神戸大空襲

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ファイル:Kobe after the 1945 air raid2.JPG
空襲後の神戸湊川地区(ビラの「楠公の霊地」とは楠木正成が祀られる湊川神社を指す)

神戸大空襲(こうべだいくうしゅう)は、太平洋戦争末期にアメリカ軍が繰り返し行った神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の総称。特に兵庫区林田区など西神戸に大きな被害を出した1945年昭和20年)3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。

概要

日本本土に対するアメリカ軍の空襲は、1942年4月18日東京名古屋四日市、神戸などを皮切りに開始されたが、神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けたものの本格的なものではなかった[1]

神戸とその周辺地域は1945年昭和20年)1月3日から終戦までの約8ヶ月間に大小合わせて128回の空襲を受け、特に2月4日の無差別焼夷弾爆撃は後の東京大空襲に始まる市街地絨毯爆撃の実験的なものと言われ、[2][1]それ以前の空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃であったものが、この日の爆撃が焼夷弾による爆撃へとアメリカ軍の爆撃方針を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、兵庫区林田区湊東区に特に集中し投下された[1]3月10日東京大空襲を皮切りに都市部に対する無差別焼夷弾爆撃が本格化し、名古屋、大阪への空襲の後の3月17日未明には、兵庫区、林田区、葺合区など神戸市中西部が壊滅的被害を受けた。5月11日には、武庫郡本庄村川西航空機甲南製作所が精密爆撃を受ける。この空襲では、武庫郡の灘から西灘にかけての地域(現在の東灘区灘区)が大きな被害を受けた。さらに6月5日の空襲により、西部の須磨区垂水町から東は西宮市までの広範囲が爆撃され、それまで被害の少なかった神戸市東部や武庫郡が焦土と化し、3度の大空襲でほぼ神戸市全土が壊滅した[1]

被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とされるが、これは確定的なものではなく実際はさらに膨大な被害であったと推測されている。神戸市の人口1000人当たりの戦争被害率は47.4人であり、人口および面積から換算した被害率としては当時の五大都市の中でも最悪の数字であった[1]

周辺の部隊の反撃もあり、京都の高射砲部隊がB-29アシッド・テストII(機長ユージン・F・トーヴェンド少佐)を撃墜するなどの戦果もあったものの、上空からアメリカ軍機を駆逐するには至らなかった。

敗戦後の状況

激しい空襲の戦災によりほとんどの機能が停止状態となったため、1945年11月1日「神戸市復興本部」が設置され、中井市長自らが本部長に就任。復興に関する重要事項を企画審議するための諮問機関として「神戸市復興委員会」が設けられ、元神戸市長の勝田元や当時大阪鉄道局長であった佐藤栄作ら、多方面からあらゆる分野の人材が招聘された。2月30日には日本政府の「戦災地復興計画基本方針」の閣議決定を受けて、翌1946年3月14日、「神戸市復興基本計画要綱」が制定され、罹災地域の戦災復興計画と、「大神戸」構想が示された。そこでは神戸市の性格を「国際的貿易都市」とし、これに商工業都市、文化都市、観光都市の性格を併有させるとされ現在の神戸市の礎となった[1]

神戸大空襲が登場する作品

関連文献

  • 聞き手・青田貴光 (2014年8月12日). “夏の伝言 戦後69年【1】 経済評論家 内橋克人さん(82) 大空襲 おばちゃんが「身代わり」になった”. 朝日新聞  - 内橋が神戸大空襲について語っている。
  • 『神戸大空襲』 神戸空襲を記録する会編、のじぎく文庫、1972年。
  • 『神戸空襲体験記』総集編、神戸空襲を記録する会編、神戸空襲を記録する会(出版) のじぎく文庫(製作)、1975年。 - 資料:神戸空襲を記録する会の歩み:pp.496-498。
  • 『炎の記録神戸大空襲 神戸空襲を記録する会10年の歩み.』 神戸空襲を記録する会、1981年8月。 - 資料:神戸空襲を記録する会の10年・戦時下の世相と神戸空襲:pp.41-46、神戸空襲戦災資料目録:pp.51-60。
  • 『神戸大空襲 戦後60年から明日へ』 神戸空襲を記録する会編、神戸新聞総合出版センター、2005年12月。ISBN 4-343-00339-6。 - 資料:折り込1枚。
  • 野坂昭如 『一九四五・夏・神戸』 中央公論社〈中公文庫〉、1977年。

脚注

関連項目

外部リンク