越前松平家

提供: miniwiki
移動先:案内検索


越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。

歴史

家祖の秀康は、長兄信康自刃ののちは家康の庶長子であったが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに下総結城氏を継いだこともあって、徳川家の家督および将軍職の後継者に選ばれなかった。関ヶ原の戦いののち越前国北ノ庄(福井)に67万石、またそれまでどおり下総国結城郡も与えられた。これにより秀康の石高は75万石となった。晩年、名乗りを結城から「松平」に戻し(史実として立証されている保科正之と同視された上で、秀康は最期まで結城姓のままであったという説もあり、また「徳川」を名乗ったとする説もある)、これにより越前松平家が成立する。「家康は秀康が重篤と知るや、100万石の朱印状を出したが、秀康死去となり幻のものになった」という俗談も残っている[注釈 1]

越前藩は長男の忠直が継いだが、将軍家に反抗的であるなどの理由で、叔父で岳父でもある第2代将軍秀忠によって、元和9年(1623年)に豊後国に配流された。秀康以来の重臣本多富正や、多賀谷村広土屋昌春矢野宗喜雪吹重英らをはじめとする家臣団は、幕命で弟の忠昌越後国高田から移動した際に継承した。ただし忠直の附家老であった丸岡本多家本多成重は独立した大名となり将軍家に直属し、弟の直正直基直良への分封および越前敦賀郡の没収により、忠昌が入った福井藩は忠直時代から大幅に縮小し50万石となった。以後25万石への減封などを重ねながら幕末へと至る(廃藩時は32万石)。ただし田安家から養子を迎えたため忠昌の血筋は途中で断絶している。

一方、忠直の嫡男光長に対しては、忠昌が支配していた越後高田の地に25万石(26万石とも)が与えられた。しかし越後騒動が勃発すると改易となり、光長は配流処分となった。数年後、光長家の継嗣として、支流の直基流松平家より養子として宣富(直基の孫)が迎えられ、宣富に対して美作国津山に10万石が与えられた。以後、将軍家から養子を迎えるなどしつつ、紆余曲折を経ながらも幕末まで続いた。

越前松平家の分枝

  • 越前松平家は分家が多く、越前松平家の大名は秀康の諸子から兄弟順に津山松平家福井松平家松江松平家前橋松平家明石松平家の五家が分かれ、さらに福井藩から糸魚川藩、松江藩から広瀬藩母里藩が分かれ、合計で8家を数える。これらは後世便宜上、幕末期の各家の主な領地所在地の名称で分類され、本記事でも以下でその名称を用いる。
  • 明治維新後、領地の実高や維新での貢献度などから爵位は福井が侯爵、松江と前橋が伯爵、他が子爵となった。幕藩体制での格式や官位はあまり考慮されなかった。
  • 大名として独立しなかった庶家は、秀康の生母長勝院の苗字である永見氏を名乗った。

秀康の諸子から出た家(兄弟順)

福井藩の支藩

松江藩の支藩

系図

凡例:太字は当主、実線は実子、点線は養子。数字は代数を表す。家ごとの系譜は秀康の息子の代の兄弟順に掲載する。
秀康1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠直2忠昌直政直基直良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津山家福井家松江家前橋家明石家

美作(津山)松平家

福井松平家

松江松平家

前橋松平家(結城家)

初代の直基は結城晴朝に養育され、父秀康と他の兄弟が松平氏に復縁したため、養祖父から下総結城氏の家督(名跡)を継承した。しかし祖父の死後に松平氏を称した(家紋は結城氏のものを継承)。最終的に前橋藩主として明治時代を迎えたが、江戸時代の間に姫路藩山形藩白河藩川越藩など何度も転封を繰り返しており、第2代当主の直矩のように一代で何度も転封させられた者もいる。なお、歴代当主は大和守を称した者が多い。それらのことから、同家系は結城松平家もしくは松平大和守家と称される。

明石松平家

糸魚川松平家

広瀬松平家

母里松平家

「制外の家」

越前松平家は「将軍の兄」の家として他大名と違って江戸幕府から特別な扱いを受けていたとする「制外の家」であるという主張が福井藩側より主張されてきた[1]

同家の祖とされる秀康は慶長10年(1605年)に異母弟である秀忠が征夷大将軍に任じられると権中納言に任ぜられ、同時に天下(=豊臣政権)の「政庁」であった伏見城に詰めて、家康・秀忠が領国の江戸城に「下向」している間は留守役として諸大名や公家との折衝にあたるという体裁を取っていた。ただし、これは、秀康が家康にとっては年長の息子でかつ秀忠の庶兄であった「徳川家」一門内部の話であり、江戸幕府の大名としての秀康は江戸への出仕が命じられたり、江戸城の普請などの負担を行ったりするなど、あくまでの一大名として扱われていた[2]

