通化事件

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旧満州国通化省通化市(現吉林省通化市)

通化事件(つうかじけん)とは、1946年2月3日中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による日本人及び朝鮮人に対する虐殺事件。日本人約3000人が虐殺され、その多くが老若男女を問わない一般市民だった[1]。中国では通化"二・三"事件[2]などと呼ばれる。

当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍

当時、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍(李紅光支隊)と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人などで構成されていた朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称され、「36年の恨」を口にしながら東北民主連軍と共に暴行掠奪強姦処刑を行った[3][4]

背景

当時の通化の状況

通化は終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていた[5]。交通の要所である通化には大勢の避難民が集まっており、1945年8月18日には通化国民学校に避難民収容所が設置された。また同年8月13日に発生した小山克事件に巻き込まれた避難民も到着しており、通化にもともと居住していた17000人[注釈 1]の日本人居留民と、10万人以上の他の地域からの避難民が滞在していた[6]。武装解除された日本兵は次々と吉林、次いでシベリアへと送られていった(シベリア抑留[7]

通化に避難してきた女性たちは顔に泥やススを付けて坊主頭にして男物の衣類を着ているか麻袋に穴を空けたものに縄帯したものやぼろぼろの姿であった[8][9]。通化の在留邦人が衣服や住居を提供するなどしていた[8]

ソビエト軍・中国共産党軍の進駐と暴行

1945年8月20日通化高等女学校短機関銃を持ったアジア系のソビエト兵2名がジープで乗り付けると校内に侵入し、女生徒たちがバレーボールの練習を終えて校舎に戻ろうとすると最後尾の女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした[10]古荘康光校長と村田研次教諭が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された[11]。連絡を受けた通化守備隊の中村一夫大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同でソビエト兵のジープを捜索したが発見できなかった[12]。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した[13]。翌日、ソビエト兵は再び女学校に乱入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した[14]。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した[15]。教師たちはソビエト兵を埋葬して線香と花を手向けると、菅原通化省公署次長と中村大尉に連絡し、寄宿生を連れて通化を脱出した[16]1945年8月24日[17][注釈 2]、ソビエト軍中佐以下将校20名、兵200名からなるソビエト軍通化に特別列車で進駐[18][17][注釈 3]、部隊の多くは油や泥にまみれた軍服軍靴姿でその軍靴の多くは関東軍のものであった[18]。さらに、半数は兵士の関東軍の三八式歩兵銃などの装備であり、日本軍では採用されないほど貧弱な体格の兵も多く、出迎えた人々にはみすぼらしく貧弱に映った[18]。ソビエト軍は司令部を満州中央銀行通化支店、日本興業銀行通化支店を経て竜泉ホテル[注釈 4]に設置した[20]。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍の兵器を譲渡された中国共産党軍も同市に進駐した。

占領下の日本人はソビエト軍による強姦暴行略奪事件などにも脅かされていた。この段階では日本軍憲兵隊はシベリアに連行されずに治安活動を行っており、ソビエト軍の蛮行を傍観していたわけではなかった。原憲兵准尉はソビエト兵が女性を襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けると、白昼の路上でソビエト兵が日本女性を裸にして強姦していたため女性を救おうと制止したが、ソビエト兵が行為を止めないため、やむなく軍刀で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に射殺され、この事件以降は日本刀も没収の対象となった。ソビエト兵による日本女性への強姦は路傍、屋内をとわず頻発していた[20]。女性は外出を避け、丸坊主に頭を刈る娘たちが多かった[20]。日本人居留民会がソビエト軍司令部に苦衷を訴えると日本人女性を慰安婦として司令部に供出するよう命令が出されたため、居留民会は料亭で働く日本人女性たちに犠牲となるよう頼み込み慰安婦として供出した[21]。ソビエト軍司令部は女性たちが司令部に出頭すると素人娘でなければ認めないと要求したが、同行していた居留民会救済所長宮川梅一はこれを拒否し、後日ソビエト軍司令部も折れた[22]。日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収されたため、外部の情勢を知ることは不可能となった。また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行した[23]

