日本の首都

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この項では、日本首都(にっぽんのしゅと、にほんのしゅと)について解説する。

概要

2018年(平成30年)現在、日本の「首都」は、一般的に東京都ないし東京と解されている。これは、日本の法令で初めて「首都」の語を用いた「首都建設法」(昭和25年法律第219号)が、東京都を首都と解していることによるところが大きい。ただし、同法は1956年に廃止されており[1]、現行の法令で「首都」について直接的な表現を用いて定めるものはない[2]

なお、首都建設法を引き継いだ「首都圏整備法」(昭和31年法律第83号)では、「東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域」を首都圏と定めている(2条)。同条の「政令で定めるその周辺の地域」とは、埼玉県千葉県神奈川県茨城県栃木県群馬県及び山梨県の区域である(首都圏整備法施行令1条)。

また、2013年11月に成立した首都直下地震対策特別措置法にも大きな被害を受けるであろう首都およびその周辺地域が記載されている[3]

以上のような一般的見解に対しては、多様な「首都」の認識に基づく異論もある(次節を参照)。

多様な「首都」の認識

日本では歴史上天皇による朝廷の下に、国際的には時に「日本国王」「日本国大君」とも称された征夷大将軍による幕府のような武家政権が存在したことや、東京京都両京制(東西両都)などの面から首都の議論があり、現在も法律上では「どの都市が首都であるか」という明確な定義がなされていないため、「首都は現在の首都圏にある東京である」という意見の他、「現在も京都と東京という2つの首都が並存している」「京都が正式な首都である」等、様々な首都論・首都認識がある。

「首都」の意義

首都」とは中央政府のある所、首府[4]のことであるが、日本で「首都」という語が一般化したのは第二次世界大戦後のことであり、戦前から戦後しばらくまでは帝国全体の中心都市は「帝都」と呼称した。後述のように「都」(みやこ)の地位についての議論は東京奠都がなされた明治の頃から存在しており、旧都については旧皇室典範(昭和22年5月2日廃止)第11条では「卽位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定され典憲の上で配慮されていた[5]。旧来の「都」(みやこ)と「首都」との関係について用語面においては戦後しばらくまで「主都」「主邑」(プライメイトシティ)を「首都」と記述する事例も多く[6]、明確な区別はなかった。「首都」という語の定義は、1950年昭和25年)の「首都建設法」の発布以来に同法に謳われる「首都」の意で一般的に普及している。

元来での日本の首都機能を有する「都=みやこ」は有史以来、天皇遷都宣言に基づき、天皇が御座し政治を行う地として遷都が行われてきた。794年12月4日延暦13年11月8日)に桓武天皇によって平安京(現在の京都市中心にあたる)への遷都が行われて以来、遷都に関する宣言は出されておらず、また大日本帝国憲法を始めとした旧法令や日本国憲法を始めとした現行法令のいずれにおいても、「日本の都が何処であるか」という点については謳われていない。なお、山城国大和国摂津国河内国和泉国(京都府の一部、奈良県大阪府兵庫県の一部)は併せて畿内(「畿」はかきね・門の内側。転じて、天子が直隷する帝都から五百里以内の土地を意味する)と呼ばれていた。現在でいう首都圏と同義である。