秀康の死後、嫡男の忠直が家督を継いだ。忠直は秀忠の娘婿であったが、その幕府内の席次は官位においては下である徳川頼房(家康の末子・後の水戸徳川家)の下とされ、前田利常加賀藩前田家)の上とされ、後に元服して高田藩を与えられた忠昌とその弟で松江藩を与えられた直政は忠直の次とされた。黒田基樹は当時の越前松平家と「徳川」名字を許された徳川御三家との間には明確な一線が存在した一方、家康に近い「松平」名字の一門(具体的には久松松平家奥平松平家)の中では最高位にあったとする、ただし、これは諸大名の一員の中において最高位だったことを示すもので、「制外の家」の扱いを受けていた訳ではない[2]。ただし、高田事件の際に将軍・徳川綱吉の諮問を受けた尾張藩徳川光友が光長が越前家の「惣領筋」であること、幕府成立において越前家の功績は御三家よりも大きく(「大功の家」)、大功の家を潰せば御三家も同様の不祥事があれば改易せざるを得なくなると回答している[3]

松平忠直の改易後、忠直の嫡男である仙千代丸(後の松平光長)は高田へ、忠昌は福井へと移封された。黒田は越前家の家督は光長が継承したものの、忠直の幕府内での格式は年長でもある忠昌が継承して光長はその下となったとする。ところが、忠昌の死後、福井藩は若い藩主が続き、長命であった光長が越前松平家一門の宗主としての地位を確立する。ところが、天和元年(1681年)に高田騒動で高田藩の松平光長が改易され、5年後の貞享3年(1586年)には福井藩主の松平綱昌も精神的理由で改易される。同年、福井藩は先代の松平昌親が復帰して25万石で再興、高田藩は元禄11年(1697年)になって津山藩10万石として再興が許された。両家とも格式を落とした上、正徳年間に藩主であった福井藩の松平吉邦(綱昌の弟)と津山藩の松平宣富(光長の養子で、忠直・忠昌には甥)は年齢が1歳差で同じ左少将であったことから両者にライバル関係が生じ、福井藩と津山藩の間で本宗家を巡る論争が生じることになった[4]

松平吉邦に仕えていた大道寺友山は享保元年(1716年)、秀康・忠直・忠昌の3代の当主について記した『越叟夜話』を著している。友山は徳川将軍家を「本家」・越前松平家を「嫡家」と称して、宗家である徳川将軍家は兄の流れである越前松平家を惣領筋と認めて「制外の家」(=特別な家)としたと初めて主張した。同時に越前松平家も越前家(忠昌流・福井藩)を「本家」・越後家(忠直流・高田藩→津山藩)を「嫡家」と称して、兄の流れである越後家は惣領筋の特別な家ではあるが一門の主である宗家はあくまでも福井藩であると述べたのである。つまり、「制外の家」とは徳川将軍家や江戸幕府に対してよりも津山藩(越後家)に対して福井藩の特別な立場を主張するために生み出された言葉だったのである[5]

