東京映画

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東京映画株式会社(とうきょうえいが)は、かつて存在した日本の映画製作プロダクションである。1952年(昭和27年)に東宝の関係会社として設立、東宝が配給した映画「駅前シリーズ」等のコメディ映画を製作し、東京映画撮影所を稼働させた。東宝は東西両撮影所制を敷いた大映や東映、松竹(1965年京都撮影所閉鎖)と異なり、戦前期に京都撮影所を閉鎖して砧撮影所に製作を原則一元化していたが、傘下の東京映画と宝塚映画は別に撮影所を持ち、盛期にはそれぞれ年間十本程度の作品を供給し続けている。ともに監督と俳優は東宝から供給されたが、技術スタッフは独自の機構を備えてそれぞれのカラーを発揮した。東京映画は、撮影所なのに皆ネクタイを締めている、と活動屋たちを驚かせた初期の東宝撮影所の社風を戦後まで引き継いだ紳士集団であったといわれる。

1983年(昭和58年)8月25日に株式会社東京映画新社梅浦洋一社長在籍時の2004年9月1日、東宝に合併して消滅)に改組、消滅した[1]

データ

撮影所の変遷

年号 名称 所在地 備考
1952年 東京映画撮影所 品川区上大崎 創立・開所
1962年 東京映画撮影所 世田谷区船橋 移転、連合映画からレンタル
1980年 更地・売却

略歴・概要

1952年(昭和27年)、東宝に映画作品を供給する映画製作会社として設立された。設立当時の撮影所は、東京都品川区上大崎海軍大学校跡地に建設、開所された[2]。設立開所第1作は、加藤譲製作、豊田四郎監督の『春の囁き』で、同年12月10日に公開された。

1958年(昭和33年)、豊田四郎が監督した『喜劇駅前旅館』をきっかけに「駅前シリーズ」が始まり、同シリーズは1969年(昭和44年)、杉江敏男監督の『喜劇 駅前桟橋』まで全24作つづいた。

1962年(昭和37年)8月、撮影所を世田谷区船橋連合映画撮影所に移転した。上大崎の跡地には東宝の子会社日本映画新社が入居した。新撮影所は当時のスター俳優森繁久彌邸に隣接し、森岩雄が設立した連合映画からのレンタルであった。

1970年(昭和45年)、加山雄三主演の「若大将シリーズ」を第15作、岩内克己監督の『ブラボー! 若大将』、第16作『俺の空だぜ! 若大将』のみ製作を引き継いだ。大映が倒産、日活が「日活ロマンポルノ」の製作を開始した1971年(昭和46年)以降、大映の池広一夫増村保造、日活の藤田敏八神代辰巳らが東京映画でメガホンをとっている。

1972年、東宝本体が製作を停止。「五核」を名付けられた五つの子会社が作品供給の中心になることが発表される。プロデュース会社である芸苑社、青灯社、砧撮影所を本拠とする東宝映画、東宝映像とともに東京映画もその一角に名を連ねた。しかし、実際は勝プロ、ホリ企画などの社外プロダクションに押されて五核の製作活動は振るわず、東京映画も製作本数を減らしていく。

1975年(昭和50年)以降は製作本数が激減し、1977年(昭和52年)と1978年(昭和53年)にはそれぞれ1作のみを製作・公開したが、1979年(昭和54年)と1980年(昭和55年)には、創立以来初めて、1作も製作・公開できなかった。1981年(昭和56年)に公開された森谷司郎監督の『漂流』を最後に映画製作から完全撤退した。撮影所もこのころ閉鎖・売却した。

1983年(昭和58年)8月25日、株式会社東京映画新社に改組、消滅した[1]。東京映画新社はその後、テレビ映画を製作したが、1993年(平成5年)に東宝テレビ部で『太陽にほえろ!』を立ち上げたプロデューサー梅浦洋一が社長に就任し、2004年(平成16年)9月1日、東宝に合併して消滅した[1]

東京映画撮影所の録音部である「東京映画映像部」は、テレビ映画『ウルトラマンタロウ』等にクレジットされているが、のちに東宝サウンドスタジオとなった。同社が末期に手がけたテレビ映画、花王 愛の劇場わが子よ』は新社が引き継ぎ、1986年(昭和61年)の第6シリーズまで製作された。

フィルモグラフィ

  1. 1.0 1.1 1.2 簡易合併に関するお知らせ東宝、2004年6月22日付、2009年10月10日閲覧。
  2. 日本映画新社という会社 」、執筆重田一男ニュース映画製作者連盟、2009年10月10日閲覧。

外部リンク