東京音頭

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テンプレート:音楽著作権有効東京音頭」(とうきょうおんど)は、日本の歌。作詞西條八十[1]、作曲中山晋平盆踊りの定番曲として親しまれ、またプロ野球チーム・東京ヤクルトスワローズや、プロサッカークラブ・FC東京応援歌として使われていることでも知られている。

解説

原曲「丸の内音頭」

もともとは「丸の内音頭」という曲名で1932年昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。永井荷風によると、その盆踊り大会は日比谷百貨店の広告であり、その百貨店で浴衣を購入しなければ参加できなかったという[2][3]。歌詞には丸の内、三宅坂、数寄屋橋などの地名が織り込まれている[4]。 その後、レコード会社が「隅田」「武蔵野」などを入れて東京一円のご当地ソングとして売り出したという。 「丸の内音頭」のレコードはビクターから発売され、A面が藤本二三吉、B面は三島一声によって歌われた。二三吉はこの曲を最後にコロムビアに移籍した。

1975年1976年に、丸の内の祭である「グランマルシェ」の催しの一つに取り入れられた。それ以後は長らく行われていなかったが、日比谷公園の開園100周年を迎えた2003年以後、毎年8月に「日比谷公園丸の内音頭大盆踊り大会」が開催されている。地区や年代によって様々だと言われているが、日比谷公園の踊り方がルーツという可能性が高い。

ヒットへの経緯

1933年、当時の東京市民すべてが歌えるように改題・改詞され、小唄勝太郎三島一声の歌唱でレコード化され、卑猥さを連想させる歌詞もあって爆発的に流行した。勝太郎の一連のヒット曲に多いハァー(ハー小唄)の歌いだしの、勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡った。レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚[5][6]に達したという。勝太郎にとって、「島の娘」「明日はお立ちか」「さくら音頭」「大島おけさ」「勝太郎子守唄」などと並ぶ代表曲となった。

後年、勝太郎がテイチクに移籍してからは、かつて勝太郎と犬猿の仲といわれた市丸喜久丸鈴木正夫によって再吹き込みされた。夜通し続いたことで、西條や中山も眠れずに困ったこともあった[7]ほどだったという。また、同じ年に流行したヨーヨーとともに紹介されることも多い。

その後も時代を越えたロングヒットとなり、総売上枚数は正確には不明であるが、1971年の段階で発売当時の20倍以上、枚数にして2000万枚以上を売り上げているともいわれる[8]

曲の構成

前奏は当時新橋喜代三の歌唱で流行していた「鹿児島おはら節」の前弾きを引用している。おりからの新民謡ブームで、当時は各地で次から次に新民謡が作られていた。東京音頭以前は、須坂小唄、飯坂小唄、三朝小唄、望月小唄など「~小唄」という題の唄がまことに多かったのに対して、東京音頭以降は別府音頭、高田スキー音頭など「~音頭」が増加した。この「音頭もの流行り」は新民謡の域にとどまらず、流行歌の分野においても「さくら音頭」の各社競作へとつながっていったのである。

原詞の2番・5番・8番が神様などを賛美しているとされ、第二次世界大戦後の連合国軍の占領下における思想取り締まりの中で強制削除対象にされたが、もともと鹿児島県最大の祭りであるおはら祭の踊り歌である「鹿児島おはら節」の前弾きを引用しているように、東京版の祭り歌であり、寺社の祭りや盆踊りでもっとも歌われ舞われてきたものである。この曲に限らず軍歌でもないのに戦前のヒット曲というだけでGHQに目をつけられ、まったくのいいがかり理由による不当な検閲行為はほぼ全てのヒット曲に対して行われた。各所で抗議の声が高まり原曲のまま歌い続けられる曲も多かったとされる。

現代において、盆踊りなどで流される『東京音頭』は、原詞の1番→3番→9番→6番→10番(ただし歌詞に若干の変更有り)の5番構成のものが主流であり、プロ野球東京ヤクルトスワローズの応援歌(後述)でもこの形式のものが採用されている。

スポーツの応援歌

ファイル:Meiji Jingu Stadium.JPG
東京音頭の傘上げシーン(2006年)

プロ野球チーム・東京ヤクルトスワローズの応援歌となっている。1954年(昭和29年)、後に国鉄スワローズ私設応援団(ツバメ軍団)団長になる岡田正泰が、巨人側の観客席は大勢のファンで盛り上がっているのに、自分たちが座った国鉄スワローズ側は空席が目立っていた。そんな様子を見て、1人最前列に下りていき、歌唱応援を始めたのが最初である[9]。現在は、得点の入った時および本拠地神宮球場で7回裏の攻撃前(ラッキーセブン)に、拡げたビニール傘(青や緑が多い)を振って歌っている。これも1978年(昭和53年)のヤクルト初優勝の前後に、岡田の発案によって始まったものである(なお、戦前の歌詞にはが歌いこんであった)。