中国共産党軍の単独進駐以降

ソビエト軍の撤退後、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、楊万字通化省長、超通化市長、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した[注釈 5]。また、中国共産党軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月22日には、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した[24]10月23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐。11月2日[注釈 6]、中国共産党軍劉東元司令が着任する。司令部の置かれた竜泉ホテルでは「竜泉ホテル」の看板が「東北民主連軍東辺道地区司令部」の看板に掛け替えられ、屋上には赤旗が掲げられた[25]11月2日、中国共産党軍は17,000名を超える日本人に対して、収容能力5,000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した[26]。日本人1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとした[26]

11月初旬[注釈 7]、中国共産党軍は、遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)を設立し、日本人に対して中共軍の命令下達や、中国共産党で活動していた野坂参三の著作などを使用した共産主義教育を行った。日本人居留民たちが嘆願を続けると、中共軍は先に命じていた移動を見合わせる条件として、日本人民解放連盟は中共軍の指令に従い、日本人男子15歳以上60歳迄の強制徴用と使役、日本人居留民に対し財産を全て供出し再配分すること、日本人民解放連盟に中国共産党側工作員を採用することを命じた[26]

11月17日、中国共産党軍は大村卓一満鉄総裁であったことを罪状として逮捕した[24]

日の丸飛行隊飛来

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一式戦闘機(隼)

12月10日、通化に日章旗を付けた飛行隊が飛来し、日本人居留民は歓喜した。飛行隊は林弥一郎少佐率いる関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊であり、一式戦闘機(隼)、九九式高等練習機を擁していた。隊員は300名以上が健在であり、全員が帝国陸軍の軍服階級章を付け軍刀を下げたままであった。また、木村大尉率いる関東軍戦車隊30名も通化に入ったが、航空隊と戦車隊の隊員は全員が中国共産党軍に編入されていた[注釈 8]

12月15日、通化飛行場で飛行テストをしていた林弥一郎少佐は搭乗機のエンジン不調のため渾江の河原に不時着しようとして渡し舟のロープに脚をひっかけて墜落し、重傷を負った[27]

中国共産党の根拠地延安からは、日本人民解放連盟野坂参三(戦後日本共産党議長)に次ぐ地位にあり、当時「杉本一夫」の名で活動していた前田光繁政治委員として派遣された。

蜂起の流言

このような状況下、「関東軍の軍人が中華民国政府と組んで八路を追い出す」というデマが飛び交った。日本人も中華民国政府系の中国人も、この噂を信じた。そしてその軍人とは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐とされた。藤田大佐は終戦後、武装解除を待たずに師団を離れ、身を窶して家族共々通化を離れ石人鎮中文版(当時は石人と呼称・現在は吉林省白山市の一部)に潜伏していた。同年11月頃には八路軍の軍人や関係者が藤田の許を訪れ、このような流言を知った藤田は、説得に行くとして八路軍関係者と共に通化へ向かった。[28]これが藤田大佐とその家族との今生の別れになることになった。[29]

日本人居留民大会

12月23日[注釈 9]、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」などのスローガンのもとで日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人居留民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人居留民3000人が出席した。大会に先立って、日本人居留民たちは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。

大会では、元満州国官吏井手俊太郎が議長を務めた。冒頭、議長から「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」との発言がなされると、日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がなされた。日本人居留民たちは発言を求められると、日解連への非難や明治天皇御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言が続いた[30]臨江から避難してきた山口嘉一郎老人は岡野進(野坂参三)の天皇批判を万死に値すると痛撃した[31]。山口嘉一郎老人が「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こった[32]。議長が動議に賛意を示す者に起立をお願いすると、全員が起立したため動議が成立し、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われた[32]。次に山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」旨を述べた。最後に藤田大佐が演説を行ったが、中国共産党への謝意と協力を述べるにとどまった。後日、大会で発言した者は連行され、処刑された[33]

蜂起直前の状況・旧満州国幹部処刑(一月十日事件)

