藤原泰衡

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藤原泰衡
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 久寿2年(1155年
もしくは長寛3年(1165年
死没 文治5年9月3日1189年10月14日
氏族 奥州藤原氏

藤原 泰衡(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡高衡通衡頼衡がいる。

生涯

母太郎、当腹太郎(当腹の太郎)

奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。母は陸奥守藤原基成の娘。異母兄の国衡は「父太郎」「他腹之嫡男」と称されたのに対し、正室を母とする泰衡は「母太郎」「当腹太郎(当腹の太郎)」と呼ばれ、嫡男として扱われた(『愚管抄』)。『玉葉文治4年(1188年)1月9日条には秀衡の次男であるにもかかわらず、「太郎」と記述されている。秀衡正室所生の子は何人かいたか、もしくは泰衡のみだったのかは正確には不明だが、秀衡の6人の息子(男子)の中で泰衡が正室の長男だったと推測できる。

秀衡の死と遺言

文治3年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続する。父秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、平氏滅亡後に頼朝と対立し平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた頼朝の弟源義経を大将軍として国務せしめよと遺言して没した。

玉葉』(文治4年正月9日条)によると、秀衡は国衡・泰衡兄弟の融和を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。

頼朝の圧力と一族の相克

文治4年(1188年)2月と10月(あるいは11月)に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請する。『尊卑分脈』の記述によると、この年の12月に泰衡が自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。翌文治5年(1189年)1月、義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧・手光七郎が捕まるなど、再起を図っている。2月15日、泰衡は末弟の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。2月22日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。2月9日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、2月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。4月にで泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。

ついに屈した泰衡は閏4月30日、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。同年6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。6月26日、泰衡は弟の忠衡を義経に同意したとして殺害している(『尊卑分脈』の記述によれば、忠衡の同母弟とされる通衡も共に殺害している)。泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。

奥州合戦での敗北

泰衡は鎌倉軍を迎え撃つべく総帥として国分原鞭楯(現宮城県仙台市青葉区国分町周辺)を本営としていたが、8月11日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。8月21日、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は灰となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝や舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。

8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。『吾妻鏡』によると、以下のような旨が書かれていたという。「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らない事です。父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。これは勲功と言うべきではないでしょうか。しかるに今、罪も無くたちまち征伐されるのは何故でしょうか。その為に累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。さもなくば死罪を免じて遠流にして頂きたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います。」

最期

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、9月3日に次郎に裏切られて殺害された。享年25、もしくは35[1]

6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬罪した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて近親者の手により、黒漆塗りの首桶に入れられ、父秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。

泰衡の子としては時衡秀安泰高(康高、万寿、万寿丸)の3人がいたとされる。

時衡は「岩手県史」の記述によれば、父泰衡と共に討たれており、妻子の存在は確認できない。

秀安の子孫に関しては、「岩手県史」に載せられている「阿部藤原氏系譜」によれば、長男・秀宗は承久3年(1221年)に子が無く没した(享年22)。次男・良衡(1204年 - ?)は安倍頼久の娘・佐和子を正室とし、信衡(1240年 - ?、通称・藤原左司馬)を儲けた。信衡は安倍安助の娘を娶り、頼衡(1278年 - ?、通称・藤原久馬)が生まれた。頼衡は安倍安兵衛の娘・市子を正室とし、孝衡(生没年不詳)を儲けた。この孝衡の代から安倍氏(阿部氏)を称するようになったという。孝衡の子には朝衡(1335年 - ?、通称・安倍五郎)があり、その子で孝衡の孫に秀政(1358年 - ?、通称・安倍権六郎)がいたという。以下、孝晴、孝明と子孫は近世に続いたという。

つまり、「阿部藤原氏」の系譜は以下のようになる。ただし、「岩手県史」以外にこの系譜に関する記録物は発見されていない。

泰衡-秀安-良衡-信衡-頼衡-孝衡-朝衡-秀政(延文年間)-孝晴-孝明

泰高(康高、万寿、万寿丸)の事績に関しては、庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公(泰衡の生母)の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授3年(1377年)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」という伝承が残っている。