宗家論争

忠直流の津山藩松平家、忠昌流の福井藩松平家のどちらを宗家とするかについては諸説あり、兄弟順に併記する。

津山松平家説

忠直の嫡男・光長以降の祭祀継承系統が越前松平家宗家であるとの説。

  • この場合、「秀康の次男である忠昌の越前入国は、宗家が減転封された後地に分家が増転封されたもので、宗家の相続とは異なると見るべきである。忠昌は秀康の次男だが、英勝院の養子となることで立身したため、「イエ」制度下での越前家の範疇にはなく、また、福井就封にあたっては、家督相続を行っていないため、制度上の宗家ではない。」とする[注釈 2]
  • 忠昌以降の福井松平家説を主張する者は、後述のように「選抜された主要家臣団が福井に残り、福井松平家が家中を引き継いだ」という点をひとつの論拠にしているが、主要家臣団は福井松平系統とこの津山松平系統に分かれて相続されている。従ってこの論拠は当たっていない、と言えなくもない。『国事叢記』[注釈 3]に拠れば「忠昌の北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ庄への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣の内の幕府により選ばれた105名が忠昌に出仕し、その他の家臣[注釈 4]は光長に随って越後高田藩士となった。また、老臣のうち、本多飛騨守(本多成重)は大名になり、小栗美作守岡島壱岐守本多七左衛門らは光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守(本多富正)のみ忠昌に出仕した。」とされ、幕府による選抜、他藩仕官などから漏れた残りの家臣団は、高田藩立藩の家臣団になったと推測される[注釈 5][注釈 6]
  • 将軍家からの養子である第8代斉民は、天保6年(1835年)の老中・大久保加賀守(大久保忠真)への内願書にて越前本家は津山松平家と主張し、斉民自身の生家である将軍家との約束として旧石高への回復を求めている。その中で斉民は自身の津山藩が本家であると主張、一方、越前国(福井藩)は分家であると断じ、「分家が『三十万石余ニ而越前国ヲ領地致候故本家与心得候茂有之間敷物ニモ無御座候』との状況になっている」と主張し、津山松平家の「秀康家筋之規模」すなわち津山藩家が本家であることが明らかになるように、三位の格式と(福井藩と対等の)30万石の復活を求めている。これに対して幕府は天保8年(1837年)8月に秀康、忠直、光長らが用いた「金十文字投鞘対鑓」の使用を旧例に復することや、海のない津山藩領に小豆島の一部を加えたほか、預地などでの配慮を見せている。「金十文字投鞘対鑓」の使用は先代で復した三河守任官なども併せて、幕府が津山松平家が秀康嫡流であることを改めて示した史実といえる[注釈 7]
  • 親族である毛利家内で本藩・支藩関係に問題があったときや相続に関して、光長が関与した[注釈 8]
  • 越前家支流は皆忠直から賜った偏諱の「」を持つ初代を戴いており、忠直の「直」を各家は通字としている[注釈 9]
  • 越後騒動時、分家である松江家や大和守家(前橋家)や光長の親族である毛利家が仲裁にあたったが、福井家は関与していない[注釈 10]
  • 松江家、前橋家、明石家が津山松平家を宗家と認識していた内容の古文書が残る。
  • 慶長10年(1605年)に結城秀康が拝領した江戸上屋敷(本邸)の麹町屋敷は、江戸図屏風(林家所蔵)に「松平越後守」と記載されている[注釈 11]
  • 津山家が結城秀康から伝わる系図や家宝および家伝の品々を代々所持していたという史実がある(なお、現在国宝に指定されている童子切安綱は秀忠から忠直を経て津山藩の家宝となっていた)。
合戦の際、敵味方を区別する越前家の合印「剣大」は、初代秀康が兄の信康から授けられたもので、本多重次の忠義を代々忘れないために、本多の「本」という字を二つに分けて「大」を合印とし「十」の部分を槍の鞘の形としたとされたもの。「剣大」は越前から越後、そして津山へと継承された。津山藩松平家は「剣大」を参勤交代などで使用していた。津山歴代藩主は親王家御三家に許された駕籠「渋色網代黒塗長棒」の使用が許されており[注釈 12]、藩主が参勤交代で用いた「渋色網代黒塗長棒」や「剣大」が施された甲冑津山市内に現存する[注釈 13][注釈 14]
ただしこれは(第7代藩主斉孝に嫡男がいなかった為と、幕府からの要請[注釈 18]もあって(老中からの書状が現存))、持参金による赤字財政の補填および家格復活と領地復活を狙って将軍家から養子(斉民)を迎えたためである[注釈 19]。この行動により斉孝は、左近衛中将に任官されている[注釈 20]
家康から続く越前家の名乗りである三河守は秀康、忠直、光長と受け継がれ津山初代藩主・宣富に先んじて津山に入国(元禄11年11月)した松平綱国(元・光長養嫡子→廃嫡。津山で没する)も任官した。以降(津山藩時代)は消滅していたが、上述の第7代斉孝の養子である斉民の元服から三河守任官が復活する。また津山藩主に例の多い越後守は、光長に因む官職である[注釈 21]
津山藩第8代藩主の斉民が幕府へ加増を働きかけた際、老中らに宛てた書状に「当家は越前家であるにもかかわらず現在の藩領は不相応であり対応してほしい」とあり、津山藩が控えとして残した書状の写しが現存する。この時、斉民は光長時代の越後国高田と同等の石高への復活を求めており、現存する老中からの返書に「先代、斉孝の時、10万石に復すると同時に家格も越後国高田時代に復し配慮している。加増は難しい」とあり、津山家の家格が旧に復していたことは、津山家の養嗣子である斉民が元服と同時に三河守に任官されていることからも分かる[注釈 22]
「二月十日西巌公(忠直)西国ヘ退隠、公(光長)家督ヲ承ケ祖父(秀康)以来ノ遺跡一円領知スヘキノ旨ヲ命セラル」
また寛永元年(1624年)に、
「三月十五日越前家一門ヲ営中に召テ、越前国ハ北陸要枢ノ地タルニ付、仙千代(光長)幼少ノ故ヲ以テ暫ク越後国高田城ヘ移転シ、高二十五万石ヲ賜フノ旨ヲ命セラル」
「是日(3月15日)伊予守忠昌五十万石ヲ賜テ越前北荘(福井)ニ移サル」
貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」(『越系余筆』: 井上翼章文化3年(1806年)、松平文庫蔵)とあって、寛政12年(1800年)に福井松平家に対して幕府は『福井松平家系図』の修正を命じ、福井松平家では越前家の代数より光長を排除する作為を系図に加えた。『福井県史』通史編3・近世一では「光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない」、「細川忠利は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、秋田藩の重臣梅津政景も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」と執筆者は結論付けしている。
以上から、「一旦光長が相続した上での当主交代もしくは転封であった」とも考えられる。