  • 1946年1月1日、中共軍(東北民主連軍)後方司令の朱瑞(zh)を隊長、林弥一郎を副隊長とした東北民主連軍航空総隊が設立される。同日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害される。
  • 1月5日、藤田大佐は中共軍に呼び出され、竜泉ホテルにある中共軍司令部に出頭。劉東元司令は藤田に関東軍が隠している武器を出すよう要求したが、参謀職である藤田は「大隊長や中隊長ではないので知らない」と返答したため、監禁された。これ以降藤田は、薬を渡しに来る看護婦柴田朝江[注釈 10]を介して有志からの情報を秘密裏に知ることになる。
  • 1月10日、日本人の通行が禁止され非常警戒のさなか日本人管理委員会主任委員趙文卿の署名入りの逮捕状を持った兵士たちが[34]、日本人民解放連盟通化支部幹部や旧満洲国の高級官吏・日本人居留民会の指導者ら140名が内海を殺害した容疑で連行され、専員公署の建物に抑留[34]。日本人民解放連盟通化支部は解散させられる。
  • 1月15日[注釈 11]午前4時、竜泉ホテルに監禁されていた藤田大佐が3階の窓から脱出し、有志の隠れ家となっていた栗林家に潜伏[注釈 12]。事前に脱出を知らされていなかった柴田は、脱出発覚直後に身の危険を感じてホテルの裏口から赤十字病院へ向かい、病院に着くと頭をバリカンで刈り上げて男性になりすまし[35]、直ぐに中共軍が病院の捜索を始めたため柴田久軍医大尉の手引きを得て栗林家へ潜伏した[36]。竜泉ホテルで藤田大佐のの相手をしていた北田光男も、脱出の手引きをしたとして拘束された[19]
  • 1月某日に林少佐が、負傷の身ながら日本人居留民を束ねていた桐越一二三の許を訪問。自らが桐越の名を彫り込んだ軍刀を桐越夫人に土産として渡している[注釈 13]
  • 1月21日菅原達郎[注釈 14]通化省次長、河内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた[37]。穏やかで信頼が厚く中国人からの評判の良い河内副県長の銃殺は日本人への衝撃は大きく、不安を決定づけた[38][39]。後日、日本人居留民は通化劇場に集められ、前田光繁から川内亮通化県副県長たちの処刑について当事者の責任であるから仕方のないことであるとした旨の説明がなされた[39][注釈 15]

蜂起から鎮圧後の虐殺まで

一月十日事件のあと、関東軍が蜂起するという流言が流れていた。計画は中華民国政府与党の国民党員と元関東軍軍人等で練られていた[41]。彼等は、監禁されている藤田大佐を奪還し(藤田の意思に関らず)これを象徴的な指導者として扱うつもりだった。

前日(情報漏洩)

2月2日、正午過ぎに林少佐は蜂起の情報を前田光繁に電話で伝えた[42]。前田は中国人政治委員の黄乃一を通じて航空総隊隊長の朱瑞(zh)に報告した[42]。同じ頃、藤田大佐の作戦司令書を持った中華民国政府の工作員が2名逮捕されており、劉東元中国共産党軍司令立会いの下で尋問が行われた[43]。工作員は拷問を加えられても口を割らなかったが、日本語の司令書は前田によって翻訳され、夕刻には中国共産党軍は緊急配備を行った[43]

通化市内は午後8時に外出禁止のサイレンが鳴ることになっていたが、この日はサイレンが鳴らず日本人は時計を持っていなかったことから外出中の人々は次々に拘束された。午後8時には、蜂起に向けて会合を開いていた孫耕暁通化国民党部書記長を始めとする中華民国政府関係者数十人が朝鮮人民義勇軍によって拘束され、拷問を伴う尋問が行われた[注釈 16]。また、一月十日事件で連行された日本人は牢の外から機関銃を向けられた(即時殺害を可能にするための準備)。

