東京六大学野球連盟

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東京六大学野球連盟
分類 大学野球
開始年 1925年
参加チーム 6
日本の旗 日本
前回優勝チーム 慶應義塾大学(36回目)
最多優勝チーム 早稲田大学(45回)
公式サイト 東京六大学野球連盟
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一般財団法人東京六大学野球連盟(とうきょうろくだいがくやきゅうれんめい、英語表記:TOKYO BIG6 BASEBALL LEAGUE)は、東京を所在地とした6校の大学硬式野球部で構成された、現存している中では最も長い歴史がある大学野球リーグである。創設当初は他の野球団体からは独立した組織であったが、現在は全日本大学野球連盟傘下となっている。

プロ野球人気が高まりを見せるまで長く日本の野球人気の中心的存在であり、土日に神宮球場で開催されることもあって大学野球連盟の中では平均入場者数が最も多い。プロ・アマチュア球界へも多数の人材を送り出してきた。

加盟大学

特記:記順は1年ごとに交代する連盟当番校の順番による(いろは順で決められたもの)

連盟結成までの経緯

連盟成立・結成にまつわる経緯と諸説

東京六大学野球連盟が結成された当時は娯楽文化が現在とはだいぶ異なる様相を呈しており、当該野球対抗戦はスポーツ競技娯楽として絶大な人気を集めていた(詳細は前述の特徴の章を参照)。このため、六大学野球連盟成立前の加盟候補に挙がったチームや、成立後に至ってもこの連盟に加盟を希望するチームは枚挙にいとまなかった。また、東都大学野球連盟との関係に関してもさまざまな異説が流布されている。(詳細は東都大学野球連盟参照)以下にそれらにまつわる事例を紹介する。(下記の大学以外にも伝承・伝聞が諸説存在するが、検証可能なものについてのみ記述した。)

  • 1903年、早稲田大学からの挑戦状に慶應義塾が応じ、初めての早慶戦を実施。
  • 1906年、応援団同士の加熱問題を理由に早慶戦が中止
  • 1907年、横浜外人アマチュア倶楽部の主唱で、横浜商業・学習院・早稲田大学の4チームで、京浜野球リーグを結成[1]
  • 1914年、明治大学は、早慶戦中止中の両校の間をとりもって三大学野球リーグを結成(早慶戦は後日の六大学連盟成立まで実現せず)。
  • 1917年、明治大学との関係が良好だった法政大学が三大学野球リーグに加盟。
  • 1921年、早稲田大学野球部(飛田穂洲)の指導を仰いでいた立教大学が四大学野球リーグに加盟。
  • 1925年、東京帝国大学が五大学野球リーグに加盟。六大学野球開始に伴い、それまで早慶戦の再開を固辞し続けていた慶應義塾大学側に対して、明治大学が中心となり「再開に応じなければリーグからの排除も辞さない」という条件を提示。これによりやむなくこれに慶應義塾大学が応じて正常な6校間のリーグ戦が成立した。
  • 太平洋戦争終戦後のリーグ戦再開時に、同じく東京都内の大学野球有力校が多く所属している東都大学野球連盟などからの合併打診等があったが、そのまま変わらぬ加盟校構成を堅持したまま今に至っている。当時の東都合併拒否は、その直後の三大学野球王座決定戦の開催と全国大学野球連盟の結成の遠因にもなった。

略史

1903年に開始された早稲田大学慶應義塾大学の対抗戦(早慶戦。慶應義塾大学での呼び名は慶早戦)が発祥となっている。1906年、応援の過熱などから早慶戦は中断されたが、1914年明治大学を加えた三大学でリーグ戦を開始。1917年法政大学が加入し四大学リーグとして、1921年立教大学が参加し、五大学でのリーグ戦を実施するようになった。しかし、この間も早慶戦に関しては関係者が過熱を懸念したため実施されない状況が続き、変則的なリーグ戦運用となっていた。

1925年春、東京帝国大学(現在の東京大学)が参加、法政以外の各校と1試合ずつ試験的に試合をした。その年の秋のシーズンにあたって、明治を中心に「早慶戦を再開しないなら再開に応じない学校を外してリーグ戦を行う」と早慶を強硬に説得し、早稲田、次いで慶應が説得に折れて早慶戦の再開に応じ、ここに東京六大学野球連盟として正式に発足した。

