細川護久

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細川護久 / 細川喜廷
時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
生誕 天保10年3月1日1839年4月14日
死没 明治26年(1893年9月1日
主君 徳川慶喜
肥後熊本藩
氏族 細川氏

細川 護久(ほそかわ もりひさ)は、肥後熊本藩の第12代(最後の)藩主(藩知事)。熊本藩細川家13代。

生涯

天保10年(1839年)3月1日、第10代藩主・細川斉護の三男として生まれる。幼名は義之助(よしのすけ、美之助とも)[1]または澄之助(すみのすけ)、のち父より1字を受け護久と名乗る(初め長岡姓)。

父から藩主を継いでいた次兄・慶順の名代的役割を担っており、文久3年(1863年)9月に上洛し[1]て以後は、前年に京都護衛のために上洛していた[1]実弟の長岡護美と共に国事に奔走している。幕末期においては、幕府の首脳である松平慶永(春嶽)松平容保らと共に公武合体に尽力したほか、藩主・慶順に代わって、細川内膳家長岡忠顕(ただあき)らとともに朝廷との交渉役も務めたという。

慶応2年(1866年)、兄・慶順(生まれた子は全て夭折)の世子(養嗣子・後継者)となり[1]、同2年12月5日1867年1月10日)、第15代将軍として徳川慶喜征夷大将軍に就任すると、熊本藩主の慣例に則ってその偏諱(「喜」の字)を賜い、喜廷(のぶたか)[1][注釈 1]と改名した。しかし、この後慶応3年(1867年)ごろからは藩主の名代として朝廷や幕府首脳らと関わる機会が増え[1]、次第に明治新政府寄りの姿勢を見せるようになる。

慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは砲火を掻い潜って旅装のまま御所へ参内しこれを護衛したというエピソードも伝わっている[1]。それからまもなく新政府より同月12日には議定[2]、17日には刑法事務総督に任命され[1]、同年4月23日、新政府側に与する確固たる意思を示すため、兄・慶順の「韶邦」への改名に倣って、名を喜廷から護久に戻した。翌明治2年(1869年)3月には参与に任命されるが5月には病気を理由に辞職している[1]。更に翌年の明治3年(1870年)5月8日、兄・韶邦が隠居(理由は病気であったとも、もともと佐幕派であったこともあり新政府との関係があまり良くなかったためともいわれる)すると、世子であった護久が跡を継いで藩知事となった[3]

護久は弟の護美を重用し、藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など、当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。一方で体制一新のため、早くから新政府に廃藩を提言した。明治4年3月[4]と同年5月の2度にわたって藩知事免職を願い出た。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官、同年に白川県(現在の熊本県知事となる。

明治10年(1877年)に起きた西南戦争では、戦禍に遭った人たちの扶助に尽力したというエピソードも伝わっている[1]

明治17年(1884年)、華族令公布に伴って侯爵に叙される[5]。明治26年(1893年)9月1日に死去した。享年55。細川侯爵家の家督は長男の護成が継いだのち、四男の護立が継承した。

栄典

関連項目

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 『全国版幕末維新人物事典』224頁。
  2. 『新熊本市史別編』3、熊本市、2003年。
  3. 熊本市 2003, p. 45.
  4. 熊本市 2003, p. 46.
  5. 5.0 5.1 叙任」、『官報』第307号、1884年7月8日、 3頁 (コマ2)、. 2018閲覧.
  6. 叙任及辞令」、『官報』第1351号、1887年12月28日、 334頁 (コマ10)、. 2018閲覧.
  7. 叙任及辞令」、『官報』第1929号、1889年12月2日、 3頁 (コマ2)、. 2018閲覧.
  8. 叙任及辞令」、『官報』第3055号、1893年9月2日、 13頁 (コマ1)、. 2018閲覧.

注釈

  1. 他の書物等によっては「喜」と表記するものもみられる。また、慶喜が「よしひさ」と読む説に従えば「ひさたか」と読むことになる。慶喜も在任期間はわずか1年程であったため、彼から1字を賜った外様大名も護久(喜廷)ただ一人だけであった。

参考文献

  • 『新熊本市史別編』3、熊本市、2003年。
  • 歴史群像編集部 [編] 『全国版幕末維新人物事典』 学研出版、2010年。ISBN 9784054044630。(電子版はこちらから)
日本の爵位
先代:
叙爵
侯爵
肥後細川家初代
1884年 - 1893年
次代:
細川護成

テンプレート:熊本藩主