蜂起

2月3日、中国共産党は便衣兵や日本人協力者などからすでに情報を集めており、重火器を装備して日本人の襲撃に備えた。

柴田軍医大尉らは深夜に病院を抜け出すと変電所を占拠した。午前4時に電灯を3度点滅させたのを合図に、在留日本人は中華民国政府軍・林航空隊・戦車隊の支援を期待して元関東軍将校などの指揮下で蜂起した。蜂起した日本人にはわずかな小銃と刀があるのみで、大部分はこん棒やスコップなどで武装しており、蜂起成功後に敵から武器を奪うことになっていた。一方、瀋陽の遼寧政府(中華民国政府)からは「中華民国政府軍の増援の連絡がつかないから計画を延期せよ」との無線連絡がなされたが、無線機の故障で日本人には伝わらなかった。

日本人は中隊ごとに分かれて市内の中国共産党軍の拠点を襲撃した。佐藤少尉率いる第一中隊150名が専員公署めがけて突撃すると、待ち構えていた中国共産軍の機関銃や手榴弾によって次々となぎ倒された[44]。佐藤少尉以下10名が建物に侵入し、一月十日事件で連行された日本人が監禁されている牢に到達したが、待ち構えていた機関銃によって射殺された[45]。牢内の日本人も一斉射撃により全員が射殺され、これにより第一中隊は壊滅した[45]

阿部大尉率いる第二中隊100名は中共軍司令部の竜泉ホテルを襲撃したが、待ち構えていた中国共産党軍の攻撃により建物に近づく前に壊滅した[45]

寺田少尉率いる第三中隊は元通化市公署に駐屯している県大隊を襲撃した[45]。ここでは400名が内応するはずであったが、斬り込み隊は銃撃を受け犠牲者を出して引き上げざるを得なかった[45]

中山菊松率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容皇后浩皇弟妃皇女嫮生皇弟溥傑の次女)[46]を始めとする満州国皇室の救出に向かい、一時は公安局を占拠することに成功した。中山は皇室が捕らわれている部屋に飛び込むと皇弟妃浩の誰何に対し「国民党」「一番乗りの中山、お助けに上がりました」と答え、宮内府憲兵の工藤が救出に向かっていること、女中達が数軒先の家で風呂の用意をしていることを告げた[47]。まもなく公安局は中国共産軍に包囲され、機関銃や大砲による砲撃が行われた[48]。遊撃隊は次々と倒れ、皇后を守ろうとした満州国皇帝愛新覚羅溥儀乳母も砲撃で腕を吹き飛ばされ死亡した[49][50]。続いて皇帝一族に布団をかぶせて覆いかぶさるなどして守ろうとした日本兵、中国兵は砲弾により次々に命を落とした[50]。。

林航空隊では、鈴木中尉、小林中尉を筆頭に両中尉率いる下士官たちが蜂起に参加しようとしたが蜂起合図前に中共軍に拘束され、木村戦車隊も出発直前に包囲され中共軍に拘束された[51]

篠塚良雄によると、篠塚たちは竜泉街にある竜泉ホテルを占拠したとしている[注釈 17]

連行

午前8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された[52]。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。八路軍は連行する際、日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行した[53]。寝間着、素足に下駄履の者や病人までも零下二十度になる戸外を数珠繋ぎで行進させられた[54]。通化市から15km離れた郊外の二道江[注釈 18]から連行された人々には途中で力尽きて落伍するものもいてその場で射殺された[55]

八路軍の連行時に加来繁・田代・森が射殺された[56][57]。加来は行進中に倒れると引きずり出されて右股、胸を撃たれて銃殺[57]。田代の遺骸は事件後に殺害された場所で雪に埋もれた状態で発見されるが衣服は剥ぎ取られた状態であった[58]

強制収容

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして旧通運会社の社宅などの建物の各部屋に押し込まれた[6]。専員公署では8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められた[59]。拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされた。抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった[6]。三日間に渡って山中の倉庫に収容された中西隆も同様の体験をしている。中西を始めとする90人余りの日本人は数日間に渡って立ったまますし詰め状態で監禁されたため、発狂者が出るにいたった[60]。朝鮮人兵士達は黙らせるよう怒鳴るとともに窓際の6人を射殺し[60]、「お前たちはそのうち銃殺だ。ぱっと散る同期の桜じゃないか。36年の恨みを晴らしてやろう」と言い放った[60]。蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、民間人2千人(数千人とも)近くが殺された[6]

