源融

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源 融
小倉百人一首第14番・河原左大臣

源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族嵯峨天皇皇子(嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。

経歴

仁明朝承和5年(838年元服して正四位下直叙され、承和6年(839年侍従に任ぜられる。仁明朝末の承和15年(848年右近衛中将に任ぜられると、嘉祥3年(850年)正月に従三位に叙せられ、29歳で公卿に列す。文徳天皇即位後の同年5月に右衛門督に任ぜられて引き続き武官を務め、斉衡3年(856年参議に昇った。

清和朝に入っても、天安4年(859年正三位、貞観6年(864年中納言と順調に昇進する。この頃、異母兄の左大臣源信大納言伴善男が不和の状況にあったが、同年冬には源信が融・兄弟と反逆を謀っているとの投げ文があり、騒ぎになったという[1]。その後、貞観8年(866年応天門の変が発生して、伴善男は失脚、源信は籠居して出仕を取り止めてしまい、結局貞観10年(868年)に源信も事故死してしまった。加えて、この間の貞観9年(867年)には右大臣藤原良相や大納言・平高棟といった大官が相次いで没したこともあって融は急速に昇進する。貞観12年(870年大納言に昇ると、貞観14年(872年)には太政大臣藤原良房の薨去に伴い、融は太政官の首班に立って左大臣に任ぜられた。

しかし、貞観18年(876年)自ら東宮傅として仕えた貞明親王(陽成天皇)が即位すると、約15歳年下で太政官の席次も下位の右大臣であったにもかかわらず、藤原基経天皇外戚として摂政に任じられたため、融は上表を出して自宅に引籠もった[2]

元慶8年(884年)陽成天皇の譲位によって皇嗣を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後に即位した例はないとして、基経に退けられたという逸話がある[3]。しかし当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。結局、光孝天皇が即位すると融は政務に復帰した。

宇多朝寛平3年(891年関白太政大臣・藤原基経が没し、融は再び太政官の首班に立った。寛平7年(895年)8月25日薨去享年74。最終官位は左大臣従一位。没後正一位贈位を受けた。

人物

紫式部源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。

陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の』の元となった。六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。また融の死後、河原院は息子のが相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。

嵯峨にあった別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。また、宇治に営んだ別邸の地はのちに平等院となった。

勅撰歌人として、『古今和歌集』『後撰和歌集』に各2首ずつの和歌作品が採録されている[4]

官歴

六国史』による。

系譜

尊卑分脈』による。

昇の子孫は地方に下って武家となり、渡辺氏蒲池氏などの子孫を伝えている。詳細は嵯峨源氏を参照。

脚注

  1. 『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条
  2. 日本三代実録』及び『中右記
  3. 大鏡』太政大臣基経
  4. 『勅撰作者部類』
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 5.8 5.9 『公卿補任』

参考文献

関連項目