福井松平家説

忠直の配流と、幕命による弟・忠昌の越前国入国および領土継承・主要家臣団相続によって、忠昌以降の系統が越前松平家宗家になったとされる説。

  • (上述より[注釈 23])幕命により光長は「結城秀康から続く越前家本家の系譜」から除外されている。このことにより、「一旦光長が相続した上での転封もしくは当主交代」ではないと認定されている。「秀康 - 忠直 - 忠昌 - (以降福井藩主家)」これが「幕府公式見解」(1806年)であり、忠直から光長への(一旦であろうとも)継承は公的に認められていない。
 忠直配流および諸分家創立の際、「幕府からの附家老である越前府中本多家」[注釈 24]および「幕命により選抜された越前家主要家臣団」(100騎とされる)は越前福井に残留されており、越前松平宗家・北ノ庄藩というシステム自体からすれば、体制にはなんら変化のない「当主の交代」というだけである。これは幕府公式の主流は福井家であるという事実の、史実による証明でもある。幕府が能ある家臣のみを選んで残したことにより、忠昌の相続時に藩政の混乱はほとんど発生しなかったと伝わる。『国事叢記』[注釈 25]に拠れば「忠昌の北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣の内の105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣は光長に随って越後高田藩臣となった。また、老臣のうち、本多飛騨守(本多成重)は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守(本多富正)のみ忠昌に出仕した。」とされ、忠昌および福井藩の寛大さを示すとともに、幕府と本多富正による前述の選抜や他藩への仕官などから漏れてしまった残りの家臣団が、高田藩立藩の家臣団になったと推測される。なお叢記の記述に関して、忠昌相続時に他の兄弟(直政、直基、直良)もそれぞれに越前国内に藩を成立させたが、それらを含めた諸藩に再仕官した家臣らもおり、選抜に漏れた残りの全てが高田藩に再仕官したのではないという点に留意したい。いずれにせよ「幕府が選んだ家臣団」は福井藩に相続し、忠昌藩政の中核を担っている。
  • 福井藩歴代藩主の官職は、以降数々の騒動や落ち度による減封、養子縁組などを経た後もおよそ「一族の祖である秀康所縁の左近衛権少将」もしくは「第2二代忠直所縁の左近衛権中将」である。幕府が福井藩主家をどう捉えていたかが理解できる。
 忠昌は相続以降、江戸城内の伺候席はそれまでの福井藩(北ノ庄藩)主と同じく、大廊下下之部屋となっていた。忠昌の藩主就任が、幕府により正式な相続と認められていたことが理解できる。
 第2代将軍秀忠の死後、第3代将軍家光の名の下に、諸大名や縁者、旗本ら4,000人を対象にした、先代秀忠の形見分けが行われた。その際の分配額の多いほうから並べるに、御三家尾張徳川家紀州徳川家にそれぞれ30万両、水戸徳川家に10万両、外様筆頭の石高である前田利常伊達政宗に対しては銀子1万枚が賜与された。次に、5,000枚が与えられたのは松平忠昌松平(池田)忠雄佐竹義宣上杉定勝細川忠利毛利秀就加藤忠広浅野長晟黒田光之京極忠高鍋島勝茂藤堂高次加藤明成池田光政らの14名。次の格として、3,000枚が与えられたのは松平光長蜂須賀忠英山内忠義生駒高俊有馬豊氏寺沢広高南部利直の6名となっており、以下諸大名・旗本らが並ぶ。この史実を見るに越後高田藩(光長)は決して粗略に扱われていたわけではなく、将軍家の極近親者であり20万石余の大名である光長はさすがに、親族大名としてはかなりの高位に属するが、しかしここに福井藩と越後高田藩との明確な差があったことが理解できる[8]
 忠昌以降の福井藩歴代藩主の名乗りに関して、藩主交代時の混乱があり、かつわずか2年ほどの治世であった第5代昌親[注釈 26]を除き、「通、(昌親)、昌、品、邦、昌、矩、昌、富、好、承、善、永、昭」と、幕府から歴代藩主に対し、当代の将軍の偏諱を与えられた(偏諱授与・一字拝領)。一橋家から養子に入った重昌以降を特別扱いと考え、それ以前のみを見ても、幕府が福井藩主家をどう捉えていたかが理解できる[注釈 27]
 偏諱授与の最も顕著な例を挙げる。前橋松平家第4代の明矩、福井藩第10代の宗矩、津山藩第3代の長煕、この三人は実の兄弟で、前橋松平家分家の松平知清の子であるが、それぞれが若年のうちに養子として他家を相続している。この三兄弟の中で元服時(以降も含む)に将軍家からの偏諱授与を受けているのは、長幼の順や元服時の年齢は関係なく、福井藩主家を相続した矩だけである。同じ秀康を祖とする一族の大名家の中で、将軍家が福井藩主家を格別として捉えていたことが理解できる。
  • 「忠昌は忠直もしくは光長の正式な養子ではないので、家督を継承したとはいえない」とする意見があるが、江戸初期の当時のいまだ明確になっていない制度上、その必然性はない。養子縁組ないまま、兄弟間で家督相続される例は稀少ではない。伺候席、任官等の諸事例を考慮するまでもなく、幕府の公式な見解がそれを証明している。また大藩の相続はしばしば、幕府の意向が第一とされた。
 類似の例として、彦根藩井伊氏を挙げる。譜代筆頭の格式と石高を持っていた井伊氏は江戸初期、終生を徳川家康に仕えた井伊直政の死後、彦根藩を一旦長男の直勝が相続するが、幕府の指示により次男の直孝が交代相続することとされた。直勝の相続の件は公式記録から外され、直勝には上野国安中藩が与えられた。家臣団も幕命により振り分けられ、以降次男である直孝の系統を内外ともに宗家と呼び、長男の直勝の系統は分家とされた。この井伊家の場合は「幕府所縁の名門大藩である」「江戸初期である」「相続に際し、養子縁組はない」「幕府の指示による相続である」「家臣団の振り分けなども幕府の指示である」などが福井藩のケースと共通している。
 さらに類似の例として、上野国館林藩榊原氏の例を挙げる。終生を徳川家康に仕えた榊原康政の死後、長男忠政は母方の大須賀氏を継いだため、三男である康勝が跡を継いだが、若くして死去し、榊原家は断絶の危機となった。榊原の名を惜しんだ幕府は、前述の大須賀忠政の嫡男忠次に対し榊原の名跡を継ぐことを認め、大須賀改め榊原忠次として存続させた。この榊原家の場合は「幕府所縁の名門大藩である」「江戸初期である」「既に他藩の藩主であった」「相続に際し、養子縁組はない」「幕府の指示による相続である」などが共通している。
  • 「忠直の嫡男 松平光長とその子孫は宗家としての格式を持たぬ嫡流の家として嫡家と呼ぶのが妥当」と主張する向きもあるが、この言葉の初出は、後になって儒学的見地から「越前家とは?」を問われたとある軍学者の弁護の言でしかなく、また同文中で(「越前家と将軍家の関係」「古来、次男三男等が『家』を継ぐ例」などを挙げつつ)「本家は福井」とはっきり述べている。いずれにせよ公的な根拠はない[注釈 28]

