破門

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破門(はもん)は

  1. 仏教において、が所属する教団や宗派から追放されること。僧として受ける最も重い罰とされる。波羅夷(はらい)にあたる[1]大乗仏教ではあまり聞かず、上座部仏教ではさかんに行使された。
  2. キリスト教の一部教派およびユダヤ教において、異端的信仰をもつ信者になされる措置である教会戒規のひとつ。いわゆる中世暗黒時代には、さかんに行われた。
  3. 芸道武道アカデミックの世界で、弟子が師匠、宗家、家元などによってその流派を追放されること。仏教の破門からの転用。
  4. ヤクザ世界において、組の構成員がその組織から追放となる処分の一種。

ユダヤ教

ユダヤ教の破門は、呪いおよび共同体からの追放という形を取る。呪いの対象は追放者のみならず、今後追放者とかかわった場合の共同体の成員を含むため、破門は追放者のみならず他の共同体成員への禁止効果をも持つ。ユダヤ教からの破門者として有名なのはスピノザである。アムステルダムのユダヤ人共同体におけるスピノザの破門状には、「…かれの昼にのろわれてあれ、夜にのろわれてあれ、かれの臥すにのろわれてあれ、起くるにのろわれてあれ、かれの外出するにのろわれてあれ、帰り来たるにのろわれてあれ、主はかれを許したまわじ、主の憤怒はこの者に対して燃え盛り、掟の書に記されし一切ののろいをかれにもたらさん…何人もかれと同じ屋根の下にも、4エルムン以内にも留まることなかれ」[2]「今後、彼から1メートルの距離に近寄るものは呪われよ」とある(原文で使われていた当時の単位系を置き換えた)[3]

キリスト教

キリスト教における破門も、原義においては強い呪い(アナテマ)の意を持つ。具体的には領聖秘跡(機密)に与るなど、信者に与えられている教会内での宗教的権利を無期限に停止することを意味する。また破門された者と交流を持つことは基本的に禁止される。この結果、単に宗教的意味でだけではなく、中世のアジール権など教会が信者に与えた世俗的保護も一切受けられなくなるため、中世から近世にかけて破門は社会からの追放に等しい意味を持った。また破門者は教会の墓地に葬られることができない。破門は教会の決定事項であり、破門を行うものは教会に属する聖職者に限られる。

古代の公会議では、異端とされた神学者が教会から破門された。教義の違いをめぐる争いがおこるときには、論争の当事者双方が互いを異端として告発することがまま起こるが、これが聖職者同士のとき、時に相互破門と呼ばれる状態が起こる。11世紀のローマ・カトリック教会東方正教会の分裂は、双方の最高責任者であるローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の相互破門である。

ローマ・カトリック教会では破門にも幾つかの段階があり、もっとも大きな処分は大破門と呼ばれ、聖職者が公衆の目前で破門宣告を行った。近代における有名な破門の例にはマルティン・ルタージョルダーノ・ブルーノの破門がある。東方正教会ではトルストイが、晩年の著作が無神論的であるとの理由でロシア正教会から破門されている。

中世における破門は、教皇の対立者に対する対抗、攻撃としての色を持つ。その最たるものがカノッサの屈辱(1077年)と呼ばれる神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を破門した事例であり、これにより教皇権の優位性が示された。当時においては破門されること自体が権威に影を落とす大きな要因となりえたのである。そして、権威の失墜は諸侯の力が強かった当時、破門されるということは諸侯を従わせることが難しくなる非常に大きな問題であった。

しかし14世紀に入り王権が強化され、さらに十字軍の失敗により教皇権に陰りが出るようになる。フランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立において、ボニファティウス8世は破門をもってフィリップ4世に抵抗しようとしたが逆にフランス側に襲撃され、解放されるもその直後に憤死した(アナーニ事件)。さらにアヴィニョン捕囚により教皇がフランス王の傀儡となると、その権威はさらに失墜した。ただし、これ以後破門が効力をなさなくなったかといえばそうではなく、ある程度の力は有しており、1526年には教皇クレメンス7世が対立関係にあった神聖ローマ帝国皇帝カール5世に与するフェラーラ公アルフォンソ1世を破門し幽閉する(ただしこれはローマ略奪を招くこととなった)など、対抗措置として行われた事例は存在し、一定の効果をあげている。