人物

頼朝に屈して父秀衡の遺言を破り、義経を討ったばかりか命乞いをし、最期は家来に裏切られて奥州藤原氏を滅亡させた泰衡は、偉大な秀衡の不肖の息子として評判は良くはなく、奥州藤原氏を滅亡させたことに関しては激しく批判されても仕方がない。『吾妻鏡』でも泰衡について「阿津賀志山の陣が大敗したと聞いてあわてふためき我を忘れ」、「一時の命を惜しんで隠れる事鼠のごとく、退くこと貎[2] に似たり」などと酷評して、臆病者として描かれており、判官贔屓の対象である義経を死に至らしめた件からも評判は芳しくない。だが、義経を闇討ちしたことに関しては、単純に泰衡を責めることはできないのである。

鎌倉幕府の高官が記した歴史書『吾妻鏡』はいわば、泰衡に敵対した鎌倉側の史料である。泰衡は秀衡が亡くなってから1年半の間、亡父の遺言を守り続けた。鎌倉幕府を迎え撃つために、福島盆地の北と南に大規模な土塁と空堀を築き(阿津賀志山と石那坂)、頼朝軍の攻撃に備えたという。また義経も、鎌倉との一戦に備え兵を集めていた。少なくともこの時期の奥州は一枚岩だったように思える。ところが、文治5年(1189年)4月30日、泰衡が衣川館にいた義経を襲撃して自害に追い込んだという事件が起こる。この突然の状況変化は、あまりにも唐突な感じが否めない。はじめから、義経を鎌倉方に差し出して、頼朝の許しを得るつもりなら、1年半もかけて鎌倉との一戦に備えた準備を進めたことは解せない。むしろ、鎌倉方の神経を逆なでする行為であり、慎むべきであった。和戦両様の構えであったとしたら、軍事の天才といわれた義経を失うことは、大きな損失であったはずである。泰衡がこの時点で義経を討った事件は、やはり泰衡は優柔不断で戦略性のかけらもない愚鈍な男で自らに降り掛かる災難から幼稚的な方法で逃れようと無駄な足掻きがあったことを証明するもので、泰衡の器量を貶めるには好都合な事件でもあった。実際、武士の棟梁として新しい政権を作り上げようとしていた頼朝が、事実上の奥羽独立政権だった平泉政権を容認するはずがないことは、泰衡も認識していたはずである。一方、泰衡が義経を襲撃した背景には、祖父であり後白河法皇とも通じていた中央貴族で、泰衡の母方の祖父でもある藤原基成の強い勧めがあったからだともいわれている。いずれにしても、現在の泰衡の人物像は前述したとおり、優柔不断で戦略性のかけらもない愚鈍な男というもので、文治元年(1185年)、守護、地頭を全国に設置して武家政治の基礎を固めた頼朝にとって、武家の棟梁は自分一人でなければならず、強大な力で奥州を支配していた奥州藤原政権の存在は、抹殺したかったに相違なかった。鎌倉幕府こそが唯一無二の武家政権であることを、内外に示したかったのかもしれない。また、『吾妻鏡』の記述は泰衡が討った義経に対する「判官贔屓」の心情も入っていることが指摘されており、泰衡の器量を完全に貶めて武家の棟梁の器ではなかったとし、頼朝と鎌倉政権を武家の棟梁として正当化する狙いがあるとも考えられる。それゆえに、『吾妻鏡』に記されている泰衡の人物像をそのまま受け取ることは早計であるとも思われる。