翌年の1926年10月には神宮球場が東京六大学野球連盟の協力の下で完成、実質的には連盟専用球場として運用されることになる。

沿革

※連盟結成以降を記述。

  • 1925年 9月20日、東京六大学野球連盟発足。開幕試合は明治-立教1回戦。10月19日、早慶戦再開。
  • 1926年 神宮球場落成。奉献式に摂政宮(昭和天皇)出席。優勝校に摂政杯が授与される。10月24日、明治-法政戦で神宮初試合。
  • 1929年 11月1日、明治神宮体育大会での早慶戦に昭和天皇が行幸。最初の天覧試合
  • 1931年 神宮球場拡張、春季リーグより全試合の試合会場を神宮球場とする。5月18日、慶應-明治2回戦で「八十川ボーク事件
  • 1932年 5月10日、早稲田がリーグを脱退。このため名称を「東京大学野球連盟」と改称(戦後再び元の名称に戻す)早稲田は太田四州ら東京運動記者倶楽部の斡旋で秋のリーグ戦から復帰
  • 1933年 年間1シーズン制を採用(翌年まで)。10月1日、早稲田-立教3回戦で「宵越試合」、10月22日、早慶3回戦で「リンゴ事件
  • 1939年 文部省の干渉により週日試合が禁止、1日3ゲームの短縮日程に
  • 1940年 東亜競技大会で連盟選抜が優勝。文部省の圧力により秋季リーグ戦が1回戦総当たりに短縮
  • 1941年 文部省の意向により土曜日の試合が廃止、1日3試合の変則日程を採用
  • 1942年 4月18日、春季リーグ戦開幕日に空襲警報発令(ドーリットル空襲)。開幕を1週間遅延。
  • 1943年 2月、野球用邦語集を作成。4月7日、文部省によるリーグ解散令。10月16日、出陣学徒壮行早慶戦
  • 1946年 春季からリーグ戦が復活、5月19日に上井草球場で開幕式。前半戦は上井草球場、後半戦は後楽園球場使用での1回戦制。秋季には神宮球場が一部開放。また秋季から天皇杯が下賜。
  • 1947年 大学野球王座決定戦開催のため、東都大学野球連盟関西六大学野球連盟(旧関西六大学)とともに全国大学野球連盟を結成。春季から東大に初めて応援団が登場。
  • 1948年 春季から勝ち点制を採用。首位同勝ち点の場合は勝率関係なしで優勝決定戦を行なう方式になる。
  • 1950年 11月6日、昭和天皇天覧早慶戦開催。秋季から戦後初めて全試合が神宮開催になる。
  • 1952年 同年春季より、同勝ち点の場合は勝率で優勝を決める事に規約を改正。大学野球の統一組織である全日本大学野球連盟の結成に協力、同連盟傘下となる。
  • 1959年 春季から背番号制を導入。
  • 1965年 春季からプロだけで使用していた神宮球場左右両翼のラッキーゾーンを固定して使用することに変更。
  • 1968年 春季から明治維新百年を記念して優勝校に明治神宮杯が贈られることになる。
  • 1975年 11月8日、連盟結成50周年記念試合として六大学OBのプロ野球選手による紅白試合実施。
  • 1976年 神宮球場竣工50周年記念試合として11月3日に東都大学野球連盟との対抗試合を、また11月13日に東京六大学・東都大学のプロ選手OB戦を実施。
  • 1979年 連盟100シーズンを迎え、営団地下鉄(現東京メトロ)から記念切符が発行される。
  • 1981年 同年よりチェコスロバキア杯が贈られる。
  • 1988年 昭和天皇ご不例のため、試合中の太鼓応援が自粛される。その後、周辺住民の感情に配慮し、太鼓応援の一部制限を行う。
  • 1992年 10月17・18日、プロ野球日本シリーズ開催に配慮し、初のナイター試合を実施(慶應-法政、早稲田-明治)。
  • 1994年 5月29日、今上天皇天覧早慶戦開催。
  • 1995年 11月4日、連盟結成70周年記念試合として六大学現役選抜対六大学OBとの試合実施。
  • 1996年 11月9日、明治神宮外苑創建70周年記念試合として東都大学野球連盟との対抗試合実施。また岐阜県長良川球場にて東京六大学野球トーナメントを実施(1999年まで毎年開催)。
  • 1997年 10月14日、明治-立教4回戦の9回表、一塁ゴロのタッチプレーを巡り、両軍乱闘となり、立教の投手が負傷[2]。翌15日の理事会で、明治の総監督、部長の辞任が了承され、明治の監督、選手5人のリーグ戦終了までの謹慎が了承された[3]
  • 2000年 関ヶ原合戦400年を記念し、関西学生野球連盟と協力し両連盟によるオールスター東西対抗学生野球大会を実施(岐阜県長良川球場および大垣北公園野球場で各一試合ずつ)。
  • 2003年 11月26日、早慶戦100周年記念行事。両校シニアOBによる親善試合と、全早慶戦を実施。
  • 2006年 11月4日、明治神宮外苑創建80周年記念試合としてヤクルトと試合を行なう。
  • 2007年 11月17日、2007日中文化・スポーツ交流年記念日中大学野球交流戦として東京六大学選抜対中国大学選抜の試合を実施。
  • 2010年 春季リーグ戦に初めて朝日新聞社寄贈の優勝旗が、優勝チームに贈られた。8月19日、愛媛県松山・坊っちゃんスタジアム開場10周年を記念した東京六大学野球オールスターゲームを実施[4]
  • 2013年 4月1日、一般財団法人に移行。
  • 2016年 11月5日、明治神宮外苑創建90周年記念奉納試合として東京ヤクルトスワローズとの試合を実施。

特徴

早慶戦を起源とすることから、最終戦の対戦カードは必ず早慶戦となっている。早慶戦は日本の野球の発展に大きな影響を及ぼし、長く国民的な注目を集め、現在も両校の学生や卒業生が応援しており、他のカードをより多い観客数となっている。早慶戦が必ず最終節に組まれているため、早慶両校は全5カードを戦うのに最大8週間かけることが出来、かつ3週連続で試合を行うことは絶対ないのに対し、第1節で早慶両校が出場しない場合は実質6週間(3週連続を含む)で5カードを消化しないとならない大学が出るので、選手の疲労度を考慮すると、日程面では早慶両校が他校と比較して有利である。

成立以来全国から有力な球児たちが集まり、テレビ普及によるプロ野球の人気上昇前においては、日本の野球において高校野球と人気を二分してきた。1980年代以降は以前ほどの人気を集めなくなったが、東京六大学野球連盟の発表する観客動員数によると早慶戦を含まなくとも大学野球では全国随一の動員力を維持している。