ここまでが「秀康 - 忠直 - 忠昌 - 以降福井藩主家」を正統とする、幕府公式見解についての説明である。

また、越前家第2代忠直の子である光長を経て、津山藩立藩に至る行程に関しては以下の通りである。

  • 上記津山松平家説で述べられているように[注釈 29]、「一旦光長が継いだ」「光長と忠昌は国替えである」と推定できる当時の著述も存在するが、正式な継承は前述の幕府公式見解により否定されている。また、既に配流されていた忠直は既に越前家当代という立場にないため「手続き上の表現」として光長(仙千代)の名が出るのは不自然ではない。
  • 光長に与えられた高田領は忠直の継承ではなく、幕府による光長への新知(新規取立て)である[注釈 30]
  • 越後騒動により高田藩は改易となり、光長は当時の嗣子(養子)共々流罪となり、一旦家は消滅した。
  • のちに光長は許され、復位復任され諸侯に列し、俸禄として3万俵が新たに支給されることになる。
  • 「忠直 - 光長系の祭祀の継承」をした長矩(宣富。光長の養嗣子)に与えられた津山城と津山領10万石は、光長の公式な場からの隠居ののち、期間を置いて新たに与えられたものであり、光長の血統・家中とは別のこれまた新知である。就封と同時に長矩は積極的に藩政を運営し、津山藩松平家の歴史は長矩より始まる。
  • 長矩(宣富)は当初、実父松平直矩の一字偏諱を受け矩栄と名乗っていたが、光長の養嗣子となった際に光長の偏諱を受けた上で父親の一字と合わせ長矩と名乗っていた。しかし津山藩を立藩したのち将軍徳川家宣の賜諱を受け、宣富と再度改名した。そこに光長の名の痕跡はない。
  • 前述のように、当時光長(の家中)に対しては「津山藩とは別に」隠居料として合力米年3万俵(3万石相当)が支給され、諸侯(ないしはその隠居)として扱われており、光長家と津山藩(津山松平家)は家中家計共に別である。また光長の死後、隠居料である合力米年3万俵は津山藩には継承されなかった。
  • 津山藩には光長の隠居料である合力米年3万俵を含め、家中のシステムおよび合力米は継承されていない。光長の死後(他藩の例に則れば[注釈 31])、この隠居料である合力米年3万俵や光長の家を継承する「光長家」とも言える家を創設できたかもしれないが、相続する子(実子・養子を問わず)がいなかった。旧光長家臣の一部は他家へ仕官し、一部はわざわざ姓名を変えて縁戚である津山藩に引き取られた。光長の隠居料である合力米年3万俵は幕府に収公されて消滅している。比類なき血統に生まれ、数奇な運命に翻弄された光長家は惜しくもこれにて断絶した。
  •  津山藩はのちに代々、「越後守」を名乗るが、これは光長に由来するものであり、津山藩が独占して任官される慣例となっていた。幕府が津山藩を「光長を由縁とする家」と認識していたことがわかる。つまり、それ以上遡ることはない[注釈 32][注釈 33][注釈 34]
  •  『徳川諸家系譜』第4巻における津山松平家家譜のタイトルは「越前支流美作津山松平」である。