評価

前述の通り、実際には泰衡は最初から秀衡の遺言を破ろうとしていたわけではない。秀衡死後の、文治4年(1188年)2月、頼朝と対立して逃亡していた源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることが発覚した(『玉葉』文治4年2月8日条、13日条)。頼朝は義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す(『吾妻鏡』4月9日条、10月25日条)。泰衡は秀衡の遺命に従いこれを拒否し、業を煮やした頼朝が、文治5年(1189年)になると泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上している。また、『吾妻鏡』の文治4年4月9日条には、義経と泰衡が共同して東北の国衙や荘園を武力で略取して、京都の公家達から非難されたと記されている。この一連の流れは、当初は泰衡が頼朝に命乞いをし、縋っていたわけではないことを示している。事実、秀衡の死(1187年10月29日)から義経の死(1189年閏4月30日)まで1年半が経過している。秀衡の遺命は当初は守られていたのである。 だが、秀衡の死から1年半が経過する中で頼朝の圧力は増す一方であった。亡父の遺言も尊重しなければならなかったし、泰衡の双肩にはその亡父から受け継いだ平泉や奥州藤原氏を4代目の当主として守らなければならないという重責もあった。また、奥州藤原氏は初代・清衡は異父弟・家衡と2代・基衡は異母兄・惟常と争わざるを得なかったというように犠牲者を出しながらも、中尊寺や毛越寺の建立などによって、仏教による現生浄土を奥州の地に打ち立てようとしていた。その犠牲者の数や浄土への願いはその思いを代を重ねるごとに重くなり、平和主義そのものへと変化していった。秀衡の時代には源平の争乱に積極的に参戦せず、平氏や木曾義仲にも援軍を送っていない。秀衡は平氏、源氏、奥州藤原氏という三国鼎立を目指していたと現在では言われ、義経を保護したのも、「平泉幕府」なるものを築こうとしていたのではないかとの研究もある。しかし、この乾坤一擲の策もしくは賭は英邁な君主・秀衡だからこそ考え、実行することができるものであった。それらの要素が複雑に絡み合い、板挟みに近い状態となった泰衡は苦悩したと思われ、義経との間でも駆け引き、葛藤があったかもしれないが、今となっては知る由もない。この時期、激しい一族の相克があったと思われ、『尊卑分脈』の記述によれば、泰衡は自身の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分があり、六弟(末弟)の頼衡を理由は不明だが殺害している。

そして、再三の鎌倉側の圧力に屈した泰衡は義経の首を差し出すことで和平への道を模索、頼朝の圧力から逃れ、奥州藤原氏を存続させようとした。その為に、義経派であった三弟(異母弟)の忠衡、忠衡の同母弟とされる五弟の通衡を襲撃して殺害している。しかし、頼朝の真意は鎌倉の背後を脅かす存在である奥州藤原氏の殲滅であり、義経追討は建前に過ぎなかった。泰衡はそれを見抜くことができなかった、もしくは見抜くことはできていたが、平家を滅亡させ、九州まで勢力を伸ばしていた頼朝には28万4000の軍勢があった。それに対して奥州藤原氏の軍勢は17万であり、源氏勢力が強くなり、圧倒的不利な状況に打つ手が無く、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立した事などにより中立を維持できなくなった事も重なり、八方塞だったとも言えなくもない。ただ、秀衡の治世の終わりから頼朝の圧力は掛かってきており、頼朝と奥州藤原氏との対決は平家滅亡で歴史の必然となっていた。英邁な君主であった秀衡はその圧力に対して、もはや頼朝との衝突は避けられないと考え、頼朝との関係が悪化する事を覚悟で、頼朝と対立し亡命してきた治承・寿永の乱の英雄・義経を受け容れる。この処置は義経を頼朝からの襲撃に備えるための守りの要とするためで、決して義経に対する情けではなかった。当時の状況を鑑みれば、秀衡が安元年間の頃に匿って養育した義経をただの情けで受け容れることはできなかった。秀衡は英邁な君主であったため、そのような「火遊び」を安易にすることや「火中の栗を拾う」ことをする人物ではない。それを裏付ける証拠として、『平治物語』では秀衡は義経受け入れには否定的で「東北の然るべき家の婿や養子に入ればいい」と言い放ったことになっている。実際、義経は最初から平泉に亡命せず、九州に逃れようとしている。たまたま、瀬戸内海で嵐に遭遇し、大阪に戻った為、吉野山に逃げ込んだりと近畿を転々とした結果、北陸を経由して、平泉へと至った。義経と奥州藤原氏の連携は歴史の必然ではなく、平家を滅ぼした戦上手である義経ならば、頼朝に対抗し、奥州藤原氏の守りの要になると踏んだからこそ、そのようなことが決定できたのである。頼朝が鎌倉を拠点をして力を付け始めた頃から奥州藤原氏との対立は潜在的に存在したが、義経が匿われたことによってそれは決定的となった。しかし秀衡の存在とその政治的駆け引きと外交戦術という手腕があったからこそ、頼朝の圧力を躱すことができ、均衡を保つことができた。頼朝は秀衡との直接対決を避け、その死を待って行動しようとした。秀衡が健在の間は奥州藤原氏を滅ぼすことはできないと考えたのである。事実、泰衡の代になると頼朝は朝廷に対しても義経追討、奥州追討、泰衡追討という働きかけという名の圧力を掛けている。日に日に泰衡の心理的圧迫も増していったと思われる。泰衡をはじめとする秀衡の6人の息子達には父のような政治巧者の才能は無く、兄弟仲も険悪な雰囲気が漂っていた。もしくは6人共、才能はあったのかもしれないが、時代と状況がそれを許さなかったと考えることもできる。加えて、秀衡の急死が重なってしまい、奥州を取り巻く状況は悪化の一途を辿っていた。そして遂に、泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を闇討ちしてしまった。この観点から言えば、義経を頼朝からの襲撃への備えとしたことで、頼朝に「謀反人である義経と同心している」とされて、奥州合戦の口実を与えてしまったことになり、結果として秀衡が遺した息子達と義経への遺言は裏目に出てしまった。以上のことを踏まえて考えれば、奥州藤原氏滅亡は必ずしも泰衡だけに原因があったと決めつけ、責めることはできない。だが、最終的に泰衡は頼朝に敗れ、家臣に裏切りで死亡したことと父秀衡の英雄である義経を保護したという事を含めた偉大さが後世に伝わってしまったこと、奥州藤原氏滅亡時の当主であったことで滅亡の責任を全て背負わされたことが泰衡の悲劇と言える。また、人々の義経に対する「判官贔屓」の心情(英雄・義経と共闘していれば頼朝に勝てたかもしれないという心情もその中に入る)、父の遺言と義経を支持した(正確には支持したとされる)3人の弟を殺害したこと、それと相俟って頼朝の宿所に投げ込まれた泰衡からの書状が余りにも独り善がりで自分勝手な内容で、図々しくも命乞いをして頼朝に縋っていると人々に受け取られてしまったとしてもおかしくはないと考えられる。これらの結果が泰衡の評価を低くさせていると見るべきであろう。

