楽市・楽座

提供: miniwiki
移動先:案内検索

楽市・楽座(らくいち・らくざ)は、日本安土桃山時代戦国時代 後期)において、織田信長や、豊臣秀吉豊臣政権や各地の戦国大名などにより城下町などの支配地の市場で行われた経済政策である。楽市令、「楽」とは規制が緩和されて自由な状態となった意味。

概要

既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場をつくり、座を解散させるものである。中世の経済的利益は問丸株仲間によって独占され既得権化していた。戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図った。

沿革

ファイル:Kannonjij28.jpg
観音寺城の石寺楽市

天文18年(1549年)に近江国六角定頼が、居城である観音寺城城下町石寺に楽市令を布いたのが初見とされる。ただし、石寺新市自体の発布は確認できず、枝村惣中の紙座への文書中に、楽市の語句が確認できるのみである。六角氏の年代記である江源武鑑にも該当年月に記載がない。

また、今川氏真の富士大宮楽市も早いとされ、安野眞幸の分析では翌年の織田氏など以後の大名による楽市令などに影響を与えたとしている。「永禄九年」という年号は、異筆で後で書き加えたものとしている。

【発給者】今川氏真 永禄九年四月三日【宛】富士信忠【内容】富士大宮毎月六度市之事、押買狼藉非分等有之旨申付条、自今己後之儀者、一円停止 諸役、為楽市可申付之

織田信長は、自分自身が美濃国加納近江国安土、近江国・金森に楽市・楽座令を布いただけでなく支配下の諸大名に伝達され、各城下町で実施された。なお、制札(法令の発布)として、楽市および、楽市楽座の語句が確認できるのは、織田信長が初見であり、六角氏や今川氏は文書上で楽市の語句(楽座および楽市楽座の語句はなし)が確認できるのみであり、制札は発見されていない。

【発給者】織田信長 永禄十一年九月日【宛所】加納【所蔵者】円徳寺

美濃加納市場宛制札(円徳寺所蔵『織田信長文書の研究』(上巻)一〇〇)

定                    加納

一当市場越居之輩、分国往還煩有へからす、借銭・借米・さかり銭・

敷地年貢、門なミ諸役免許せしめ訖、譜代相伝の者たりといふとも、違乱すへからさる事、

一楽市楽座之上諸商売すへき事、

一をしかひ・狼藉・喧嘩・口論・使入へからす、宿をとり非分申かくへからさる事、

右条々、於違背族者、可加成敗者也、仍下知如件、

永禄十一年九月 日 (花押)(信長)

【発給者】織田信長 永禄十年十月【宛所】楽市場【所蔵者】円徳寺

美濃楽市場宛制札(円徳寺所蔵『織田信長文書の研究』(上巻)七四)

定                楽市場

一当市場越居之者、分国往還不可有煩、幷借銭・借米・地子・諸役令免許訖、雖為譜代

相伝之者、不可有違乱之事

一不可押買・狼藉・喧嘩・口論事、

一不可理不尽之使入、執宿非分不可懸申事、

右条々、於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、

永禄十年十月日                 (花押)(信長)

参考文献

  • 安野眞幸 『楽市論―初期信長の流通政策』 法政大学出版局、2009年
  • 宇佐見隆之 『日本中世の流通と商業』 吉川弘文館、1999年
  • 奥野高廣 『織田信長文書の研究』上巻 吉川弘文館、1969年

脚注