六大学野球が成立する以前から加盟を求める大学が相次いだが、連盟はそれを拒否してきた(詳細については後述章の連盟成立・結成にまつわる経緯と諸説を参照)。

沿革の通り、1946年には天皇杯が下賜されている。天皇杯は原則として一競技につき一つしか下賜されないため、他の競技では天皇杯が競技全体の最優秀者(チーム)に対して渡されるものになっているのに対して、硬式野球においては東京六大学野球連盟の優勝校に渡されている。第二次世界大戦前から東京六大学リーグの優勝校に摂政杯(摂政=昭和天皇)が授与されていることを受け継いだものであり、変則性はない。ただし、他のスポーツ競技が日本一を決定する競技大会に授与されているのと違うことから硬式野球界独特の問題としてあげられることもある。

リーグ戦で指名打者制を採用していない。

試合開始・終了時には両校応援席とも校旗を掲揚して校歌斉唱と「フレー・フレー」のかけ声(母校と対戦校のそれぞれに対して)からなるエール交換(応援席以外の観客は静粛する)を行い、相手への敬意を表する。エール交換中、応援席に座る学生たちには相手校への敬意から起立・脱帽が義務づけられている[5]コンバットマーチ(早稲田)ダッシュケイオウ(慶應)狙いうち(明治)チャンス法政(法政)セントポール(立教)鉄腕アトム[6](東大)など、現在高校野球やプロ野球で使われる応援曲の多くが東京六大学から生まれており、東京六大学の応援が高校野球やプロ野球へ、そして電波を通じて全国へ伝播したものである。また、野球応援にチアリーダーが登場したのは、東京六大学が最初とされている(早慶六連戦を参照)。

創成期のプロ野球の運営方法にも影響を与えたものもある(1936年度のプロ野球は勝ち点制を採用など)。

運営方法

構成

前記の6校。各校からOB1名ずつが先輩理事として出されるほか、各校の部長・監督・主将・マネージャーらが理事として連盟の運営に当たる。他に事務局長を筆頭とする事務局員が連盟運営の実務を担当する。代表者は理事長で、いろは順による各校部長による持ち回り、1年任期である。

登録選手

部長・監督・助監督・コーチ・マネージャー(記録員)以外に1試合にベンチ入りできる選手は25人。ベンチ入り選手は1試合毎に変更可能。監督以外の3人の指導者がベンチ入りできる。その他に、1980年から2008年まで特別要員(コーチ扱い)1名がベンチ入りできた(役割は主に一塁ないしは三塁ベースコーチであり、特別要員として登録された選手は試合に出場できなかった)。2008年春季リーグ戦より、試合開始前と試合中に各1回、監督名とベンチ入り全25選手(苗字と背番号を表示)がスコアボードに表示されるようになった。

対戦方法

春秋でそれぞれリーグ戦を行なう。全チームが全て同じ日に試合をすることはなく、毎週最大4チーム=2試合ずつ開催される。早慶戦はそのシーズンの最終週に組まれており、この週に限っては1試合のみとなる。通常、開幕試合は前シーズンの優勝校と最下位校の対戦となっている。

基本的には全15カードを8週間(春季は4月~5月末、秋季は9月~10月末。暦によって開始時期は前後する)の間に行われるが、リーグ優勝校の発議などで9週間の変則日程で行われることがある。この場合、早慶戦は最終第9週に行われ、第8週は前季優勝校と2位の対戦が1日1試合で組まれる。1957年秋には春優勝の立教と2位の慶應(この試合で長嶋茂雄がリーグ新の8本塁打を達成)、1993年秋には春優勝の明治と2位の早稲田が対戦した。また春秋のリーグ戦閉幕翌日からトーナメント方式による新人戦(1・2年生対象)を神宮球場にて開催(同点の場合は塁打数の多いチームが勝利)。例年、春季リーグ戦開幕の前週には、日本野球関東地区連盟との共催で「東京六大学・社会人野球対抗戦」を実施している(加盟校各1試合、9回打ち切り、雨天中止)。

2戦先勝方式

2戦先勝方式の総当たりによる勝ち点制(引き分けは再試合)。 同一の対戦校に対して先に2勝したチームがその相手校との対戦に勝利したとして対戦を終了する(1勝1敗の場合は第3戦を行い決着を付ける)。対戦校のいずれかが2勝するまで、対戦は完結しない。

引き分けはプロ併用日は9回終了時、それ以外は1・2回戦は12回終了時、3回戦以降は1勝1敗の場合、15回終了時同点であれば引き分けとしている(この場合でプロ野球ナイターとの併用であれば、第2試合(1試合のみの場合はその試合)は15回を満たしていなくてもJST17時を過ぎた時点で次のイニングスに入らない)。7回終了(後攻チームがリードの場合は7回表終了時)をもって試合成立とし、それ以前の試合中止はノーゲームとなる。得点差によるコールドゲームの成立は採用していない。

なお、2011年東日本大震災が発生したのに伴う節電対策の一環として、同年春季リーグにおいては「日没で試合続行が不可能となった場合はコールドゲーム」とするなど特別ルールが制定された。その他は次に示す。

  • 大学野球単独で行う場合の2試合日 全試合とも延長は12回終了時まで。なおかつ3時間を過ぎて次のイニングに入らない
  • 大学野球単独で行う場合の1試合日 全試合とも延長は15回終了時まで。時間制限なし
  • プロ野球と併用する場合(2試合・1試合とも) 全試合とも延長12回まで、なおかつ2時間半を過ぎて次のイニングに入らない

