東急バス

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一般路線車(いすゞ・エルガ2代目)

東急バス株式会社(とうきゅうバス)は、東京都城南地域・川崎市横浜市北部を中心にバスを運行する東急グループの会社である。

東京急行電鉄の100%子会社である。さらに東急バスからの分離子会社として東急トランセが存在する。

概要

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バス停留所(青葉台営業所管轄)

東急バスは、東京急行電鉄のバス部門を分社化することにより1991年5月に設立され、同年10月より営業を開始した。本社は目黒区東山三丁目にある。不動産などの部門で付帯事業を営む。分社化以前でも、東京急行電鉄のバス部門を指して「東急バス」の呼称が使用されていた。

路線バス事業としては、一般路線バスのほか、深夜急行バス空港直通バスなどを運行している。都市間高速路線(長距離夜行高速バス)に参入していた時期もあったが、収支状況の悪化により1998年までに全線から撤退した(その後、2016年に子会社の東急トランセにより再参入)。貸切バス事業は1994年より順次縮小を進め、小規模なものとなっている。

関東の大手私鉄系バス会社で全ての路線が前乗り運賃先払いで、整理券方式の路線が無いのは同社のみである。関東の民営バスでは関東バス川崎鶴見臨港バス京急グループ[1]も該当する。一般路線の運賃も、ごく一部を除いて東京都内・横浜市内運賃220円、川崎市内運賃210円、都内・川崎市内渡り運賃260円に設定されている(大人現金運賃)ほか、横浜市内では青葉台駅 - あかね台線などのように区間制運賃となっている路線も存在する。

現在は東京都区内、川崎市内、横浜市内のいずれも東急線沿線を中心とした営業区域を持つが、東京都区内の特に城南地域で東急線沿線のエリアでは、一般路線バスを東急バスが独占しているところが多い(目黒区世田谷区などでは一般路線バスの9割以上が東急バス)。川崎市内や横浜市内は東急バスが路線をほぼ独占している地域(東急東横線東急田園都市線沿線の住宅地への路線など)と、他社路線と併存している地域が存在する。


沿革

ここでは、東京急行電鉄時代とその前身事業者のバス事業を含めた沿革について記述する。東京急行電鉄は1922年(大正11年)、目黒蒲田電鉄として設立された。


目黒蒲田電鉄のバス事業

目黒蒲田電鉄がバス事業を開始したのは1929年(昭和4年)のことであり、最初の路線は同年6月25日に開通した大井町線である。大井町線は、大井町駅を起点に西へ向かう路線であるが、当初の終点については荏原町車庫前と東洗足の2つの説がある。これは東急が発行した2つの社史においても食い違っているため、どちらが正しいのかの判断が困難であるが、いずれにしても鉄道の大井町線に並行する道路に路線を設けることで、その営業を防衛する意味合いを持つ路線であったことは間違いない。

目黒蒲田電鉄はその後、小山・自由ヶ丘・等々力・下丸子などに路線を拡張したのち、1933年(昭和8年)に子会社・目蒲乗合を設立し、バス事業を同社に譲渡して分社化した。この間の1932年(昭和7年)、大森乗合自動車を傘下におさめ開業させているが、同社もまもなく目蒲乗合が吸収合併した。

池上電気鉄道および周辺事業者の合併・買収

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目蒲乗合と池上電気鉄道のバス路線

1934年(昭和9年)、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道を合併し、同社のバス事業を引き継いだ。池上電気鉄道のバスは1927年に中原街道の五反田駅 - 中延間で始まり、その後両端部を丸子渡および品川駅まで延長、さらにいくつかの支線を開通した。1930年(昭和5年)には池上通りの大森 - 池上間を新たに開業し、1932年に池上 - 雪ヶ谷間を開通して中原街道と池上通りの連絡をつけた。これらの路線を、池上・中延の2車庫にて運営していた。

目蒲電鉄は旧・池上電鉄のバスを継承後、直営で経営していたが、競合区間のある旧・池上路線と目蒲乗合を別会社で経営することは不合理であったため、3年後の1937年(昭和12年)、目蒲乗合の路線を目蒲本体に戻し、バス事業を直営に統合した。

同じ年、目蒲電鉄は玉川電気鉄道傘下にあった2つのバス事業者を合併する。東京市目黒区(旧・碑衾町)に拠点を持ち、目黒通り周辺の路線を営業していた目黒自動車運輸と、東京市芝区の国鉄田町駅から芝浦周辺を営業区域とする芝浦乗合自動車である。また、1939年(昭和14年)には、大井周辺に路線を有する城南乗合自動車を傘下に収めている。

旧・東京横浜電鉄のバス事業

旧・東京横浜電鉄も目黒蒲田電鉄と同じく、1929年(昭和4年)にバス事業を開始した。最初の路線は東神奈川 - 六角橋 - 綱島間、東神奈川 - 六角橋 - 川和間の系統であるが、これらは神奈川自動車より譲受したもので、前者は現在の東横線に並行する旧・綱島街道を通るものであった。しかし、営業成績は芳しくなく、わずか3ヶ月足らずで子会社・東横タクシー(現・神奈川都市交通とは別会社)を設立し、事業を同社に譲渡してしまっている。

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1936年頃の東横乗合路線

また都内では、大橋 - 大鳥神社前間の免許を得ていたが、これも傘下の東横乗合に譲渡したうえで運行させることとした。東横乗合は、恵比寿・田町方面を運行していたヱビス乗合自動車に、同社の姉妹会社で渋谷・中野方面で営業していた代々木乗合自動車を合併のうえ、改称したものである。

東横乗合はその後、世界恐慌の影響により業績が悪化しながらも積極的に路線の拡張を進め、1932年には杉並の大宮八幡から井の頭・武蔵小金井方面の人見街道周辺に路線を有する城西自動車商会を買収した。ただし、この線は不調に終わり、のちに帝都電鉄に譲渡している。

このように2つの子会社により経営されてきた旧・東横のバスであるが、バスの交通機関としての認知度が高まり、業界の活性化が進んだことを受け、段階的に直営化が進められることとなった。1933年(昭和8年)には、東横タクシーに譲渡していた路線と同年買収した溝ノ口乗合自動車(鶴屋商会)などの路線を東京横浜電鉄が吸収し、神奈川県内で直営バス事業を再開した。続いて1936年に、貸切バス・タクシー業のみとなっていた東横タクシー、および東京横浜電鉄の子会社で中野・練馬方面に路線を有する大正自動車の2社を東横乗合が合併し、さらに東京横浜電鉄が東横乗合を吸収したことにより、直営化による統合が完了した。

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1936年頃の国際興業バス前身事業者の路線網

なおこの頃、東横電鉄は新宿から中野にかけての範囲で営業していた関東乗合自動車(現・関東バス)と東京城北地区で活動していた中仙道乗合自動車池袋乗合自動車を傘下に収めている。

日本興業の路線継承と玉川電気軌道の合併

その後、東京横浜電鉄は、傘下にあった玉川電気鉄道を合併することとなる。その前段階として1937年、同社の子会社である日本興業のバス路線を吸収した。この路線は、「山手バス」の通称で呼ばれ、渋谷駅南口から代官山・恵比寿を経て赤十字病院(現・日赤医療センター)前に至るものであった。

そして、翌1938年に玉川電気鉄道を合併し、同社のバス事業を継承した。玉川電気鉄道のバス事業への進出は早く、1927年に軌道線に並行する渋谷 - 新町間を開通したのが始まりである。その後、1929年に淡島通り周辺に路線を持つ日東乗合自動車を合併、さらに1931年に八木哲から世田谷通り上の三軒茶屋 - 調布(国領付近)間を譲り受け、翌32年には同個人より神奈川県内の路線も継承した。東京横浜電鉄による合併時の路線網は、渋谷・広尾から世田谷・調布方面、さらには神奈川県の柿生・中山・勝田周辺にまでおよぶ広大なものであった。

ちなみに、玉川電鉄は国際興業バスの前身となる東都乗合自動車にも出資していた。この結果、東都乗合も東横電鉄の系列に入った。

東横・目蒲の合併 - 大東急へ

1939年(昭和14年)10月1日、目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄を合併し、同月16日、東京横浜電鉄に商号変更した。これにより、現在の東急バスにつながる路線の経営が一元化されたわけであるが、この時点では山手線内や芝浦地区のほか、中野・練馬方面にも路線を有していた。

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東急から東京市への譲渡バス路線

その後、戦時下に公布された陸上交通事業調整法により、旧東京市内のバス路線に対する調整が命じられ、 1942年(昭和17年)2月1日、一部路線を東京市電気局(現・東京都交通局)に譲渡した。このとき対象となった路線は、右図の通りである。