日本の現行憲法下においては「首都」を制定すべき法的要請はない。また首都を制定する法令もない。歴史的には「みやこ」が常に唯一であったわけでもなく、複都制が採られることがしばしばあった。日本の歴史的な慣例では、遷都がなされていない御座所は厳密には行宮とみなされる。こんにち、「東京都が唯一の首都」と慣例的にみなす根拠としては、「首都」という語が一般使用されるようになった戦後に発布された現行の日本国憲法において天皇が「象徴」として定義づけられており、その常座される都市として戦前の帝都の地位を引き継いでいる象徴的な「みやこ」とみなせること、国会(立法府)、首相官邸中央省庁(行政府)、最高裁判所(司法府)という三権の最高機関が東京都の千代田区に所在することなど、一国の中心都市とみなせる内政上の外形を備えていることが挙げられる。平成11年11月4日東京都知事石原慎太郎の質問[7]に対し衆議院法制局長および参議院法制局長、からの回答においては、我が国の法令法律に定義は存在せず見解を示す立場に無いとの回答がなされている[8]。なお、国会召集詔書には国会議事堂が所在する「東京に召集する」と書かれていること[9]静穏保持法別表第1で国会議事堂周辺地域を「東京都千代田区霞が関二丁目及び三丁目並びに同区永田町一丁目及び二丁目の区」と規定されていること、小型無人機等飛行禁止法第2条で国会議事堂を「国会に置かれる機関の庁舎であって東京都千代田区永田町一丁目又は二丁目に所在するもの」と規定されていることから、国会議事堂が東京都千代田区に所在することが前提になっている。また裁判所法第6条では「最高裁判所の所在地は東京都」と規定されていること、小型無人機等飛行禁止法第2条では最高裁判所の庁舎について「東京都千代田区隼町に所在するもの」と規定されていることから、最高裁判所が東京都千代田区に所在することが前提になっている。各国大使館などの外交部は東京に常設されており国際的に東京は日本の首都と認識されており、地図等に解説なく日本の首都として東京を図示するものが多い。

国内の統計等では23の特別区(23区、いわゆる東京都区部)が「東京」という1都市であるかのように扱われることが多く、一般にも東京都のうち23区を東京都区部、その他の市町村を多摩地域東京都島嶼部(いわゆる東京都下)と区別することもあるが、これは23区が旧東京市に相当することに由来するもので、現在では23区を一体とし自治権を有する行政単位は存在しない。一方、自治体としての東京都が公式に用いている「東京都」の英語の名称は"Tokyo Metropolis"("metropolis"は首都・首府・大都市[10]、あるいは主要都市・中心市[11])で、都知事は"Governor"(知事)として国際会議に出席するなど、東京都という1つの自治体で都市の扱いになっており、対外的に23区と多摩地域や島嶼部を分離する意味はない。このように、国内的には中枢的な首都機能が集中する23区に限定して首都とすることもあるが、対外的には多摩地域や島嶼部を含めた東京都全域をもって首都とする例が多い。

2011年、当時の石原慎太郎東京都知事と橋下徹大阪府知事は、東京を「首都」、大阪を「副首都」とすることを目指す方針で合意をした。橋下は「副首都」について「東京から行政機関を移転するということではなく、副首都を担える行政機構、都市機能を整備していくということ」と説明した[12]

辞典による日本の首都

天皇・都に注目したもの

  • 「京都も東京も帝都だが、本来首都は京都であり、東京は施政の便宜上天皇がいる場所だ」というもの[15]
  • 東西の帝都である東京と京都が並立して首都とするもの[16]
  • 江戸時代の首都は将軍の任命が行なわれた京都であり、幕府があった鎌倉江戸は首都ではなかったとするもの[17]
  • 首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだとするもの(1996年(平成8年)の橋本龍太郎内閣総理大臣国会答弁[18])。
  • 「都」としての原義は、天子の居住する集落であり、且つ、陵墓があることという説もある(講談社『大字典』)。

首都機能・武家政権に注目したもの

  • 平氏政権による福原京の計画が平安京との複都構想だったとし、また鎌倉幕府の置かれた鎌倉が、京都と首都機能を分担した事実上の複都制であるとするもの[19]
  • 江戸は中央政府の所在地として首都と意識されていたが、幕末に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが明治政府の置かれた東京に移ったとするもの[20]
  • 江戸時代に江戸は政治・行政の中心と認識され、首都として機能もし、外国人も江戸を首都と認識していたとするもの。1719年享保4年)の朝鮮通信使申維翰の『海遊録』によれば、都(首都)は初め大和にあり、その後豊臣秀吉大坂に、次いで徳川家康が江戸に移したと認識されていたという[21]

