村山実

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村山 実(むらやま みのる、1936年12月10日 - 1998年8月22日)は、兵庫県尼崎市出身(神戸市北区生まれ)のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者

闘志むき出しで全身を使った「ザトペック投法」で知られ[1][2]、二代目「ミスタータイガース」と呼ばれる。戦後唯一のシーズン防御率0点台、通算防御率セ・リーグ記録、通算WHIP日本記録、歴代最多タイ記録の沢村賞3回など、複数の大記録を保持している。

経歴

プロ入り前

神戸市北区で生まれ、父親の転勤により尼崎市で育つ。住友学園中学校では内野手をしていたが、住友工業高校[注釈 1] 進学後は1年次の1952年冬に投手へ転向。2年次の1953年からはエースとなり、監督の勧めでフォークボールを習得。同年の秋季近畿大会県予選では準々決勝に進出するが、島田幸雄を擁する兵庫工業に敗退。3年次の1954年春季近畿大会では準決勝に進むが、片岡宏雄坂崎一彦らのいた浪華商に敗れる。同年夏も県予選準々決勝で明石高に惜敗し甲子園出場こそ逃すも、阪神地区の優秀選手に選出されている。

高校卒業後は立教大学のセレクションを受けるが、身長が低いことを理由に落とされる。次兄の勧めで1955年関西大学商学部商学科へ進学し、後に阪急→オリックス日本ハム監督の上田利治とバッテリーを組んだ。1年上のチームメートに難波昭二郎がいる。関西六大学野球リーグでは在学中4回の優勝を経験。1956年には左右のエースであった法元英明中西勝己が大学を中退してプロ入りし、2年生ながら同年春季リーグでエースに抜擢される。この頃から全力投球のスタイルが確立され、同年の大学日本選手権に出場。全試合完投勝利で東京六大学以外・西日本の大学として初の優勝に貢献。

3年次の1957年には肩を痛め、連覇を懸かっていた大学日本選手権では肝炎を発症してマウンドに立つことが出来ず、チームは村山をセレクションで落とした立大に敗れた。それまで巨人を含む多くの球団から誘いが来ていたが、これによって大半の球団は獲得から撤退。大阪タイガースだけは田中義一球団社長が親身になって相談にのってくれたため、村山の気持ちは阪神一択となる。4年次の1958年に復活を果たすと、再び多くの球団が獲得に必死となる。特に巨人は長嶋茂雄を超える契約金2000万円を提示するが、それでも村山は巨人の4分の1である500万円を提示した大阪を選んだ。大阪側も500万円だけでは申し訳ないと思ったのか、阪神電鉄に入社後出向の形で入団した。担当したスカウトは佐川直行[3]

首席入学の上田と違って大学での成績は芳しくなく、卒業試験の時には問題がちんぷんかんぷんで答案用紙には何も書こうとせず、黙って腕組みをしているだけだった。既に大阪と契約を済ませており、教授からは「名前を書くだけでいいからそれで卒業にしてやる」といわれて、なんとか1959年3月に関大を卒業することができたという。

プロ入り後

1959年3月2日オープン戦の巨人戦(甲子園)でプロ初登板(プロ初先発)を果たす。この日は初代「ミスタータイガース藤村富美男引退試合の日でもあった。当初は前日の日曜日に予定されていたが、雨天中止のため翌日の月曜日に順延となったにもかかわらず、3万人の観衆を集めて行われた。村山は2回を投げて打者7人と対戦し、被安打1の無失点に抑えた。開幕後は同年4月14日国鉄戦(甲子園)で公式戦初登板(初先発)し、金田正一と投げ合って6回まで無安打に抑える好投で、2安打完封勝利のデビューであった[注釈 2]。この試合を皮切りに先発ローテーション入りを果たし、18勝10敗・防御率1.19とエース級の活躍で最優秀防御率のタイトルを獲得。新人ながら沢村賞も受賞したが、新人王のタイトルは新人新記録となる31本塁打を放ち、新人ながら本塁打王のタイトルを獲得した桑田武大洋)に譲った。新人で沢村賞を受賞しながら新人王に選ばれなかった投手は現在も村山一人だけである。

