綱重と名乗る。同日、従四位下に叙位。左近衛権中将に任官。左馬頭兼任。弟・綱吉は、同日、従四位下右近衛権中将右馬頭に叙任。
    • 8月17日、正三位に昇叙。左近衛権中将兼左馬頭如元。弟・綱吉も同日、正三位昇叙。
  • 1661年寛文元年)閏8月9日、10万石加封。
    • 12月28日、参議に補任。(以後、甲府宰相の称が生じる)弟・綱吉も同日参議に補任。
  • 1678年延宝6年)9月14日、薨去。伝通院(東京都文京区小石川)に埋葬。法名:清揚院殿圓譽天安永和大居士
  • 1705年宝永2年)9月21日、贈権中納言
    • 10月5日、増上寺(東京都港区芝公園)に改葬。
  • 1710年(宝永7年)8月23日、贈正一位太政大臣征夷大将軍。薨去後に征夷大将軍が贈られた一例である。

※参考資料=系図纂要、大日本史料総合データベース

徳川綱重 贈征夷大将軍の辞令(宣旨) 章弘宿禰記

故權中納言源朝臣綱重
權右少辨藤原朝臣永資傳宣
權中納言藤原朝臣共方宣
奉 勅宜被贈征夷大將軍者
寳永七年八月廿三日
修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘 奉

(訓読文)

故権中納言源朝臣綱重
権右少弁藤原朝臣永資(日野永資、正五位下)伝へ宣(の)る
権中納言藤原朝臣共方(梅小路共方、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、宜しく征夷大将軍を贈らるるべし者(てへり)
宝永7年(1710年)8月23日
修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、正五位上)奉(うけたまは)る

徳川綱重が登場する作品

映画
テレビドラマ
小説

脚注

注釈

出典

  1. ただし『徳川幕府系譜』では二男とされている亀松が、『徳川実記』や『江戸幕府日記』等では、その生年を正保2年2月29日(1645年3月26日)としている。これに従うのならば綱重は二男、亀松は三男となる。

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