戦時の統制下では、一方で東京横浜電鉄による周辺事業者の統合も進み、同年5月1日、京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併して、社名を東京急行電鉄に変更した。また同日には城南乗合自動車の路線を吸収した。これにより、3社のバス事業を継承したほか、京浜電鉄が保有していた川崎鶴見臨港バスの株式も引き継いだ。同年12月には、東京市蒲田区(現・大田区)を拠点に営業していた旧・京浜電鉄系の梅森蒲田自動車も吸収合併した。

その後、1944年(昭和19年)には京王電気軌道を合併し、中仙道乗合と鳩ヶ谷自動車が東都乗合に合流。神奈川県中西部では東海道乗合自動車藤沢自動車伊勢原自動車が相次いで大東急傘下に入り、最終的に東海道乗合を存続会社として合併、神奈川中央乗合自動車(現・神奈川中央交通)となった。また、同年には大東急が府中乗合自動車商会を買収して路線を吸収した。神奈川県西部でも、富士箱根自動車足柄自動車箱根登山鉄道に合併の上、大東急の傘下に入って五島が社長を兼務することになった。

静岡県でも、新・東横電鉄の傘下に入っていた静岡電気鉄道を中心に県中部の事業者が取りまとめられた。これにより、大東急本体、関東乗合、東都乗合、神奈川中央乗合、箱根登山鉄道、静岡鉄道の6社で東京都、神奈川県、埼玉県、そして遠く静岡県にまでおよぶ巨大バス事業者グループが完成した。

しかし、この頃にはすでに物資不足のため、路線休止や代燃車での運行を余儀なくされる状態であった。

戦後の復旧

終戦時において休止バス路線は実に7割近くにも及び、戦後数年間は依然として車両や燃料の不足が続いていた。このため、大森駅 - 池上駅間に電気自動車を導入したり、神奈川県内の一部路線の運行を神奈中共々横浜市交通局横浜市営バス)に委託したりするなどの措置がとられ、復旧が急がれた。

一方、路線の新設も徐々に始まり、1947年にはGHQの指導により、都営バスとの相互乗り入れによる都心直通路線の運行が始まった。都心直通路線は、駒沢・都立高校洗足池の自社鉄道線3駅を起点とするものに始まり、のちに小田急線や京王線の駅にも拡大した。

その後、東京駅 - 横浜駅間、渋谷駅 - 江ノ島間の長距離路線が相次いで開業し、1953年(昭和28年)、淡島営業所の代田線を最後に休止路線の復旧をほぼ完了した。

この頃には、都営バスや京急バスなどとともに超大型のトレーラーバスを運行したとの記録も残っている。しかし1950年(昭和25年)、京浜急行で運行中のトレーラーバスから出火し多数の死傷者を出した事故の後、東急はトレーラーバスの使用をやめた。

大東急解体と東都乗合・関東乗合の東急グループ離脱

1946年(昭和21年)、東都乗合が東急会長五島慶太の知遇を得ていた小佐野賢治率いる国際商事(現・国際興業)に売却され、大東急グループを離脱する。

1947年(昭和22年)には、五島の後任として静岡鉄道の社長に就任した川井健太郎の要請で東急が保有する静鉄株の大半が売却され、静鉄も東急グループを離脱した。

1948年(昭和23年)には、小田急電鉄京浜急行電鉄・京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が分離され、「大東急」の時代が終焉を告げた。これにより、大東急本体直営バス事業の一部が京急、京王に譲渡されることとなったが、都内では両社との境界が戦前の旧・京浜電気鉄道、京王電気軌道時代とは異なるものとなった。

京急に対しては東京都大田区の国鉄東海道線周辺において路線調整が行われ、東側にあった東横電鉄由来の鬼足袋線が京浜急行に、一方で西側にあった梅森蒲田自動車由来の六郷線が東急に引き継がれた。また、川崎市の国鉄東海道線より南側にあり分離時点では休止中だった京浜電鉄由来の川崎住宅地線は京急に譲渡されたが、京急の手で再開されることはなく、京急傘下入りした川崎鶴見臨港バスが引き継ぐ形になった。

経営が不安定だった京王には京王線以北の中野営業所・大正営業所と管轄下の多数の路線、そして東急が保有していた関東乗合の株式が譲渡されることとなった。しかし大東急から送り込まれていた関東乗合社長柏村毅は分離後も一定の割合の株式を保有し続けたため、関東乗合は京王グループに入らず、事実上東急の衛星企業となった。

なお、旧小田急電鉄の路線については、城西自動車商会→東横乗合→帝都電鉄が経営した三鷹線は京王に、小田原急行鉄道が独自に開業し分離時点では休止中だった相武台線は小田急にそれぞれ譲渡された。ただし、相武台線は運転が再開されずそのまま廃止された。相武台線のエリアは京急の川崎住宅線と同様に、小田急傘下になった神奈川中央交通が引き継ぐ形で運行している。逆に、旧・京王電気軌道の路線のうち、京王線以南に大きく入り込んでいた千歳烏山 - 祖師ヶ谷大蔵間は東急が継承したが、この線は1952年(昭和27年)に小田急バスに譲渡されている。

昭和30年代以降

昭和30年代には、郊外の世田谷区目黒区横浜市などで路線の伸びが著しく、営業所の新設も相次いだ。この頃には東京駅を発着する都営共管の幹線が大田・品川・目黒・世田谷の各区から放射状に張り巡らされた他、新宿駅を発着する都営共管路線も存在した。

一方、民営バス同士の共同運行も積極的に行い、国際興業から小田急グループ入りし事業の拡大を進めていた小田急バスとの共同運行を開始する。

京王や京急に対しても影響力を持ち続け、渋谷区北部の路線の多くが京王に譲渡された後も、旧代々木乗合由来の初台線を東急単独で長く維持した他、東急と京王の共管で新宿駅へ乗り入れる系統も運行した。京急とは大井競馬場線の共管で信頼関係を保ち、1958年(昭和33年)、羽田空港 - 田園調布線開通で大田区東部の京急バスエリアへ再進出した。

1966年(昭和41年)、東急田園都市線の溝の口 - 長津田間が開業する。東急電鉄バスは横浜市営と神奈中が基盤を固めつつあった横浜市緑区(現・青葉区)の田園都市線沿線に本格進出し、鉄道駅と住宅地を結ぶ路線に経営資源を集中投入、多摩田園都市発展の基礎を作った。その皮切りとなった中山線は神奈中が単独運行していたところへ横浜市営共々参戦し、東急・市営・神奈中の3社共管路線が生まれた。その後横浜市営バスや小田急バスとの2社共管路線が増え、神奈中との2社共管も始まる。そして1983年(昭和58年)の十日市場線で横浜市旭区にも進出した。

川崎市内でも、高津区宮前区中原区を中心として川崎市バスとともに駅間連絡や住宅地輸送の路線の展開が進められていき、川崎市バスとの共管路線も設定された。その一例が鷺沼線であり、1966年(昭和41年)の田園都市線開業により運行区間が鷺沼駅 - 小杉駅間となって以降、川崎市バスとの共管路線となった。一方で、東横線以東のエリアは川崎市バスや川崎鶴見臨港バスが既に多数の路線を運行することで基盤を固めていたため、東急バスの運行路線は川崎線や鹿島田線、駒岡線など僅かにとどまった。

都内では都心への新たな通勤手段として、首都高速道路経由路線が開通。1967年(昭和42年)には環七通りの開通に合わせて都営共管の環七線が誕生、東京都中野区杉並区に再進出するなど、この時期は各地で目ざましい発展が見られた。翌1969年(昭和44年)の玉川線廃止に合わせ、渋谷 - 二子玉川上町間で代替輸送を開始し、1977年(昭和52年)の新玉川線(現・田園都市線)開通まで続けた。

しかし、昭和40年代半ばころを境に輸送量は減少に転じることとなり、特に都内では新たな鉄道の開通や渋滞の悪化によりバス離れが急速に進んだ。そこへ共同運行している都営バスの経営再建計画がのしかかってくる。昭和50年代に入ると都心直通路線が国鉄山手線を境に分断されるなどの大幅な路線整理が行われ、東京駅直通は自由が丘線が残るのみとなって東京都中央区から撤退。また渋谷 - 調布線と二子玉川 - 調布線が小田急単独に変更されて東京都狛江市調布市から撤退。それに加え環七線が新代田駅で分断されたことで中野・杉並・新宿の3区からも撤退した。

