知恩院

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知恩院
所在地 京都府京都市東山区 新橋通 大和大路 東入三丁目 林下町400
位置 北緯35度0分18.75秒
東経135度47分0.25秒
山号 華頂山(かちょうざん)
宗派 浄土宗
寺格 総本山
本尊 法然上人像(本堂)
阿弥陀如来(阿弥陀堂)
創建年 承安5年(1175年
開基 法然
正式名 華頂山 知恩教院 大谷寺
歴史的・非略体)蕐頂山 知恩敎院 大谷寺
別称 吉水禪房
ちよいんさん
ちおいんさん
札所等 法然上人二十五霊跡25番
文化財国宝
本堂、三門
阿弥陀二十五菩薩来迎図ほか
重要文化財
大方丈、木造阿弥陀如来立像
木造善導大師立像、ほか
公式HP 総本山知恩院
地図
京都盆地における位置
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ファイル:知恩院遠景.jpg
遠景(左三門、右本堂、後方比叡山)

知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。

なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。

歴史

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。

法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺衆徒によって破壊されてしまう(嘉禄の法難)。文暦元年(1234年)、法然の弟子である紫野門徒の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどして紫野門徒の拠点となっていった。

建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子良忠鎌倉からやってくると、間もなくして紫野門徒の百万遍知恩寺3世信慧東山の赤築地(あかつじ)において良忠と談義を行った。そこで両流を校合してみたところ、相違するところが全くなく符合したので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流することとなった(「赤築地の談」)。

これにより、紫野門徒の拠点であった知恩院と百万遍知恩寺は鎮西義の京都での有力な拠点となった。

永享3年(1431年)に火災にあって焼失するが、間もなくして再興されている。

応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱の際には、知恩院22世珠琳が現在の滋賀県大津市にある金蓮寺に避難、その後現在の大津市内に新知恩院を建立した[1]。そして、文明10年(1478年)に知恩院を再興するが、永正14年(1517年)にも消失する。

大永3年(1523年)、知恩院25世存牛百万遍知恩寺25世慶秀との間で本寺争いとなったが知恩院が勝利し、鎮西義で第一の座次となり本山となった。

また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して鎮西義から分派し、天文17年(1548年)に法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。

さらに天正3年(1575年)には正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。

現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。

徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。

江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。

1947年昭和22年)、法然上人御廟を中心とする「一宗一元運動」を提唱し、知恩院は自らを本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)を結成し、浄土宗から分派する。1950年(昭和25年)には法然上人御廟の向かいにある一心院が浄土宗捨世派を結成して浄土宗から分派した。しかし、1961年(昭和36年)の法然上人750年忌を機に、翌1962年(昭和37年)に知恩院と浄土宗本派は浄土宗に合流し、知恩院が再び浄土宗の総本山となった。

伽藍

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三門南側面と山廊
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大方丈(重要文化財)
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大方丈(左)と小方丈(奥)
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勢至堂・法然上人御廟参道
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勢至堂(重要文化財)

知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つに分かれている。このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたものである。

三門

東大路通に面した総門(新門)を通り、緩い坂道を上った先に西面して三門が建つ。三門をくぐると急な石段があり、本堂などの建つ「中段」に至る。三門は徳川二代将軍徳川秀忠が寄進したもので、平成大修理時に上層屋根の土居葺板という部材から元和7年(1621年)の墨書が発見され、同年の建立と判明する。入母屋造、本瓦葺き、五間三戸の二重門である。(「五間三戸」は正面柱間が5つで、うち中央3間が通路になっているもの。「二重門」は2階建てで、1階・2階の両方に軒の張りだしがあるものをいう。)高さ24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門(山門)のなかで最大の二階二重門である。組物(軒の出を支える構造材)を密に並べた「詰組」とすること、粽(ちまき)付きの円柱を礎盤上に立てること、上層の垂木を扇垂木とすることなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た形式とする。門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなど、やはり禅寺風になっている。[2][3]