国会等に着目したもの

  • 首都機能移転問題に関して1990年(平成2年)11月7日に政府機能の地方移転決議が衆参両院本会議で決議された。ここでは国会および政府機能の移転をおこなうべきとの決議がなされたが、皇居は移転の対象とはならず、そのため遷都ではないという認識であった[22]。また1992年(平成4年)に国会等の移転に関する法律が法制化された。
  • 国会等の移転で移転対象と考えられているのは、国会、国会活動に関連する行政の中枢機能であり、皇居や、経済・文化など現在の首都東京が有する機能すべてではない。いわば首都東京の機能の一部を移転しようとするもので、首都移転とは異なる。1996年(平成8年)6月13日の衆議院国会等の移転に関する特別委員会において「私は、首都移転というつもりはありません。皇室に御動座をいただく意思はありません」「国会等の移転に関する法律に基づきます検討、それは首都移転あるいは遷都を前提として行われるものではありません」との内閣総理大臣(橋本龍太郎)の国会答弁がある[23]

法的根拠

2018年(平成30年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。そこで、旧法、現行法及び慣習法の読み方によって、東京(東京都)を唯一の首都と解さない論者もいる。論争に登場する主要な立法及びその解釈について列記する。

  1. 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
    • 1868年(明治元年)、天皇が京都から東京へ行幸するに際して発せられた「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」には、「首都」の語はない。同意ではないが、元来、首都の意味を含有していた「京」を地名に付したことから、この詔書によって、東京を京都と並び首都とすることかつ(複都論)を定めたと解する立場[24]がある。
      • 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(1868年9月3日(明治元年7月17日))
    朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東国第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ体セヨ
  2. 関東大震災直後ノ詔書
    • 1923年(大正12年)に発せられた「関東大震災直後ノ詔書」では、東京が首都であることを既定のこととして記載された文言が出てくる。
      • 関東大震災直後ノ詔書(1923年(大正12年}9月12日
    …抑モ東京ハ帝国ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸トナリ国民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我国都タル地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ将来ノ発展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルヘカラス…
  3. 東京都制
    • 1943年(昭和18年)に制定された「東京都制」(昭和18年法律第89号)は、太平洋戦争下における、いわゆる戦時法制の一つであり、その目的は「帝都たる東京に真の国家的性格に適応する体制を整備確立すること」、「帝都に於ける従来の府市併存の弊を解消し、帝都一般行政の、一元的にして強力な遂行を期すること」、「帝都行政の根本的刷新と高度の効率化を図ること」にあったといわれる[25]。この東京都制は、1947年(昭和22年)の地方自治法の施行に伴い廃止された[26]。現在、地方自治法において「都」制度は道府県制度と並び規定されているが、都制度の適用があるのは東京都を区域とする地方自治体に限定されるとは規定されていない。また、いわゆる首都の所在地の自治体に適用されるという規定もなく、例えば大阪府を「大阪都」に改めることもあり得るとされており、実際に大阪府と大阪市を合併させて「大阪都」にしようという動きもある(大阪都構想[27]
  4. 首都建設法
    • 1950年(昭和25年)には、東京都を日本の首都として新しく計画することが明確に定められた「首都建設法」が制定された。同法は、当時数多く制定された特別都市建設法の一つである。
      • 首都建設法(昭和25年法律第219号)
    第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。
    第十二条 東京都の区域により行う都市計画事業については、東京都が国の首都であることにかんがみて必要と認めるときは、建設省、運輸省その他その事業の内容である事項を主管する行政官庁がこれを執行することができる。(後略)
  5. 首都圏整備法(現行法)
    • 首都圏整備法は、首都建設法を強化したもので、首都建設委員会が作成した衛星都市整備促進法案、工業整備法案を統合したものであった[28]
      • 首都圏整備法(昭和31年法律第83号)
    (定義)
    第二条 この法律で「首都圏」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう。
    附則
    (首都建設法の廃止)
    4 首都建設法(昭和二十五年法律第二百十九号)は、廃止する。
  6. 首都圏整備法施行令(現行法)
    • 首都圏整備法を受け、「内閣は、首都圏整備法 (昭和三十一年法律第八十三号)の規定に基き、この政令を制定する。」として首都圏整備法施行令が制定されている。
      • 首都圏整備法施行令(昭和32年12月6日政令第333号)
    (東京都の区域の周辺の地域)
    第一条 首都圏整備法 (以下「法」という。)第二条第一項 の政令で定めるその周辺の地域は、埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県及び山梨県の区域とする。
  7. 首都直下地震対策特別措置法(現行法)
    • 東京を中心とした関東地方一帯で発生が予測されている首都直下地震に対する対策の推進を定めた法律。首都中枢機能の維持と、国民の生命、身体及び財産の保護を目的とする。
      • 首都直下地震対策特別措置法(平成25年11月29日法律第88号)
    (定義)
    第二条 この法律において「首都直下地震」とは、東京圏(東京都、埼玉県、千葉県及び神奈川県の区域並びに茨城県の区域のうち政令で定める区域をいう。次項において同じ。)及びその周辺の地域における地殻の境界又はその内部を震源とする大規模な地震をいう。
    2 この法律において「首都中枢機能」とは、東京圏における政治、行政、経済等の中枢機能をいう。