この過程で旧池上電鉄由来の中延や駒沢など、都内の営業所を一部廃止。入れ替わりに青葉台や虹ヶ丘など、急速な発展を見せていた神奈川県内の拠点が増強された。玉電代替用に投入され、新玉川線開通で余剰となった大型長尺車は多くが神奈川県内に転出していった。

東急バスの設立

1988年(昭和63年)、東急電鉄は折からの長距離バスブームに乗る形で、初の本格的な都市間高速バス『ミルキーウェイ和歌山線』の運行を開始する。

1990年(平成2年)には、電車の運転が終了した後の深夜に渋谷から鉄道沿線へ帰宅する乗客を狙った深夜急行バス『ミッドナイトアロー青葉台線』を投入するなど、攻撃的な事業展開を見せる。

しかし、この頃東急電鉄のバス事業は一時、赤字に転落していた。東急は戦前の旧東横電鉄・目蒲電鉄時代にバス部門を一度独立させて数年で元に戻すという苦い経験をしたが、バスの社会的地位、事業の規模、企業としての採算意識はその頃とは比べ物にならないほどに高まっていた。

そこでバス部門を完全独立採算とし、企業としての自立と経営の安定を確立するべく、1991年(平成3年)、完全子会社東急バス株式会社を設立、事業を移譲した。この結果、バス部門の収支は程なくして黒字に転じ、東急バスも設立以来、黒字基調を維持している。

さらに、バス事業の規制緩和を前にした1998年(平成10年)、コスト高が指摘されていた都市間長距離路線から撤退。事業を再び東京・神奈川両都県に絞り込む。そして、運転手の人件費削減を狙って分離子会社東急トランセを設立。女性乗務員(サービスプロバイダー)を登用した代官山地区での運行を開始する。東急トランセは続けて翌1999年(平成11年)、下馬営業所の野沢線を皮切りに東急バスの路線の受託運行を開始した。

公営各局のリストラとともに

東急電鉄交通事業部から独立して東急バスになり安定的な収益体質を確立したが、それでも時代の変化に合わせた路線の見直しを常に行っている。

2002年(平成14年)、横浜市長に当選した中田宏は市営バスの事業規模適正化路線を打ち出す。公営企業を維持することを前提としながらも、一部路線の民間への移譲など大胆な施策に取り組んだ。

この過程で、東急バスは2006年(平成18年)の43系統、翌2007年(平成19年)の3系統、118系統という合わせて3路線を引き受けたものの、そのうちの一つである川和線は一部区間の廃止が前提であった。この結果東急バスは旧神奈川自動車以来の伝統があった横浜市神奈川区西区から撤退。JR横浜駅西口への定期路線乗り入れが消滅した。

川崎市バスからも2008年(平成20年)までに溝02系統との重複区間が多かった溝03系統のうち小杉駅方向と、東急バスと共同運行を行っていた向01系統の2路線を引き受けたが、2007年にはJR川崎駅の乗り場付け替えで川崎市川崎区から撤退した。

東京都営との間では安定した関係を維持していたが、2013年(平成25年)3月31日をもって最後まで共管で残った自由が丘線から都営が撤退し、翌4月1日より東急バス単独になった。また同時に、環七線のうち新宿駅発着の都営便と大森操車所発着の東急便が重複運行していた区間から都営が撤退、新代田駅での乗り換えに一本化された。この結果、東京駅南口への東急の乗り入れこそ存続するものの終戦直後から66年間続いた都営バスと東急の共同運行がすべて消滅した[2]

年譜

  • 1929年
    • 3月17日 東京横浜電鉄、神奈川自動車より東神奈川 - 川和間、六角橋 - 綱島を譲受し、バス事業を開業。
    • 6月1日 東京横浜電鉄、バス事業を東横タクシー(5月に東京横浜電鉄の全額出資で設立。現在の神奈川都市交通の前身)へ譲渡。
    • 6月25日 目黒蒲田電鉄、大井町駅 - 荏原町車庫前(東洗足との説もある)間を開業。
    • 8月 東京横浜電鉄、ヱビス乗合自動車(1923年設立。田町駅 - 白金三光町 - 恵比寿駅間。現在の都営バス路線。)および代々木乗合自動車(1920年設立。渋谷駅 - 幡ヶ谷 - 中野駅間他)を傘下におさめる。
    • 11月21日 ヱビス乗合自動車、代々木乗合自動車を合併し、東横乗合と改称。
  • 1932年
    • 2月 目黒蒲田電鉄、大森乗合自動車(未開業。大森駅 - 梅屋敷通り間。現在の京浜急行バスの路線。)を傘下におさめ、4月25日に開業させる。
    • 12月8日 東横乗合、城西乗合自動車商会(大宮八幡公園 - 牟礼 - 武蔵小金井間。現在の京王バス東の路線)を買収。
  • 1933年
    • 2月 東京横浜電鉄、溝ノ口乗合自動車(古家達三経営。川崎駅 - 溝ノ口間他)を買収。
    • 6月1日 目黒蒲田電鉄、バス事業を目蒲乗合(2月に目黒蒲田電鉄の全額出資で設立)へ譲渡。
    • 6月1日 東京横浜電鉄、東横タクシーよりバス事業を譲受し、直営を再開。
    • 8月1日 目蒲乗合、大森乗合自動車を合併。
  • 1934年10月1日 目黒蒲田電鉄、池上電気鉄道を合併し、同社バス路線(1927年9月開業。品川駅 - 五反田駅 - 中延間他)を承継。
  • 1935年
    • 4月8日 東横乗合、旧城西乗合自動車商会の路線を帝都電鉄へ譲渡。
    • 7月26日 東京横浜電鉄、大正自動車(1929年5月設立。児玉衛一経営。中野坂上 - 中野駅 - 沼袋 - 練馬駅間他。現在の京王バス東の路線。)を傘下におさめる。
    • 6月1日 東横乗合、大正自動車と東横タクシーを合併。東横タクシーからは観光バス事業を承継。
  • 1936年11月1日 東京横浜電鉄、東横乗合を合併し、バス事業を一本化。
  • 1937年
    • 6月1日 目黒蒲田電鉄、目蒲乗合からバス事業を譲受し、バス事業を一本化。
    • 6月1日 東京横浜電鉄、日本興業(通称・山手バス。玉川電気鉄道傘下。渋谷駅南口 - 赤十字病院前間他)の路線を譲受。
    • 12月1日 目黒蒲田電鉄、目黒自動車運輸(1923年4月開業。玉川電気鉄道傘下。田町駅 - 高輪警察署前 - 日吉坂上 - 目黒駅 - 自由ヶ丘間他)および芝浦乗合自動車(1930年1月設立。玉川電気鉄道傘下。田町駅 - 天王洲橋間他)を合併。
  • 1938年4月1日 東京横浜電鉄、玉川電気鉄道を合併し、同社バス路線(渋谷駅 - 溝ノ口 - 荏田 - 長津田間他)を承継。
  • 1939年
    • 6月16日 目黒蒲田電鉄、城南乗合自動車(大井町駅 - 立会川 - 現在の西大井駅周辺)を傘下におさめる。
    • 10月1日 目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄を合併。
    • 10月16日 目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄と改称。
  • 1942年
    • 2月1日 陸上交通事業調整法に基づく戦時統合のため、山手線以内を中心とする路線を東京市へ譲渡。
    • 5月1日 京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄に改称。両社のバス事業を承継。京浜電気鉄道が持っていた川崎鶴見臨港バスの株式を取得。
    • 5月1日 城南乗合自動車のバス事業を吸収。
    • 12月 梅森蒲田自動車(旧京浜電気鉄道系。蒲田駅 - 六郷土手間他)のバス事業を吸収。
  • 1944年
    • 5月31日 京王電気軌道を合併し、同社バス事業を承継。
    • 8月1日 府中乗合自動車商会(現在の京王バス中央の路線)、箱根登山鉄道を傘下におさめ、府中乗合の路線を大東急本体に吸収。
  • 1947年
    • 6月25日 東京都交通局と協定し、駒沢 - 築地間、洗足 - 東京駅間、都立高校(現在の都立大学駅) - 東京駅間の三路線で都心相互乗り入れを実施。
    • 7月11日 横浜市交通局と臨時運転契約を結び、8月1日から東神奈川 - 川和間、8月16日から横浜駅 - 杉田間(現在の横浜京急バスの路線)でそれぞれ横浜市営バスによる代理運行が行われる。
    • 9月13日 大森駅 - 池上駅間で電気自動車を導入。
  • 1948年
  • 1953年7月22日 観光バス事業に再進出。
  • 1954年6月26日 江ノ島鎌倉観光(現在の江ノ島電鉄)との共同運行による、渋谷駅 - 江の島間の江の島線運行開始。
  • 1961年
    • 4月15日 大森駅 - 馬込循環線でワンマンカーの運行を開始。
    • 7月1日 渋谷駅 - 長野駅間の長距離バス長野線、運行開始。
  • 1966年4月 第三京浜道路経由の渋谷駅 - 横浜駅西口間運行開始。江の島線も第三京浜経由に変更。
  • 1967年12月25日 首都高速3号渋谷線経由の高速通勤バス、桜新町 - 東京駅南口間運行開始。
  • 1971年6月30日 長野線廃止。
  • 1973年6月 乗合バスが全車ワンマン化。
  • 1974年 江の島線廃止。
  • 1975年12月24日 デマンドバス「東急コーチ」自由が丘駅 - 駒沢間運行開始。路線は貸切バスの扱い。
  • 1982年 第三京浜経由の京浜線(二子玉川園駅 - 横浜駅西口間)廃止。
  • 1987年5月16日 高速通勤バスの運行を取り止め。
  • 1988年10月25日 夜間高速バス「ミルキーウェイ」渋谷駅 - 和歌山駅間(和歌山線)および渋谷駅から鶴岡酒田間(酒田線)運行開始。
  • 1989年7月3日 深夜急行バス「ミッドナイトアロー」渋谷駅 - 青葉台駅間運行開始。
  • 1991年
    • 5月21日 東急バス株式会社設立。東京急行電鉄のバス事業を継承。
    • 10月1日 東急バスが営業開始。
  • 1998年
    • 4月1日 東急トランセを設立。
    • 9月30日 夜間高速バスから撤退。
    • 10月1日 羽田空港連絡バス・たまプラーザ駅 - 羽田空港間運行開始。
  • 2001年3月1日 東急コーチのデマンド運行を廃止。一般路線バスに転換。(東急コーチの呼称は継続使用。)
  • 2003年4月16日 成田空港連絡バス・新百合ヶ丘駅 - たまプラーザ駅 - 成田空港間運行開始。
  • 2005年12月1日 パソコン・携帯電話から閲覧可能な東急バスナビが(一部路線を除く)路線バス全線に導入される[3]
  • 2006年11月16日 川和線市03系統(市が尾駅 - 横浜駅西口)区間廃止(又口橋 - 横浜駅西口が廃止)に伴い東急バスの横浜駅西口乗入れがなくなる。
  • 2007年7月12日 センター北・センター南 - 羽田空港間運行開始。
  • 2008年
    • 3月30日 横浜市営地下鉄グリーンライン開業に伴い、日吉駅・綱島駅・港北ニュータウン発着路線を再編。路線の新設・廃止・ルート変更、停留所の新設・移設・停留所名の変更など、再編の内容は多岐に渡る。
    • 7月18日 中山駅・センター南 - 成田空港間運行開始。
    • 9月8日 本社事務所を目黒区大橋一丁目から、目黒区東山三丁目の東急池尻大橋ビルに移転。
  • 2009年4月24日 二子玉川駅[4] - 羽田空港間運行開始。
  • 2010年9月30日 川崎営業所が営業を終了。
  • 2011年
    • 3月16日 武蔵小杉駅(横須賀線口)- 羽田空港間運行開始。
    • 11月1日 通勤高速バス「TOKYU E-Liner」虹が丘営業所→渋谷駅間運行開始。
  • 2012年11月1日 深夜急行バス 渋谷駅→宮前平駅 運行開始。
  • 2013年
    • 3月1日 青11 青葉台駅→桜台上(循環)→青葉台駅 運行開始。
    • 3月31日 自由が丘線東98系統(東京駅丸の内南口 - 等々力操車所)における都営バスとの共同運行を終了し(都営バスは撤退)、東急バスのみでの運行となる。これにより1947年以来66年間にわたり続いた東京都交通局との共同運行が全て終了した。
    • 7月16日 東京空港交通単独で運行していた「成田空港~渋谷駅(マークシティ・セルリアンタワー)」の路線を二子玉川駅まで延伸のうえ、新羽営業所と共管に。
  • 2014年10月14日 実際にバスで使用されている本物の「降車ボタン」が作成できる工作キット『降車ボタン&工作キットセット』を発売
  • 2016年12月17日 大崎駅 - 羽田空港間運行開始。

