株仲間

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株仲間(かぶなかま)

江戸時代,幕府,諸藩の許可を得た独占的な商工業者の同業組合。江戸時代初期以来,各業者は営業上の種々の権利 ( ) を保持するため,内仲間,組合などを結成していたが,幕府,諸藩は外国貿易品統制,警察的取締り,公安保持,良品の製作販売,価格統制などの目的から,この既存の仲間を公認し,保護する政策をとった。こうして御免株と呼ばれる株仲間が成立した。江戸時代中期以降になると,農村の商品生産の増加と流通機構の拡大により,既存の商人らは既得権を守るためにさらに公権力を頼り,特権化しようとした。これが認められると,未公認の内仲間が株仲間の結成を願い出て,幕府,諸藩も商工業統制の必要上,冥加金の上納などを条件にこれを認めるようになった。これを願株という。株仲間には行事 (または行司) ,年寄,年番,取締などと称する役員がおり,彼らが会所で寄合を行い,事の決定,統制を行なった。職人,奉公人についても互いに協約し,相互の利益をはかるとともに強い統制を加えた。また彼らは新規加入を制限し,仲間以外の営業を禁止して仲間外業者との競争を排除し,かつ市価を安定させ,供給量の加減を行なった。その目的は信用を第1として,取引相手を尊重し,不良品を取締り,不正商行為を排除するなど,初期にはある程度の効果をあげえたが,やがてその独占機能が価格吊上げなど権益擁護の方向へ走り,物価騰貴の弊害をもたらす結果となった。享保の改革 (18世紀前半) では商工業の統制上株仲間を設定し,さらに田沼時代 (18世紀後半) には,冥加金が幕府,諸藩の重要な財源となっていたため,多くの株仲間が公認された。しかし江戸時代後期には,物価騰貴など弊害が目立ってきたため,老中水野忠邦は天保 12 (1841) 年その解散を命じた (天保の改革 ) が,結果はかえって経済混乱を招いた。そこで嘉永4 (51) 年老中阿部正弘は問屋組合再興令を出し,従来の冥加金を廃止する一方,独占売買,価格の吊上げ,掛目減などの不法行為を禁止し,新規加入希望者への制限撤廃などを条件に株仲間を復興させた。しかし開港以後,外国貿易の開始による新たな市場が開拓されると,従来の特権と市場は大きく侵害され,明治に入ると株仲間は有名無実の存在となり,明治5 (72) ~1873年相次いで解散していった。代表的な株仲間には,初期生糸貿易の糸割符仲間,中期以後の江戸十組問屋,大坂の二十四組問屋などがある。