かつて、昭和40年代(昭和40年〈1965年〉~47年〈1972年〉)頃には、当時東京スタジアムを本拠地としていた東京オリオンズ→ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の応援団が東京音頭を使用していたが、同球場の閉鎖に伴う撤退を境に使用されなくなった。この関係から2007年平成19年)、千葉マリンスタジアム開催時のセ・パ交流戦・千葉ロッテ対東京ヤクルト戦において「東京音頭、譲りました。」というキャッチフレーズが付けられている。

また、プロサッカークラブ・FC東京でも、2006年からの東京ヤクルトとのタイアップを受ける形で「東京音頭」が採用されている[10]。間奏部分は野球と同様に「くたばれ読売」である。こちらで指される「読売」とは、読売サッカークラブを前身に持ち、FC東京にとって東京ダービーの相手となる東京ヴェルディのことである。

東京音頭・平成版 大江戸東京音頭

平成の時代の若者たちにも東京音頭を踊って欲しいと、2004年にNPO不動産女性会議まちづくりチームの企画で創った。編曲はロックミュージシャンで音楽プロデューサーの南木直樹、唄と津軽三味線は吉田昌紀子(津軽三味線の吉田兄弟の兄:良一郎の妻)、振付は五世花柳芳次郎。なお、2008年6月、五世花柳芳次郎は四世花柳寿輔を襲名し花柳流家元を継承した。

翌年、社団法人東京都民踊連盟教授会が盆踊りバージョンを振り付けを手掛け、正調と盆踊りバージョンの二種類の振付で踊られるようになった。8月には浅草国際通りで開催されたつくばエクスプレス開通祝賀イベント「大江戸ビートフェスティバル」で、10月には青山まつりパレード(青山通り)で採用され、また、小学校の運動会でも採用が始まった。

なお、ニューバージョンの曲名を「東京音頭・平成版 大江戸東京音頭」とすることについては、西條八十の実子で著作権相続人の西條八束の了解を得ている。

その他

1982年日本テレビ系列で放送された『史上最大!! 第6回アメリカ横断ウルトラクイズ』で、冒頭、後楽園球場の入場口に集まった出場者の前で、国外レポーター:福留功男(当時:日本テレビアナウンサー)が、「○」と「×」が描かれた浴衣を着て入場し、東京音頭の替え歌「ウルトラ音頭」を披露した。この音頭は、ワシントンD.C.で行われた同大会の準決勝の敗者が、「罰ゲーム」として「リンカーン記念堂」のリンカーン像前で歌った。だが「ウルトラ音頭」が披露されたのは、結局この回のみだった。

大東京音頭

この曲とは別に「大東京音頭」(作詞:滝田常晴、補作:藤田まさと、作曲:遠藤実)という曲が存在する。「大東京音頭」は東京12チャンネル(現・テレビ東京)の企画で制作されたもので、レコード各社により競作されたが、橋幸夫金沢明子のビクター版が一番ヒットした[11]。同局の特別番組「夏祭りにっぽんの歌」では「大東京音頭」を出演歌手全員で歌うのが慣わしだった。

東京音頭と同じく都内の盆踊りでは必ずレパートリーに入るという。

脚注

  1. ビクター東京音頭
  2. 永井荷風『墨東綺譚』岩波書店、1947年、168頁。
  3. 「丸の内飲食店組合」の小坂光雄(松本廊社長)ら経営者が銭湯での風呂場談義で考えたという。
  4. 「時代の証言者・首都のレストラン・小坂哲瑯(4)・「東京音頭」原型は「丸の内」読売新聞 2013年4月20日10面
  5. 1952年時点、ビクター発表。丘十四夫『歌暦五十年』全音楽譜出版社、1954年。
  6. NHK「クイズ日本人の質問」グループ『NHKテレビ クイズ 日本人の質問 3』NHK出版、1996年、181頁。ISBN 4140160845
  7. 塩澤実信『昭和のすたるじい 流行歌』第三文明社、1991年、55頁
  8. 紀田順一郎、間羊太郎『記録の百科事典 日本一編』竹内書店、1971年、198頁
  9. 日本中が沸いた「東京音頭」、「焦土の都」を踊らせてみたい 東京・日比谷公園 朝日新聞デジタル 2012年9月28日
  10. FC東京とのタイアップ(東京ヤクルトスワローズ)
  11. 東京音頭/大東京音頭”. 公益財団法人 日本伝統文化振興財団. . 2017閲覧.

外部リンク