営業所

営業所は、都内に7か所、神奈川県内に5か所があり、各営業所とも敷地内または直近に車庫を有している。数だけを見れば都内のほうが多いが、多くのニュータウンを抱える神奈川県内のほうが、1営業所あたりの規模が大きい。東急バスには、支所、分車庫等は存在せず、規模の小さい車庫も営業所として独立している。以下、所名の後に掲げるアルファベットは、所属車両の判別等のために設けられている各営業所の略記号である。

廃止営業所

  • 不動前営業所 (3100)
    不動前営業所は、山手通り沿い、東京都目黒区下目黒二丁目の現・不動尊参道停留所前に置かれた営業所で、東横乗合をルーツとする中目黒営業所の移転により1940年7月9日に開設された。1969年5月7日、大橋営業所の開設とともに廃止され、跡地は東名急行バスの車庫として使われたのち、現在は東急不動前ビルが建っている。
  • 中延営業所 (N)
    中延営業所は、品川区旗の台一丁目の中原街道沿いに置かれた営業所で、戦前の池上電気鉄道の乗合自動車をルーツとするが、「東急バス10年のあゆみ」によれば、開設日は1947年6月25日となっている。都営バスと共管路線である雪が谷線(丸子橋 - 東京駅八重洲口、東90。後の品川駅 - 丸子橋、品90)をはじめ、上池上循環線(大森駅 - 夫婦坂 - 上池上 - 池上駅 - 大森駅、森06・07)等の中原街道周辺路線や遊園地線(二子玉川園駅 - 多摩川園、玉11)を受け持っていた。1981年6月21日に廃止され、跡地には、かつて東急バスやグループの他社がフランチャイズとして参加していたTSUTAYA旗の台店が建っている。
  • 駒沢営業所 (K)
    駒沢営業所は、世田谷区駒沢四丁目の現・駒沢公園西口停留所前に置かれた営業所で、東京オリンピック輸送を主な目的として1964年10月1日に開設された。後に宿91(新宿駅西口 - 大森操車所)や蒲13(代田四丁目 - 蒲田駅)、東急コーチ自由が丘線などを受け持ったのち、1984年3月16日に廃止となった。跡地は折返所として使われたのち、現在は他企業に賃貸している。
  • 日吉営業所 (H)
    神奈川県内2番目の営業所として、1962年4月1日に港北区日吉四丁目に開設。日吉駅再開発に伴い1993年11月1日に廃止され、跡地は折返所となっている。営業所記号の「H」は廃止と同時に開設された東山田営業所が引き継いだ。
  • 大橋営業所 (O)
    大橋営業所は、東京都目黒区大橋一丁目の東急玉川線(玉電)大橋車庫跡地にあった営業所で、玉川線の廃止に伴い代替輸送を受け持つため、1969年5月7日に開設された。2002年9月16日に廃止され、跡地は首都高速道路中央環状新宿線大橋ジャンクションになった。
  • 川崎営業所 (KA)
    不動前営業所同様東横乗合をルーツとする溝ノ口営業所からの新丸子を経て二度目の移転で1940年6月12日に開設された営業所。所在地は神奈川県川崎市中原区小杉御殿町。2010年10月1日に廃止され、小杉折返所になったが、小杉折返所も2011年6月末をもって廃止、跡地は7階建てマンション「ジオ・イニシア武蔵小杉」となっている。

営業所の変遷

新・東横電鉄時代

1939年の目蒲・東横合併による新・東京横浜電鉄成立時において、営業所は東京13箇所、神奈川県2箇所の計15箇所があった。すなわち、エビス、代々木、中目黒、中野、大正、世田谷、淡島、新丸子、神奈川(以上、旧東横より継承)、池上、中延、神明、大森、下目黒、芝浦(以上目蒲より継続)である。その後、1940年に運用の効率化を図るべく、下目黒営業所(権之輔坂)を目黒営業所(清水)に、中目黒営業所を不動前営業所に、新丸子営業所を小杉営業所に、それぞれ移転・改称した。また同年には、代々木営業所も三角橋から代々木本町へ移転している。