順位決定方法

勝ち点制

  • 同一対戦校に勝ち越した場合に勝ち点1を獲得し、勝ち点が多い方が上位。勝ち点が同じ場合は全体の勝率比較によって順位を決定。
  • 勝ち点も勝率も同じ場合は、優劣の決定が必要な場合=優勝校の決定に限り決定戦(プレイオフ)を行なう。2校で実施の場合は1回戦制で勝者を決める。3校で実施の場合は各校1回戦総当たりで試合を行い、3校とも1勝1敗の場合は優勝は預かりとし全国大会への出場は抽選により決定する。
    • 同点決勝の場合、延長戦は回数無制限(原則引き分けなし)とする。但しやむをえない理由(日没、雨天他)でコールドゲームになった場合の引き分けは後日の再試合とする。
    • 決定戦は2010年秋季の早稲田-慶應まで12回、16試合実施。
    • 決定戦の成績は選手個人の成績を含めリーグ戦の成績累計には含めない。
  • 対戦する5校全てから勝ち点を挙げて優勝することを「完全優勝」、10戦全勝の場合を「全勝優勝」と呼ぶ。10勝無敗でも引き分けを含む場合は全勝優勝とは別扱いとしている。

※以上は基本的に東京六大学野球連盟として独自のもの。他のリーグで採用しているものもあるが、大学野球では基本的にはリーグ細則は独自のものとして運用される。

審判・公式記録員

審判員・公式記録員とも、各校が各々選任したOBが務める。審判員は各校から3名ずつ選出され、球審及び塁審3名の4名(照明点灯時は線審2名が加わる)で審判を行う。また、試合判定に関わる規則委員も各校から1名ずつ、選任されたOBが務める。各試合の審判員・記録員とも、対戦当該校以外の者が務める(例:早慶戦では明・法・立・東の4校のOBが審判員及び記録員を務める)。また、球場スタンド内のボール係は、各校のベンチ入り以外の部員が務めている。

背番号・ユニフォーム

各校に共通して、背番号は監督が30、助監督・学生コーチが40・50・51[7]、主将が10と決められている。プロ野球にある「0」「00」番は存在しない。

各校とも、背番号に一定の原則を有している。例えば早稲田なら、投手は10番台、内野手は一桁、正捕手は6番、外野手は20番台、第二捕手は26番(詳細は早稲田大学野球部を参照)、明治ならレギュラーは守備位置に応じて背番号が振り分けられる(捕手なら2番、遊撃手なら6番)、立教なら31番以上の番号を選手は付けない、などである。新人やシーズン途中からベンチ入りした選手などはその時点の空き番号や30番台をつけることが多い(年度により使用しない大学もある)。背番号はカードごとに変更可能であり、開幕当初とシーズン後半で背番号が違う選手も見られる。

早稲田のみ、9番を欠番としている。これは1972年の第1回日米大学野球選手権の試合中に頭部に送球を受けて死去した東門明が、大学では9番を使用していたためである。

ユニフォームは早慶以外の4校は先攻用・後攻用(グレーを基調とする)の2種類を一時期使用していた(長嶋茂雄の立教時代の写真で二種類のユニフォーム姿を確認できるのはそのため)が、現在は1種類のみ。特に早・慶・明は帽子やユニフォームのカラー・ロゴなどを戦前からほとんど変えていない。早・明は襟付きのユニフォームを使用しているが、これは日本野球の草創期の名残(その当時はもっと大きな襟であったが)をとどめているものである。

選手表彰

個人タイトルは首位打者(毎日新聞社制定)と最優秀防御率(読売新聞社制定)の2つ。それぞれにトロフィーが与えられる。規定打席・投球回数は時期により差異があったが、現在は打席はプロ野球同様試合数×3.1を規定打席数とし、投球回数は試合数×2を規定回数としている。

アマチュア野球担当記者たちの投票によりベストナインを選出している(1954年秋季から)。ベストナイン選外の選手でめざましい活躍をした選手には特別賞が与えられる。過去には本塁打記録を大幅更新した法政田淵幸一、史上2人目の完全試合を達成した立教上重聡の2名。

2003年春季リーグ戦より、連盟ホームページにおいてファン投票によるMVPを選出している。斎藤佑樹が入学して以降は成績にかかわらず斎藤が大量得票でMVPに選出されようになり、2010年秋季には投票ページに良識ある投票を呼びかける注意書きが設けられた。

開・閉幕式

リーグ戦第1週の試合前に開幕式を、早慶最終戦終了後に閉幕式を行う(優勝決定戦が行われるときには決定戦の終了後)。開幕式では連盟理事長の挨拶、前シーズン優勝チームからの天皇杯返納と選手宣誓(前シーズン優勝チームの主将が行う)が行われる。閉幕式では各杯の授与と連盟理事長の挨拶が行われる。なお個人表彰・ベストナイン表彰は閉幕式中には行われず、終了後に表彰と写真撮影が行われる。

いずれも、東京六大学応援団連盟が協力している。入場行進曲は各校の第一応援曲のメドレーがリーグ戦の順位の順番で吹奏され、曲が代わるのに合わせて一塁側ファウルグラウンドに控えている各校の第一応援旗が掲揚される。

2010年の結成85周年記念として、優勝校には優勝旗(天皇杯トロフィー共々持ち回り)が贈呈される[8]

連盟ホームページ(下記「外部リンク」参照)

2000年より稼働し、全試合の速報・結果、個人成績や過去の成績、連盟役員や各校の部員名簿などを掲載。試合速報はほぼリアルタイムに近い速さで配信している。試合速報・結果の画面は、神宮球場のスコアボードを模している。ファン投票によるMVP選出も行っている。携帯版でも試合速報をほぼリアルタイムで配信している。