同年は5月21日の巨人戦(甲子園)では9回14奪三振で巨人打線を無安打に抑えながら、三宅秀史と自身のエラーで2失点を喫し、世にも珍しい「ノーヒットアリラン」という記録を達成。6月25日天覧試合では先発・小山正明をリリーフしたが、長嶋に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれた。微妙な判定であったため、村山は生涯「あれはファウルだった」と言っている[4][5][注釈 3]。以来、村山対長嶋のライバル関係ができあがった[6][注釈 4]。村山は通算1500奪三振(1966年6月8日)、2000奪三振(1969年8月1日)をいずれも長嶋から狙って奪っている。村山対長嶋の対戦成績は302打数85安打、打率.281、21本塁打、39三振であった。長嶋へのこだわりは私生活にも現れ、初めて購入した自宅の電話番号の下四桁が「3279」、つまり「3(長嶋)に泣く」と読める語呂合わせになっており、強く変更を望んだエピソードがある[注釈 5]。当時は電話を引くだけでも大変だった時代のため、しばらくはやむなくこの電話番号を使っていた。長嶋とは現役時代は口も利かなかったが、引退後は意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。

2年目の1960年4月急性胃腸炎で倒れるなど調子が上向かず、8勝15敗と低調な成績に終わった。

1961年は復調して24勝を挙げた。

1962年には前年途中から指揮を執っていた藤本定義が正式な監督に就任し、村山・小山の両エースに一定の間隔を空けて登板させるローテーションを実施。同年は長嶋が3割を切るスランプなどもあり、終盤は大洋との一騎討ちとなる。村山も終盤には疲労の影響で打ち込まれたが、25勝とエースの名に恥じぬ活躍でリーグ優勝に貢献し、自身唯一のシーズンMVPも獲得。村山は1962年シーズンを「フォークが完成した年」と振り返っている。東映との日本シリーズでは第2戦で8回一死まで一人の走者も出さずあわや完全試合の快投[注釈 6]、シリーズタイ記録となる6試合登板など大車輪の活躍をしたものの、打線の援護に恵まれず敗退。同年は日米野球でも活躍し、11月17日デトロイト・タイガース戦(後楽園)では野村克也とバッテリーを組み、8回2死までノーヒットノーランに抑える快投を披露。終盤に2安打を喫して快挙は逃したが、無四球9奪三振の完封勝利を収めた。日米野球で日本人投手が完封勝利を収めたのは史上初であった。この試合後、デトロイト・タイガースの監督が村山と握手し、興奮気味に「来年はうちに来ないか? 君と契約したい」とまくし立て、英語が分からない村山は「サンキュー、サー」としか答えられず、あとから何と言われたか通訳に教えられ、苦笑したという[7]

1963年は前年の代償から右手指の血行障害や肩痛を患って前半戦を棒に振る。8月11日の巨人戦では7回にリリーフ登板した際、カウント2-2から自信を持って投げた球を球審に「ボール」と判定され、村山は「どこ見てるんや! わしは一球一球、命かけて投げてるんや」と激しく抗議。暴言を吐いたとして退場処分となったが、この時は最初の打者である池沢義行[注釈 7]と対戦中であり、「1人の打者との対戦が終わるまで投手は交代できない」という野球規則の例外記録となった。

1964年は小山が東京オリオンズに移籍したため負担が増えると思われたが、新任の杉下茂コーチによって鍛えられたジーン・バッキーが小山の穴を補って余りある活躍をした。村山も復活を見せて22勝を挙げ、2度目のリーグ優勝に貢献。南海とのシリーズでは3連敗を喫して敗退。