大東急時代

1942年(昭和17年)の大東急誕生で、京浜電気鉄道、小田急電鉄、城南乗合自動車が東横電鉄に合併し、これらの営業所も東急管下に入った。遅れて合同した梅森蒲田自動車も含め、旧京浜電鉄の事業所を中心に東京・神奈川両府県で実に30カ所近い拠点を持つ大事業者となった。この時の営業所は、次の通りである。

(新・東横電鉄由来)エビス、代々木、不動前、中野、大正、世田谷、淡島、池上、中延、神明、大森、下目黒、小杉、神奈川
(京浜電鉄由来)高輪、雑色、川崎、横浜、田浦、平坂、衣笠堀之内、浦賀、逗子三崎鎌倉、大船
(城南乗合自動車由来)荏原
(梅森蒲田自動車由来)梅森
(小田原急行鉄道由来)相武台

しかし、ほぼ同時に国鉄山手線内の路線を東京市に譲渡した際には、芝浦営業所が廃止され、他の営業所も編成替えが行われた。

その後、雑色が大鳥居と改称して高輪を吸収したり、大船と鎌倉、田浦と平坂と堀之内が統合したりするなど、旧京浜電鉄由来の営業所を中心に目まぐるしく変化していく。そんな中、京王電気軌道を合併したことで八王子など多摩地域の営業所も手にした。

新生・東急電鉄時代

終戦を経て、1948年にはいわゆる大東急が再編成された。この際、旧・京浜電気鉄道、京王電気軌道のバス事業がそれぞれ京浜急行電鉄京王帝都電鉄に引き継がれたのに加え、両社との新たなエリア境界を京王線東海道線とすることが定められ、両線の外側を走る路線も両社に譲渡された。 この結果、旧京浜電鉄の営業所だった高輪、雑色、川崎、横浜、衣笠、堀之内、三崎、久里浜(当初は三崎の支所扱い)、逗子、鎌倉の10カ所が京急に譲渡され、八王子と国分寺は京王帝都に譲渡された。加えて東横由来だった中野と大正の両営業所が京王帝都に譲渡され、旧大森乗合由来の大森営業所は所管していた鬼足袋線が京浜急行高輪営業所へ譲渡されるにあたって廃止された。

さらに、戦中・戦後の混乱の中で、旧東横電鉄由来の営業所でも恵比寿、代々木、世田谷、神奈川の各営業所が休廃止され、それぞれ近隣の営業所に統合された。その結果、新生・東急電鉄バスは淡島、目黒、不動前、中延、神明、池上、川崎(小杉から改称)の7営業所体制で再スタートが切られることとなった。

戦後は、休止路線の復旧や新線の開通が進められ、昭和30年代から営業所数は再び増加するようになる。世田谷区内では、1956年に瀬田営業所が開設され、多摩川流域を走る路線が移管された。続いて1959年には弦巻営業所が開設され、世田谷通りの路線などが移管された。1964年には、東京オリンピックの輸送等に対応するため、駒沢営業所が開設され、神奈川県内でも路線数の増加に伴い、1962年に日吉営業所、高津営業所が相次いで新設されている。

1966年には田園都市線長津田へと延伸されたのを受け、新羽営業所が開設され、延伸後の各駅を結ぶ路線の運行を開始した。1969年(昭和44年)に玉川線が廃止されると、その大橋車庫跡地に大橋営業所が開設され、玉川線代替路線の運行を開始するとともに、同時に廃止された不動前営業所の路線を引き継いだ。

昭和40年代から50年代にかけて、多摩田園都市ではニュータウンと田園都市線各駅を結ぶ路線が急速に発達した。これらの多くは、高津営業所が長い回送距離を伴って担当しており、非効率であったため、田園都市内の新たな拠点として、1981年に青葉台営業所が、1986年に虹が丘営業所が開設された。なお、都内では同時期に路線の整理が行われ、青葉台営業所開設と引き換えに中延営業所が、1984年に駒沢営業所が廃止されている。

東急バス時代

東急バス発足の翌年、1993年(平成5年)には日吉営業所が廃止され、東山田営業所が新設された。これは、日吉営業所の敷地が東横線の線増工事のため収容されることとなったのに加え、輸送拠点を宅地造成の進む港北ニュータウン側に移したほうが有利との判断からである。

その後、1999年(平成11年)に全線の運行を東急トランセに委託する下馬営業所が開設され、2002年に大橋営業所が廃止された。

2010年(平成22年)に川崎営業所が廃止され、現在の12の営業所体制になる。

車両

車両は、UDトラックス(旧・日産ディーゼル)日野自動車いすゞ自動車三菱ふそうトラック・バスの国内4メーカーすべてから導入している。1970年代以前は全車両の半分近くを日産ディーゼルが占めていたこともあるなど関係が深かったが、UDトラックスは2011年にバス部門から撤退。代わって日野と三菱ふそうからの納車が増えている。いすゞは他メーカーより納車台数がやや少なく、特定の営業所のみに導入される傾向があったが、現在では車体メーカーのジェイ・バスへの移行や車種統合もあり導入される営業所が増えつつある。路線車はごく最近までフォグランプがなかった。

車両規模は2009年現在、930両強である。[5]

路線車

一般路線車は、ホイールベース5メートル未満のいわゆる短尺車が多くを占めているが、大量の通勤・通学輸送に対応した長尺車も度々納車されており、中にはオールロングシートとなった車両もある。長尺車は、玉電代替輸送が行われていた1970年代には大橋や駒沢といった都内の営業所にも配備されていたが、新玉川線開業後に多くが神奈川県内へ転出。現在は一部車両が東山田営業所に配備されているほかは、田園都市線沿線の青葉台・虹が丘両営業所に集中している。

このほか、狭隘路線用の中型車・小型車(渋谷区コミュニティバスハチ公バス」も含む)、貸切輸送や高速走行に適したロマンス車東急コーチ専用車両などがある。いずれも、ワンステップ車・ノンステップ車の導入により、低床化が進められているところである。

都内の営業所で導入される新車は一部を除き全てノンステップ車であるのに対し、神奈川県内の営業所で導入される新車はワンステップ車が中心であり、特に虹が丘営業所の場合2010年までノンステップ車が全く導入されていなかったほか、青葉台営業所もノンステップ車は既に引退した車両を除き中型車のみの導入となっていたが、2015年度には大型ノンステップ車が再配置された。また、環境に配慮したハイブリッド車、CNG(圧縮天然ガス)車も使用されているほか、高速車、企業・学校輸送用の特定車、観光車などが少数ある。

一般路線車の塗装は、銀色に赤色の帯を配するデザインが基本である。このコンセプトは長らく変わっておらず、昭和20年代にはすでに銀と赤を基調とした塗装が施されていた。初期の車両には車体裾部に水色、赤帯上下に黄色が配されていたが、1968年に塗装作業の簡略化のため、赤帯を窓下に1本回すだけのシンプルなデザインとなり、東急のステンレス電車のイメージとも一致するこの銀と赤2色塗りの時代が長く続くこととなった。

その後、1985年に目黒通りに導入された「東急バス新交通システム」対応車(109車)、1986年に導入された初代ロマンス車をきっかけとして、再び塗装の一部にアクセントを加えた車両が導入されるようになった。これらの車両は幹線路線を走る機会の多い優等車両であることから、設備の向上だけでなく外観においても差別化が図られており、ロマンス車には金色が、109車には窓上と裾部に赤帯が、ノンステップ車には側面中ドア付近の裾と窓上に青帯がそれぞれ追加された。このような塗装上の区別は、1997年より導入されているノンステップ車・ワンステップ車においても同じように行われているが、しばらくはこれらの車両のみが投入されており、銀色に赤帯のみの車両は一部を除き投入されていなかった。2012年度導入のワンステップ車からは、銀色に赤帯を窓下に1本回すのみの塗装に変更された。

また、東急バスでは全ての車内広告を一定期間1つの顧客に統一する車両を「TOQ-BOX」として運行してきた。最晩年は2001年度、2006年度導入車の一部がTOQ-BOXとして運用されており、過去には2005年度、2002年度、1997年度、1993年度、1987年度導入車のいずれも一部において運用例がある。2013年2月までに、TOQ-BOXとして運用されていた全ての車両が終了となり、古参車は廃車、引き続き残存する車両も装飾が解除された。なお、2008年6月ごろから安全対策のため路線車の後部に黄色の蛍光テープを貼り付け、2009年から全車を対象にドライブレコーダーが装備されるようになった。

高津営業所にドライブレコーダー・乗務員運転動作測定・車内アナウンス測定・エコドライブ測定機能を装備したTA8730(日産ディーゼルPKG-RA274KAN改ノンステップ車)が安全運転訓練車として在籍している(白ナンバーのため、営業路線に入ることはない)。