日本三大門のひとつに数える説がある。

本堂(御影堂)

知恩院境内は下段、中段、上段の3段に整地されており、本堂はそのうちの中段に南面して建つ。寛永10年(1633年)の焼失により、寛永16年(1639年)に徳川家光によって再建。宗祖法然の像を安置することから、御影堂(みえいどう)とも呼ばれる。知恩院で最大の堂宇であることから、大殿(だいでん)とも呼ばれる。

入母屋造本瓦葺き、間口44.8メートル、奥行34.5メートルの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。建築様式は外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。柱間は桁行(正面)11間、梁間(奥行)9間で、手前の梁間3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の桁行5間・梁間5間分を内陣とする。内陣の左右はそれぞれ手前の梁間3間分を「脇陣」、奥の梁間2間分を「脇壇前」と呼ぶ。堂内もっとも奥の梁間1間分は、中央の桁行5間を後陣、左右の桁行各3間を脇壇とする。内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。徳川幕府の造営になる、近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年、三門とともに国宝に指定されている。[4]

屋根の上、中央に屋根瓦が少し積まれているが、これは完璧な物はないことの暗喩だとされる。2007年から屋根の修復作業が行われている。法然上人像は毎年12月25日御身拭式が行われているが、平成23年(2011年)12月25日には御影堂大修理に伴い、御身拭式の後、遷座式が執り行われ、修理の間、法然上人御堂(集會堂)に安置されている。

御影堂大修理

2011年に半解体をともなう大修理を発願し、8年計画で屋根瓦の全面葺き替えをはじめ腐朽、破損箇所の取り替えと補修、軒下の修正、耐震診断調査に基づく構造補強などを行い、2019年に竣工予定である[5]。一度外されて補修された屋根が2016年に再び御影堂に載り、修理現場が一般公開された[6][7]

重要文化財の建物

経蔵
本堂の東方に建つ宝形造本瓦葺き裳階(もこし)付きの建物。三門と同じ元和7年(1621年)に建立された建物で、徳川二代将軍秀忠寄進による宋版大蔵経六千巻を安置する輪蔵が備えられている。
2010年9月25日に、経蔵の礎石に乗用車が衝突し、礎石の一部が剥落する事故があった。事故のあった場所は、当時、彼岸回向の為に来寺する信徒駐車場として開放されていた。
大鐘楼
宝仏殿裏の石段を上った小高い場所に建つ。延宝6年(1678年)の建立。ここにある梵鐘(重要文化財)は日本有数の大鐘で、寛永13年(1636年)の鋳造である。この鐘楼で除夜の鐘を突く模様は年末のテレビ番組でたびたび紹介されている。
大方丈(おおほうじょう)
本堂の右手後方に建つ。寛永18年(1641年)に建立された檜皮葺き・入母屋造りの華麗な書院建築で、54畳敷きの鶴の間を中心に狩野一派の筆になる豪華な襖絵に彩られた多くの部屋が続く。
小方丈(こほうじょう)
大方丈のさらに後方に建つ。大方丈と同じ寛永18年(1641年)に建立された建物で、襖には狩野派の絵が描かれているが、大方丈に比べ淡彩で落ち着いた雰囲気に包まれる。東側の庭園は「二十五菩薩の庭」と呼ばれ、阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したものである。
勢至堂(本地堂)
境内東側、急な石段を上った先の小高い場所にあり、本地堂とも呼ばれる。付近は法然の住房のあった地である。入母屋造本瓦葺き。寺内の建物では最も古く、室町時代享禄3年(1530年)の建築。建立当初は本堂(御影堂)であった。内陣厨子内に安置する本尊勢至菩薩坐像は鎌倉時代の作で、2003年に重要文化財に指定されている。勢至菩薩を本尊とする堂は他にほとんど例を見ないが、浄土宗では法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしており(法然の幼名は「勢至丸」であった)、法然の本地仏として造立されたものと思われる。前述の山亭は勢至堂の客殿として建てられたものである。