1965年はフリー打撃で辻佳紀を相手に投げた際に辻の打球が手首に直撃して骨折し、5月まで投げられないというアクシデントに見舞われる。17日の巨人戦から復帰すると、この年から三段投法(オーバー、スリークォーター、サイド)を駆使して25勝・防御率1.96で最多勝と沢村賞を受賞。

1966年には24勝を挙げて2年連続3度目の沢村賞を受賞した。

1967年頃より右腕の血行障害に悩まされ、エースの座を江夏豊に譲る。1969年には一軍投手コーチ兼任となったが、シーズン途中から投手専任に戻る。

1970年には選手兼任監督に就任。以前とは変わって回転の違うフォークを投げ分けて多投する技巧派投手として活躍し、同年7月7日には200勝達成。投手としては14勝3敗・防御率0.98、監督としては勝率.611で首位・巨人と2ゲーム差の2位に入り、川上哲治監督をして「あっぱれ」と言わしめた。この年に記録した防御率0.98は、規定投球回数以上での戦後唯一の防御率0点台である。

1972年のシーズン限りで現役引退、監督退任(この年は4月21日から金田正泰ヘッドコーチに監督代行を委ねた)。1973年3月21日の引退試合(阪神甲子園球場、巨人とのオープン戦)では7回に登板し、高田繁末次利光王貞治をフォークボールで三振に切って取る(長嶋は3日前の試合での死球と扁桃腺のため出場せずに東京に戻った)[8][9][注釈 8]。すでに長くマウンドから離れた村山は引退試合前の数日、当時中学生だった岡田彰布(村山の知人から紹介された)と肩慣らしのキャッチボールをした[9]。村山登板の際には江夏ら投手陣[注釈 9]が作った騎馬に乗ってライト側ブルペンから登場、満場の拍手に迎えられた[8][9]。村山は捕手の田淵幸一に「今日は、全部フォーク。あとはコースだけ」と告げ、田淵は3者三振の後「まだまだ現役でいけますよ。いまの球は最高でした」と声をかけた[9]。マウンドに立った時点で村山の目は涙であふれ、田淵の言葉を聞いてさらに涙した[9]。この試合では女優の浪花千栄子があいさつし、「村山はん、ほんまにあんた、ようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに」とねぎらいの言葉を贈った[8][10]

背番号11は阪神の永久欠番となった。村山は関西大学時代から11番を付けており[11]、プロでもそれを貫いた形であった。実は村山の入団まで阪神の背番号11は着用した選手が故障を含め、何らかの形で不幸が襲っていたために「不吉な番号」と言われていた(詳細はこちらを参照)。このため、自身も阪神で背番号11を背負ったことがあり、かつ関西大学の先輩でもあった御園生崇男は「自分がつけていた背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。そうした経緯もあってか、村山自身は永久欠番の栄誉を終生誇りにしていた。サインを求められ応じた際は必ず「阪神タイガース永久欠番」と添えていた。阪神・淡路大震災で被災したとき、世話になった人たちに腕時計を贈ったが、その時計の裏にも「阪神タイガース11 村山實」と刻まれていたという。

通算222勝は大卒の投手としてはチームの先輩である若林忠志に次ぐ2位。また、阪神の投手勝利数の記録でも2位となる。通算防御率2.09はセ・リーグ記録。また、通算WHIP0.95も日本記録であり、沢村賞3回受賞は歴代最多タイ記録である。

引退後

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村山実の手形 1982年、兵庫県尼崎市の商店街「サンロード」の交差点路面に、他のプロ野球関係者や著名人とともに埋め込まれた。

1973年から1987年日本テレビ(系列局のよみうりテレビ広島テレビ[注釈 10] も兼任)の解説者となる。解説業の傍ら、引退直後の1973年にSSKに入社[9]。前記の通り、入団時に阪神電鉄本社に入社していたが、阪神グループには残らなかった[9]。SSKには1976年にかけて勤務。開発室長を務めた。1977年には「リージェント・ファーイースト」日本本社の株を購入。1978年7月24日金田正一を会長として発足した日本プロ野球名球会へ入会。大卒選手で200勝以上した名球会会員は村山(222勝)と黒田博樹(203勝)だけである[注釈 11]1988年から1989年まで再び阪神監督となり、背番号として自身の永久欠番11をつける。