フレッシュリーグ(新人戦)

2016年度秋季まで、新人戦として春秋リーグ戦の最終日(原則として早慶戦)の翌日から行われた。出場は1・2年生が対象で(他校より部員数が少ない東大は3・4年生も参加可能)、原則として神宮球場で行うが、プロ野球の試合スケジュールの都合で、加盟各大学のグラウンドを借りて開催する場合もあった。

大会は特別ルールが適用され、延長戦はタイブレークを採用。「ノーアウト1・2塁」という設定とし、9回終了時の次の打者から攻撃を開始。9回終了時の最後の2人の打者がそれぞれ1・2塁にたつ。また試合成立後天災により同点で途中打ち切りとなった場合はサスペンデッドゲームとする。2016年まで新人戦トーナメントだった時期は決勝戦と3位決定戦はタイブレークは適用せず。神宮でプロ野球開催がある場合の午後4時以後を超えた場合は次のイニングに入らない。また日没・および神宮の規定時間を越えて同点である場合、決勝戦は優勝預かりとみなす。3位決定戦は9回終了で次のイニングに入らない。(但し加盟校のグラウンドで行う場合3位決定戦を実施しない)審判は2人。

2017年度春季からは、フレッシュリーグの名称でリーグ戦の前座として、開幕日、リーグ戦中のプロ野球併用日を除く毎日1試合及びリーグ戦最終日の翌日から3日間は各2試合、6チーム総当たりリーグを行う。リーグ戦と同時開催日は9回以前でも1時間50分を超えて新たなイニングに入らない。同年秋季は従来通りトーナメントを行う。

その他

  • スタンドインしたホームランボール・ファウルボールを拾得した観客は前記のボール係に渡さなければならないが、その代わりに連盟オリジナルのピンバッジがプレゼントされる。

試合会場

週末を中心に、すべて神宮球場のみで行なわれる。

東京六大学野球連盟は神宮球場の建設時に協力をし、また1931年の神宮球場の拡張の際に工費を負担した経緯から、球場の使用割り当てを決定する上で最優先の配慮を受けており、リーグ戦開催時期はリーグ戦終了後に行なわれる新人戦まで含めて、土曜日・日曜日は勿論、平日も月曜日~水曜日までの日中は東京六大学野球連盟が優先的に神宮球場を使用して試合を開催する[9]。水曜日までかけても(2勝先勝の)決着がつかない場合は、翌週以降の平日に(ただし、翌週の予定カードの決着を優先して)対戦が繰り越される。

試合日程がプロ野球の試合と重なる場合は併用日と称しており、試合開始時間を早めるほか延長戦は行わず引き分けとしている。プロ野球の開始時刻に配慮してのものだが、こうした規定があっても六大学の試合が長引いてプロの試合開始が遅れることがごく稀にある。

試合開始時刻は1日2試合の場合は第1試合11時00分より・第2試合13時30分より、1日1試合の場合は13時00分。2009年春季リーグ戦より、併用日における第1試合の開始を10時30分に早めた。かつては第1試合を12時00分より開始していたため、特に秋のシーズンにおいて、第2試合の途中からナイトゲームとなることが多かった。

ベンチの配置は原則として対戦組み合わせスケジュール表(公式サイト参照)の左のチームが3塁側、右のチームが1塁側(先攻は3塁側)となるが、早慶戦は全試合共通で早稲田が1塁側、慶應が3塁側と固定されている(1933年に起こった応援過熱による騒動(リンゴ事件)を背景とする。ただし先攻は他の組み合わせと同様に組み合わせ表の左側のチームとなる)。なお、土曜日に開催される1回戦が雨天などの理由で2試合とも(第8週は早慶戦1試合)中止となった場合、試合順及びベンチの配置・攻撃順は翌日にスライドさせず、月曜日以降に開催される2回戦に引き継がれる。一旦販売された入場券の扱いも同様である。

リーグ戦期間中に各校応援団が利用する応援リーダー台は、東京六大学応援団連盟の共有所有物であるが、その応援リーダー台の設置の為に、球場設備の一部であるフェンス支柱に応援リーダー台固定用の突起金具が溶接されている。こうした他では考えられない(プロでも)便宜を提供するほど球場と大学野球連盟の関係が深いのは、全国でも唯一といっていい。前述のように東京六大学連盟が神宮球場の設立期に協力したことに由来するものと考えられる。

スコアボードの校名表記は原則としてアルファベット表記であり、たとえば早稲田ならば得点欄は「W」、選手名の一番上には「WASEDA」と表記される。スコアボードが改修された2008年春季以降は選手名上部はユニフォームと同じ書体、2008年秋季からは得点欄も帽子のマークと同じ表記となった。このため立教の得点欄の表記は「R」ではなくシンボルマークのユリフルール・ド・リス)となっている。

球場内の座席は、以前は学生席(500円)・外野席(700円)・内野席(1,100円)・特別指定席(1,300円)に分けられていたが、低下している観客動員数の改善の為、2010年春季リーグから学生席は応援席に変わり学生以外も入場できるようになり、また学生は内野席(学生内野席)に800円で入場できるようになった[10]

