曾禰荒助
曾禰 荒助(そね あらすけ、新字体:曽祢、嘉永2年1月28日(1849年2月20日) - 明治43年(1910年)9月13日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、外交官。明治時代の歴代内閣で閣僚職を歴任した。伊藤博文が暗殺された後に第2代韓国統監に就任し、韓国併合を進めた。
略歴
長門国(現山口県)萩藩の家老の宍戸家の出身で、宍戸潤平の三男として生まれた。通称を寛三郎。曾禰詳蔵高尚の養子となり、曾禰姓を名乗るようになった。
17歳ながら家老格の家柄のおかげで長州藩兵の小隊長として戊辰戦争初期に従軍した。明治維新後、明治元年(1868年)、明治政府に出仕を命じられ、降兵取締に任じられた。明治5年(1872年)、フランス留学を命じられて5年後に帰国。明治12年(1879年)、陸軍省勤務。翌年から士官学校勤務を兼ねた。
明治14年(1881年)に太政官書記官に転じ、明治19年(1886年)4月に内閣記録局長、明治23年(1890年)に初代衆議院書記官長に任命された。この任を2期務めた後、第1次松方内閣の解散に伴って衆議院選挙に出て、山口4区から初当選を果たした。会派は品川弥二郎が主宰した国民協会に属したが、明治26年(1893年)に駐フランス全権公使に任じられた。しかし日清戦争の後には駐ドイツ全権公使青木周蔵と共に三国干渉では列強にやり込められている。
明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣が発足すると司法大臣に就任。以後、農商務大臣、大蔵大臣、外務大臣等を歴任。特に日露戦争時は、外債の不足に苦慮したが、大蔵大臣として大任を果たした。
明治40年(1907年)に初代統監府副統監として伊藤博文を補佐し、伊藤の退任後に韓国統監となった。伊藤暗殺事件の直後から韓国併合を進めて、明治43年(1910年)、胃癌[1]により同職を辞したが、併合の完成を病床で聞いて没した。享年62。
外交・内政・財政さらには韓国問題まで幅広くこなした万能政治家であったものの、。
年表
- 1889年(明治22年)7月23日 - 兼任 内閣記録局長、叙 奏任官一等[2]
- 1890年初代の衆議院書記官長となる。
- 1892年 第2回衆議院議員総選挙に当選し、同年衆議院副議長をつとめる。
- 1893年駐仏公使に転じる。
- 第3次伊藤内閣司法相、第2次山県内閣農商務相、第1次桂内閣蔵相等を歴任。
- 1900年9月26日 - 貴族院勅選議員に勅任[3]。
- 1902年男爵に叙爵。
- 1906年枢密顧問官に就任。
- 5月17日 - 貴族院勅選議員を辞職[4]。
- 1907年9月21日 - 子爵に陞爵、副統監となる[5]。
- 1909年、韓国統監に就任する。
- 1910年9月13日、死去。
栄典
- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[6]
- 1890年(明治23年)6月11日 - 従四位[7]
- 1897年(明治30年)2月15日 - 正四位[8]
- 1898年(明治31年)2月14日 - 正三位[9]
- 1904年(明治37年)4月20日 - 従二位[10]
- 1910年(明治43年)8月29日 - 正二位[11]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[12]
- 1890年(明治23年)12月26日- 勲五等瑞宝章[13]
- 1894年(明治27年)6月19日 - 勲三等瑞宝章[14]
- 1902年(明治35年)2月27日 - 男爵[15]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[16]・明治三十七八年従軍記章[17]。
- 1907年(明治40年)9月21日 - 子爵 [18]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[19]
- 1910年(明治43年)8月29日 - 旭日桐花大綬章[11]
- 外国勲章佩用允許
脚注・出典
- ↑ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
- ↑ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ↑ 『官報』第5174号、明治33年9月28日。
- ↑ 『官報』第6863号、明治39年5月18日。
- ↑ 『官報』第7272号、明治40年9月23日。
- ↑ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ↑ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ↑ 『官報』第4084号「叙任及辞令」1897年2月16日。
- ↑ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
- ↑ 『官報』第6239号「叙任及辞令」1904年4月21日。
- ↑ 11.0 11.1 『官報』第8158号「叙任及辞令」1910年8月30日。
- ↑ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ↑ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
- ↑ 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
- ↑ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ↑ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ↑ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ↑ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ↑ 『官報』第7415号「叙任及辞令」1908年3月18日。
- ↑ 21.0 21.1 『官報』第6239号「叙任及辞令」1904年4月21日。
- ↑ 『官報』第8049号「叙任及辞令」1910年4月25日。
参考文献
- 西野喜与作、国立国会図書館デジタルコレクション 「曾禰荒助の巻」 『歴代蔵相伝』 東洋経済新報社出版部、1930年 。
関連項目
- 芳川寛治 - 次男
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代: 清浦奎吾 |
司法大臣 第7代:1898 |
次代: 大東義徹 |
先代: 大石正巳 |
農商務大臣 第16代:1898 - 1900 |
次代: 林有造 |
先代: 加藤高明 |
外務大臣 第17代:1901 |
次代: 小村壽太郎 |
先代: 西園寺公望 (臨時兼任) |
大蔵大臣 第10代:1901 - 1906 |
次代: 阪谷芳郎 |
先代: 芳川顕正 |
逓信大臣 第13代:1903 |
次代: 大浦兼武 |
先代: (創設) |
韓国統監府副統監 初代:1907 - 1909 |
次代: 山縣伊三郎 |
先代: 伊藤博文 |
韓国統監 第2代:1909 - 1910 |
次代: 寺内正毅 |
日本の爵位 | ||
先代: 陞爵 |
子爵 曾禰(荒助)家初代 1907年 - 1910年 |
次代: 曾禰安輔 |
先代: 叙爵 |
男爵 曾禰(荒助)家初代 1902年 - 1907年 |
次代: 陞爵 |
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