能美郡

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能美郡(のみぐん)

加賀国(石川県)中央南寄りの郡。日本海に面し、明治の郡区編制では、北と東は石川県石川郡と岐阜県大野郡、南は福井県大野郡、西は石川県江沼郡に接していたが、現在は東部南半は石川郡に西南部は小松市域になっている。南半は白山山地、北半は鈴ヶ岳に発する梯(かけはし)川の形成した沖積平野である。弘仁十四年(八二三)三月の加賀国立国で、同年六月四日江沼郡から北半の軽海(かるみ)・野身・山上・山下・菟橋(うはし)の五郷と安宅・比楽(ひらか)の二駅が分離して成立した。加賀国府は、能美古墳群の発達している郡域中心部の野身郷に置かれ、郡名もこの郷名に由来し好字に代えられた。越前国江沼郡に属していたころすでに成立していた東大寺領幡生(はたう)荘・西大寺領本堀荘以外、平安時代末までに成立しているのは板津荘(郡家荘)ぐらいで、国衙の勢力が強かった。在地小領主層の活動は活発でなかったが、軽海郷に進出した白山宮の勢力は強く、安元二年(一一七六)目代藤原師経と合戦し本寺延暦寺とともに強訴して国守藤原師高を配流せしめる事件を起している。室町時代中期から本願寺門徒の力が増大して白山宮の勢力は衰退、能美四講が形成され、長享二年(一四八八)以後は一向一揆が支配した。安土桃山時代に織田信長の進出で天正三年(一五七五)―八年に一向一揆は潰滅、同十一年から村上頼勝が領主となった。領主は慶長三年(一五九八)丹羽長重に代わったが関ヶ原の戦で領地を没収され、同五年から加賀藩領となり明治に至った。ただ白山麓十八ヵ村は、越前藩との争論で寛文八年(一六六八)以後天領となる。加賀藩は草高十二万五千四百三十三石、二百六十五村七十五垣内の郡内を十の十村(とむら)組に区分して支配した(八兵衛組・三右衛門組・孫七組・与兵衛組・太右衛門組・勘兵衛組・六郎兵衛組・紋兵衛組・源右衛門組・次郎左衛門組)。廃藩後、明治五年(一八七二)足羽(あすわ)県から白山麓十八ヵ村を編入、同二十二年の町村制施行に際し小松・安宅の二町と四十二村に編成された。昭和十五年(一九四〇)十二月市制をしいた小松市は同三十一年までに郡の西南部をほとんど市域に編入し、白山麓の白峰・尾口・鳥越の三村も同二十四年六月に石川郡に編入されて、現在は寺井・根上(ねあがり)・辰口(たつのくち)・川北の四町からなる(平成元年(一九八九)四月一日現在)。金平(かなひら)金山・尾小屋銅山は江戸時代に開発され、特に金山は加賀藩財政を支えたが、いずれも衰微し昭和四十六年に閉山された。早場米中心の農業のほか江戸時代以来の伝統産業の九谷焼や絹織物など繊維工業が特産であり、最近は化学工業が盛んになりつつある。



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