大野久和田豊中野佐資の若手選手3人を「少年隊」と命名して売り出し、話題を作るが成績は6位・5位と低迷した。この3人を相手にキャンプで打撃投手を自ら買って出たが、この無茶がたたって股関節を痛め、人工関節手術を受けることになった。当時阪神の選手だった岡田彰布は「当時阪神は前年が大惨敗だったので、村山監督はチームをガラリと変えようとしたのかもしれないが、話をした時はあそこまで激変させるとは思わんかった。最たるものが、大野、和田、中野の「少年隊」だ。この3人をレギュラーに抜擢したのだが、ポジションを与えるのならある程度の実力がないと戦力として機能しない。一方で、平田佐野さんらの出番が減り、チーム内はいつもモヤモヤしていて、ひとつの方向に向かうという雰囲気ではなかった。阪神は日本一になった85年をピークにチーム力はガクッと落ちていたから、村山監督の2年間も6位、5位と低迷した」と述べている[12]。また、田尾安志は「勝つための野球をすべき」と意見具申し、村山と対立した。田尾の村山監督時代はそれが原因で出場機会が減ったといわれるが定かではない。投手陣においてもちぐはぐさが露呈し、嶋尾康史は「村山監督の時は大変だった。ブルペンに電話する前に投手交代がしょっちゅうありました」、投手コーチだった若生智男も「あったね。ブルペンに伝わっていないことが」と語っている[13]

在任中、ドラフト会議で立命館大学古田敦也捕手(のちのヤクルトスワローズ捕手)の獲得を球団に進言したが、眼鏡をかけているという理由で拒否されたことを、のちにテレビ番組で話している。また、主力選手であった真弓明信は故郷の福岡ダイエーホークスへのトレードが決まりかけていたが、自身の首を賭けて全力で阻止した。

1989年6月25日に甲子園で行われた阪神対巨人戦で、岡田彰布がビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放って阪神が勝つが、天覧試合からちょうど30年目の日で、同じ左翼ポール際への一発でスコアも5-4と裏返しとなり、しかもこのときの巨人監督が天覧試合で完投勝利した藤田元司だったことから、岡田が村山監督の仇討ちを果たした形となった。試合後、「今日は岡田に尽きるが、若いの(八木亀山和田)がよくつないだ。天覧試合と同じ日? そりぁうれしい。気分が全然違うよ」とコメントした。1989年オフに退任。

1990年からは朝日放送の野球解説者となる。1993年野球殿堂入り。現役時代から実業家の資質に長けており、村山自身、芦屋市のマンションを購入して自分自身の会社の本社にしたというエピソードは有名である。その自宅マンションは、阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活をしていた。1998年8月22日、直腸ガンのため死去。61歳没。葬儀の際に村山の棺を乗せた霊柩車は、参列した大勢のファンの「六甲おろし」の大合唱に送られて斎場を後にした。

2004年8月に出身校の尼崎産業高校にピッチングフォームの銅像(モニュメント)が建てられた。このモニュメントは卒業生らが「後輩の励みになるように」と寄付金約1000万円を募って、校門近くに建立された。高さは台座も含めて2.65m。像はほぼ等身大に近い造型。1959年の後楽園球場で行われた天覧試合で巨人の長嶋茂雄選手相手に投げている瞬間がモチーフになっている。尼崎産業高校は翌2005年に尼崎市立尼崎東高等学校との統合が決まり、2011年春に尼崎市立尼崎双星高等学校として新発足し、学校は移転した。移転後も銅像は敷地に残されたが、県は兵庫県立尼崎総合医療センター2015年7月開院)を学校跡地に建設することを決定。処遇が問題となったが、2012年になって病院完成後に敷地内に銅像を設置することが決定した[14][15]