近年のリーマン・ショックに端を発する景気後退の影響から、ディーゼル規制によって車検が通らなくなる1997年度車(1600番台)の67台が置き換え対象であるにもかかわらず、2009年度新車(900番台)は、HOTほっとTOKYU7月号の公式発表で30台と発表されている。そのため2009年度から都内を中心に一部ダイヤで減便を行っており、減便で余剰となった車両を置き換え対象車のある営業所へ転属させ、経年車の置き換えに充当している。毎年のHOTほっとTOKYU7月号(2017年については6月号)にて、年度の新車導入台数が公式発表されている。

  • 2010年度の新車(1000番台)-28台
  • 2011年度の新車(1100番台)-34台[4] (PDF)
  • 2012年度の新車(1200番台)-75台[5] (PDF)
  • 2013年度の新車(1300番台)-74台[6] (PDF)
  • 2014年度の新車(1400番台)-74台[7] (PDF)
  • 2015年度の新車(1500番台)-70台[8] (PDF)
  • 2016年度の新車(1600番台)-67台[9] (PDF)
  • 2017年度の新車(1700番台)-65台[10] (PDF)

2011年の会社設立20周年を機に、イメージキャラクター「ノッテちゃん」の顔を描いたステッカー(都営バス「みんくる」ステッカーと同様のもの)を、路線バス前面の行先表示器左側スペースへ貼付るようになった。このステッカーは顔の表情によって数種類のバリエーションがある。[11] また「ノッテちゃん」は着ぐるみも制作され2015年11月現在東急グループ関連のイベントで東急電鉄のマスコットキャラクター「のるるん」と一緒に出没しているが、他社のイベントでは2014年9月に開催した都営バス主催のイベントで初出演し以降都営バス主催イベントではゲストキャラクターとして出演している。

また、ヘッドライト(ロービーム側のみ)のLED化(小糸製作所製)が、車番700代(後述)以降の車両を対象に施工されている。

高速車・貸切車

高速車は銀色に2色の帯が斜めに入り、ロゴが記載される。このデザインは昭和末期から平成初期に運行していた夜行高速バス専用車「ミルキーウェイ」で採用されていたものがベースで、帯は青と水色だった。主に空港リムジンバスとして運行される車両はマゼンタと藤色の帯にTOKYU Limousineのロゴ、通勤高速バスとして運行される車両は緑と黄緑の帯にTOKYU BUS Highway Linerのロゴが採用される。三菱ふそう・エアロバス/エアロエースシリーズが中心だが、空港リムジンでは日野・セレガいすゞ・ガーラも少数導入されている。空港リムジン運行初期には貸切からの転用車や他社からの中古車も使用されていた。通勤高速バスは三菱ふそう・エアロスターのロマンス車が導入されている。

2014年のセンター北 - 富士急ハイランド線では、貸切車の白地に青・赤・橙を配色パターンを変えて採用、2016年の夜行高速バス「パイレーツ」や2018年の成田空港 - 渋谷・二子玉川線"Tokyu Bus Super Cabin"にも採用される。

貸切車は白地に赤と金帯を採用していたが、1980年代後半のスーパーハイデッカー"SSマーキュリー109"(三菱ふそう・エアロクィーン)投入後は現在の白地に青・赤・橙の帯となった。ハイグレード貸切車「東急トランセプレミアム」では銀色をベースに和風のグラフィックパターンを採用する。現在は観光貸切バスの運行は東急トランセが行っている。

使用年数と車体再生

東急バスの車両は、首都圏の排出ガス規制の関係から、原則として新車導入後12年間使用されたのち除籍となる[6]2005年度までは、15年間の使用を原則とし、この間4 - 6年目に車内外再生、10年目に車体再々生と呼ばれるリニューアル工事が実施されていた。しかし、8都県市ディーゼル規制の開始等による規制強化を受け12年使用が原則化したことにより、再生時期が見直され、10年目の車体再々生に関しては、2005年度の1400番台を最後に廃止となった。なお、これらのリニューアル工事は、川崎市中原区今井上町にある東急テクノシステムで実施される。これにより、東急バスの車体は、廃車時まで非常に綺麗な状態を保っていることも特徴である。 2008年秋季以降では、車内まで行っていた再生工事を簡略化し、色あせした赤帯部分の再塗装(西工車体車と痛みの激しい車両は車体腰部全体を再塗装)と、車内には座席のクリーニングなど補修程度な簡易的な再生工事がほとんどである。この再生工事は車体補助修繕といい、2014年現在は800番台の一部車両まで実施されている。

廃車車両の譲渡

東急バスで役目を終えた車両は、グループ会社ほか全国の地方事業者に譲渡されて引き続き使用されている。

夜行用車両は夜行バス運行の撤退に伴い、車齢の若い車両については北海道北見バス(ドリーミントオホーツク号・特急釧北号)や宗谷バス(特急わっかない号)に譲渡されたほか、神姫バス(プリンセスロード)の単独運行となったため、同社に譲渡された車両もある。

元東急バス車両の譲渡先としては、北海道のじょうてつなどのグループ会社や長野県の草軽交通上田バス、かつて東急グループだった新潟県の越後交通(本社)・越後交通(旧:北越後観光バス)・南越後観光バス、北海道の函館バス宗谷バス北海道北見バスなどのかつて東急グループだった事業者へまとまった台数を譲渡することが殆どであり、譲渡から漏れた車両はほとんど解体されていた。グループ外の事業者への譲渡は新潟交通や一部の自家用等ごく僅かであったが、2008年の旧1500番台以降東急バス側が、除籍車両を中古バス販売事業者へも転売するようになったことからこの法則が崩れ、道南バス岩手県交通山交バスジェイアールバス関東福島交通関東鉄道銀河鉄道掛川バスサービス京福バス中国バス広島バス広島交通広島電鉄サンデン交通熊本電鉄島原鉄道南国交通琉球バス交通那覇バス東陽バスなど、これまで東急とは全く無縁であった幅広い事業者への譲渡が見られるようになり、北は北海道稚内から、南は沖縄本島まで元東急バス車両が四国を除く日本全国で大量に見受けられるようになった。とりわけ北海道、東北、北関東、信越、中国、沖縄への譲渡が多い。旧1500番台以降の車両に関しては一部車両(CNG車のS398とS399のみ解体)を除き全車が日本国内譲渡を果たしている。なお2005年度の除籍車両(0・100番台の一部・1200番台)だけは一切地方譲渡されず、全車廃車解体となっている。

2009年から、三菱ふそう・エアロスターノンステップバスの廃車が始まっており、そのうち6台がジェイアールバス関東[7]、2台が函館バス[8]へ譲渡された。2013年には広島交通にも2台譲渡されており、同社にとって初めてのノンステップバスとなった。

社番

東急バスの車両には、1台ごとに社番と呼ばれる独自の車両管理番号が付与されている。社番は車体側面、車内前部等に表示されており、数字部分は原則として、車両導入より廃車まで変わることがない。

一般路線車の社番
AO 4 39
営業所 年式(1-2桁) 固有番号

例の場合は、AOが青葉台営業所で、439が2003年度の日野車である。

営業所記号については当該節を参照。

一般路線車の社番は、所属営業所の略号(上記参照)+1 - 4桁の数字で構成され、営業所記号は転属のたびに書き換えられる。番号部分は、1984年度以前は年度を問わず連番方式となっており、1980年度からの5年間に導入された車両の番号は以下の通りであった。

  • 旧300番台315 - 384:1980年度(1994年全廃)
  • 旧400番台前期385 - 441:1981年度(1995年全廃)
  • 旧400番台後期443 - 500:1982年度(1996年全廃)(442は欠番)
  • 旧500番台前期501 - 555:1983年度(1996年全廃)
  • 旧500番台後期556 - 603:1984年度(1996年全廃)

しかし、1985年度からは、数字のうち上2桁が導入年度を表す現行の方式となった。以後、上2桁は以下のように割り振られている。なお、現行方式では、下2桁はメーカーごとにまとめて割り振られている。付番ルールは以下のとおりであるが、導入年度により下2桁のメーカーへの割り振り方など若干の差異がある。