天皇居住地の変遷

歴史上における日本の首都は、天皇の居住地を都として定められた。古墳時代以降は、皇居のための宮殿御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

難波宮以前に都城は存在しない。奈良時代の初めに編まれた『日本書紀』および『古事記』によれば、歴代大王の宮室が磯城磐余奈良県桜井市)のほか、難波河内地方(大阪府)などに複数営まれたため、各々の宮室を中心に萌芽的な都邑が形成されていたことも考えられる。しかし、その具体的な遺構は未発見である。記紀に見える宮室については、「歴代の皇居」を参照。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京平城京難波京平安京などでは、計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。

なお、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられることもある(複都制)。例としては、天武天皇難波京を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年天平宝字5年) - 764年(天平宝字8年))、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市769年神護景雲3年) - 770年宝亀元年))が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波京は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた。

平安時代末の福原京を首都とみなせるか否かについては近年議論がある[29]。首都否定論の立場からは、『平家物語』などの文学作品に語られる「福原遷都」の実態については、平氏政権が和田(神戸市)方面への遷都を目的として福原に行宮を置いたに過ぎず、それによって平安京が従来の首都機能を失った様子も特に見られないことから、建前はどうあれ、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張がある[30]。実際、福原への遷都宣言が出されたことはなく、行宮滞在中も行事は京都で行われている上、遷都計画が頓挫した後は、京都を首都とする方針が政権中枢にて決定されている。これに反し、福原には八省院や官衙の整備計画も持ち上がったが、結局実行されなかった(『玉葉治承4年7月16日条・8月4日条・11日条・29日条)。

南北朝時代1336年 - 1392年)は、「正平一統」(1351年 - 1352年)の短期間を除き平安京が北朝の都である。ただし、南朝の本拠は全て行宮、すなわち仮の拠点として扱われ、正式な都は平安京と見なしていたと推測される。

日清戦争中の1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)5月30日には、広島県広島市に置かれた大本営(→広島大本営)において、明治天皇が直接戦争の指揮にあたった(広島大本営は翌1896年(明治29年)4月1日に解散)。1894年(明治27年)10月の第7回帝国議会は広島市で開催されている。立法・行政・軍の統括が東京から広島に移転していたことになり、この時期は広島が一時的に首都機能を担った。

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、皇居と大本営を長野県松代町(現長野市)に移転させる計画が陸軍により始められたが、敗戦により中止された(松代大本営)。