記録

主な記録は連盟ホームページ、ベースボール・マガジン社発行の雑誌「大学野球」や、「神宮球場ガイドブック」でも確認できる。

優勝回数

連盟ホームページを参照のこと。リーグの各記録に、5大学リーグ以前(=1925年春季以前)の記録は含まれていない。

2018年春季リーグ戦時点

大学名 優勝回数 最近の優勝
早稲田大学 45回 2015年秋季
法政大学 44回 2012年秋季
明治大学 39回 2016年秋季
慶應義塾大学 36回 2018年春季
立教大学 13回 2017年春季
東京大学 0回 -

※1940年春季は慶大・明大・立大の3校が7勝3敗でならび、優勝預かりとなった。

歴代優勝大学

平成以降の優勝校のみ[11]

  • ☆:全国大会優勝
開催年 春季 秋季
1989年 法政大学 立教大学
1990年 早稲田大学 立教大学
1991年 慶應義塾大学 慶應義塾大学
1992年 明治大学 慶應義塾大学
1993年 明治大学 早稲田大学
1994年 明治大学 法政大学
1995年 法政大学 明治大学☆
1996年 法政大学 明治大学☆
1997年 慶應義塾大学 法政大学
1998年 明治大学 法政大学
1999年 早稲田大学 立教大学
2000年 法政大学 慶應義塾大学☆
2001年 法政大学 慶應義塾大学
2002年 早稲田大学 早稲田大学
2003年 早稲田大学 早稲田大学
2004年 明治大学 慶應義塾大学
2005年 早稲田大学 法政大学
2006年 法政大学 早稲田大学
2007年 早稲田大学☆ 早稲田大学
2008年 明治大学 早稲田大学
2009年 法政大学☆ 明治大学
2010年 慶應義塾大学 早稲田大学☆
2011年 慶應義塾大学 明治大学☆
2012年 早稲田大学☆ 法政大学
2013年 明治大学 明治大学
2014年 慶應義塾大学 明治大学
2015年 早稲田大学☆ 早稲田大学
2016年 明治大学 明治大学☆
2017年 立教大学☆ 慶應義塾大学
2018年 慶應義塾大学

試合中継・マスコミ

1927年秋のリーグ戦からラジオ中継され、テレビでも草創期から中継を行うなど、マスコミは人気コンテンツとして六大学の試合を中継してきた。

1960年早慶六連戦当時は、NHKだけでなく東京キーの民放全局がこれを中継するなどしていたが、その後民放は順次撤退、NHKも放映数を減少させていった。

テレビ神奈川東京メトロポリタンテレビ(東京MXTV)でも開局直後から数年にわたり試合中継を行っていた(テレビ神奈川は80年代中頃に中継を中止したが、90年代に入り土日の深夜にダイジェストを放送した)。

1974年秋季、東大が法大の江川卓から勝ち星を挙げた試合ではテレビ神奈川が異例の中継延長に踏切った。それを知ってか試合終了後に東大ナインがテレビカメラに向かって一礼する一幕もあった。

1981年5月には東大が早慶から勝ち点を挙げ「赤門旋風」を巻き起こしたことから、TBSが急遽東大-立教4回戦を中継した。

ただ80年代に入り、唯一試合中継を継続していたNHKが、早慶戦を含む数カード(第3週、第6週、第7週、早慶戦の各1試合)に中継を絞り、その後ラジオ中継を廃し、1997年春季には早慶戦のテレビ中継も中止した。しかしそのシーズンに慶大の高橋由伸がリーグタイ記録の22号本塁打を早慶戦(それもNHKがそれまで放映していた日曜日の試合)で放ったため、視聴者から中継中止に対する抗議が多数寄せられる事態が起きた(試合は東京MXTVが中継)。歴史的瞬間を逃した失態と感じたかNHKはその年の秋季から早慶戦の中継を再開した(なおNHKはそれまで優勝校へ授与していたNHK杯も同時期に一時撤廃している)。

2006年春季、連盟はリーグ戦全試合のインターネット中継の実験をiiVChannelで開始、同年秋季には日本テレビと提携して第2日本テレビにおいてインターネット中継が実施された。2006年11月の東京六大学対東京ヤクルトスワローズ戦は、東京MXTVが生中継した。

2007年春季、前年夏の甲子園優勝投手で話題の斎藤佑樹が早大に入学したことにより試合中継数が一気に増加。民放放送各局が連盟と放映権獲得を巡り交渉した末、日本テレビが獲得し六大学の試合中継を再開することとなった。BS日テレでは早稲田戦の10試合を、CS放送の日テレG+では全試合を中継し(なお9月24日、25日は神宮球場内でのテレビ中継をしたが、CS・BS・地上波では未放送に終わった)、地上波では斎藤佑樹が1年生開幕投手を務めた4月14日東大早稲田戦を中継した(1回表裏のみ)。また5月12日には2007年春季リーグの模様を中心に六大学野球の歴史を紹介した2時間の特別番組を放送した。ちなみにラジオ中継はニッポン放送が放送権を獲得。

2007年5月20日には、NHKが早稲田明治戦を緊急生中継を実施し、6月2日・3日の早慶戦ではNHKが中継したほか、日本テレビも6月3日に特別番組を編成して地上波中継を実施。この日の早慶戦はNHKと日本テレビ合わせて14.3%を記録した。

CSでは日テレG+の放送開始以前はパワーチャンネル(現・MTVジャパン。当時は週末はスポーツ中心の編成で行っていた)→GAORAスカイ・A (現:スカイ・A sports+)で放送を行っていた。また、東京MXTVでの中継録画をスポーツアイESPNでも放送していた時期もある。なお、スカイ・Aでは2009年春季リーグからテレビ朝日協力(スコアフォントは千代田ビデオ東京メトロポリタンテレビジョン製作のものを流用。実況アナウンサーもABC、EXのそれぞれから派遣して担当する。毎節の放送ではなく、随時好カードを抜粋して放映)により中継を再開し、現在も放送しているが録画放送のみとなり、生中継は2015年春季リーグまでテレ朝チャンネル2、2015年秋季リーグはBS朝日で放送している。