以上のことから、忠直から光長を経て津山藩祖宣富の立藩までの過程に、藩制度上および血統・家の連続性は無い。「越後守」の名乗り継承や祭祀の継承をもって、津山藩の出発点を光長に求める場合は「光長に関連し派生した、越前松平家の新しき一門連枝」となる。

脚注

注釈

  1. 越後騒動直前(1681年時点)で見ると、越前松平家一門の合計総石高は100万石を超えていたが、幕末時点では90万石余でわずかに届かない状態である。
  2. 別家として立藩した過程はこの通りであるが、別に分家していた兄弟が、正式に兄の跡を継ぐことは極めてよくある例である。
  3. 弘化3年(1846年)福井藩の命を受けた藩士が編纂した、福井藩歴代の諸話を集めた書物。「叢」の文字が示すように、藩内に伝わる話を大量雑多に収録してあり、福井藩史研究の一資料である。しかし正式な「藩史」ではなく、例えば「徳川三河守秀康」「光通は村正の刀で自刃」忠直改易の年が間違う、など、巷談や不正確な記述も多く、内容は信憑性に欠ける部分があることに注意。
  4. 忠昌相続時に他の兄弟(直政直基直良)もそれぞれに越前国内に藩を成立させたが、それらを含む諸藩に再仕官した家臣らもおり、残りの全てが高田藩に再仕官したのではないという点に留意。
  5. 「幕府からの付家老本多家」および「幕命より選抜された主要家臣団」は福井藩付属とされている。これが幕府の公式見解である。幕府が能ある家臣のみを選んで残したことにより、忠昌の福井藩相続時に藩政の混乱はほとんど発生しなかったと伝わる。つまり、「福井藩政に影響を及ぼさない残りの400人」、これが新たな越後高田藩士となった人員である。また、選抜から漏れた人員に対し、再就職の自由を認めている、福井藩および忠昌の寛大さを示す巷談である。
  6. 秀康の若い頃から忠直時代も仕えた、越前家を代表する家臣本多富正(幕府からの附家老本多家当主)は、独立大名化の打診を断って、次代藩主忠昌に仕えることを選択している[6]。のち改めて将軍より、「先代忠直までと変わらず忠昌に仕えるように」との訓示を受けている。
  7. 斉民が将軍家からの養子であったための我侭に対する配慮であり、父である将軍家斉存命中のこの我侭に対し幕閣は「『秀康家筋之規模』が明らかになるよう」な「三位の格式と30万石の復活」は結局行わず、その他の許可でお茶を濁す形となっていることが明らかとなっている。彼が切望した三位の格式に達するのは明治になってから、明治維新以降の功績によって、のことである。なお、その10年前の明治2年(1869年)に前福井藩主松平春嶽正二位であった。また、これらの津山藩に対する配慮によって本家福井藩の格式が下方に改められた等の史実はなく、幕府の福井藩に対する扱いが史実として観て取れる上に、幕命による福井藩歴代の記録は「秀康-忠直-忠昌-(以降歴代)」のままで改められることは一切なかった。また、斉民が提示した「30万石」は光長の所領石高であり、光長を祖とする越前家連枝という立場を改めて明確にしただけである。三河守任官については後述されている通り、将軍家からの養子縁組による配慮であり、史実としての本家論争とは関係がない。また、老中からの返書には「先代、(斉民を養子とした)斉孝の時、5万石から10万石に加増することで復すると同時に家格(名乗り等)も越後国高田時代に復し配慮している。加増は難しい」とあり、史実として当時幕府は津山藩を「越後高田以降の家(名乗りの配慮)」「津山立藩以来の家(10万石)」と認識していたことが判る。つまりそれ以上遡る事はない。津山藩の但馬丹後の飛地と小豆島の天領との国替えは、海のない津山藩に海産資源を安価でもたらすこととなり、津山藩の財政や領民を潤し、また今日に至る津山と小豆島との交流の基となっているが、本家論争とは全く関係がない。
  8. 越前松平氏主流と長州藩毛利家は血縁関係が深いが、なにより光長の正室が毛利本家たる長州藩毛利秀就の娘であったため、であり、越前家の本家論争の問題ではない。
  9. 当の光長をはじめとして、福井藩、津山藩共に以降そのような例はなく、松江前橋など他の分家に於いても、数例が見られるのみである。そもそも幕府により配流となった人物(忠直)の偏諱を継承する理由が無く、各藩を設立したそれぞれの藩祖の通字を使用しているのだと推測できる。
  10. 福井藩は当時家中の混乱期に当たり、他藩事情を処理する猶予はなく、他の支流の藩主らも丁度代替わりの時期で、藩主に若年者が多かった。故に当時の越前松平家一門中で比較的藩主歴が長く、年長であった播磨国姫路藩主の松平直矩(前橋家)と出雲広瀬藩松平近栄(松江家分家)が仲裁処理を命じられただけである。また、支流の家中の揉め事の調停に、本藩の藩主が東奔西走することはない。
