清少納言

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清少納言(せいしょうなごん、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家歌人随筆枕草子』は平安文学の代表作の一つ。

出自

梨壺の五人の一人にして著名歌人であった清原元輔908年 - 990年)の娘。曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。

「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓に由来するとされているが、近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明であり、以下のような推察がなされている。

  • 女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説[1]
  • 藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説[2]
  • 花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説[3]
  • 岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ地位が反映されているとしている[4]

語呂の関係から今日では「せいしょう・なごん」と発音されることが圧倒的に多いが、上述しているように「清」は父の姓、「少納言」は職名が由来であるため、本来は「せい・しょうなごん」と区切って発音するのが正しい。

実名は不明で、「諾子(なぎこ)」という説[5]もあるが、実証する一級史料は現存しない。

中古三十六歌仙女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首[6]の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集[7]。また漢学にも通じた[8]

鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない。

経歴

天延2年(974年)、父・元輔の周防赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。

天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長982年 - 1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた[9]

一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。藤原実方(? - 998年)、藤原斉信967年 - 1035年)、藤原行成972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、源経房969年 - 1023年)との親交が諸資料から窺える。ことに実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。

清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。『枕草子』には、「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。

長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。

没年は不明で、墓所が各地に伝承される。

紫式部との関係

清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ — 『紫日記』黒川本

清少納言と、同時代の『源氏物語』の作者・紫式部とのライバル関係は、後世盛んに喧伝された。しかし、紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、2人は一面識さえないはずである[注釈 1]。紫式部が『紫式部日記』(『紫日記』)で清少納言の人格と業績を全否定するかのごとき筆誅を加えているのに対し、清少納言が『枕草子』で紫式部評を残していない一方的な関係からもこの見方は支持される。

もっとも、『枕草子』には紫式部の亡夫・藤原宣孝が派手な衣装で御嵩詣を行った逸話や従兄弟・藤原信経を清少納言がやり込めた話が記されており、こうした記述は紫式部の才能を脅威に感じて記したものであるという説も存在する[10]

清女伝説

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清少納言(菊池容斎・画、明治時代

紫式部の酷評に加え、女の才はかえって不幸を招くという中世的な思想が影響し、鎌倉時代に書かれた『無名草子』『古事談』『古今著聞集』などには清少納言の落魄説話が満載された。『古事談』には、「鬼形之法師」と形容される出家の姿となり、兄・清原致信源頼親に討たれた際、巻き添えにされそうになって陰部を示し女性であることを証明したという話がある。

また全国各地に清女伝説(清少納言伝説)がある。鎌倉時代中期頃に成立したと見られる『松島日記』と題する紀行文が清少納言の著書であると信じられた時代もあったが、江戸時代には本居宣長が『玉勝間』において偽書と断定している。

伝墓所

  • 徳島県鳴門市里浦町里浦坂田 - 比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めを受けんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。
  • 香川県琴平金刀比羅神社大門 - 清塚という清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」がある。
  • 京都市中京区新京極桜ノ町 - 誓願寺において出家、往生を遂げたという。

宮仕え中(正確には長徳の変後)、中宮の事務を多く取り扱った実務官僚(『枕草子』に「頭の弁」)藤原行成との間にかわされた即興的なやりとりである「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌が百人一首に採られている(62番。61番の伊勢大輔に続いて百人一首では当代歌人の最後に位置し、68番に来る三条院とともに疑問ののこる序列となった)。

京都市東山区にこの歌の歌碑がある。昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞の発案によって歌碑が建立された。

建立当時、(定子皇后の鳥辺野陵にほど近く)嘗てここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したと思われる所とされたが、それは中古文学に現れる京都近郊の地「月輪」が洛東・洛西の何れに存在したかの解釈にもかかるため(京都新聞)、近年ではかく主張する学者が減ってきている。清少納言の引き際について、昭和の研究者岸上慎二は、「根が淡白で潔くまた『一の人に一に』という信条を持した」との評語を下した。岸上慎二はまた、「歌人の家に生まれたという過剰意識」が、『無名草子』の作者が見たような作歌に自信を持てない清少納言を生んだとも推測している。岸上慎二に言わせれば、老後の憂いを想うときにはじめて、清少納言は沈思型・素直な「歌詠み」として結実した(異本系の家集参照)。

演じた人物

脚注

注釈

  1. 角田文衞は論文「晩年の清少納言」で異説を提唱し、『権記』に見える一宮敦康親王の「少納言命婦」を手掛かりに、清少納言が定子の崩御後もその所生の皇子女に引き続き仕えた可能性を指摘している。

出典

  1. 角田文衞「清少納言の女房名」『王朝の明暗』東京堂出版 1975年
  2. 榊原邦彦「清少納言の名」『枕草子論考』興英文化社 1984年
  3. 『枕草子大事典』勉誠出版 2001年
  4. 岸上慎二 『清少納言伝記攷』畝傍書房、1943年
  5. 加藤磐斎清少納言枕草子抄
  6. 異本による。流布本では31首
  7. 『勅撰作者部類』
  8. 蒙求』(枕草子 第八段)、白居易の『白氏文集』(枕草子 第197段、第299段「香炉峰の雪」)などが知られている。
  9. 尊卑分脈
  10. 萩谷朴『枕草子解環』(同朋舎出版)2巻478ページ、3巻51ページ。

参考文献

  • 岸上慎二 『清少納言伝記攷』畝傍書房、1943年 - この本によって、清少納言の生年を康保3年頃とし、また初出仕を正暦4年とするなどの推論が広まった。

関連項目

外部リンク