  • 旧600番台:1985年度(1997年全廃)
  • 旧700番台:1986年度(1998年全廃)
  • 旧800番台:1987年度(2002年全廃)
  • 旧900番台:1988年度(2003年全廃)
  • 旧1000番台:1989年度(2003年全廃)
  • 旧1100番台:1990年度(2003年全廃)
  • 0番台(1 - 2桁):1991年度(全車廃車)
  • 100番台:1992年度(全車廃車)
  • 旧1200番台:1993年度(全車廃車)
  • 旧1300番台:1994年度(全車廃車)
  • 旧1400番台:1995年度(全車廃車)
  • 旧1500番台:1996年度(全車廃車)
  • 旧1600番台:1997年度(全車廃車)
  • 旧1700番台:1998年度(全車廃車)
  • 1800番台:1999年度(全車廃車)
  • 1900番台:2000年度(全車廃車)
  • 200番台:2001年度(一部廃車)
  • 300番台:2002年度(一部廃車)
  • 400番台:2003年度 (一部廃車)
  • 500番台:2004年度 (一部廃車)
  • 600番台、6600番台(06年3月導入の三菱ふそうのみ):2005年度
  • 700番台、7700番台(三菱ふそう・日野のみ):2006年度
  • 8700番台:2007年度
  • 800番台:2008年度
  • 900番台:2009年度
  • 1000番台:2010年度
  • 1100番台:2011年度
  • 1200番台:2012年度
  • 1300番台:2013年度
  • 1400番台:2014年度
  • 1500番台:2015年度
  • 1600番台:2016年度
  • 1700番台:2017年度

※原則として上記のように1~4の順で下2桁のメーカー別車番を割り振るが、300~800番台のように導入台数が非常に多かった時期が続いた。そのため長らく原則が崩れていたが、900番台では導入台数を大幅に縮小したため、標準的な車番割り振りに戻った。UDトラックスのバス製造が終了した翌年の2012年度導入の1200番台車からは車番割り振りが変更され、同年度は下記のように車番が割り振られた。

  • 1 00 - 29・50:日野車
  • 2 30 - 49・51:いすゞ車
  • 3 60 - 85(75は欠番):三菱ふそう車
その他の車両の社番

その他の車両の社番は以下の通りである。

空港路線車の3000番台、特定輸送車の4000・5000番台は2003年度より使用されており、それ以前は一般路線車と同様の方式であった。また、東急コーチは6000・7000番台であったが、デマンド運行の終了した2001年度より一般路線車と共通となっている。尚、コーチ車の上2桁は営業所コードが付番されており、淡島営業所:60、大橋営業所:61、弦巻営業所:62、瀬田営業所:63と順になっている。

初代日野ポンチョのP1 - の社番は便宜上使用されていたものであり、正しくは2701からの付番である(例えばP9なら2709になる)。

  • 2000番台:貸切車
  • 2700番台:初代日野ポンチョ (全車廃車済)
  • 3000番台:空港路線車(2003年度以降)
  • 3200番台:夜行路線車(全廃)
  • 4000・5000番台:特定輸送専用車(2003年度以降)・事業用車
  • 6000・7000番台:東急コーチ(2000年度まで、車体には下2桁のみ表示)

車両仕様の推移

1980年代に入ってまず行われたのが冷房車の導入で、東急における冷房車の登場は、周辺他社に比べると遅い1981年度[9]である。その後、非冷房車のうちエンジン出力の高い車両において冷房の後付け改造(+パワーステアリング化)も実施された。

  • 1979年以降の車両仕様の推移は以下の通り。
  • 1979年度(250~314)1985年に冷房改造・ロンリューム床施工・モケット張替え等の車内外再生工事が施工されるようになる。座席はいすゞ車と三菱車が天龍工業製のパイプ椅子タイプのシート。UD車と日野車が現行タイプのクッションシートとなる。
  • 1980年度(315~384)
  • 1981年度(385~441)前折戸の窓が2枚窓となる。一部新製冷房車が登場(高津の日野大型車と淡島の三菱中型車のみ)。
  • 1982年度(443~500)いすゞ車はフロントマスクがフェイスリフト。新製冷房車は池上のUD中型車と弦巻のいすゞ大型車のみ。
  • 1983年度(501~555)全車が新製冷房車になる。いすゞ車は中引戸窓が大型化される。
  • 1984年度(556~603)全メーカーがスケルトンボディとなる。三菱車のみ黒サッシとフィンガーコントロールミッションが初採用。
  • 1985年度(旧・600番台)三菱車に中4枚折戸が採用される。目黒に21台の目黒通り新交通システム専用車(三菱ふそうエアロスターP-MP618K)が配属される。いすゞ車と三菱車の天龍工業製のパイプ椅子タイプのシートが廃止され全車が現行タイプのクッションシートを採用。スタンションポール増設。
  • 1986年度(旧・700番台)全車に中扉4枚折戸とフィンガーコントロールトランスミッションが採用。ワンロマ車が一部営業所に配属。
  • 1987年度(旧・800番台)正面の「ワンマン」サボ廃止(既存車も車内外再生時に取外し)。「入口」「出口」表記が車体直書き化。降車ボタン形状変更、吊革の形状が三角形に、角型の補助ブレーキランプがバンパー上部に装備されるなど比較的変更点が多い。一部営業所に貸切用途にも対応する本格ワンロマ車が配属。日野車のみ三菱車に続きサッシが黒色に、日野車のみ降車合図がチャイムに変更。虹が丘・青葉台に団地ラッシュ対策車として室内をオールロングシートとした長尺3扉車が配属される。この年代の青葉台配属の長尺3扉車に限り、宗谷バス(2013年退役)と函館バス(2004年退役)に譲渡された。
  • 1988年度(旧・900番台)方向幕の書体変更。長尺3扉車は引戸に変更。公式側前中扉間のシートがオールロング優先席化。全メーカーが黒色のサッシと降車合図がチャイム音になる。目黒に中型車が12台配属。
  • 1989年度(旧・1000番台)日野中型車は側面方向幕位置が車体腰部に、冷房吹出口がグレーから黒になる。この年代の日野中型車に限り阿寒バスで2016年7月現在もなお現役である。
  • 1990年度(旧・1100番台)中4枚折戸が廃止され引戸に戻る。客室ベンチレーター廃止。スタンションポールが増設される。日野車については1800番台までブロンズガラスが採用される。青葉台と虹が丘のオールロングシートの長尺3扉車はこの年を持って一旦打ち切り。
  • 1991年度(0番台)運転席上ベンチレーターが廃止。三菱車と日野車はサッシ周りの黒部分が増加。UD車と日野車のみこの年代のみ異なる音色の中扉ブザーを装備する。
  • 1992年度(100番台)前中扉間全優先席の廃止。三菱車は方向幕周りの黒部分増加。
  • 1993年度(旧・1200番台)バンパーが濃茶色に変更。(既存車も車体再生時に変更)。車内にLED案内機を搭載。日野車は前換気口の開口部が大きくなる。一般的なシートを装備した長尺3扉車を1994年度まで再度導入。なおこの年代の長尺3扉車は一切地方譲渡がなされなかったため現存せず。車内外再生時に1700番台と同様の新デザインのモケットシート生地を採用。
  • 1994年度(旧・1300番台)吊革の形状が五角形に変わる。ステップがステンレスになる。UD車はこの年代から天龍工業製シートに変更。大橋と東山田に日野製ディーゼル電気ハイブリッドバスと、大橋に日野製リフト付きバスがそれぞれ1台ずつ導入される。
  • 1995年度(旧・1400番台)目黒に日野製ディーゼル電気ハイブリッドバスが1台導入される。
  • 1996年度(旧・1500番台)全車マーカーランプ廃止(一部の東山田所属車を除く)・テールランプの角型化。優先席部の降車ボタンの形状とチャイムが変更される。
  • 1997年度(旧・1600番台)目黒に三菱ふそう・エアロスター大型ノンステップバスが21台配属される。
  • 1998年度(1700番台)座席モケットが変更され、非常口のステッカーをピクトグラム化。「人と環境にやさしいアイドリングストップバス」のステッカーが貼り付けされる。
  • 2000年度(1900番台)以降導入する新車が小型バスの一部を除き全車がノンステップバス・ワンステップバスとなる。吊革の形状が丸型に変わる(300番台までの大半と400番台の一部は後年の車体再生の際に三角形のものに交換)。
  • 2002年度(300番台)全車にフォグランプが標準になる。前扉付近の屋根上に丸型換気扇が設置される。
  • 2003年度(400番台)老朽化した長尺3扉車の置換えとして、旧1000番台以来の中4枚折戸を採用した長尺のワンステップバスが虹が丘・青葉台に配属される。東急バス初の中型ロング車・KL-JP252NANが弦巻に7台配属される。
  • 2004年度(500番台)ワンロマ車はリクライニングシートが復活。
  • 2005年度(600・6600番台)内装の配色が大幅に変更される。オレンジ色のポールが採用され、降車ボタンの形状も変更される。「入口」「出口」表記をピクトグラム化(既存車も一部を除き車体再生時に変更。ワンロマ車はサボで表記するため対象外)。長尺ワンステ車が東山田に初めて導入される。2006年3月導入の6600番台からはUVカットガラス(熱反射ガラス)が装備される。
  • 2006年度(700・7700番台)初期に導入された車両を除き、吊革の形状を旧・800番台~1200番台と同じ三角形に変更。優先席付近の吊革は三角形でオレンジ色のものになる(既存車も交換、ワンロマ車は一部車両のみ)。屋根上に車両番号表記を追加する(営業所表記は無く、例えばM744号車の場合は「東急バス 744」と表記する)。
  • 2007年度(8700番台)東急バス史上初めて、教習に特化したUD製安全運転訓練車を新車で配置(TA8730)
  • 2008年度(800番台)
  • 2009年度(900番台)一部の営業所のノンステップバスで座席削減車両が配属される。シートモケットの柄が800番台のいすゞ長尺車で採用された柄と新デザインの柄に変更。車両によってメーカー問わずこの2種類の柄が交互に宛てられる。
  • 2010年度(1000番台)中扉開閉時のブザー音がチャイムに変更され、泰平電機製のドア開閉ランプが設置される。2011年導入車から丸型換気扇が後部にも装備される。UDトラックス製の車両はこの年度が最後の導入となった。
  • 2011年度(1100番台)東急バス創立20周年を記念し、歴代塗装が導入される。レゾナント・システムズ製の右左折警報器(ウィンカーチャイム)が導入される(既存車も車体再生時に順次導入。目黒営業所の中型車など、車体再生に関係なく装備した車両もあり)。また、20周年記念塗装車は次の通り。
    • AO1130号車、S685号車、T1139号車:一般路線バス先代塗装
    • SI1126号車、M1175号車:観光バス初代塗装
    • H1179号車、I611号車、NI1178号車:観光バス2代目塗装
    • NJ1153号車、TA1136号車:観光バスマーキュリー塗装
    • NI3175号車:ミルキーウェイ塗装(現在は貸切車となり塗色変更のため消滅、その後2016年にNI3662号車がミルキーウェイ塗装で改めて配置されている)
    • このうち、I611号車とS685号車は2018年2月に除籍されている。
  • 2012年度(1200番台)三菱製ワンロマ車が久々の導入となり12台導入される。ワンステップ車は2ステップ車時代の赤帯1本のカラーリングに戻る。
  • 2013年度(1300番台)
  • 2014年度(1400番台)行先表示器が輝度の上がった新型になったため、側面表示器の緑色が濃くなった。また運転席横に設置されている音声合成装置の操作盤が据置型[10]から埋込型[11]に変更された。
  • 2015年度(1500番台)青葉台に桐蔭学園特定用のトップドア仕様車が3台配属される。新型エルガ新型ブルーリボンが初めて導入される。2015年に国土交通省の標準仕様ノンステップバスの認定要領が改定され、一部の新車は『標準認定ノンステップバス』のステッカーがピンク色に変更されている。
  • 2016年度(1600番台)目黒営業所に配置されたM1662号車は、停留所名表示器がLED表示器からクラリオン製の液晶表示器に変更されている(のちに目黒営業所の在来車にも導入が進んでいる)。
  • 2017年度(1700番台)