上記の経蔵以下の各建物は重要文化財に指定。このほか、唐門、集會堂(しゅえどう)、大庫裏(おおぐり、「雪香殿」とも)、小庫裏(こぐり)が重要文化財に指定されている。いずれも寛永復興期の建築である。

その他

阿弥陀堂
本堂の向かって左に東面して建ち、本尊阿弥陀如来坐像を安置する。明治時代の再建だが、正面に掲げられている「大谷寺」という勅額は、後奈良天皇宸筆である。
宝仏殿
本堂の南側に北面して建つ寄棟造の仏堂。平成4年(1992年)の建立で、内部には阿弥陀如来立像と四天王像を安置する。
権現堂
小方丈のさらに奥に建つ小規模な仏堂。内部には知恩院の造営に関わった徳川三代(徳川家康・秀忠・家光)の位牌と肖像画を安置する。
山亭庭園
大方丈前から石段を上った山腹に位置し、京都市街を一望できる眺望のよい場所にある。庭園は江戸時代末期の造営の枯山水庭園である。山亭の建物は霊元天皇第10皇女浄林院宮吉子の御殿を宝暦9年(1759年)に下賜されたもので、明治時代に大改修を受けている。
法然上人御廟
法然上人の死後、門弟たちの手によって勢至堂の東に建てられたもので法然の遺骨を納めている。知恩院にあって、喧騒から隔離された祈りの空間となっている。
多宝塔
濡髪大明神
方丈庭園
江戸時代初期の寛永10年(1633年)に作庭が始まる。南庭と北庭で構成される。京都市指定名勝。
友禅苑
宮崎友禅ゆかりの回遊式庭園

文化財

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阿弥陀二十五菩薩来迎図(「早来迎」)
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法然上人絵伝のうち巻一 第二段 法然は長承2年(1133年)4月7日、美作国久米南条の押令使・漆間時国の子として誕生した。画面は時国の館。奥の屏風で囲われた部屋が産部屋である。
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法然上人絵伝のうち巻一 第三段 幼時から聡明であった勢至丸(後の法然、画面左端)は、庭で遊びまわる少年たちとは対照的に、邸の西面の壁に向かって合掌している。
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菩薩処胎経(巻末部分)

国宝

  • 本堂(御影堂)(附:歩廊)[8]
  • 三門
  • 紙本著色法然上人絵伝48巻(国宝)-鎌倉時代の絵巻
  • 絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)-鎌倉時代の仏画。通称「早来迎(はやらいこう[注釈 1])」」
  • 菩薩処胎経(魏大統十六年陶仵虎願経) – 中国・西魏時代の大統16年(550年)の書写。
  • 大楼炭経 巻第三(唐咸亨四年蘇慶節敬造一切経)- 中国・時代の咸亨4年(673年)の書写。
  • 上宮聖徳法王帝説 – 聖徳太子の伝記で、現存唯一の写本。平安時代後期。

以上のうち、菩薩処胎経以下の3件は、幕末から明治にかけて門主を務めた養鸕徹定(1814-1891)の収集品である。国宝指定物件のうち、絵画、書跡は京都および奈良の国立博物館に寄託されている。

重要文化財

建造物

  • 大方丈(附:玄関及び歩廊)
  • 小方丈(附:歩廊)
  • 集會堂(しゅえどう)(附:玄関)
  • 大庫裏(おおぐり)(附:歩廊及び玄関)- 雪香殿とも称する。
  • 小庫裏(こぐり)(附:歩廊)
  • 唐門
  • 大鐘楼
  • 経蔵
  • 勢至堂

