連邦準備制度

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テンプレート:Infobox Central bank 連邦準備制度(れんぽうじゅんびせいど、英語: Federal Reserve System, FRS)は、アメリカ合衆国中央銀行制度である。ワシントンD.C.にある連邦準備制度理事会Federal Reserve Board, FRB)が全国の主要都市に散在する連邦準備銀行Federal Reserve Bank, FRB)を統括する。連邦準備制度理事会は連邦議会の下にある政府機関であるが、予算の割当や人事の干渉を受けない。各連邦準備銀行は株式を発行する法人(body corporate)である。

前史

ウォール街とスイス

1776年の建国以来、アメリカ合衆国では第一合衆国銀行第二合衆国銀行のような試みはあったものの、アンドリュー・ジャクソンら分権主義者の反対で取り潰される等して(Bank War)、中央銀行は成立せず、個々の銀行等が米国債や金準備を使って紙幣を発行していた。もっとも、インディアナ州においては連邦準備制度の原型とみられる金融制度が採用されていた[1]

分権主義を逆手にとって、欧州資本が進出してきた。1834年ロスチャイルドが大規模に合衆国公債を引受け、翌1835年までにボストン・ニューヨーク・フィラデルフィアボルチモアにロスチャイルドの利益を代表する支店または代理商がおかれ、さらにロスチャイルドは500万ドルのアメリカ公債を保有した[2]1837年恐慌で州立銀行がデフォルトすると、代わりにウォール街の金融が栄え出した。州債発行額は1835年から著しく増加して1842年をピークに漸減したが、それは恐慌にかまわず公債が欧州へ輸出されたことを意味する。この現象は綿花の売上げ低下と関係する。恐慌をすぎて合衆国銀行はニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)の主導により、綿花受入・販売のためリヴァプールに、州債売却のためロンドンに、各代理店を同時に置いた[注釈 1]。そして買いつけた綿花を代理店に蓄え相場の上がるまで卸さず、またその間の信用は手形を代理店に送って州債を担保に調達した[3]。1839年10月の州債デフォルトによりビドル体制は行き詰まりだした。ベルギープロイセンザクセンの綿産業が(メリノ種羊毛と競い)不況となったからである[4]。デニソン商会(Denison & Co.)とロスチャイルド、そしてホープ商会は合衆国銀行に1220万ドルの州債を担保に追加するよう求めた[5]。1840年3月に州債を連邦で保証する法案が否決され、ペンシルベニア州債が利子の支払いを遅滞するとベアリングス銀行が連邦保証を求めた[6]。6月からベアリングはニューヨーク(市と州)とオハイオ州の公債を売りまくった。1841年2月に合衆国銀行が営業停止となってフリーバンキング時代が到来した。しかしホープ商会とベアリング家が買収を支援したルイジアナ州では地金型金貨を銀行に準備させる制度が採られた(The Forstall System)。

1839年にベルギーが永世中立を保障されてから、欧州綿産業は大雑把に表現すれば次のように展開した。1843年にプロイセンのケルンとベルギーのアントウェルペンが鉄道で結ばれた。1848年スイス連邦が分離同盟戦争を経て成立した。その北部ではカルヴァン派をふくむ宗教改革派が産業革命を達成した。それはチューリッヒを核とする勢力であったが、ミュルーズと高ライン地域に綿工業ベルトをつくっていた。製品を南へ出荷することは戦争のほとぼりが冷めるまで難しかったから、西・北・東でベルト地帯に接するフランスバーデン王国ヴュルテンベルク王国バイエルン王国オーストリアのいずれかを取引先とした。これらの輸出先もカトリックをルーツにもっていたが、当時は啓蒙思想による改革が進み、割り切った輸入がなされていた。

貿易金融の掌握

1861年にアメリカで南北戦争が起こり、綿製品需要が生じた。スヘルデ川の航行権を回復したベルギーから、ベルト地帯の製品が取引先を経由して戦地へ輸出された。綿ブローカーが戦地アメリカで利権を築こうとし、ドイツの証券市場が盛況となった。するとアメリカでも販路開拓の動きが起こった。1864年、New York Guaranty and Indemnity Company という信託会社が生まれた。1870年の普仏戦争でミュルーズをふくむアルザスドイツ帝国のものとなり、輸出経路の国境が取り払われてベルトは回転速度を増した。