現在、地上波ではNHK教育テレビが早慶戦の日曜の試合のみをテレビ中継している。

ネットでは、2009年よりインターネットテレビ局ノーネスチャンネルが運営する東京六大学野球オフィシャルTVにおいて春季・秋季リーグの全試合が配信されている。 また、2014年からはノーネスチャンネルによる東京六大学野球オフィシャルTVライブにおいていくつかの試合が神宮球場よりネットで生中継されている。

新聞・雑誌でも、戦前は大手各紙がスポーツ記事では最も大きい取り上げ方をしていた。試合の詳細まで掲載していたため、戦前のリーグ記録は、新聞報道に頼る部分が少なからずある。戦後もテレビ・ラジオ同様重要コンテンツとして取り上げてきたが、やはり同様に扱いが少なくなり、江川卓卒業後はさらに記事が減少していった。中には取材不徹底のまま早慶戦の人気低迷を取り上げる新聞も出た。

ただ2007年の斎藤佑樹の入学に伴い、東京六大学の新聞・雑誌でもその扱いが一気に増え、斎藤が登板した翌日は1面に取り上げるスポーツ紙も多かった。

雑誌としてはベースボール・マガジン社が年3回「週刊ベースボール」の増刊として「大学野球」を刊行している。もとは「東京六大学野球特集号」としていたものが大学球界の全国各地での発展に伴い名称を変えたものである。とはいえ東京六大学野球に割かれる誌面は今も最も大きく、巻頭を含めて注目選手へのインタビューのほか、選手名鑑、歴代の記録、前シーズンの試合結果や記録などを網羅している。同誌2007年春季リーグ戦展望号では表紙を斎藤が飾った。同誌の刊行史において、入学したばかりの選手が表紙を飾るのは極めて稀なことである。

神宮球場では「神宮球場ガイドブック」(ベースボール・マガジン社制作)を春・秋の2回刊行していた(1986年より)。東京ヤクルトスワローズ関連の記事とともに、東京六大学・東都大学の選手名鑑や記録が掲載され、さらに各連盟OBのインタビューや過去の東京六大学リーグ戦の記事などが誌面を飾り、六大学野球ファン必携の一冊となっていた。2007年春号は同ガイドブック史上初めて、斎藤を含む各校の注目新入生を紹介する頁が設けられた。東大は発行の時点で入部選手が確定しておらず(これは例年のことである)、新人選手の紹介はなかった。ガイドブックは第4週終了時点で同誌史上初めて第1刷を完売した。尚、2017年からは同誌に代わって連盟公認のオフィシャルガイドブックが発刊された。

また、日刊スポーツ出版社は「カレッジベースヒーローズ」を2007年から毎リーグ戦前に刊行していたが、現在は休刊となっている。

このほか、連盟発行のポケットサイズ選手名簿(シーズン開幕時登録ベンチ入り選手、日程、各校歌等の文字のみ)が、神宮球場内で発売されている。

その他

  • 優勝カップ:天皇杯、連盟杯、明治神宮杯、アメリカ大使杯、NHK杯(かつてはチェコ国友好杯、ハワイリーグ杯、日本テレビ杯などがあった)表彰式では主将ほか4年生の主要選手が拝戴する。天皇杯のみ、翌シーズンの開幕式において連盟へ返納する。
  • 高校野球や都市対抗野球のような優勝旗は存在しなかったが、2010年春季リーグ戦からは朝日新聞社から寄贈した優勝旗[8]が授与されるようになった。
  • ラッキーゾーン使用前は、ワンバウンドして外野スタンドに入った打球を三塁打(エンタイトル)として扱った。
  • 年一回、リーグ戦の全記録や試合解説、選手名簿、卒業生の進路などを掲載した「野球年鑑」を発行している(関係者のみに配布。関係者以外は野球殿堂博物館国立国会図書館などで閲覧が可能(ただし借り出しはできない)。伝統的にマスコミに多数のOBを送り出していることもあり、記録の充実度・整備度は大学球界では群を抜き、プロ野球並みである。また東京六大学野球に関連する資料は吉澤野球史料保存館でも展示されている。

優勝パレード

ファイル:Hosei University Tokyo big6 baseball league championship parade2.jpg
優勝パレードの様子。写真は法大のもの(2009年春)

リーグ戦の優勝校は、全日程の終了後に優勝パレードを行うのが恒例となっている[12]。パレードの参列者は紅白のちょうちんを携えて行進することから、パレードには「ちょうちん行列」「ちょうちんパレード」の別名がある。
概ね神宮外苑内の絵画館前を起点とし、大学本部のある地点までを行進ルートにしている。選手たちはオープンカーに乗って行進に参加する(早稲田を除く)。

なお近年では、渋滞への配慮等から神宮外苑を起点としたパレードを実施しない場合もある[13]

1933年の「宵越試合」

1933年10月1日の早稲田-立教3回戦は、立教が11-4と大量リードのまま9回表を迎えた。ここで早稲田が反撃に出て大量5点を奪い2点差に迫り、なお2死満塁と詰め寄った。ここで打者長野を迎えたところで日没のためグラウンドが暗くなり、試合続行不可能と判断した審判団は両校監督・主将と協議の上、同じ状況のまま翌日に試合を延期すること(いわゆるサスペンデッドゲーム)とした。翌10月2日、9回表早稲田の攻撃、2死満塁の局面から試合は再開された。早稲田の打者長野は立教の投手塩田の3球目に投ゴロに倒れ、試合はあっさり11-9で立教の勝利に終わった。以後、連盟規定改定などの関係で、同様のサスペンデッドゲームは実施されていない。

