煎餅

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日本の煎餅とその断面

煎餅(せんべい)

 干菓子のなかの焼き種(だね)。小麦粉または粳米(うるちまい)、糯米(もちごめ)の粉に砂糖を加えてどろりとした種汁をつくり、鉄製の焼き型に流して焼いたもの。また粳米、糯米を搗(つ)いて平たくのし、丸く型抜きして乾燥させ、しょうゆを両面に刷(は)いて焼き上げたものを塩煎餅という。

 煎餅の文字は『延喜式(えんぎしき)』の唐菓子(とうがし)のなかにみることができる。奈良時代からの食物であったと考えられるが、『和名抄(わみょうしょう)』はこれを「いりもち」と読み、小麦粉を油で煎(い)ったものとしている。今日の揚げ煎餅に類似した菓子であったと推定される。煎餅には伝説めいた渡来談があり、渡唐した空海が順宗のもてなしを受けたとき、供された食物のなかに亀甲(きっこう)型をした煎餅があった。その煎餅は、日本にすでに存在した果餅(かぺい)14種のなかの煎餅のように油で揚げたものではなく、まことに淡泊な味わいであった。空海はこの仕法を習得して、帰朝後に京の小倉山(おぐらやま)の麓(ふもと)に住む里人に伝えた。これが亀(かめ)の甲煎餅の元祖であるという。中国の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』正月7日に、「北人、この日、煎餅を食う。庭中に之(これ)を作り、薫火という」とある。この煎餅が唐菓子のいりもちであるのか、亀の甲煎餅のような形態であったかはさだかでない。粉を練って焼く手法はきわめて古く、団子状の餅を焼いて食べることは弥生(やよい)文化時代にはすでに普及していた。その餅を薄くのして火の通りやすい形状で焼く、つまり今日的な煎餅の作り方は、空海の伝えたものでなく、油で揚げるいりもち以前から存在したと考えるのが妥当である。しかし、この原型としての煎餅はあくまでも主食であった。間食として菓子の性格をもつのは室町時代以降であり、江戸時代になって多くの名物煎餅が生まれた。

 煎餅の製法は、古代から江戸中期までさしたる発達をみなかった。焼き種(煎餅生地(きじ))をつくり、薄くのして円形、方形、亀甲形の枠で型抜きし、炭火で一枚一枚焼き上げたのである。江戸中期以降には煎餅屋稼業が鋳物師に焼き型を注文できるほど、鉄製鋳物が安価になり、鋏(はさみ)のように2本の柄(え)の先で開閉する円形、方形、亀甲形、あるいは瓦(かわら)形の鉄皿2枚を備えた焼き型がつくられた。この焼き型を操作して煎餅焼きに従事する職人を煎餅師とよんだ。煎餅師は、金平糖(こんぺいとう)つくりの掛け物職人がそうであったように、多くは渡世人で、渡り職人ともよばれたが、腕のいい職人を抱えた煎餅屋が世間の人気をさらい、名物煎餅を生み出した。

 煎餅は奈良時代の供饌(ぐせん)菓子として油で揚げた食物だったが、これは貴族階級や高僧の口にしか入らなかった。煎餅の仲間である、あられ、かきもち、へぎもちも、もとは塩味だったもので、「庶民の菓子」として食用油と煎餅類が結び付くことは、幕末のかりんとうの出現までなかったといえる。江戸時代に煎餅と称したのは、小麦粉に砂糖を混ぜて練り、型焼きしたり、巻き上げて焼いたものである。さらに高級品には、卵黄を加えた煎餅もつくられた。以後、今日までに、焼き型の機械化、素材にゴマ、ケシ、クルミ、ラッカセイ、トチの実、みそを加える仕法も考えられ、多様の煎餅が生まれた。しかし、塩煎餅は下級品とされ、こうした煎餅の仲間には入らない菓子だった。




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