東野英治郎

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東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年9月17日 - 1994年9月8日)は日本俳優随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。身長159cm[1]

新築地劇団を経て小沢栄太郎千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心

来歴

1907年(明治40年)9月17日群馬県富岡市七日市の造り酒屋の家に生まれる。父は江州の山村から単身で関東に移り、辛苦して酒造家となった人で、根っからの日野商人(近江商人)だった[2]。実家の本宅は滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平(現蒲生郡日野町大字鳥居平)にある。旧制富岡中学卒業後、明治大学商学部に入学。同級生には後に阪神タイガースで活躍する松木謙治郎がいる[3]。在学中に学内の非合法サークル・社会科学研究会に入り、左翼思想に目覚める[4][5]

1931年(昭和6年)4月、劇団築地小劇場のプロレタリア演劇研究所に第1期生として入り[4][6]東京左翼劇場公演の『恐山トンネル』(三好十郎作)で初舞台を踏む。研究所卒業後の同年9月、新築地劇団に入団、本庄 克二の芸名で端役として舞台に立つ一方、プロレタリア運動に従事する[4]。新築地の公演の殆どに出演し、『ハムレット』の亡霊、『坂本龍馬』の人斬り以蔵、『人生劇場』の呑込み半助などを演じて徐々に頭角を現す。1937年(昭和12年)の『渡辺崋山』『嗤う手紙』で好評を得、以来『土』の平造、『綴方教室』の由五郎、『ハムレット』の墓掘りの役で俳優としての地位を固めていった。1939年(昭和14年)には『土』の勘次、『海援隊』の馬之助など大役を演じ、その傍ら劇団の書記長、企画部長[7]、演技部長[8] を務め、劇団の中心俳優となった[4]。舞台活動の一方、1938年(昭和13年)に衣笠貞之助監督の『黒田誠忠録』で映画に初出演し、松竹下加茂撮影所の準専属として数本に出演したほか、日活の『海援隊』や東宝映画の『彦六なぐらる』等にも出演した[4]

1940年(昭和15年)8月19日、新劇弾圧で八田元夫池田正二らとともに治安維持法違反で検挙され、8月23日に劇団は強制解散される。翌1941年(昭和16年)にいったん釈放され、南旺映画製作の映画『流旅の人々』に出演。同年5月に不起訴で正式に釈放されるが、内務省の命令で本名で活動することとなり、松竹太秦撮影所で内田吐夢監督の『鳥居強右衛門』など数本に出演後、大船撮影所に移籍する[4]

1944年(昭和19年)、小沢栄太郎千田是也青山杉作東山千栄子らと共に俳優座を結成。同時に日本移動演劇連盟に加入し、芙蓉隊を組織して地方を巡演する。戦後、俳優座の中心として『検察官』『中橋公館』『赤い陣羽織』『夜の来訪者』などで主要な役を演じた。俳優座劇場設立にも尽力し、後に同劇場取締役を務めた。

戦後も映画では脇役として数多くの作品に出演する。黒澤明監督作品には『七人の侍』『用心棒』など計7本、小津安二郎監督作品には『東京物語』『秋刀魚の味』など計4本、木下惠介監督作品には『結婚』『楢山節考』など計9本に出演。その他浦山桐郎監督『キューポラのある街』、岡本喜八監督『江分利満氏の優雅な生活』、山本薩夫監督『白い巨塔』など一流監督の名作や、社長シリーズクレージー映画といった人気シリーズなどに出演し、日本映画界を代表するバイプレーヤーとなった。演技幅も広く、善悪様々な役をこなした。

テレビドラマでは1969年(昭和44年)8月4日からTBS系列の時代劇水戸黄門』で主役の徳川光圀を、第1部から第13部まで足掛け14年、全381回にわたって演じ、彼の代表作となった。じゃがいも黄門の名で親しまれ、お茶の間で絶大な人気を博した。しかし、1982年(昭和57年)7月8日に高齢による気力体力の減退等を理由に黄門役の降板を表明し、1983年(昭和58年)4月11日の第13部の最終話が最後の放送となった。

1990年(平成2年)、日本新劇俳優協会の会長に就任。その後も散発的に俳優活動を行っていた、1994年(平成6年)4月5日に都内で開かれた俳優座創立50周年記念パーティーには杖を突いて出席。同年5月にはテレビ東京で放送されたテレビ東京開局30周年、俳優座創立50周年記念ドラマ『荒木又右衛門 男たちの修羅』(同年10月5日)で加納藤左衛門役とゼネラルプロデューサーを務めた。その後、足腰が弱まり外出をしなくなる。

それから4ヶ月後の9月8日午前6時、自宅で心不全の為死去。86歳没。

人物

水戸黄門役が定着していた頃、普段着の東野に土下座する老人もいたという。1976年(昭和51年)9月6日に出演した『徹子の部屋』で、「ありがたいやら困るやらで恐縮しどおし」と発言している。