虐殺

拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどした。その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出されて虐殺が行われた。川岸に一人ずつ並べられた日本人が銃殺されて行く姿は皇弟妃浩によっても目撃されている[61]。渾江の下流の桓仁では、中国共産党軍の兵器工場で働いていた中村良一が連日に渡って上流から流れてくる遺体を目撃している[60]。女性にも処刑されるものがあった。川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。李紅光支隊は家宅捜索をしては掠奪し、女性たちを強姦した[62]。家族が見ている前で引き立てられ強姦され自殺した女性もいた[62]。また、事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても銃殺された[63]。大田黒家では負傷した男性を手当てした女性と12歳児が射殺され、銃傷を負った5歳児のみが一命を取りとめた[64]。藤田脱出幇助の疑いで竜泉ホテルで監禁されていた北田光男の生後一週間になる乳児は軍服姿の男に首を絞められて殺害された[19]。林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された[65]

百貨店での藤田大佐らの「展示」

3月5日、11月17日に逮捕されていた元満鉄総裁の大村卓一が海竜の獄舎で獄死する[24]3月10日になると市内の百貨店で中国共産党軍主催の2・3事件展示会が開かれ、戦利品の中央に蜂起直前の2月2日に拘束された孫耕暁通化国民党部書記長2月5日に拘束された藤田大佐が見せしめとして3日間に渡り立ったまま晒し者にされた。藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪をひいているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。心ある人たちは見るに忍びず、百貨店に背を向けた[66]。反乱軍鎮圧展示品とされたものには林弥一郎少佐が桐越一二三に送った桐越の銘入りの軍刀も展示された[67]。3月15日に藤田が肺炎で獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされた。

事件以後

生存者は中国共産党軍への徴兵、シベリア抑留などさまざまな運命を辿ったが、通化事件以降、中共は方針を転換し、宥和的な態度をとり、夏には帰国の許可を与えられるものもあった[68][注釈 19]

関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊のうち、航空技術をもたない100名余りの隊員は部隊から離され炭鉱や兵器工場に送られた[69]

篠塚良雄は竜泉ホテルで共産軍に逮捕されたが包囲された際に熱病にかかり、9月まで意識を失っており回復後は人民解放軍に入隊し、1953年撫順戦犯管理所に送られたと述べている[70]。帰国後は撫順の奇蹟を受け継ぐ会などで731部隊の証言を行っている[70]

1946年末に中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われた。1947年には中国共産党軍が通化を再び占領した。

事件の生存者の1人だった中山菊松は通化遺族会を設立し、日本政府や国会に対して陳情活動を始めるなど全国的な運動を展開した[71]1954年には川内通化県副県長の妻とともに、大野伴睦らの仲介で川崎秀二厚生大臣に対し、遺族援護法を通化事件犠牲者にも適用することを嘆願し、認められた。通化遺族会は1955年以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っている。

共産軍の勝利に貢献した前田光繁は日本に帰国後、日中友好会理事を務めるなどし、2005年には北京で開かれた「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利60周年記念」に出席し、胡錦濤主席の統治を称えるとともに日中関係の友好的発展のために努めることを表明している[72]。林弥一郎は日中平和友好会を創設し会長を務めた[73][74]