美術工芸品

  • 綾本著色毘沙門天像
  • 絹本著色阿弥陀経曼荼羅図
  • 絹本著色観経曼荼羅図
  • 絹本著色紅玻璃(ぐはり)阿弥陀像
  • 絹本著色地蔵菩薩像
  • 紙本著色法然聖人絵 奥に釈弘願とあり 1巻
  • 絹本著色阿弥陀浄土図 淳熙十年の年記がある
  • 絹本著色桃李園金谷園図 2幅 仇英筆
  • 絹本著色蓮花図 2幅
  • 絹本著色牡丹図
  • 押出鍍金三尊仏 2面
  • 木造阿弥陀如来立像(本堂安置)
  • 木造善導大師立像(本堂安置)
  • 木造勢至菩薩坐像(勢至堂安置) [9]
  • 木造釈迦如来及両脇侍(善財童子・月蓋長者)像3躯・木造十六羅漢坐像16躯(三門上層安置)釈迦如来像に康猶の銘あり 元和7年(1621年)[10]
  • 木造徳川家康坐像 康猶作(推定)・木造徳川秀忠坐像 元和6年(1620年)康猶作[11]
  • 刺繍須弥山日月図九条袈裟 屏風仕立
  • 海竜王経 4帖
  • 紺紙金字後奈良天皇宸翰阿弥陀経
  • 大唐三蔵玄奘法師表啓(天平神護元年僧興願奥書)
  • 十地論歓喜地 巻三
  • 順次往生講式
  • 大通方広経 巻下(天平三年奥書)
  • 中阿鋡経 第廿九(天平宝字三年書写奥書、「善光」朱印あり)
  • 註楞伽経 巻第五
  • 超日明三昧経 巻上(天平十五年五月十一日光明皇后願経)
  • 菩薩地持論 10帖(各帖に延暦十六年藤原継縄誓願の記あり)
  • 法華経玄賛巻第三(天平三年書写奥書)・法華経玄賛巻第二・第七・第十
  • 瑜伽師地論 81帖、1巻
  • 宋版一切経 5,969帖
  • 三略 上中下(正和二年良祐書写加点奥書)
  • 天平年間写経生日記

典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

法然上人絵伝より

主な行事

  • 法然上人御祥当法要(1月25日)
法然の命日に行われる法要。遺言の「一枚起請文」が読み上げられる。
豆まきが行われる。
釈迦の命日(旧暦の2月15日)に行われる法要。
春分・秋分の時期に極楽浄土を願い、それぞれ7日間にわたって行われる。 『浄土三部経』の一つ『観無量寿経』の世界を描いた曼陀羅が掲げられ、読経が行われる。
釈迦の誕生日。花御堂が設けられ、誕生仏に甘茶を注いで釈迦の誕生を祝う。
  • 御忌大会(4月下旬)
法然の没後に門弟たちが始めた「知恩講」に由来する最も重要な法要で、連日連夜8日間にわたって行われる。法然の命日である1月に行われていたが明治10年から4月に変更された。明治22年にこの法要を偶然目撃したノーベル賞作家キプリングは僧侶たちの法衣の見事さに「一つでいいから略奪してこの国から逃げ出したい」ほどだと感嘆し、大晦日とこの法要でしか行われない大鐘楼の鐘つきや御影堂の描写とともに衣の美しさについて克明に記した[12]
  • 善導忌(6月中旬)
善導大師のための法要。
講師を招いた公開講座。終了後芋粥接待がある。
  • おてつぎこども奉仕団(7月、8月)
1967年から毎夏開催されている小中学生向けの体験学習会。
餓鬼道に落ちた亡者に飲み物や食べものを施すことにより、功徳を積み、先祖を偲ぶ法要。
  • 放生会(10月中旬)
  • 兼実忌(11月初旬)
秋のライトアップ中に行われる九条兼実のための法要。
  • 濡髪大明神大祭(11月25日)
濡髪大明神は火災の守り神。僧侶による読経のあと、一年間に集まった護摩木を焚きあげ、祈願する。
  • 仏名会(12月初旬)
諸仏の名前を集めた経典「仏名経」を読誦する[13]
釈迦が悟りをひらいた日(旧暦の12月8日)の法要。
  • 勢観忌(12月中旬)
勢観房源智の命日(旧暦の12月12日)の法要。
  • 御身拭式(12月25日)
念仏唱和のなか、門跡が法然尊像を羽二重で拭く儀式。
  • 除夜の鐘(12月31日)