東京奠都

明治初年に京都から大坂のち江戸への遷都計画が立案されたが、公卿や保守派、京都市民などから反対の声が挙がった。また戊辰戦争がいまだ継続されている中、維新直後の混乱した政情のもと、政府内外での各藩閥や派閥による意思決定過程に不満をもつ不平分子がこの課題を政治問題化し、とくに久留米肥後の尊攘派や脱藩浮浪が一部公卿と結びつき(この動きは後に知られる佐賀の乱神風連の乱など九州・山口を舞台とする士族反乱に発展する)、明治新政府による天皇行幸(東行)すら新政府中枢による政治の壟断として反論が噴出する状態であった。この経緯があり、天皇の東行は遷都として公表されるわけではなく、より慎重な表現と手続きにより実施されることとなった。

文部省が1941年(昭和16年)に発行した『維新史』では天皇のこの東行を遷都(せんと)ではなく「東京奠都(てんと)」と表現している[31]。奠(てん)は「定める」「祭る」意味を表わしており、遷(せん)「移す」「移る」とは異なる意味を表現している。「奠都」については1895年に行われた「平安奠都千百年紀念祭」のように使用される言葉である[32]

宮城の変遷

以下の表について、古代については記紀の記述によるものであり、その実在や所在が考古学的に特定されていないものを含む。一般の遷都論においては第33代推古天皇の代以降から語られることが多い(通説)[33]

都市名 現在の地名 在住期間 主な天皇 副都、その他
軽島豊明宮かるしまのとよあきらのみや 奈良県橿原市大軽町 390年 - 430年 応神天皇 大隅宮おおすみのみや大阪市東淀川区大隅)
難波高津宮なにわたかつのみや 大阪府大阪市 430年? - 456年? 仁徳天皇
泊瀬朝倉宮はつせのあさくらのみや 奈良県桜井市 456年 - 480年 雄略天皇  
磐余甕栗宮いわれのみかくりのみや 480年 - 485年 清寧天皇
近飛鳥八釣宮ちかつあすかやつりのみや 奈良県明日香村 485年 - 488年 顕宗天皇
石上広高宮いそのかみひろたかのみや 奈良県天理市 488年 - 498年 仁賢天皇
泊瀬列城宮はつせのなみきのみや 奈良県桜井市 498年 - 507年 武烈天皇
樟葉宮くずはのみや 大阪府枚方市 507年 - 511年 継体天皇
筒城宮つつきのみや 京都府京田辺市 511年 - 518年
弟国宮おとくにのみや 京都府長岡京市 518年 - 526年
磐余玉穂宮いわれのたまほのみや 奈良県桜井市 526年 - 532年
勾金橋宮まがりのかなはし 奈良県橿原市 532年 - 535年 宣化天皇
檜隈廬入野宮ひのくまのいおりの 奈良県桜井市 535年 - 540年
磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみや 奈良県明日香村
奈良県桜井市
など諸説あり
540年 - 572年 欽明天皇 橘の宮(橘寺
百済大井宮くだらのおおいのみや 大阪府河内長野市
奈良県広陵町
大阪府富田林市
奈良県桜井市
など諸説あり
572年 - 575年 敏達天皇  
訳語田幸玉宮おさたのさきたまのみや 奈良県桜井市 575年 - 585年
磐余池辺雙槻宮いけのへのなみつきのみや 奈良県磯城郡
奈良県桜井市
など諸説あり
585年 - 587年 用明天皇
倉梯柴垣宮くらはししばがきのみや 587年 - 593年 崇峻天皇
豊浦宮とゆらのみや 奈良県明日香村 593年 - 603年 推古天皇
小墾田宮おはりだのみや 603年 - 630年 斑鳩宮
642年 - 643年 皇極天皇
飛鳥岡本宮あすかおかもとのみや 630年 - 636年 舒明天皇
田中宮たなかのみや 奈良県橿原市 636年 - 640年
百済宮くだらのみや 奈良県広陵町
奈良県桜井市
など諸説あり
640年 - 642年
飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや 奈良県明日香村 643年 - 645年 皇極天皇
655年 斉明天皇 難波長柄豊碕宮
難波宮(難波長柄豊碕宮)なにわながらのとよさきのみや 大阪府大阪市 645年 - 655年 孝徳天皇  
661年 - 667年 斉明天皇
飛鳥川原宮あすかかわらのみや 奈良県明日香村 655年 - 656年 難波長柄豊碕宮
後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみや 656年 - 661年
朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにわのみや 福岡県朝倉市

