松永貞徳

提供: miniwiki
移動先:案内検索

松永 貞徳(まつなが ていとく、元亀2年(1571年) - 承応2年11月15日1654年1月3日))は、江戸時代前期の俳人歌人・歌学者。名は勝熊[1]、別号は長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒(しょうゆうけん)・延陀丸(えんだまる)・保童坊・松友など。他に五条の翁・花咲の翁とも称し、明心居士の号もある。子は朱子学者の松永尺五

父は松永永種で、母は藤原惺窩の姉。永種は松永久秀の子であったという説がある[2]。また、永種は入江氏の出(入江政重の子)で、久秀の養子であったとも言われる。永種は出家して各地を放浪中であったため、久秀の死に巻き込まれることはなかった。キリシタンとして名を残した内藤如安は、久秀の弟・松永長頼の子であるため、貞徳とは従兄弟という関係になる。

経歴

出身は京都。連歌師・里村紹巴から連歌を、九条稙通細川幽斎から和歌歌学を学ぶほかに[3]、五十数人に師事したという[4]。20歳頃に豊臣秀吉右筆となり、木下勝俊(長嘯子)を友とする[5]慶長2年(1597年)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る[6]元和元年(1615年)私塾を開いて俳諧の指導に当たった。家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがある。

俳諧は連歌・和歌への入門段階にあると考え、俗語・漢語などの俳言(はいごん)を用いるべきと主張した。貞徳の俳風は言語遊戯の域を脱しないが、貞門派俳諧の祖として一大流派をなし、多くの逸材を輩出した。墓所は、京都市南区の上鳥羽実相寺

著作

研究書

脚注

  1. 竹内玄玄一 『俳家奇人談・続俳家奇人談』 岩波文庫、1987年、27p。
  2. 新村出『林道春及び松永貞徳と耶蘇会者不干ハビアン』(大正12年)に、「貞徳が永禄年間に於ける耶教の京畿伝播に関せし松永久秀其人の孫なりといへる説の謬れることは、曽て藤井紫影博士の指摘せられし所によりて明かなる」とある。
  3. 竹内玄玄一 『俳家奇人談・続俳家奇人談』 岩波文庫、1987年、27p。
  4. 池田常太郎 『増補 日本俳諧史』 星文館書店、1930年、45p。
  5. 竹内玄玄一 『俳家奇人談・続俳家奇人談』 岩波文庫、1987年、27p。
  6. 池田常太郎 『増補 日本俳諧史』 星文館書店、1930年、45p。

関連項目