松江城

提供: miniwiki
移動先:案内検索
松江城
島根県
別名 千鳥城
城郭構造 輪郭連郭複合式平山城
天守構造 複合式望楼型 4重5階地下1階(木造 1607年築 現存)
築城主 堀尾忠氏
築城年 1611年(慶長16年)
主な改修者 京極忠高
主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、堀
指定文化財 国宝(天守)
国の史跡
再建造物 櫓・門・橋
位置 北緯35度28分30.5秒
東経133度3分2.5秒
地図
松江城の位置
<div style="position: absolute; z-index: 2; top: 構文エラー: * の演算対象がありません。%; left: -7474%; height: 0; width: 0; margin: 0; padding: 0;">
松江城

松江城(まつえじょう)は、現在の島根県松江市殿町に築かれた江戸時代の日本の城。別名・千鳥城。現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されている。この他に日本さくら名所100選都市景観100選に選ばれている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城松本城彦根城姫路城

概要

小瀬甫庵の縄張りによる平山城江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となった。

明治時代初頭に廃城令によって存城処分(陸軍省所管)となったため、城内の建物は国から買い戻された天守を除いてすべて払い下げられ、撤去された。昭和初期に城山部分は公園として解放され、現在は指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。

城跡は、松江城山公園として利用され、また江戸時代初期建造の天守が現存する。天守は山陰地方の現存例としては唯一である。標高29メートルの亀田山に建つ天守からは宍道湖を眺望することができる。

また、松江城には天守雛形が残されている。江戸時代制作の天守雛型が残るのは宇和島城大洲城小田原城延岡城・松江城の5城(合計8つ)があり、国宝5城の内では唯一の雛型である[1]。そのほか、天守内部には松江市街のミニチュア模型が展示されている。

歴史・沿革

前史

築城

近現代

  • 1871年(明治4年):廃藩置県により、廃城となる。
  • 1873年(明治8年):廃城令が公布され、天守を除く建造物は4円から5円(当時の価格)で払い下げられすべて撤去された。天守も180円で売却されることとなったが、出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八が同額の金を国に納めるかたちで買い戻され、保存されることとなる[2][3]
  • 1889年(明治22年):当時の島根県知事、籠手田安定によって「松江城天守閣景観維持会」が組織される。
  • 1927年(昭和2年):所有者の松平家が天守を含む城地を松江市に寄付し、公園として開放される。
  • 1934年(昭和9年):国により史跡に指定される。
  • 1935年(昭和10年):天守が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝。現行法の重要文化財に相当)に指定される。
  • 1950年(昭和25年):文化財保護法の施行に伴い、天守は重要文化財に指定される[4]
  • 1950年(昭和25年)6月1日~1955年(昭和30年)3月 - 天守の解体修理が行われた。費用は当時約5300万円にのぼる。
  • 1960年(昭和35年):本丸一ノ門と南多聞の一部を復元。
  • 1992年(平成4年):都市景観100選に選ばれる。
  • 1994年(平成6年):三の丸と二の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)を復元。
  • 2000年(平成12年):二の丸南櫓と塀(40m)を復元。
  • 2001年(平成13年):二の丸に中櫓・太鼓櫓と塀(87m)を復元。
  • 2006年(平成18年)4月6日:日本100名城(64番)に選定された。
  • 2007年(平成19年)4月~2011年(平成23年)12月 - 「松江開府400年祭」が行われた。
  • 2015年(平成27年)7月8日:天守が国宝に指定された[5]。国内の城跡で天守が国宝に指定されるのは63年ぶり5件目。

縄張り・作事

ファイル:Matsue-Castle1.jpg
本丸一ノ門正面。

軍学者小瀬甫庵、土木職人の稲葉覚之丞らが設計に携わった。松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。軟弱地盤の上に建てられたため、建築から数十年ほどで傾きだしたと言われる。

天守

天守は外観4重、内部5階、地下1階で、天守の南に地下1階を持つ平屋の附櫓が付属する。形式上は望楼型天守に分類され、二重の櫓の上に二重(3階建て)の望楼を載せた形になる。二重目と四重目は東西棟の入母屋造で、二重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけている。附櫓も入母屋造である。壁面は初重・二重目は黒塗の下見板張り、三・四重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下を黒塗下見板張りとする。南北の出窓部分の壁は漆喰塗である。屋根はすべて本瓦葺きとする。構造的には、2つの階にまたがる通し柱を多用している点が注目される。建物の中央部には地階と1階、2階と3階、4階と5階をそれぞれつなぐ通し柱があり、側柱など外側部分には1階と2階、3階と4階をつなぐ通し柱がある。[6][7]

1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)ある。窓は突上窓火灯窓あり、2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落しが8箇所あることを特徴としている。地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例である。最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m[8]。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直されたもので、旧鯱は別途保管展示されている。また、石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。

正保城絵図』では、現在の天守と違い二重目、三重目に千鳥破風が存在する等、多くの相違点が確認された。松江城の国宝指定にともない平成28年(2016年)4月に行われた調査において、現存天守に残る柱から破風の痕跡が発見された。『正保城絵図』に描かれた二重目(内部2階)、三重目(内部3階)の千鳥破風部分、四重目(内部4階)の唐破風部分に貫跡が確認され、正保城絵図に描かれた松江城天守閣が築城当時の実際の姿を示すものと確認された。[9][10]