  11. 相続当時に既に20万石超の大名であった忠昌には既に、江戸城大手門からほど近い場所(現在の東京都千代田区[[大手町 (千代田区)|]]二丁目付近)に立派な屋敷が与えられていたため、秀康から忠直に相続され、当時光長ら忠直の家族が居住していた麹町屋敷はそのままとなっただけである。藩地の変更により屋敷の変更が行われることはない。またのちに津山藩上屋敷は別の地へ移転することから、忠直-光長と津山藩の非連続性を証明する史実でもある。
  12. 将軍家からの養子藩主以降であり、宗家論争とは別である。
  13. 「剣大」は、津山藩松平家を経て現在は津山市の市章(昭和7年制定)として受け継がれている。
  14. 忠直の所持物(前述の童子切安綱など)や合印は、「配流済の先代藩主忠直が次代藩主忠昌に譲渡する」という手続きを行うことができなかったため、子息の所持物となっただけである。従って特に「津山松平家宗家説の正当性を示すもの」ではないことに留意。これらの物が忠直のあくまで私物であると解釈するなら、子である光長に継承されてもなんら間違いではないが、家のものであるとするならば、継承譲渡を行わなかった側の落ち度ということになる(似たような例として、江戸初期幕閣の大人物・名宰相とされる保科正之は、「保科家」の正式後継者たる保科正貞に対し、自身が養父より譲渡され所有していた保科家代々の文物を後年、正式に譲渡(返還)している)。ともあれ、親子間での文物の継承という一例と家(家中・藩・系譜)の継承をイコールで考えてはならない。
  15. 光長の権中将任官は忠昌の死後のことであり、比較対象とすること自体が無意味である。ちなみに忠昌生前時の官位は光長のそれを常に上回っている。また、光長個人は(父親の問題を除けば)秀康の孫でもあり、母・勝姫は3代将軍徳川家光の同母姉という比類なき血統であり、高田立藩時の新規知行石高の大きさ、官位の高さ、改易からの復帰などの破格・例外の優遇があっても当然のことである。また比較的長命であったこと、改易に幕府の権力闘争が絡んだことが内外に認識されていたこと、処断および復帰時は第5代将軍徳川綱吉の独裁期であり、比較的奔放豪放な処断が下される政治体制であったこと、これらの要素も光長の異例ともいえる改易からの復帰や破格にも見える官位の向上に繋がったが、越前家の宗家云々の問題とは別である。
  16. 江戸幕府の扱いとして、津山家が“越前松平氏総領家”として扱われた史実はない。一方福井藩主家には藩主相続時に一門当主が江戸城に集められるなどの“総領家扱い”の史実がある。
  17. 徳川家斉の子を養子として受け入れ、かつ、徳川将軍家に近しいいわゆる近親一族家(御三家や越前松平家一門など)は概して権中将以上の官位が与えられている。
  18. 当時の将軍徳川家斉には公式な男子だけでも26人の子供がおり、いわば押し付け先に苦労していた。押し付けた先は莫大な持参金と家格の向上などがほぼ約束されたため、実子がいるにもかかわらず、家斉の子を養子に迎え入れる藩が複数あった。
  19. その10年後、斉孝に男子が誕生する。津山藩はこの子を斉民の養子に迎え、将軍家との縁を切る形で津山家を継がせた。
  20. 「同時期福井家も将軍家から養子を迎えていて条件は同じなのに福井藩より上。やはり津山家が特別だと言える。」とする説もあるが、福井家に養子入りした松平斉善は19歳で若死にしているので、それ以上の生前の官位の向上はあり得ず、当時としては長命であった津山斉民とは比較対象になり得ないことに留意すべきである。福井藩主家は早世した藩主や懲罰の時期を除けば、基本的に家祖である結城秀康・松平忠直に由来する権少将から権中将となるのが通例であり、養子縁組などの特殊な措置などなくとも権中将格の家であった。
  21. 逆に、将軍家からの養子がなければ津山家は「光長以降の家(越後守家)」と認定されていたことが理解できる。比較となる福井藩主家の藩主は藩の大幅減封などの紆余曲折を経つつも、その官職は「一族の祖である秀康所縁の左近衛権少将」もしくは「第2代忠直所縁の左近衛権中将」である。
  22. 津山藩自身が同家を「越後高田以来の家(福井藩時代は考慮せず)」と捉えていたことがわかる。
  23. 「貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」[7]とあって、寛政12年(1800年)に福井松平氏に対して幕府は同系図の修正を命じ、福井松平氏では越前家の代数より光長を排除する作為を系図に加えている。
  24. 本多家の当主の本多富正は秀康の幼少期からの古参の臣であり、第2代忠直にも仕えた。そもそも独立大名格の待遇を得ていた冨正は忠直改易時に幕府より一旦、完全独立大名化の打診を受けているが「越前家への恩」を理由にこれを断っている。以降は幕命により藩主交代の業務に携わり、福井藩に残す主要家臣団の選抜にも関わり、筆頭家老として次代藩主忠昌に仕え、これまで通り越前家を取り仕切った。将軍家より直々に「先代までと変わらず、忠昌に仕えるように」との命も受けている。これもまた幕府による忠直から忠昌への正当な継承、という史実による証明でもある。
