西太后

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西太后(せいたいこう、せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))

中国,清朝,咸豊帝の側室で,同治帝の生母である慈禧 (じき) 皇太后のこと。エホナラ (葉赫納喇) 氏の出身。咸豊帝の没後,同治帝が5歳で即位すると,恭親王奕訢とはかり,クーデターで反対派を一掃,東太后とともに摂政となった。同治 13年 (1875) 同治帝が死ぬと,自分の妹の子を立てて光緒帝とし,みずから摂政となった。光緒 13 (87) 年から光緒帝の親政が始ったが,国政の実権は西太后が握り,同 24年光緒帝が立憲君主制への転換をはかると,クーデターでこれを妨害し,帝を幽閉した (戊戌の変法 ) 。義和団の排外運動が高揚すると,自己保身のためこれを利用し,列強に宣戦を布告したが,8ヵ国連合軍の侵入を受け,敗れて西安へ逃げた。あらゆる進歩的改革に反対してきた西太后は,北京帰還後は立憲準備,実業,教育の振興などの新政を実施したが,対外的には排外政策から屈辱的外交に一転し,中国の半植民地化はますます深刻となった。革命運動,立憲運動の高揚のなかで光緒帝と相前後して死んだ。



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