乗車券

  • 定期券
    • 東急バス全線定期券、東京都内・横浜市内近距離定期券、川崎市内全線定期券と、他事業者の路線バスと並走している区間で利用できる共通定期券(路線・系統は指定されており、指定されている路線・系統のみ利用可能)が発売されている。
    • 東急バス全線定期券は東急バスの一般路線全てで利用可能[12]。ICカード「PASMO」・「Suica」に発売でき、乗車時に運賃箱の読み取り機にタッチすることで利用できる。各定期券売り場(一部ではクレジットカード取り扱いあり)のほか、東急線各駅(一部駅を除く)の券売機でも購入可能となっている。
  • 1日乗車券
    • IC1日乗車券をICカード「PASMO」・「Suica」に発売している。IC1日乗車券は利用当日にバス車内のみで発売している。大人510円、小児260円。
    • 東京都内、川崎市内、横浜市内の東急バス全線で利用できる[13]
    • 2013年12月20日まで、カード式の1日乗車券をバス車内・営業所・案内所で発売していた。カード式に限り、小児運賃50円実施期間中は小児の1日乗車券の発売額が150円となっていたが、廃止されている。
2015年4月1日より、東急トランセ代官山循環系統でも使用可能となった[12]
  • 東急線・東急バス 一日乗り放題きっぷ
    • 東急電鉄と東急バスに一日乗り放題の乗車券。東急線各駅の券売機で購入する。ただし東急バスを最初に利用する場合は、上述のIC一日乗車券を購入後、差額分を駅窓口で払う。大人1000円、子供500円。
  • こども現金50円キャンペーン
    • 年末年始等期間を区切って、現金に限り一般路線バスの小児普通運賃を50円とするキャンペーンを実施している。

キャラクター

  • ノッテちゃん
    • 2011年、東急バス株式会社創立20周年を記念し、東急バス・東急トランセの従業員と、その家族たちの投票により制定したイメージキャラクターである。たくさんのお客さまに、バスに「乗って」いただきたいという想いから名前がつけられた。一般路線バスの前面方向幕の左側にノッテちゃんのステッカーが貼られている。着ぐるみの形で様々なイベントにも参加し、東急バスをPRしている。

脚注

  1. 川崎鶴見臨港バスについては、アクアライン高速バスの川崎駅 - 木更津駅線が整理券方式となっている。
  2. 同時に都営バスは目黒区から撤退、同区は東京23区で唯一都営バスの走らない区となった。
  3. 東急バスナビ 路線バス全線に導入 (PDF) 」 、『HOT ほっと TOKYU』第304号、東京急行電鉄、2005年11月22日、. 2017閲覧.
  4. 2015年12月1日からは、二子玉川ライズ・楽天クリムゾンハウスまで運行区間が延長されている。(出典:京浜急行バス時刻表2015年12月号vol.35の巻頭ページと46ページより)
  5. BJハンドブックシリーズ R69 東急バス ISBN 978-4-434-11564-6
  6. ただし、2012年度以降は新車導入から12年にも満たない車両にも除籍車が発生している。
  7. 『バスラマ・インターナショナル』117号 p79
  8. 『バス移籍車両最新情報ガイド』 p10 ISBN 978-4-86248-510-6
  9. ただし、これは一部の新製車両に試験的に設置された。新製の全車が冷房を装備するようになるのは1983年度である。
  10. [1]
  11. [2]
  12. 深夜急行バスや通勤高速バスE-Liner、羽田空港・成田空港アクセスバス、東京ディズニーリゾート直行バス、溝の口駅 - 新横浜駅直行バス、渋谷区コミュニティバス(ハチ公バス)、大田区コミュニティバス(たまちゃんバス)、東急トランセ代官山循環を除く。他社との並行区間や共同運行路線では東急バス運行便のみ利用可能。深夜バスは半額(通常運賃相当額を現金かICカードで支払い)で乗車可能
  13. 深夜急行バスや通勤高速バスE-Liner、羽田空港・成田空港アクセスバス、東京ディズニーリゾート直行バス、溝の口駅 - 新横浜駅直行バスを除く。他社との並行区間や共同運行路線では東急バス運行便のみ利用可能。渋谷区コミュニティバス(ハチ公バス)は東急バス運行区間に限り利用可能[3]。深夜バスは半額(通常運賃相当額を現金かICカードで支払い)で乗車可能

参考文献

加藤佳一 『バスジャパン ニューハンドブックス30 東急バス』 BJエディターズ、1995年。ISBN 4-7952-7795-8。

加藤佳一 『バスジャパン ハンドブックスシリーズR 69 東急バス』 BJエディターズ、2007年。ISBN 978-4434115646。

バスラマ・インターナショナル スペシャル 1 臨時増刊 東急バスのすべて』 ぽると出版、1961年。ISBN 4-938677-71-7。

『バスラマアーカイブス 03 東京急行のバス達 1950-1970年代の車両』 ぽると出版、2010年。ISBN 978-4-89980-303-4。

『バスラマ・インターナショナル 84 Vol.15 No.4』 ぽると出版、1973年。ISBN 4-89980-084-3。

バスマガジン Vol.57』 講談社ビーシー講談社、1986年。ISBN 978-4-06-366714-1。

関連項目

外部リンク


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