しかし、泰衡に対する評価は低いだけではない。秋田県の北東端に鹿角市がある。その鹿角市の中心部花輪から山間の方へ、直線距離にして9kmくらい南下していくと、桃枝(どうじ)という集落がある。戸数は20戸に満たない、目立たない小さな集落であるが、この集落は非常に興味深い。実は、この集落、ほとんどの人が藤原姓なのである。この地域に伝えられている話によると、昔、頼朝に追われて落ちてきた泰衡は、この地に宿陣した際、つき従ってきた家臣に「自分が戦死したら藤原の姓を継ぐように」と言い残したのだという。泰衡の家臣の一部は泰衡の死後もこの地に残り、それでこの地に住む人々は皆、藤原姓なのだそうである。この逸話は「炎立つ 伍」でも取り上げられていて、自分の一命と引き換えに奥州を救おうと死を覚悟した泰衡が家臣たちに藤原の姓を与え、後を追って死のうとする家臣に対して「藤原を名乗るからには生き延びよ」と諭したことになっている。その巻の中でも印象的な場面の一つである。実際、桃枝集落の一角には墓地があるが、墓のほとんどが藤原姓である。他には綱木姓の墓が2、3あるだけである。そして、藤原姓の墓に刻まれた家紋はすべて、奥州藤原氏と同じ「下がり藤」の紋である。それらの墓の一つに墓誌が刻まれていた。それには「我が藤原家の先祖は、今を去る事七百九十余年の昔、平泉を落ち給う泰衡公に属従し、此の地に至り、浪人して山深く隠れ住み、千古不斧の大森林に開拓の鍬を振っていた」とあった。この桃枝のある場所は、実は泰衡が蝦夷地に向けて落ち延びようとした道からは外れている。蝦夷地に向けて落ち延びようとしたのであれば、清衡が整備した奥大道を北上したものと考えられるが、桃枝はそのルートからかなり外れているのである。周囲を山に囲まれた地であるから、実際には泰衡自らここを訪れたのではなく、泰衡の死後、その遺言をおしいだいた家臣たちがひっそりと移り住んだ地と考えられている。これらの伝承から、岩手県など東北の諸地方からの視点で見れば泰衡もまた郷土の英雄であるため、近年では再評価されることも多い。 奥州藤原氏が支配していた一部ではあるが、泰衡を英雄視している地域もあるようである。