現在のローマ・カトリック教会法にも破門の規定はあるが、実際に信者に行われることはほとんどない。まれに聖職者に対して破門処分が行われることがあるに留まる。

教皇ヨハネ・パウロ二世1995年に出した回勅いのちの福音は、いのちの福音がイエス・キリストの教えの中核であり、神の永遠の律法は「殺してはならない」と命じていると教える。人工妊娠中絶は殺人であり、1917年の教会法典は、中絶の罪に対し自動破門とされる伴事的破門制裁を定めているが、改定された教会法典でもこの規定は有効であり、中絶した者と、手助けした者が破門されることを確認している。[4]

中国政府公認の宗教団体中国カトリック愛国会がローマ教皇の意向を無視して任命した司教2名を、ローマ教皇庁が2006年5月4日に破門した。

プロテスタントで破門に相当するのは戒規である。

イスラム教

イスラム教では信仰を捨てることが禁止されているが、これは裏を返せばイスラム教徒を破門することも禁止されているということになる。このため、イスラム教には破門は存在しない。

武道

武道の世界では、門弟が流派から追放されることを破門と呼ぶ。破門になると、師匠との師弟関係は解消され、それまで門弟に授与された免許や段位も剥奪されるのが一般的である。一度破門になると、通常は二度とその流派に戻ることはできないが、師匠から許しが出ると復帰を認められる場合もある。

例えば、柔道家がアメリカのプロレスラーと対決した1921年(大正10年)のサンテル事件では、柔道開祖・嘉納治五郎は出場した柔道家を破門にして段位も剥奪したが、のちに許して復帰を認めた例などがある。また、柔道家・徳三宝も嘉納より破門になったが、のちに許されて復帰している。

剣道(全日本剣道連盟)では、破門に相当する処置として、会員の除名や資格停止処分がある(一般財団法人全日本剣道連盟定款)。その場合、綱紀委員会の決定により、称号・段級位の返上もしくは剥奪が行われる可能性がある。

角界

大相撲の世界では師匠より破門された力士はほぼ全てが引退及び公益財団法人日本相撲協会からの離脱(かつての廃業)を余儀なくされる(例:第60代横綱双羽黒光司)。一方で現役を引退し親方となった元力士に対する破門は必ずしもそうなるとは言えない。これには部屋または一門からの破門と協会からの破門、即ち解雇や除名といった賞罰規定に基づく懲戒処分により協会を去らなければならなくなるケースの2つがある。

部屋からの破門としては12代阿武松親方(元関脇益荒雄)が師匠の押尾川(元大関大麒麟)に無断で独立を画策したとして押尾川部屋から破門され、同じ二所ノ関一門の大鵬部屋に移籍後独立した例がある。

一門からの破門としては過去には九重が後継者争いに敗れ独立を申し出て出羽海一門から破門され高砂一門に移籍、最近では高田川部屋の先代師匠(前の山)が高砂一門の推薦を受けることなく理事に立候補(当選)して破門され、2011年1月に現師匠(元関脇安芸乃島)が現役時に所属していた二所ノ関一門に加入するまで無所属となっていた例がある(なお、現高田川も千田川親方時代に師匠の貴乃花(元横綱)と指導方針を巡り対立して貴乃花部屋を事実上破門され、無所属である高田川部屋に移籍していた経験がある。その後貴乃花部屋が後述の理由により二所ノ関一門を離脱した為、師匠自身の二所ノ関一門復帰が可能となった)。