選手としての特徴

テンプレート:スポーツ選手の出典明記 全身を使い喘ぎながら闘志むき出しで投げる村山のピッチングは、「人間機関車」と呼ばれた陸上長距離選手のエミール・ザトペックの走法に譬えられ、「ザトペック投法」と呼ばれた[1][2]。勝負球はフォークボールで、多いときには1試合で30 - 40球は投げたと言われており、オーバースロースリークォーターサイドスローで投げ分けられるフォークは長年敵チームの打者を悩ませた。村山はプロ野球の投手としては、やや小柄であったが、手は大きく[16]、手首から中指の先端まで約22センチあった。一方でフォークを多用する投手は概して多いと言われる暴投が3000イニング以上投げたにもかかわらず、わずか16個しかなく、シーズンで見ても1961年に4個記録したのを除けば全て2個以下。1959年には295回1/3、1965年には307回2/3を投げて暴投0だった。

そのフォークについて江夏は「最盛期だと、フッと浮いて止まったような感じで、そこからストーンと落ちる。それが2、3年経ってくると浮く感じが無くなったんで、シュート回転とスライダー回転のフォークを投げ分けてきた」と岡田彰布との対談で語っている[17]

ほぼ同時期に同チームで活躍した小山正明は「10-0」でも「10-9」でも勝ちは勝ちというドライな性格だったのに対し、村山の場合は「10-0」で9回2死ランナー無しでも、全力投球するスタイルを貫いた[18]。小山は村山に対して、「適当に力を抜いた方が負担がかからなくてよいのではないか」といった話をしたことがあったと述べている[18]。。

吉田義男によると、時折捕手の山本哲也のサインとは逆の投球をしたという。サインを見て打球の方向を予測していた吉田が「なんでや?」と聞くと「打者が山を張っているのがわかったので」と村山は答えた[19]

「プロとして勝利に拘る」意識が非常に高く、「勝てば官軍。そのためには少々卑怯なことをしたっていい」とインタビューで答えたこともある。しかし、実際には卑怯な真似は大嫌いで、終生のライバルであった長嶋茂雄は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球は投げて来なかった」と回想している。事実長嶋との対戦は333打席を数えるが、死球の数は0である。下の通算成績を見ても分かるように、これだけの回数を投げた投手としては死球が極めて少ないのも特筆すべき点である。

杉浦忠近鉄バファローズの投手コーチ時代、太田幸司が「村山さんを見習ってスピードをつけたい」とフォーム改造に取り組もうとすると、「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道。それでも見事に剛球を投げ分けた。形だけ真似してもぶっ壊れるだけだ」と諭して中止させている[20]

江本孟紀が中学時代プロ野球選手で初めてサインを貰ったのは村山[21]

影響

野球漫画『巨人の星』に登場する花形満は、村山実がモデルである[注釈 12]。『巨人の星』には村山もキャラクターとして登場している。

関西大学の後輩で、村山と同じく全日本大学野球選手権大会に主戦投手として優勝した山口高志(→阪急ブレーブス)には「村山二世」の異名が付けられた[22]。関西大学時代の山口は村山と同じ背番号11をつけていた[11]

