根来寺

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根来寺
所在地 和歌山県岩出市根来2286
位置 北緯34度17分14秒
東経135度19分0秒
山号 一乗山(いちじょうさん)
宗派 新義真言宗
寺格 総本山
本尊 大日如来
創建年 大治5年(1130年
開基 覚鑁(興教大師)
正式名 一乗山 大伝法院 根来寺
札所等 真言宗十八本山 第17番
紀伊之国十三仏霊場 第1番
近畿三十六不動尊 第34番
神仏霊場巡拝の道 第9番
文化財 大塔(国宝
大師堂、大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像(重要文化財
根来寺庭園(国の名勝
根来寺境内(国の史跡
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根来寺(根來寺)(ねごろじ)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日如来、開山は覚鑁(興教大師)である。

歴史

平安時代後期の高野山空海以来の学僧といわれた覚鑁大治5年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。さらに2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。保延6年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生(錐もみの乱)。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は3年後の康治2年(1143年)、円明寺で没する。それから1世紀以上後の正応元年(1288年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。

室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、羽柴秀吉徳川家康織田信雄の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の雑賀攻めを招くこととなった。 生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、天正13年(1585年)、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。焼け残った大伝法堂は秀吉が信長の廟所として京都船岡山に建立する予定であった天正寺の本堂にする為に解体して持ち去っていった。しかし、天正寺は建立されず、部材は大坂中津川沿いに持ってきたまま放置された。現在の大阪市此花区伝法である。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川方が勝利した翌年、家康は東山豊国神社の付属寺院の土地建物を根来寺の僧で焼き討ちされた塔頭智積院の住職であった玄宥に与え、智積院は東山の地に再興した。慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家が滅びた後、家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲寺が根来寺に寄進されるが、そのまま智積院が譲り受けて寺地を拡大させた。

江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと主要な伽藍も復興され、また、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜された。

昭和51年(1976年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

2007年現在、根来寺境内は近世以前の閑静な佇まいが残されているが、近辺は先の「民俗資料館」や「岩出市立図書館」が建設されるなど、文教地域化政策が岩出市によって進められている。さらに境内前面には、大型道路(広域農道)が通り、後背の山が砕石場になるなど周辺環境の乱開発が続けられていること、また、境内外れの市立図書館近くにラブホテルが存在することなど、根来文化の保護・継承をめぐる課題は山積している。なお、地域灌漑用水地であった大門池に市立図書館が建設されたことをめぐっては、先の課題による文教政策の見通しの是非をめぐって賛否が分かれている。

また毎年興教大師(覚鑁)の誕生日である6月17日の午前中には、40名近くの僧侶が式典を執り行う。

伽藍

  • 大塔(多宝大塔) - 国宝。高さ40メートル、幅15メートルの木造では日本最大の多宝塔。「多宝塔」とは二層一階建ての塔で、通例、初層(裳階)の平面が方形、上層が円形に造られる。この塔も、初層の外見は方形だが、初層内部には円形の内陣が造られており、円筒形の塔身の周囲に庇を付した、多宝塔本来の形式をとどめている。内部には12本の柱が円形に立ち、そのなかに四天柱が立っている。解体修理の際に部材から発見された墨書により、文明12年(1480年)頃から建築が始まり、半世紀以上経た天文16年(1547年)頃に竣工したと考えられている。また、基部には秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。
  • 大師堂 - 重要文化財。大塔とともに秀吉の焼き討ちをまぬがれた建物で、本尊の造立銘から明徳2年(1391年)頃の建立と推定されている。
  • 大伝法堂(本堂) - 県指定文化財。江戸時代後期の文政10年(1827年)再建。
  • 大門 - 県指定文化財。江戸時代末期の嘉永3年(1850年)再建。高さ16.88メートル、幅17.63メートル、奥行6メートル。
  • 光明真言殿(御影堂) - 県指定文化財。江戸時代後期の享和元年(1801年)建立。
  • 聖天堂 - 県指定文化財。
  • 不動堂八角円堂) - 県指定文化財。江戸時代末期の嘉永3年(1850年)建立。本尊は保延6年(1140年)に発生した錐もみの乱の際に覚鑁の命を助けた錐鑽(きりもみ)不動(三国一のきりもみ不動)。
  • 行者堂 - 県指定文化財。
  • 奥の院 - 興教大師廟所。
  • 鐘桜門
  • 本坊 - 湊御殿名草御殿別院(いずれも江戸時代建築)等で構成。

かつて存在した建築物

  • 一乗閣 - 明治31年(1898年)に建てられた旧和歌山県会議事堂の建物で、1962年に根来寺境内に移築された。その後、2012 - 2015年度の保存整備事業に伴い、寺の西方に再移築された。2017年に国の重要文化財に指定[1]

庭園

光明真言殿と本坊・名草御殿の間にある自然の滝と池を取り入れた池泉式蓬莱庭園の池庭(江戸時代作庭)、枯山水庭園の平庭(江戸時代作庭)、平安時代開創より遺る聖天池、以上3つの日本庭園が国の名勝に指定されている。

塔頭

  • 愛染院
  • 蓮華院
  • 律乗院
  • 円明寺 - 興教大師入寂地
  • 旧御廟所 - 興教大師荼毘地

文化財

ファイル:Dai-dempo-do Negoro-ji.JPG
大伝法堂内部 手前から尊勝仏頂、大日如来、金剛薩埵

国宝

  • 大塔 - 解説は既出。

重要文化財

  • 大師堂
  • 木造大日如来坐像・金剛薩埵坐像・尊勝仏頂坐像 - 大伝法堂に三尊として、中央に大日如来、左(向かって右)に金剛薩埵(こんごうさった)、右(向かって左)に尊勝仏頂を安置する。像高は順に350センチ、343センチ、335センチ。建物は江戸時代後期の再建だが、これらの三尊像は秀吉の焼き討ちをまぬがれたもので、大日如来像及び金剛薩埵像内の墨書から嘉慶元年(1387年)から応永12年(1405年)にかけての制作と判明する。仏像彫刻衰退期の室町時代における佳作と評価されている。大日如来、金剛薩埵、尊勝仏頂の三尊の組み合わせは珍しく、中でも尊勝仏頂は彫像としては稀有の遺品である。この三尊の組み合わせは、覚鑁が高野山に建立した大伝法院にすでにあったことが知られ、彼独自の教義解釈による組み合わせと思われる。[2]
  • 絹本著色鳥羽天皇像 - 平成27年9月4日指定[3][4][5][6][7][8]

史跡

  • 根来寺境内

名勝

  • 根来寺庭園 - 解説は既出。

札所

交通アクセス

JR西日本和歌山線岩出駅から (所要15分)

  • 和歌山バス
    • 和泉砂川駅 経由 樽井駅前・りんくうタウン駅前行 ※近畿大学を経由する便は「根来寺」下車、しない便の場合は「岩出図書館」下車のち東へ徒歩1.2km
  • 岩出市巡回バス
    • 東巡回(船戸・根来)コース ※1日4便のみ

南海本線樽井駅・JR西日本阪和線和泉砂川駅から

  • 和歌山バス
    • 岩出駅前行 ※近畿大学を経由する便は「根来寺」下車、しない便の場合は「岩出図書館」下車のち東へ徒歩1.2km

周辺情報

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク