篠田正浩

提供: miniwiki
移動先:案内検索


篠田 正浩 (しのだ まさひろ、1931年3月9日 - ) は、日本映画監督。株式会社表現社代表取締役、早稲田大学特命教授[1]日本中国文化交流協会代表理事、城西国際大学メディア学部客員教授[2]

経歴

1931年3月9日岐阜県岐阜市で生まれた[1]岐阜県立加納高等学校を卒業後、早稲田大学第一文学部に進学[1]。卒業後、松竹に入社した[1]

1960年代にかけて大島渚吉田喜重とともに松竹ヌーベルバーグの旗手と呼ばれた[3]。早々に会社と衝突して独立した二人と異なり、篠田は松竹にしばらく残った後、1966年にフリーになり、翌1967年に独立プロダクションの表現社を設立した。前衛的作品も辞さない大島や吉田に比べ、篠田は平易なサービス精神も持ち合わせており、独立後の60年代後半から70年代前半は『心中天網島』(1969年)や『無頼漢』(1970年)などの先鋭的な作品を独立プロから連発したが、70年代後半からは『はなれ瞽女おりん』(1977年)や『鑓の権三』(1986年)などの大手映画会社配給の大作が多い。1990年、『少年時代』で第14回日本アカデミー賞の作品賞・監督賞を受賞。カンヌ国際映画祭のコンペティション部門へは『写楽』(1995年)など3度の出品を果たした。2003年、大作『スパイ・ゾルゲ』を最後に映画監督からの引退を発表した。

また、1986年から1987年TBS系列番組『日本が知りたい』ではキャスターも務めた。

2016年、京都国際映画祭2016で牧野省三賞を受賞[4]

人物

妻は女優岩下志麻で、美術家篠田桃紅は従姉に当たる。先妻に早稲田大学時代のクラスメートだった詩人の白石かずこがいる。広島カープのファンである。

高校時代は400m走の選手だったこともあり、大学入学時に早大競走部に入部。当時の早大競走部の長距離コーチで、後にオリンピックマラソン代表の瀬古利彦を育てた中村清に長距離転向を促され、1年生で1950年箱根駅伝に出場し、「花の2区」を走った。翌1951年に足の故障で陸上選手を断念した[5](ただし、当時は3区がエース区間で、2区は現在でいうエースクラスが集う区間ではなかった)。大学駅伝に対しては強い思い入れを持っており、毎年シーズンになると熱心に観入っているという。特に箱根駅伝については「箱根駅伝は一種の神事だと思うんだ。お正月から、若者たちが箱根の山に向かって走るわけだ。たすきは各校の御輿でね。」とインタビューで答えている[6]

監督作品

主な著書

出演

テレビ

CM

受賞・ノミネート

関連人物

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 「監督・篠田正浩インタビュー」、『宇宙船』Vol.106(2003年5月号)、朝日ソノラマ2003年5月1日、 27頁、 雑誌コード:01843-05。
  2. 城西国際大学メディア学部 教授陣
  3. 勝田友己によるインタビュー、山田洋次「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。
  4. “篠田正浩監督、京都国際映画祭「牧野省三賞」を受賞”. 映画.com. (2016年10月13日). http://eiga.com/news/20161013/23/ . 2016閲覧. 
  5. 「私の奈良 篠田正浩3」『週刊新潮』2011念6月16日号、p.150
  6. “特集:箱根駅伝:お正月の「神事」 篠田正浩さん(映画監督)”. YOMIURI ONLINE. (2013年11月19日). オリジナル2014年6月21日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140621012435/http://www.yomiuri.co.jp/sports/ekiden/2014/feature/20131119-OYT8T00517.htm . 2014閲覧. 

外部リンク



テンプレート:日本アカデミー賞最優秀監督賞