  25. 弘化3年(1846年)福井藩の命を受けた藩士が編纂した、福井藩歴代の諸話を集めた書物。「叢」の文字が示すように、藩内に伝わる話を大量雑多に収録してあり、福井藩史研究の一資料であるが正式な「藩史」ではなく、例えば「徳川三河守秀康」「光通は村正の刀で自刃」忠直改易の年が間違う、など、不確かな記述や根拠のない巷談も多く、内容を全て史実と捉えることはできない点に留意。
  26. 相続以前に既に支藩(吉江藩)の藩主であり、支藩主としての格式では元服時に将軍家から拝領することはなかった。かつ2年弱の本藩主としての在任期間には貰う猶予もなかった。ただし昌親はのちに第7代藩主として再任した際は品と一字賜諱されている。
  27. 一方の津山藩主家は初代宣富以降、浅五郎(早世)、長煕、長孝、康哉、康乂までの歴代に例はなく、康孝が将軍から養子を貰ったことによって自身が一字拝領し「斉孝」と改名して以降、斉民(将軍家斉実子)、慶倫となっている。つまり「将軍家からの養子が入って以降の、将軍家親族としての家格向上」である。
  28. 「忠直が勘気を被ったのち越前の城を召し上げられその一年を過ぎてから別儀忠昌公に本家相続を仰せつけられ城領地を拝領した」「本多伊豆(秀康・忠直次代からの越前家筆頭家老本多富正)はじめ諸家老中御家につとめ公儀の思し召しも以前と変わらないのだから御家を越前家の本家、越後を御嫡家というべき」とある[9]
  29. 肥後国熊本藩細川忠利『越前御国替に罷り成り』[10]出羽国秋田藩重臣梅津政景『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』[11]
  30. 福井藩もまた後々吉品の代に一旦廃絶・新知となったという見解があるが、吉品は幕府から直々に相続の命を受けており、以降も家の格式などは相続されている。またその継承の際、江戸城に越前松平家支流一門当主が集められ、その場で直々に福井藩相続の沙汰が下っている。わざわざ支流当主を集めるこの処置からも、「福井藩主家が一門当主である」と幕府が位置づけていたことが理解できる。松平吉品(昌親)の項目参照。
  31. 近しい例として、俸禄1万俵を数代継承し、のち1万石の大名となった糸魚川藩松平家など
  32. 徳川家康以降、秀康、忠直が名乗った「三河守」の官を、光長養子の綱国が名乗っているが、越後騒動による改易、および綱国の離縁、出家以降、新しく養子となった長矩(宣富)の津山藩主家に継承されることはなかった。のち第8代の斉民(将軍家からの養子)、第9代の慶倫が三河守を名乗るが、将軍家からの養子入り以降の家格向上の影響に縁るものであり、将軍家近親者として、徳川家の名誉ある官職を授かったのである(徳川発祥の地・三河や将軍家お膝元の武蔵の「守」名乗りは不遜であるとして、江戸政権が本格的に成立して以降、原則許されないものとされていた)。また斉民はそののち三河守を改め、歴代津山藩主と同様に「越後守」となっている。ちなみに「津山藩主家の三河守任官の影響で、福井藩主家を主流とする幕府の公式見解が訂正された」様の記録はない。
  33. 同様に福井藩主家が任官されていたのは、忠直由来の「越前守」であり、一族の祖である秀康由来の「左近衛権少将」もしくは忠直由来の「左近衛権中将」である。
  34. 越前松平支流諸家の例を挙げる。松江松平家は藩祖松平直政以降「出羽守」、前橋松平家は藩祖松平直基以降「大和守」、糸魚川松平家は第3代松平堅房以降「日向守」であり、いずれも分家初代に相当する、つまり自藩のルーツを名乗ることとなっていた。明石松平家は藩祖松平直良以降「但馬守」であったのが、津山家と同様に将軍家からの養子以降、家格向上している。

出典

  1. 黒田、2017年、P251
  2. 2.0 2.1 黒田、2017年、P252-253
  3. 黒田、2017年、P256
  4. 黒田、2017年、P255-257
  5. 黒田、2017年、P251-252
  6. 『本多家記』、『国事叢記』など。
  7. 『越系余筆』井上翼章・文化3年(1806年)、松平文庫蔵
  8. 徳川実紀大猷院殿御実紀
  9. 大道寺友山『越叟夜話』
  10. 寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料
  11. 梅津政景日記』寛永元年六月五日条

参考文献

  • 黒田基樹「制外の家-越前松平家の実像」(初出:『歴史読本』730号(新人物往来社、2000年)/所収:黒田『近世初期大名の身分秩序と文書』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-230-8)

関連項目