東ローマ帝国

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東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国ビザンティン帝国

東ローマ帝国とも呼ばれる。コンスタンチノープル (旧ギリシア植民市ビザンチオン ) を首都とし (330遷都) ,1453年まで続いた中世ローマ帝国の通称。通常東西ローマの分割 (395) からフォーカス帝 (在位 602~610) を初期,ヘラクリウス帝 (在位 610~640) からアレクシウス5世 (在位 1204) までを中期,ニカイアの亡命政権 (04~61) を含めてオスマン・トルコのメフメット2世に滅ぼされる (1453) までを後期とする。ギリシア語を公用語とし,ギリシア正教を国教に,ヘレニズム文化を継承,発展させ,ローマの政治体制のうえに独自の行政機構を発達させた。また東西世界の接点という地理上の有利さを発揮して海外貿易による巨額の富,複雑な税制度から多大な税収入を背景に,強力な軍事力,たぐいまれな外交手腕を駆使して,千有余年東地中海世界の大国として君臨した。その宗教的・文化的影響は今日の東ヨーロッパ世界に多くみられる。

(1) 初期 テオドシウス帝死後の東西ローマの分割 (395) および西ローマ帝国の滅亡 (476) 後,ローマ帝国後継者としての意義が増大した。ユスチニアヌス1世のローマ帝国再建の努力は北アフリカ,イタリア,スペインの一部の奪回に成功したが,その死後早くも崩壊し,かろうじてカルタゴとラベンナに総督領をおくにとどまった。バルカンのドナウ戦線はスラブ族,アバール族により破られ,ギリシア民族のスラブ化が始った。またササン朝ペルシアとの抗争も決定的な結末をみないまま次代に入った。

(2) 中期 ヘラクリウス朝,マケドニア朝,ドゥカス朝,コムネノス朝,アンゲルス朝を数え,テマ制度の導入とその拡張,整備,イスラムとの抗争の激化 (672~678,717~718) とその鎮静化,第1ブルガリア帝国との共存,聖像破壊運動 (726~843) の終結,スラブ族への活発な伝道活動などを背景に最盛期マケドニア朝を迎えた。その後属領における封建化の進展 (プロノイア制度の導入) と相次ぐ内乱,外敵 (ペチェネグ,クマノイ,ウツェン,ルース族など) の進攻,イタリア商業都市の経済的進出などにより国は徐々に弱体化していった。バルカンのセルビア,第2ブルガリア,ハンガリーの諸王国が独立し,領土縮小を余儀なくされ,帝国は第4次十字軍により 1204年首都を占領された。

(3) 後期 亡命政権であるニカイア帝国から首都奪回を果して開かれたパレオロゴス朝は衰退期の王朝で,セルビア王国とオスマン・トルコにはさまれ,1370年トルコに対して進貢義務を負うにいたった。文化的にはパレオロゴス・ルネサンスと呼ばれる文化運動を起しながらも,政治的独立を失い,トルコという大海の中の孤島のままその終末を迎えた。



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