知恩院の七不思議

鶯張りの廊下
御影堂から大方丈・小方丈へ至る約550mの廊下で、歩くと鶯の鳴き声に似た音がするため「鶯張りの廊下」と呼ばれ、静かに歩こうとすればするほど音がする。
白木の棺
三門楼上に安置されている二つの白木の棺で、中には将軍家より三門造営の命を請け、三門完成後に工事の予算が超過したため責任をとって自刃したと伝えられている大工の棟梁・五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められている。
抜け雀
狩野信政が描いた大方丈の菊の間の襖絵で、万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりにも上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれる。
三方正面真向(まむき)の猫
大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるので「三方正面真向の猫」と呼ばれている。
大杓子
大坂夏の陣三好清海入道が兵士に飯を振舞った際に用いられたものとも、得物に暴れまわったものともいわれる杓子で、阿弥陀仏の大慈悲ですべての人が救いとられるという一切衆生救済を表したものである。
瓜生石(うりゅうせき)
黒門への登り口の路上にあり、知恩院が建立される前からあるとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったと伝わる。その下には二条城まで続く通路があるとの伝説もある石。
忘れ傘
御影堂正面軒下に名工・左甚五郎が魔除けに置いたとも、白狐の化身・濡髪童子がおいたとも伝えられる傘で、知恩院を火災から守るものとされている[14]

拝観

境内は無料で拝観できる。ただし、方丈庭園と友禅苑はそれぞれ庭園拝観料が必要である。また、臨時で三門の楼上および大方丈(時には小方丈も)の建物内が有料で一般公開されることがある。阿弥陀堂・集會堂(法然上人御堂)・勢至堂の内部および阿弥陀堂と集會堂を結ぶ渡り廊下に無料で入場できる。以前は本堂(御影堂)も無料で入場できたが、現在は修理中であるので、修理が終了するまで入場できない。その代わり年始を除く毎月第1日曜日に「御影堂平成大修理 現場見学会」(1日2回・各50名定員)を無料で行っている。電話かメールで見学を予約した人なら誰でも御影堂の仮設素屋根の内部に入り、修理の様子を間近で見ることができる。参考

門主・執事長

歴代宮門主

()内は何代目かを記す

歴代住持(門主)

()内は何代目かを記す
  • 法然房源空(1) → 勢観房源智(2) → 本仏房道宗(3) → 道舜(4) → 覚生(5) → 観明(6) → 了信(7) → 如一(8) → 舜昌(9) → 西阿(10) → 円智(11) → 勢阿普観(12) → 恭阿(13) → 助阿(14) → 佐阿(15) → 信楽(16) → 法阿(17) → 入阿(18) → 堯譽隆阿(19) → 空禅(20) → 大譽慶竺(21) → 周譽珠琳(22) → 勢譽愚底(23) → 肇譽訓公(24) → 超譽存牛(25) → 保譽源派(26) → 徳譽光然(27) → 浩譽聡補(28) → 満譽尊照(29) → 城譽法雲(30) → 然譽源正(31) → 雄譽霊巌(32) → 円譽廓源(33) → 心譽文宗(34) → 勝譽旧応(35) → 帝譽尊空(36) → 玄譽知鑑(37) → 玄譽万無(38) → 直譽感栄(39) → 専譽孤雲(40) → 安譽良我(41) → 白譽秀道(42) → 応譽円理(43) → 通譽岸了(44) → 然譽沢春(45) → 然譽了鑑(46) → 照譽見超(47) → 堅譽往的(48) → 称譽真察(49) → 霊譽鸞宿(50) → 喚譽雲頂(51) → 団譽了風(52) → 麗譽順真(53) → 曹譽沢真(54) → 興譽正含(55) → 覚譽教意(56) → 檀譽貞現(57) → 海譽祐月(58) → 実譽興玄(59) → 誠譽定説(60) → 仰譽聖道(61) → 聖譽霊麟(62) → 君譽智厳(63) → 泰譽在心(64) → 迎譽貞厳(65) → 察譽貞瑞(66) → 聴譽説行(67) → 響譽説玄(68) → 方譽順良(69) → 赫譽歓幢(70) → 万譽顕道(71) → 荘譽浄厳(72) → 名譽学天(73) → 漆間俊光(随譽)(74) → 養鸕徹定(順譽)(75) → 福田行誡(立譽)(76) → 日野霊瑞(鳳譽)(77) → 野上運海(竟譽)(78) → 山下現有(孝譽)(79) → 岩井智海(願譽)(80) → 郁芳随円(相譽)(81) → 望月信亨(昱譽)(82) → 岸信宏(量譽)(83) → 高畠寛我(明譽)(84) → 藤井実応(明譽)(85) → 中村康隆(心譽)(86) → 坪井俊映(仁譽)(87) → 伊藤唯真(願譽)(88)