詳細情報

年度別投手成績

1959 大阪
阪神
54 26 19 7 2 18 10 -- -- .643 1079 295.1 165 15 56 2 5 294 0 1 45 39 1.19 0.75
1960 36 18 7 1 0 8 15 -- -- .348 665 167.2 116 12 48 7 3 153 2 0 62 47 2.52 0.98
1961 48 31 18 3 1 24 13 -- -- .649 1148 293.0 238 16 62 9 7 221 4 1 81 74 2.27 1.02
1962 57 38 23 6 7 25 14 -- -- .641 1386 366.1 261 17 55 8 5 265 1 0 62 49 1.20 0.86
1963 28 16 10 2 0 11 10 -- -- .524 640 158.1 126 16 48 1 1 121 1 1 59 49 2.79 1.10
1964 46 33 17 5 2 22 18 -- -- .550 1043 255.0 227 27 80 7 5 159 2 0 102 94 3.32 1.20
1965 39 37 26 11 4 25 13 -- -- .658 1165 307.2 221 17 52 5 4 205 0 0 72 67 1.96 0.89
1966 38 32 24 8 9 24 9 -- -- .727 1102 290.1 194 16 52 3 4 207 1 0 58 50 1.55 0.85
1967 30 25 9 3 2 13 9 -- -- .591 709 180.1 141 20 42 3 1 126 2 0 62 56 2.79 1.01
1968 32 24 14 1 0 15 8 -- -- .652 784 198.0 169 13 39 3 7 152 2 0 66 60 2.73 1.05
1969 35 26 11 1 2 12 14 -- -- .462 842 214.2 180 19 38 2 7 160 0 0 58 48 2.01 1.02
1970 25 19 7 5 1 14 3 -- -- .824 573 156.0 85 7 34 6 3 118 0 0 18 17 0.98 0.76
1971 19 10 4 2 1 7 5 -- -- .583 325 83.0 70 6 15 1 3 45 0 0 26 25 2.71 1.02
1972 22 13 3 0 1 4 6 -- -- .400 340 84.2 78 8 18 3 2 45 1 0 36 34 3.61 1.13
通算:14年 509 348 192 55 32 222 147 -- -- .602 11801 3050.1 2271 209 639 60 57 2271 16 3 807 709 2.09 0.95
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字NPB記録
  • 大阪(大阪タイガース)は、1961年に阪神(阪神タイガース)に球団名を変更

年度別監督成績

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 本塁打 打率 防御率 年齢 球団
1970年 2位 130 77 49 4 .611 2 110 .245 2.36 34歳 阪神
1971年 5位 130 57 64 9 .471 12.5 101 .220 2.76 35歳
1972年 2位 130 71 56 3 .559 3.5 125 .239 3.00 36歳
1988年 6位 130 51 77 2 .398 29.5 82 .248 3.82 52歳
1989年 5位 130 54 75 1 .419 30.5 135 .257 4.15 53歳
通算:5年 528 241 271 16 .471  

※1 1970年から1996年までは130試合制。
※2 選手(投手)専念のため、1972年4月21日より指揮権返上(8試合2勝6敗、勝率.250)。監督代行は金田正泰
※3 通算成績は、実際に指揮した試合。

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1962年8月11日、対読売ジャイアンツ15回戦(後楽園球場) ※史上95人目
  • 1000奪三振:1963年8月28日、対中日ドラゴンズ18回戦(阪神甲子園球場)、6回表にジム・マーシャルから ※史上26人目
  • 100勝:1964年6月13日、対国鉄スワローズ12回戦(阪神甲子園球場)、12回表1死に6番手で救援登板・完了、2/3回無失点 ※史上37人目
  • 1500投球回:1964年8月16日、対読売ジャイアンツ24回戦(後楽園球場) ※史上54人目
  • 1500奪三振:1966年6月8日、対読売ジャイアンツ7回戦(阪神甲子園球場)、6回表に長嶋茂雄から ※史上15人目
  • 2000投球回:1966年7月5日、対読売ジャイアンツ13回戦(阪神甲子園球場) ※史上31人目
  • 150勝:1966年7月17日、対大洋ホエールズ17回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点完投勝利 ※史上21人目
  • 2500投球回:1968年10月6日、対大洋ホエールズ27回戦(阪神甲子園球場) ※史上20人目
  • 2000奪三振:1969年8月1日、対読売ジャイアンツ14回戦(阪神甲子園球場)、1回表に長嶋茂雄から ※史上7人目
  • 200勝:1970年7月7日、対大洋ホエールズ11回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点(自責点0)完投勝利 ※史上14人目
  • 3000投球回:1972年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場) ※史上13人目
  • 500試合登板:1972年6月24日、対大洋ホエールズ12回戦(川崎球場)、先発登板で4回1/3を5失点 ※史上27人目
その他の記録
  • 通算WHIP 0.95 (通算2000投球回以上、日本記録[23]
  • 通算防御率 2.09 (通算2000投球回以上、セ・リーグ記録)
  • シーズンWHIP 0.748 (規定投球回以上、1959年、セ・リーグ記録[23]
  • シーズン防御率 0.98 (規定投球回以上、1970年、セ・リーグ記録[注釈 15]
  • オールスターゲーム出場:8回 (ファン投票選出:1962年[注釈 16]、1964年、1966年/監督推薦:1959年、1960年、1961年、1965年、1967年、1969年)