2010年(平成22年)1月の理事選挙を巡っては二所ノ関一門の総意に反して理事選挙への出馬を明言した貴乃花(元横綱)が一門を「離脱」したが、その後、貴乃花親方を支持する間垣(元横綱2代目若乃花)、音羽山(元大関貴ノ浪)、大嶽(元関脇貴闘力)、阿武松、常盤山(元小結隆三杉)、二子山(元十両大竜)の6人の親方が事実上の一門からの破門となった。但し、二所ノ関一門の幹部自らは「破門」という言葉は使ってはおらず、総意に従わないものが一門を「離脱」したというのが表向きの格好である。しかし、6人の親方は自ら望んで一門を離脱したわけではないので、一門からの事実上の「破門」として当人たちは受け止め、世間でもそう解釈された。

一方相撲協会からの破門としては15代時津風(元小結双津竜)が弟子の死亡に関与したとして事実上の破門となった(相撲協会からは解雇)。

芸道

芸道の世界において、門弟が家元や師匠の意思により流派から追放されることを破門と呼び、同時に信頼関係が破綻したことによる意味も兼ねる。茶道、華道など芸道には記述が見られるが、落語界にも記述がしばしば見られ、家伝の場合、破門と勘当を同時に行うことがある。

能楽

能楽の世界では、1921年(大正10年)、観世流宗家24世・観世元滋が梅若一門(梅若六郎家、梅若吉之丞家、観世鐵之丞家)を破門にした事件がある(いわゆる観梅問題)。能楽はもともと武家の式楽だったので、江戸時代には幕府や各地の大名家の庇護を受け、各流派はそれぞれ扶持をもらっていた。観世流は江戸幕府の庇護を受けていたので、明治維新後、徳川宗家が駿府に隠棲すると、観世宗家の22世・観世清孝はこれに義理立てして静岡へ移住し、東京は分家の観世銕之丞家の5代目・観世紅雪と初世・梅若実(52世・六郎)が預かる形になった。その間、観世銕之丞家と梅若家は独自に免状を発行するなどの家元同然の活動を行い、観世宗家が東京に戻ってくると、免状発行権の返還を巡って両者は対立するようになる。この問題がこじれて、上述のように破門となった。破門後、梅若一門は新たに梅若流を興したが、その後梅若流も分裂して、最終的には昭和29年(1954年)、能楽協会の斡旋により梅若流は観世流に復帰してこの問題は収束した。

歌舞伎

歌舞伎の世界では、市川段四郎 (2代目)(初代市川猿之助)が、師に無断で『勧進帳』の弁慶を演じたことが勘気にふれ破門となったが、のちに努力が認められて破門を解かれた例がある。近年の例では、坂東薪車(4代目)が師匠の坂東竹三郎(5代目)より破門となり名跡を失ったが、その後市川海老蔵 (11代目)に弟子入りして市川九團次 (4代目)の名跡のもと再出発した例がある。

芸能界

師弟間でのその芸事についての考え方が違う場合に異端として破門されることが多いが、ただ単に芸事や生活に対して怠惰であり、流派を名乗るにふさわしくない場合にも破門の適用が考えられる。マネージャーと芸人の仲で交際していた正司敏江・玲児が、師匠の正司歌江から破門された例がこれに該当するが、敏江・玲児は数年で許され元の鞘に納まっている。

また笑福亭鶴光の弟子だった嘉門達夫の場合は、師匠へ一切報告せず落語以外の新しい仕事を増やし、自身がやりたい事と落語家の弟子と言う立場が乖離し、師匠と仕事観を巡って対立して反旗を翻して破門を言い渡された。

また稀有なケースとして、落語立川流のように「上納金未納」が破門理由として制度化されていたり、8代目林家正藏(のち彦六)に至っては、弟子の初代林家照蔵(のち5代目春風亭柳朝)に対し、破門を言い渡すことが日常茶飯事であったという。