今では定番である水戸黄門の独特笑いを最初に確立させた東野ではあるが、当初は納得できる笑いが確立できずに苦悩し、周囲に当たり散らすこともあったため、見かねた息子の東野英心が付き人となって支えたという逸話がある。英心によれば、あの笑いを完成させるのに3年かかったという[9]

1962年2月19日、『東京新聞』に「“声”優に危険手当てを-他人の演技に合わす苦しみ」と題するコラムを発表。外国産テレビ映画の他人が演じた動きに声だけを当てはめるアテレコは、俳優として片輪になりかねない危険な仕事だと主張した[10]。東野の意見に対し、安部徹からは反論が、夏川大二郎からは賛同が寄せられた。1981年には永井一郎から反論を受けた。詳細はアテレコ論争を参照。なお、このコラムにおいて、東野が洋画吹き替えアニメアフレコを「自分の尺で演技できない、芝居とは呼べない外道の所業」と評したとされることがあるが、実際は東野はアニメには言及しておらず、「外道の所業」という言葉も使っていない。

受賞・受章歴

出演作品

映画

太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
★印は黒澤明監督作品、◎印は小津安二郎監督作品

テレビドラマ

舞台

  • 恐山トンネル(1934年)
  • (1939年) - 勘次
  • 検察官(1946年、1974年) - 市長
  • 神を畏れぬ人々(1946年)
  • 中橋公館(1947年)
  • 馬(1948年)
  • 賢女気質(1948年、1960年)
  • 赤い陣羽織(1948年)
  • 孤雁(1949年)
  • イワーノフ(1954年)
  • 町人貴族(1955年)
  • 夜の来訪者(1955年、1962年、1977年) - 警官橋詰
  • 死せる魂(1956年)
  • つづみの女(1958年)
  • 見知らぬ人(1959年)
  • 千鳥(1959年、1967年)
  • 鳥には翼がない(1960年)
  • 黄色い波(1961年)
  • 夜の祭典(1961年)
  • 鈍琢亭の最期(1962年) - 二階堂数馬
  • 太郎姫の理髪師(1963年)
  • 不安な結婚(1963年)
  • 教育(1964年)
  • 稲妻(1964年)
  • ハムレット(1964年) - 墓掘り
  • 有福詩人(1964年)
  • おまえにも罪はある(1965年)
  • 日本の幽霊(1965年、1967年)
  • ヒゲの生えた制服(1966年)
  • アンナ・カレーニナ(1966年)
  • あらいはくせき(1968年)
  • 自由少年(1969年)
  • 冒険・藤堂作右衛門の(1970年)
  • そよそよ族の叛乱(1971年)
  • 時間という汽車(1972年)
  • リア王(1972年) - リア
  • マリアの首(1973年)
  • 鍵の下(1974年)
  • 見知らぬ人(1975年)
  • 漂流の果て(1976年)
  • 毒夫の父 高橋お伝(1979年) - お伝の父

劇場アニメ

ラジオドラマ

  • ハレー彗星ツアー(1984年7月21日 NHK大阪=NHK-FM) - 円満堂鉄平

吹き替え

演出作品

  • 二人だけの舞踏会(1984年、俳優座)

文献

  • 『私の俳優修業』未來社、1964年
  • 『じゃが芋の皮のむけるまで』、未来社、1977年
  • 『漫遊無限 「水戸黄門」とともに14年』、講談社、1982年 ISBN 4062001799
  • 『私説父(オド)物語-新劇運動から「水戸黄門」まで〈東野英治郎の堂々役者気質〉』、サリュート、1996年 ISBN 4931194605 ※息子東野英心による回想記

脚注

  1. [1955年増刊「日本映画大鑑・映画人篇」]]
  2. 中央公論社刊『歴史と人物』p.316
  3. 『阪神タイガース 昭和のあゆみ』1991年、p.7
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.383
  5. 大笹吉雄著『日本現代演劇史・昭和戦中篇 第1巻』、白水社、1993年、p.85
  6. 東野英治郎、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、コトバンク、2015年12月4日閲覧
  7. 7.0 7.1 東野英治郎、新撰 芸能人物事典 明治〜平成、コトバンク、2014年12月4日閲覧
  8. 『近代歌舞伎年表京都篇』、国立劇場(編)、八木書店、p.415。同書によると、1939年に演技部長に選任され、他の役員は幹事長に薄田研二、書記長に千田是也、経営宣伝部長に山川幸世、演出部長に岡倉士朗、文芸部長に和田勝一となっている
  9. 『おやじの背中』、朝日新聞社会部(編)、七賢出版
  10. 東野英治郎 「“声”優に危険手当てを-他人の演技に合わす苦しみ」『東京新聞』1962年2月19日朝刊、p.9。
  11. 安寿と厨子王丸”. メディア芸術データベース. . 2016閲覧.
  12. 太陽の王子 ホルスの大冒険”. メディア芸術データベース. . 2016閲覧.

外部リンク



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