背番号

  • 11 (1959年-1972年、1988年-1989年) ※永久欠番

登録名

  • 村山 実 (むらやま みのる、1959年-1963年5月21日、1964年- )
  • 村山 昌史 (むらやま まさし、1963年5月22日-1963年閉幕)

関連情報

出演番組

日本テレビ・よみうりテレビ・広島テレビ時代
朝日放送時代

著書

関連楽曲

脚注

注釈

  1. 2011年度に尼崎市立尼崎東高等学校との統合及び移転により尼崎市立尼崎双星高等学校となった。
  2. 初登板完封勝利は日本プロ野球史上15人目。
  3. ただし、佐渡稔『天皇と背番号3』(祥伝社、1983年)には「私にとってサヨナラホームランを打たれたことは勲章」とのコメントも寄せている。
  4. その後、2011年5月に日テレ系で放送された『Going!Sports&News』の特集で、映像を鮮明化する技術を使った検証が行われ、長嶋の打球は左翼ポールの右側に入っていたことが解析から判明している。
  5. このエピソードはTBSテレビクイズダービー』の問題で出題された
  6. 1962年日本シリーズ第2戦における7回1/3のパーフェクトピッチングは長らく日本シリーズ記録であったが、2007年日本シリーズ第5戦の山井大介(中日)の8回で更新された。
  7. 前日の同一カードでは、7回までノーヒットピッチングだった村山から8回に安打を奪っていた。
  8. 朝日新聞記事では王の「前の2人の三振をみていてやっぱりこういう形で送り出してあげるのが一番いいんじゃないかと思ってね」というコメントが紹介され「"演技"があったことをほのめかしていた」と記されている。村山自身も記事で「みなさんが協力してくれたのでしょう」とコメントしている。
  9. 朝日新聞記事では江夏のほかに谷村智啓五月女豊の名前が挙げられているが、中川(2016年)では江夏以外は上田二朗古沢憲司・谷村・平山英雄となっており、五月女の名は出ていない。
  10. 広島テレビについては、対巨人戦以外のローカル放送は1979年頃から1987年まで出演。1979年10月6日の優勝決定試合(広島対阪神戦)の解説も濃人渉と共に務めた(実況:加藤進・ベンチリポート:脇田義信)。
  11. 黒田は日米通算での達成。また、若林忠志(237勝)、杉下茂(215勝)、藤本英雄(200勝)の3人は大卒だが、明治・大正生まれのために名球会の会員資格がない。
  12. 川崎のぼる日刊スポーツ連載コラム・伝説『スポ根アニメの原点 巨人の星』(2009年4月21日5月2日)の中で、「村山実は『巨人の星』のキャラクターの中で唯一存在したモデル」と語っている。
  13. 当時は最多奪三振の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイトには、1965年、1966年の「最多奪三振」として村山の名前が記載されている。なお、セントラル・リーグでは、1991年より最多奪三振の表彰が開始された。
  14. 3回受賞は村山の他に杉下茂金田正一斎藤雅樹がいる。
  15. 2リーグ制後の最高記録でもある。1リーグ時代も含めると1943年の藤本英雄(巨人)の0.73が最高。
  16. 1962年はファン投票で選出されるも出場辞退のため不出場。
  17. 1991年までナイターは放送される曜日に合わせて『○曜ナイター』(○ようナイター)と題され、デーゲームは1987年までは『プロ野球中継』(プロやきゅうちゅうけい)、1988年から1991年までは『(西暦下二桁)プロ野球公式戦』(プロやきゅうこうしきせん)と題されていた。