幕末の領地

国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の知恩院領は以下の通り。(16村・1,853石余)

所在地/交通アクセス

住所

〒605-8686 京都府京都市東山区 新橋通 大和大路 東入ㇽ 三丁目 林下町(りんかちょう)400

アクセス

脚注

注釈

  1. 浄土宗では「らいごう」とは読まない。

出典

  1. 新知恩院”. 大津市歴史博物館. . 2014閲覧.
  2. 文化庁文化財保護部「新指定の文化財」『月刊文化財』465、第一法規、2002、pp.25 – 26, 64
  3. 永井規男「国宝になった知恩院の本堂と三門」『月刊文化財』465、第一法規、2002、pp.4 – 7
  4. 文化庁文化財保護部「新指定の文化財」『月刊文化財』465、第一法規、2002、pp.26 – 28
  5. 国宝・御影堂 大修理知恩院
  6. 平成28年国宝知恩院御影堂修理現場見学京都府文化スポーツ部文化政策課
  7. 平成28年度 秋 文化財修理現場見学会 国宝知恩院御影堂京都府文化スポーツ部文化政策課
  8. 本堂、三門の国宝指定告示は平成14年5月23日文部科学省告示第90号
  9. 平成15年5月29日文部科学省告示第104号
  10. 平成22年6月29日文部科学省告示第98号
  11. 平成26年8月21日文部科学省告示第105号
  12. 『キプリングの日本発見』中央公論社、2002年、p154
  13. 仏名経 ブツミョウキョウ
  14. 第4回 御影堂に残る伝説

参考文献

  • 井上靖、塚本善隆監修、梅原猛、岸信宏著『古寺巡礼京都19 知恩院』、淡交社、1977
  • 浄土宗大辞典刊行会発行『淨土宗大辞典』全4巻、山喜房仏書林、1980
  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東上』駸々堂、1981
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』70号(智積院・知恩院・清水寺)、朝日新聞社、1998
  • 『週刊朝日百科 仏教を歩く』06号(愚者になりて往生す 法然)、朝日新聞社、2003
  • 『ヴィジュアル百科 京都を歩く』23号(知恩院)、講談社、2003
  • 『小学館ウィークリーブック 教え・美・歴史 古寺を巡る』16号(知恩院)、小学館、2007
  • 『朝日ビジュアルシリーズ 仏教<新>発見』18号(知恩院)、朝日新聞社、2007
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館
  • 山折哲雄槇野修「京都の寺社505を歩く」PHP新書2007年 ISBN 978-4-569-69247-0
  • 村井康彦「京都史跡見学」岩波ジュニア新書1982年 ISBN 4-00-500051-7
  • 宮元健次「京都 格別な寺」光文社新書2005年 ISBN 4-334-03320-2
  • 宮元健次「仏像は語る」光文社新書2005年 ISBN 4-334-03324-5
  • 宮元健次「京都名庭を歩く」光文社新書2004年 ISBN 4-334-03274-5

関連項目

外部リンク