伊集院光の場合は6代目三遊亭圓楽(入門当時・三遊亭楽太郎)の門下時代に「三遊亭楽大」として活躍中に、伊集院光の名でラジオ番組出演する一方、それが一門に露呈し問題となり、表向きは「破門」と言う形で自主廃業した。しかし当時から伊集院を擁護していた圓楽は現在も身内として扱っており、師弟関係も継続している。

宗教的な破門とは異なり、破門されたものの活動が致命的に阻害されないケースも多く、破門された弟子が他の流派に鞍替えしたり、場合によっては独自に活動を再開できることも多い。太平サブロー・シローの場合、松竹芸能から吉本興業への移籍をスムーズにするため表面上破門という形にしただけで、レツゴー三匹との師弟関係は継続している。

他方で、弟子が犯罪を起こし逮捕や書類送検された場合などに見られるが、師匠が破門するのと前後して所属していた芸能団体が除名などの形で処分した場合には、移籍や独立という形での第一線での芸能活動を継続できなくなり、芸を披露する舞台はもとより稽古の場所や同業者間の交遊関係も絶たれる事で、弟子が廃業に追い込まれたり、いわゆる第一線の場に長期間戻れなくなる事も多い。

ヤクザの破門

ヤクザ世界における懲罰の一つで、「絶縁」に次いで重い処罰。に対する迷惑に対してなされ、組は破門した旨を義理回状により、関係の組に通知する。この義理回状(破門状)を受けた組織は、破門をされた者を客分としたり、結縁したり、商談、交際など一切のことについて相手としたりしてはならないこととされ、これを破ることは敵対行為とみなされる。

なお、組長個人が破門処分を受けることで、その組長が率いている組全体が破門されたとみなされることもある。

破門と絶縁の違い

破門と絶縁の差異は、破門には復縁の可能性があるのに対して、絶縁には建前上それがないという点にある。破門であれば交流のない他の組に移るなどしてヤクザ渡世を続けることもできる。このため義理回状の見出しである「破門」の文字を赤色で書く「赤字破門」(あかじはもん)が行われることがある。赤字破門は表面的には破門であるが、効果としては絶縁と同じになる。ただし、近年では赤字破門を受けた者が偽名を使って別の組に入ったり、初めから承知で赤字破門された者を受け入れる組も出てきている。

なお、対象者が破門と同時にヤクザの世界から去る場合は義理回状の見出しを『破門引退と書くこともある。

しかし、捜査機関から目を付けられる恐れのある構成員を、組織防衛のため表面的に破門処分とする「偽装破門」がなされる場合もある。

抗争への発展

親組織から子組織に対して、又は組織間相互において破門ないし絶縁の処分が行われることは、ヤクザの世界においては一種の宣戦布告であり、そのまま抗争へと至ることが多い。

実際に起こった例として、1984年(昭和59年)から1989年平成元年)まで続いた山口組一和会の抗争(山一抗争)は、山口組総本部が一和会に対して出した義絶状と呼ばれる文書に端を発する。

また、山一抗争の終結直後に起こった五代目山口組総本部と竹中組の抗争(山竹抗争)は、総本部が竹中組組長ら4人について幹部一同の名義で「今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする事実上破門の義理回状を出したことがきっかけとなっている。

近年では、六代目山口組総本部から分裂した初代神戸山口組に対して総本部が、また神戸山口組からさらに分裂した任侠山口組に対して総本部と神戸山口組が、それぞれ参加した組や幹部らを絶縁や破門などとする措置をとっている。

脚注

  1. 『新・佛教辞典-増補』誠信書房。
  2. 下村寅太郎「スピノザとライプニッツ」(『世界の名著30 スピノザ ライプニッツ』中央公論社、1980年)
  3. 黒川知文『ロシア社会とユダヤ人』ヨルダン社
  4. 『いのちの福音』Evangelium Vitae

参考文献

  • 著述・観世榮夫・構成・北川登園 『華より幽へ―観世榮夫自伝』 白水社、2007年。ISBN 978-4560031698。
  • 丸島隆雄 『講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件』 島津書房、2006年。ISBN 978-4882181194。

関連項目