出典

  1. 1.0 1.1 “【11月11日】1958年(昭33) 昭和11年生まれの背番号11、村山実が阪神と契約”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2007年11月11日). オリジナル2013年8月31日時点によるアーカイブ。. https://archive.fo/20130831071545/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_november/KFullNormal20071025183.html 
  2. 2.0 2.1 村山さんが背負った「悲運」の歴史再び… 天国で悔し涙!?「命かけて判定してくれッ」”. 産経新聞 (2016年5月12日). . 2017.7.05閲覧.
  3. “猛虎人国記(15)~北海道~王の本塁打記録止めた平山”. スポーツニッポン. (2012年3月27日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002919110.html . 2013閲覧. 
  4. 野村克也『プロ野球 最強のエースは誰か?電子書籍版』彩図社 2014年10月7日、p.1991
  5. 『21世紀の伝説史 長嶋茂雄DVD 第一巻 背番号3の時代』メディア・ファクトリー 2001年10月26日、Capter2、11.宿命『村山実・天覧ホーマーの真実と復讐』で本人が発言したものを収録
  6. 読売新聞東京本社編『巨人軍5000勝の記憶 永久不滅版』ベースボール・マガジン社、2007年、pp.32-35
  7. Sports Graphic Number編『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』、文春文庫ビジュアル版、文藝春秋、1989年
  8. 8.0 8.1 8.2 「村山、最後のフォーク」朝日新聞1973年3月22日朝刊8頁
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 中川右介『阪神タイガース 1965 - 1978』角川書店角川新書》、2016年、pp.255 - 256
  10. 玉木正之『プロ野球大事典』新潮社新潮文庫》、1990年(「浪花千栄子」の項)
  11. 11.0 11.1 鎮勝也『君は山口高志を見たか-伝説の剛速球投手』講談社、2014年、p.18。
  12. 岡田彰布、日刊ゲンダイ、俺の頭はなぜデカイのか<第22回>村山監督がチームをガラリと変えて暗黒時代に突入2015年10月3日
  13. 月刊タイガース2016年12月号、嶋尾康史のシマ・しま日記、第84回 若生智男さん(タイガースOB)
  14. “ミスタータイガース村山さん銅像 安住の地、ようやく決まる”. MSN産経west (産経新聞社). (2012年7月17日). オリジナル2012年7月17日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120717172807/http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120717/waf12071715530016-n1.htm 
  15. 村山 実(阪神タイガース)さんの銅像 西宮ブログ2015年2月12日
  16. 野村克也『プロ野球 最強のエースは誰か?電子書籍版』彩図社 2014年10月7日、p.1990-1991
  17. 江夏豊・岡田彰布(共著)『なぜ阪神は勝てないのか?-タイガース再建への提言』角川ONEテーマ21、角川書店、2009年、pp.139-140
  18. 18.0 18.1 “村山実編 その一 「不仲説」の真相は…”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社). (2005年8月15日). オリジナル2012年7月24日時点によるアーカイブ。. https://archive.fo/20120724021012/http://www.daily.co.jp/information/feature/0003215213.shtml 
  19. 吉田義男『牛若丸の履歴書』日経ビジネス人文庫、2009年、p.150
  20. ベースボールマガジン』2011年11月号、p.56
  21. 江本孟紀著、野球バカは死なず、文藝春秋、2018年、P167
  22. 鎮勝也『君は山口高志を見たか-伝説の剛速球投手』講談社、2014年、pp.40-43
  23. 23.0 23.1 日本プロ野球記録 Japanese Baseball Records
  24. 24.0 24.1 24.2 産経新聞』1999年8月3日付大阪夕刊、社会面/1999年8月9日付東京朝刊、社会面。

関連項目

外部リンク

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