高知県高知市朝倉丙
朝倉神社

661年
近江宮おうみのみや 滋賀県大津市 667年 - 672年 天智天皇
弘文天皇
飛鳥浄御原宮あすかきよみがはらのみや 奈良県明日香村 672年 - 694年 天武天皇
持統天皇
藤原京ふじわらきょう 奈良県橿原市 694年 - 710年 文武天皇  
元明天皇
平城京へいじょうきょう 奈良県奈良市 710年 - 740年 難波京
745年 - 784年 聖武天皇 難波京
保良宮
由義宮
恭仁京くにきょう 京都府木津川市 740年 - 743年 難波京
紫香楽宮しがらきのみや 滋賀県甲賀市 743年 - 744年
難波京なにわきょう 大阪府大阪市 744年 - 745年  
長岡京ながおかきょう 京都府向日市
京都府長岡京市
京都府京都市
784年 - 794年 桓武天皇
平安京へいあんきょう 京都府京都市 794年 - 1180年
1180年 - 1868年 安徳天皇
福原京ふくはらきょう 兵庫県神戸市 1180年 平安京
南朝吉野行宮よしののあんぐう 奈良県吉野町 1336年 - 1348年 後醍醐天皇  
1373年 長慶天皇
(南朝)賀名生行宮あのうあんぐう 奈良県五條市 1336年 後醍醐天皇
1348年 - 1351年 後村上天皇
1352年 - 1354年
1373年 - 1392年 長慶天皇
(南朝)天野行宮あまのあんぐう 大阪府河内長野市
金剛寺
1354年 - 1359年 後村上天皇
(南朝)住吉行宮すみよしあんぐう 大阪府大阪市 1360年 - 1373年
東京とうきょう 東京都 1868年 - 現在 明治天皇 京都を首都と解する立場がある(東京奠都は都を東京に遷すものではないとの解釈)[34]が、現行法では首都に関する記載なし。