備考

脚注

注釈

  1. 14000人とも[6]
  2. 『少年は見た 通化事件の真実』は8月28日、『秘録大東亜戦史満州編下巻』は8月23日としている。その出典は明記されていないが『通化事件”関東軍の反乱”と参謀藤田実彦の最期』では大村卓一の日記よりとあるのでそちらを採用
  3. 進駐軍の人数については『秘録大東亜戦史満州編下巻』は500名としている。その出典は明記されていないが『通化事件”関東軍の反乱”と参謀藤田実彦の最期』では大村卓一の日記よりとあるのでそちらを採用
  4. 竜泉ホテルはベスト電器創業者北田光男の父が経営していた[19]
  5. 日本人幹部の処刑は後日行われることになる
  6. 林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力した。
  7. 柴田は日本軍の特務出身の看護婦で、当時は赤十字病院(旧関東軍臨時第一野戦病院)に勤務していた。劉司令夫人が中共軍軍医の誤診に悩んでいたところ柴田が適切な診断を行ったため、劉夫妻から専属看護婦の地位を得えられ「婦長」と呼ばれるほどに信頼され、藤田への薬を届ける任を与えられていた
  8. 藤田は脱出時に怪我を負い、結局蜂起に参加することなく八路軍に逮捕されるまで、栗林家の押入れに潜伏していた。ただ、脱出の目的が蜂起への参加なのか制止のためなのかは判然としていない
  9. 佐藤 (1998)、106 - 107頁。当時、通化では武器の所有は禁止されていたので、後日この軍刀が桐越一二三の反乱関与の証拠品とされることとなる
  10. 満州国司法省勤務歴あり。
  11. なお1月10日に逮捕された140人のうち、残り全員は2月3日の蜂起時に銃殺されている(後述)[40]
  12. 証言集会:元731部隊 篠塚良雄さん(千葉) 撫順の奇蹟を受け継ぐ会岩手支部 2008年9月14日(日) なお、篠塚自身は731部隊を経て藤田が参謀長を務める第125師団に加わった経歴の持ち主で、8月17日に藤田実彦大佐から誘われて参加したとしている
  13. 二道江には満州製鉄東辺道支社があり居留日本人のほとんどはその関係者だった 佐藤 (1993)、17頁。

出典

  1. 宮崎正弘 『出身地でわかる中国人』 PHP研究所、2006年、185。ISBN 4569646204。
  2. 吕明辉:《通化"二・三"事件》 (世界知识出版社, 2006)。
  3. 松原 (2003)、99頁。
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  23. 山田 (1953)、28頁。
  24. 24.0 24.1 24.2 松原 (2003)、95頁。
  25. 松原 (2003)、96~97頁。
  26. 26.0 26.1 26.2 松原 (2003)、98頁。
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  28. 松原 (2003)、100~102頁。
  29. 松原 (2003)、101頁。
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  31. 佐藤 (1993)、122頁。
  32. 32.0 32.1 山田 (1953)、41~42頁。
  33. 松原 (2003)、108頁。
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  36. 松原 (2003)、150頁。
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  38. 佐藤 (1993)、124頁。
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参考文献

  • 松原一枝 『藤田大佐の最後』 文藝春秋、1947年。ISBN 0093-302540-7384。
  • 松原一枝 『電灯が三回点滅した―通化事件と藤田大佐』 エイジ出版、1978年。ISBN 4-900225-09-6。
  • 松原一枝 『通化事件―“関東軍の反乱”と参謀・藤田実彦の最期』 チクマ秀版社、1987年。ISBN 4-8050-0420-7。
  • 佐藤和明 『通化事件―無条件降伏下、武装蜂起した日本人』 新評論、1962年。ISBN 4-7948-0038-X。
  • 佐藤和明 『通化事件―共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言で明らかにする』 新評論、1964年。ISBN 4-7948-0174-2。
  • 佐藤和明 『少年は見た―通化事件の真実』 新評論、1993年。ISBN 4-7948-0386-9。
  • 北野憲二 『満州国皇帝の通化落ち』 新人物往来社、1986年。ISBN 4-404-01910-6。
  • 大村卓一追悼録編纂会 『大村卓一』 大村卓一追悼録編纂会、1965年。ISBN 4-404-01910-6。
  • 山田一郎「通化幾山河」、『秘録大東亜戦史 満洲篇 (下)』、富士書苑、1953年6月10日、 9~74頁。
  • 古川万太郎 『凍てつく大地の歌: 人民解放軍日本人兵士たち』 三省堂、1984-08。ISBN 4385349142。
  • 愛新覚羅浩流転の王妃の昭和史新潮社〈〈新潮文庫〉〉、1992。ISBN 4-10-126311-6。

関連項目

外部リンク


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