清和天皇

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清和天皇(せいわてんのう、850年5月10日嘉祥3年3月25日) - 881年1月7日元慶4年12月4日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は858年12月15日(天安2年11月7日) - 876年12月18日(貞観18年11月29日)。惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。

文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣藤原良房の娘、女御・明子

略歴

父・文徳天皇践祚して4日目に生まれる。第四皇子であり、異母兄に惟喬惟条惟彦親王がいたが、 外祖父・藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となる。天安2年(858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。

貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生した。善男を信頼していた天皇は、事件を解決した良房に遠慮する形で既に貞観6年(864年)に元服していたにも関わらず、良房を正式に摂政に任命した。

貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位。2年半後の元慶3年(879年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾[注釈 1]の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。宝算32。陽成天皇即位後の清和上皇が国政に関わったという記録は見えないものの、藤原基経の摂政任命及び上皇の崩御その日に行われた基経の太政大臣任命には上皇の意向が働いていたとする説もある[1]

  • 嘉祥3年(850年) 生誕。同年、立太子。
  • 天安2年(858年) 即位(9歳)。
  • 貞観8年(866年) 応天門炎上事件(応天門の変)。
  • 貞観18年(876年) 27歳で突然譲位。
  • 元慶3年(879年) 出家して仏門に帰依。仏寺巡拝の旅へ。
  • 元慶4年(880年) 崩御

系譜

系図

テンプレート:皇室平安前期

后妃・皇子女

この子孫の多くが臣籍降下して清和源氏となった。中でも枝葉広く栄えたのが第六皇子貞純親王の子経基王の子孫で、源頼朝足利尊氏をはじめ武家源氏の大半がこの系統から出た(もしくは後裔を自称した)。

諡号・追号・異名

清和天皇の漢風諡号を奉られた。御陵の位置によって水尾(みずのお)帝、まれに元号を採って貞観帝とも言う。

後水尾天皇は、この清和天皇を意識してその追号遺詔した。

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨水尾清和(水尾山腹)にある水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

洛東の上粟田山にて火葬され、遺骨は生前の希望から洛西の水尾に埋葬された。所在がほぼ確かな平安時代の天皇陵の1つである。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注

注釈

  1. 地名としては初め水雄こと「みずお」、ついでに「みずのお」、近世になってから「みのお」に音便。

出典

  1. 中野渡俊治「清和太上天皇期の王権構造」『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年) ISBN 978-4-7842-1887-5

関連項目

  • 日本三代実録 清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代が記載された正史。
  • 祇園祭 清和天皇の時代(平安時代)、869年(貞観11年)が起源。
  • 最澄 866年(貞観8年)、最澄に「伝教大師」の諡号が贈る。

外部リンク