脚注

  1. 首都圏整備法附則4項により1956年(昭和31年)に廃止。
  2. 第142回国会衆議院特別委員会
  3. https://kotobank.jp/word/%E9%A6%96%E9%83%BD%E7%9B%B4%E4%B8%8B%E5%9C%B0%E9%9C%87%E5%AF%BE%E7%AD%96%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%8E%AA%E7%BD%AE%E6%B3%95-1544740
  4. KO字源「首部」
  5. この点につき伊藤博文「皇室典範義解」は「維新の後明治元年8月27日即位の礼を挙行せられ臣民再ひ祖宗の遺典を仰望することを得たり13年車駕京都に駐まる旧都の荒廃を嘆惜したまひ後の大礼を行ふ者は宜く此の地に於てすへしとの旨あり勅して宮闕を修理せしめたまへり本条に京都に於て即位の礼及大嘗祭を行ふことを定むるは大礼を重んし遺訓を恪み又本を忘れさるの意を明にするなり」と説明している。枢密院議長伊藤伯著「帝国憲法皇室典範義解」(国家学会刊行 明治22.6.1)P.157-158
  6. 「金澤市ハ裏日本運輸交通ノ要路ニ當リ…裏日本ニ於ケル首都ナルノミナラス…」金澤市ニ鉄道局設置ニ関スル建議案(官報号外昭和2年3月26日衆議院議事速記録第32号)戦後「五大都市をもつて、その所屬府縣の首都となす」1衆治安及び地方制度委員会8号昭和22年08月07日 「長崎縣の五島列島は九州の西南に位いたしまする離島であります。その首都でありまするところの福江港」1衆国土計画委員会9号昭和22年08月22日「わが高鍋町は由來兒湯郡の首都として、郡の中央に位し」1衆司法委員会56号昭和22年11月14日…以上は国会議事録検索から検索可能。アジ歴検索だと「オムスク方面より新疆省首都迪化に到着したが同省暴動の状況に鑑み…」陸発表情報(甲)第111号陸軍省新聞班(レファレンスコード A03023794300 で検索可能)など
  7. 衆議院法制局長、参議院法制局長、内閣法制局長官に対する質問[1]
  8. 衆議院法制局長、参議院法制局長、内閣法制局長官からの回答(概要)[2]
  9. たとえば「第百六十九通常国会召集の詔書(平成20年1月8日)」[3]。WIKISOURCE「Category:昭和の詔勅」[4]も参照。
  10. 三省堂「大辞林 第二版」[5]
  11. 研究社「新英和中辞典 第6版」ギリシア語 mother cityの意(mtr「母」+plis「都市」)[6]
  12. 2011年平成23年)7月2日 神戸新聞
  13. 三野与吉監修 『人文地理辞典』 東京堂、1959年昭和34年)改訂再版。
  14. 永原慶二監修 『岩波日本史辞典』 岩波書店、1999年(平成11年)。
  15. 喜田貞吉「難波京の沿革を論じて府と県との称呼の別に及ぶ」(1909年(明治42年))『喜田貞吉著作集5 都城の研究』所収、平凡社1979年(昭和54年)。
  16. 岡部精一 『東京奠都の真相』 仁友社、1917年大正6年)。
  17. 磯村英一 『東京遷都と地方の危機』 東海大学出版会1988年(昭和63年)。
  18. 第136回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第5号
  19. 山田邦和 「福原京に関する都城史的考察」 『長岡京古文化論叢』2所収、三星出版、1992年(平成4年)。
  20. 佐々木克 『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』 講談社2001年(平成13年)。
  21. 大石学 『首都江戸の誕生 大江戸はいかにして造られたのか』 角川書店2002年(平成14年)。
  22. 土岐寛「首都機能移転問題の軌跡と展望」、『大東法学』第24巻第2号、大東文化大学、1995年3月30日、 四三-六九、 NAID 110004723265P.54
  23. 国土交通省・国会等の移転ホームページ[7]
  24. 岡部精一著『東京奠都の真相』 仁友社、1917年(大正6年)
  25. 古井喜実「東京都制について(一)」『国家学会雑誌』第57巻第9号21頁
  26. ただし、地方自治法の「昭和22年法律第67号附則第2条」ただし書により、東京都制第189条 - 第191条、第198条はなお効力を有した。しかしその効力も、「昭和39年7月11日法律169号附則第2条」、「昭和49年6月1日法律第71号附則第2条」、「平成10年5月8日法律54号附則第2条」、「平成11年7月16日法律第87号附則第15条」により、更に制限された。
  27. 大阪都? スーパー大阪市? 橋下知事が府・市再編提唱
  28. 蝋山(1958)830頁。
  29. 歴史資料ネットワーク編 『平家と福原京の時代』 岩田書院2005年(平成17年)。
  30. 山田邦和 「福原の夢」
  31. 佐々木克『東京「遷都」の政治過程』
  32. 平安奠都千百年紀念祭 京都観光NAVI
  33. 大石慎三郎「日本の遷都の系譜」、『學習院大學經濟論集』第28巻第3号、学習院大学、1991年10月、 31-41頁、 NAID 110007523974P.31
  34. 「遷都については、ついに詔もなく一片の法令も発令されなかった。『維新史』(文部省・昭和16年)は「東京奠都」と表現する。過去の遷都の例にならう限り、詔や法的根拠がない以上、遷都とは云えない、という立場である。奠都とは、首都をある地に定める、という意味で、都の移動ではないのである。」『東京「遷都」の政治過程』佐々木克(京都大学人文学報 1990年(平成2年)3月)[8] PDF-P.20

文献情報

関連項目