泰衡の首

金色堂に納められた泰衡の首については、長年弟・忠衡のものと考えられ、首桶が入れられていた木箱にも「忠衡公」と記されていた。1950年(昭和25年)の開棺調査にて、死因については斬首されたということで間違いはないのだが、その首には16箇所もの切創や刺創が認められた。なかでも眉間と後頭にある直径約1.5cmの小孔が18cmの長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24cm)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の記述と一致することから、忠衡のものではなく泰衡のものであると確認された。他にも右側頭部に刀傷と見られる深い傷があり、頭や顔に多数の切創や刺創があった。これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処された上で晒し首にされたと推定されている。また、鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認された。保存状態は良く、顔は丸顔、豊頬で若々しく、父に似て鼻筋が通り頑丈な顔立ちであったという。血液型はB型。歯の状態は綺麗で、レントゲン検査から第三大臼歯親知らず)の歯根が形成途中((智歯)の遠心根の尖端が石灰化未完成)。通常、歯冠が完成するのは12歳 - 16歳、萌出は17 - 21歳、歯根は18歳 - 25歳で完成するという)であることが判明し、没年齢は推定20 - 30歳代、もしくは25歳と判断されている。また、23 - 30歳、切歯の摩耗度合いから見ると30歳程度(前後)ともされた。一方、頭蓋骨は20代半ばと30代半ば両方の特徴を有するという見解も出されている。この判定から、『吾妻鏡』吉川家本に記されている25歳没説と北条本に記されている35歳没説の両方が無視できないことになり、確定はできていない。しかし、忠衡が23歳で没したとの『吾妻鏡』の記録から察するに、それ以上の年齢に達していたことは間違いないとされる。首には縫合した跡が見られ、近親者と考えられる人物により手厚く葬られていた。このような誤伝がなされていたのは、義経の「判官贔屓」の影響とされる。つまり、「父の遺言を守り悲劇の英雄・義経を支持した弟・忠衡こそ、真の4代目たるべし」という心情である。また、逆賊(謀反人)の汚名を被った泰衡が鎌倉軍が管理していた金色堂に納められる訳がないという長年受け継がれてきた思い込みからの推測も理由として挙げられる。研究者の間では謀反人である泰衡が葬られることを近親者(樋爪俊衡・季衡兄弟との推測がある)が憚ったため、首の主を「忠衡」ということにしたという憶測もある。

また、泰衡の高祖父にあたる藤原経清の首であるとの伝承もあった。

中尊寺ハス

なお、開棺調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見された。種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽を成功させた。泰衡没から811年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、ハスの花は中尊寺の讃衡蔵に保存された。中尊寺ではこのハスを「中尊寺蓮」と称し境内の池に栽培している。

その他

泰衡は、『伊達次郎』と称していたということから、福島県北部の伊達地域との関わりも考えられる。伊達郡に隣接する信夫郡は奥州藤原氏と関連の深い佐藤氏が支配していた。佐藤氏は奥州藤原氏と同じ秀郷流藤原氏で、秀衡の頃の当主基治は秀衡のいとこの乙和子姫を妻にしていたとされ、また乙和子姫の娘は泰衡の弟・忠衡に嫁いだという。そのような奥州藤原氏と強固な関係を持った佐藤氏の支配地に隣接する伊達地域は、文治5年(1189年)の奥州合戦の折に泰衡が長大な防塁を築いた地域でもある。泰衡がこの地域を直接統治していたという証拠はないが、奥州藤原氏の影響力の強い地域だったことは窺える。

また、文治5年9月3日に泰衡が秋田で討たれ、首の無い遺体はその死を憐れんだ贄柵周辺の住民たちによって錦の直垂に大切に包まれて埋葬され、「錦様」と呼ばれ、その場所に里の民によって埋葬されたとされ、その埋葬地とされる場所には、泰衡の墓石を御神体として祀る錦神社が建っている。それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻・北の方が夫の死を知って嘆き悲しんだ末に同年9月7日に自害し亡くなった場所に夫人を憐れんだ里人が建立した西木戸神社が建つという(夫人のために五輪の塔を祀ったといわれている)。

脚注

  1. 『吾妻鏡』吉川家本では享年25、北条本では享年35とする。
  2. 小形の獅子、子犬の意か。『現代語訳 吾妻鏡 4 奥州合戦』(吉川弘文館)の訳は「雛鳥」。

泰衡を題材とした作品

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