背後の一突き

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ファイル:German National People's Party Poster Teutonic Knights (1920).jpg
1920年総選挙時の国家人民党によるポスター。敵と相対する騎士(ドイツ軍)を背後から社会主義者が妨害している。
ファイル:Stab-in-the-back postcard.jpg
1919年に発行されたオーストリアポストカード。ナイフを持ったユダヤ人が戦場のドイツ兵を背後から刺そうとしている。

背後の一突き(はいごのひとつき、: )とは、第一次世界大戦敗北後のドイツ国内において、主に右翼政党がヴァイマル共和政左翼政党、ユダヤ人等を批判する際に好んで使った主張である。「背後からの一突き」、「匕首伝説(あいくちでんせつ)[1]」。

概要

1919年、国民議会でドイツの敗北の原因を調査する調査委員会が開かれた。この委員会で喚問された元参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥の発言がこの伝説の元となった。ヒンデンブルクの証言によると、第一次世界大戦におけるドイツの敗因は、軍事的作戦による失敗ではなく、革命後に政権を主導した社会民主党や、革命を扇動していた共産主義者らに求められるべきであるとする。

もっとも、ドイツの歴史学者であるフリードリヒ・マイネッケはその回想録の中でドイツ革命が始まる前の1918年10月に右派政党であるドイツ祖国党系の新聞において、ドイツの苦戦の原因を国内の弱気な人々と敗北主義者(暗に社会民主党や中央党左派の人々からなる「自由と祖国のための国民同盟」など、戦争遂行の方針を批判した人々を指す)のせいだとする批判論が展開されていたと述べており、ヒンデンブルクの証言以前にルーツを求める考えもある[2]

第一次世界大戦休戦の時点で戦線はフランス領内にありドイツ領内に連合軍の侵入を許してはいなかったこともあって、この主張は右派や保守層に広く受け入れられ、休戦協定に調印したマティアス・エルツベルガー暗殺されたことや、ドイツ国大統領フリードリヒ・エーベルトが裁判所において「国家反逆罪」を犯したと認定されたこと、さらには共和政そのものへの不信感の遠因となった。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)においても公的な第一次世界大戦観として採用され、アドルフ・ヒトラーが政権を獲得するのにも一役買うことになる。また、第二次世界大戦の収拾にあたって連合国側は「ドイツ側に『背後の一突き』と主張できる余地のない完全な敗北を与えねばならない」として、無条件降伏の主張やヒトラーから後継指名されたフレンスブルク政府の否認などの強硬策をとることになった。

脚注

  1. 下村由一「Die Geheimnisse der Weisen von Zion-ドイツにおける近代アンティゼミティズムの一史料」駒澤大学外国語部論集3 ,1974-03,p.5. NAID 120005493370
  2. 佐藤真一『ヨーロッパ史学史 -探究の軌跡-』(知泉書館、2009年)P258-259

関連項目

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