ハンカチ王子フィーバー

2007年の春季リーグは同年に早稲田大学に入学した斎藤佑樹の開幕登板が予想されたことからチケットを求める問い合わせが殺到し、史上初めてチケットぴあでの入場券前売りが実施された。新入生が開幕投手を務めるのは実に77年ぶり史上2人目であった。 4月14日の開幕戦は前年春の4倍となる18,000人が詰めかけ、法政との対戦となった同じ4月28日は20,000人、斎藤が先発した4月29日は28,000人を記録し、従来早慶戦以外では開放されない通称「三角内野」(第2内野席)が開放された。この観客数は早慶戦以外では1992年春季第7週、法政-明治戦(勝った方が優勝。法明戦で勝った方が優勝となるのは久しぶりだった)以来の20,000人越えとなった。両日夜に同じ神宮で行われた東京ヤクルトスワローズ読売ジャイアンツ戦の観客動員は28日20,106人、29日29,654人であった。斎藤佑樹の人気がプロ野球、それも従来首都圏で最大の動員力を持っていたとされる巨人戦に肉迫する結果となった。さらに5月20日早明戦では、30,000人が神宮に詰めかけ、6月2日からの早慶戦では2日34,000人、3日36,000人の観衆が集まった。6月3日の観客数は当日行われたプロ野球交流戦の6試合中5試合を上回り、北海道日本ハムファイターズ阪神タイガース札幌ドーム)に次ぐ動員数となった。

入場券を求める行列は4月28日には400人以上に上り、その後シーズンの経過につれその列が増えてきた。そのための混乱を少しでも回避しようとしてか、連盟ホームページでは1日2試合の場合の開場時間が9:35であることを記載し始めた。連盟では混雑による事故を回避するため、従来の倍以上の警備員を配置して観客整理と警戒にあたっている。早慶戦では1994年の天覧試合並みの200人態勢をとった。

早稲田野球部を乗せたバスは斎藤見たさに詰めかけるファンとの衝突・事故を避けるために、球場正面玄関に横付けされ、選手たちは厳重な警備の下で入退場をしている。他校の場合は球場前の駐車場に停める(早稲田も2006年秋季までは同様だった)。

ただし早稲田の出ない週の観客数は概ね例年並みとなっており、六大学の人気復活とは言い切れない状況であった。

1年生の斎藤が2007年春季リーグの開幕投手で勝利をおさめたが、これは1927年春季の慶應宮武三郎以来80年ぶり(先発投手としては1930年の東大・高橋一以来)。斎藤はこのリーグ戦で通算4勝を挙げ、1年生投手の春季リーグ戦での4勝以上は1927年宮武、1929年早稲田小川正太郎、1991年早稲田織田淳哉についで4人目となった。斎藤はベストナインにも選出され、1年生投手が春のベストナインに選出されたのは1954年秋季の制度制定後初めてである。

2007年9月6日の連盟理事会で、東京六大学野球の2008年版カレンダーを発行することを決定した。連盟によれば「ファンサービスの一環」とのことだが、カレンダーの発行は同連盟史上初めてのことである。また2008年春季リーグ戦の開幕と同時にベースボールカードも発売された。連盟によれば、過去にブロマイドが発行されたことはあるが、カードの発売は初めてだとしている。

斎藤が卒業後は再び下降し、ここ数年は平均8千人程度の観客動員数となっている[14]

脚注

  1. 日本球界初のリーグ戦で、早稲田大学が制したが、この年限りで解散(東京大学教養学部発行『体育学紀要』第10号、『早稲田大学野球部史』)。
  2. 朝日新聞、1997年10月15日朝刊35面
  3. 朝日新聞、1997年10月16日朝刊29面
  4. 六大学各校応援団員(男子リーダーやチア)の合同選抜メンバーによる応援に合わせた地元高校の吹奏楽部による六大学各校応援歌・マーチの演奏も華を添えた。
  5. 早稲田大学応援部HP 東京六大学野球 早慶戦
  6. 東大応援部では「イントロビクトリー」という名称で使用されている。
  7. 助監督を置く明治・法政・立教・東大は40、OBコーチを置く慶應は50をそれぞれ使用。OB指導者が監督のみの早稲田は学生コーチ3人が40・50・51を使用している。
  8. 8.0 8.1 出典・スカイ・エー「アッピィーチャンネル」(2010年4月第2週放送回)・枝松順一アナのコメント
  9. 球場の優先使用に関しては明治神宮野球場にも詳細を記述。
  10. 東京六大学 一般ファンも学生席で観戦できる
  11. それ以前の優勝大学は下記を参照。
    東京六大学野球連盟 歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
  12. 但し、2001年秋季リーグ戦に優勝した慶應のパレードが社会情勢の不安から中止になった(「野球部 優勝パレードは中止に」『慶應塾生新聞』2001年10月号[1]
  13. 2004年春季リーグ戦に優勝した明治は駿河台キャンパス周辺のみ[2]で、2006年春季リーグ戦・2009年春季リーグ戦に優勝した法政は市ヶ谷キャンパス周辺のみ[3]で優勝パレードを実施した。
  14. 試合結果 六大学野球連盟

関連項目

外部リンク

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