松江城は築城より100年以上経過した江戸時代中期の元文3年(1738年)から寛保3年(1743年)にかけて大改修が行われた。改修前には千鳥破風や唐破風、漆喰壁があったとみられるが[11]、この大改修の際に天守も改装されて、現在の松江城天守の姿になったと推測される。作成年月が不明とされていた松江市指定文化財「松江城天守閣雛形」は、この大改修を行うために作られた模型であると考えられる。

城下町

亀田山は北の奥谷方面から続く丘陵の南端にあたり、現在松江北高校のある赤山との間には宇賀山と呼ばれる丘陵があった。本丸北側の内堀開削は宇賀山を開削する大工事となり、大量に出た土砂は城下の整備に利用された。

松江城のある大橋川以北の島根郡側では、殿町・母衣町・田町・内中原町・外中原町などが武家屋敷地、京橋川以南の末次が町人地に割り当てられた。大橋川以南の意宇郡側では、白潟が町人地と寺町に割り当てられ、松平氏時代になると天神川以南の津田街道(山陰道)沿いに足軽町(雑賀町)が建設された。

その他

人柱伝説

  • 天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった(「小泉八雲/人柱にされた娘」など)。
  • 天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである[12]
    • これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある。[13]

国宝指定に向けて

昭和30年代に、国宝指定に向けての運動や陳情があったが国宝指定には至らなかった。松浦正敬が松江城の国宝指定も公約に掲げて松江市長(2期目)に当選した2009年(平成21年)以降は、「松江城調査研究委員会」や「松江城を国宝にする市民の会」を立ち上げるなど、国宝指定に向けての調査・運動が活発化していた[14]。懸賞金を掛けて史料を探していたが平成24年に松江神社で国宝指定に重要な、築城時期を特定できる「慶長拾六年正月吉祥日」などと書かれた祈祷札が見つかった[15][16][17][18]。2015年(平成27年)5月15日、文化審議会が松江城天守の国宝指定について文部科学大臣に答申[19]。同年7月8日の官報告示をもって国宝に指定された[5]

復元事業

1960年(昭和35年)に本丸一ノ門と南多聞の一部が復元され、1994年(平成6年)に三の丸と二の丸を結ぶ廊下門と二の丸下段の北惣門橋が復元された。二の丸の建造物として、2000年(平成12年)2月に南櫓と塀の一部(40m)、2001年(平成13年)2月には中櫓・太鼓櫓と塀の一部(87m)がそれぞれ復元された。

さらに松江市では大手門復元に向けて懸賞金を掛けて図面や古写真などの史料を探している[20]

城跡内にある施設

指定文化財

国宝

  • 松江城天守
    • 附:祈祷札2枚、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点(祈祷札1、槍1、玉石1)

史跡(国指定)

  • 松江城

観光

  • 堀川めぐり - 遊覧船で堀を周回しながら観光し、3箇所から乗船が可能。2つのコースがあり、3.7kmを約50分間で遊覧する。
  • 観光ガイド - 松江城を中心に周辺を回る5コースがある。
  • レンタサイクル

周辺

脚注

  1. 国宝・松江城「天守雛形」の謎…国内最古説も製作年不明、現天守と異なる細部
  2. 松江城ホームページ「松江城の歴史」
  3. 学習研究社編『【決定版】図説 国宝の城』学習研究社 2010年
  4. 国宝から重要文化財への「格下げ」ではなく、旧法(国宝保存法)の廃止と新法(文化財保護法)の施行に伴うものである。
  5. 5.0 5.1 平成27年文部科学省告示第118号
  6. 文化庁文化財部「新指定の文化財」『月刊文化財』623、第一法規、2015、pp.11 - 12
  7. 「重要文化財松江城天守保存活用計画」、松江市、2014(参照:[1]
  8. 現存天守で最大の鯱鉾:山陰中央新報
  9. 松江市史料編纂課・松江城調査研究室
  10. 毎日新聞社 国宝・松江城 幻の千鳥破風 柱の穴、江戸期の絵図と一致
  11. 築城当初の松江城、天守に千鳥破風や唐破風 1740年頃に大幅修復か 米子高専名誉教授ら5日報告
  12. 新人物往来社編『CG復元 よみがえる天守』新人物往来社 2001年
  13. 川口素生「名城伝説事典」新人物往来社編『別冊歴史読本 24 日本の名城総覧』新人物往来社 1999年
  14. 松江城国宝化をめぐる経過 (PDF)”. 松江市 第10回松江城調査研究委員会. . 2015閲覧.
  15. 松江城:懸賞金かけ発見…「祈祷札」決め手 天守国宝に
  16. 松江城“執念”の軌跡 国宝再指定を決めた「祈祷札」の発見 “格下げ”から65年、ついに悲願達成
  17. 松江城天守の特色とその価値
  18. 第25回 松江城創建に関わる祈祷札の発見
  19. "国宝・重要文化財(建造物)の指定について (PDF)”. 文化庁 (2015年5月15日). . 2015閲覧.
  20. 松江城大手門の復元資料を探しています(松江市)

参考文献

  • 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年、344-346。ISBN 4-253-00375-3。

関連項目

外部リンク

テンプレート:現存天守