世界的な大不況が進行するにつれて欧州各国で金本位制が採用されていった。その前半に三国同盟が成りスイスの商圏が広がった。合衆国への拡大は時間の問題であった。1891年、相互生命(Mutual Life Insurance Company of New York、現アクサ)が先に英名で書いた信託会社の経営権を取得し、5年後にその信託会社をギャランティ・トラスト・カンパニー(1959年からモルガン・ギャランティ・トラスト)へ改名した[7]。ギャランティは1897年にロンドン支店を開設し[8]、巨大な外国部もニューヨークへ置いた[9]

1901年、ハートリー(Marcellus Hartley)が地元コネチカットの認可を受けて貿易金融会社(International Banking Corporation)をつくった。エドワード・ヘンリー・ハリマンやアイザック・グッゲンハイムを重役としてアジア開発を仲介した。競争相手のギャランティから1904年にアジアの三支店を譲り受けたが、1907年恐慌は主力のロンドン支店を窮地へ追いやった[注釈 2]

ギャランティは恐慌をすぎてから急速に総資産額を伸ばした。1909年時点で、ギャランティは次の銀行とコルレス契約を結び、証券の発行・引受・償還を代行していた。ナショナル・シティ、チェイス・ナショナル、そしてメロン・ナショナルである[10]。このころのギャランティが擁した主要な重役を並べてみる。リーヴァイ・モートン、ジェームズ・デューク(James Buchanan Duke)、ジェイ・グールドの息子(George Jay Gould I)、ダニエル・グッゲンハイム(Daniel Guggenheim)、トーマス・ラモント(Thomas W. Lamont)、C.A.ピーボディ(C.A.Peabody)J.D.ライアン(J.D. Ryan)、ウィリアム・ダグラス・スローン(エミリー・ソーン・ヴァンダービルトと結婚)、アルバート・ウィギン(Albert H. Wiggin)、A.W.フェリン(Augustine William Ferrin, 米外交官)[11]

フランスに学ぶ理由

ファイル:US dollar note and Japanese National Bank note 1873.jpg
アメリカの国法銀行発行の銀行券と同時期の日本の国立銀行紙幣[注釈 3]

中央銀行を欠いた時代の金融技術とはコルレス制度のことであった。地方銀行は手形の取立支払のためニューヨーク市銀行に預金を蓄積した。この蓄積をバンカーズ・バランス(bankers' balance, 以下ババ)と呼ぶ。この手法は1830年代に相当発展していたが、1864年国法銀行法(National Bank Act 1864)により追認された[注釈 4]。1887年まではニューヨークが唯一の中央準備市であったが、同年シカゴセントルイスも加えられた。1890年から1910年の間には、ニューヨークの地位をそのままに、新しい中央準備市へも個人預金とババが動いた[注釈 5]。1902年から1914年まで個人預金総額に対するババの割合は、中央準備市銀行の場合1910年を除いて7割をくだることがなかったし、特に1908年は9割に近かった。準備市銀行、地方銀行、非国法銀行は順に割合が低くなっていくが、どれも横ばいで、順に書いて二割強、二割弱、一割未満であった。ニューヨーク市国法銀行に限っていえば、1870年で69%もあったのが1900年で100%を超えて、その後も割合が増えていった。その内訳に着目すると、ニューヨーク市国法・州法銀行は70-100行に及ぶが、そのうち上位6-9行がババの半分以上を保有していた。この意味で、ニューヨーク市のメガバンクは金融界の頂点であった。ニューヨーク市国法銀行は巨額のババを財源に、貸付総額の1/3から1/2を占めるコールマネーを証券ブローカーに与えた。コールマネーは銀行間取引でも下位の銀行に貸し出されたが、その額は恐慌のときだけでなく連邦準備制度設立の直前にも跳ね上がった。[12]

メガバンクにも焦る局面は存在した。1864年国法銀行法は国法銀行券を発行するときに米国債を担保とするよう定めた[注釈 6]。1866年7月、州法銀行券に10%課税されるようになり、州法銀行券は駆逐されていった。これをもって発券が国法銀行に独占されたのは事実であったが、州法銀行は預金通貨の普及により1880年代に金融界での地位を回復しつつあった。それに、独占したはずの発券業務は手形を担保にすることができなかった。1880年代は国債の償還が進み、国債を担保とする国法銀行券が減り、国債と銀行券の流通量減少が国債価格を騰貴させた。すると発券用に調達する国債の利回りが減り、また銀行券の流通減少で市場金利が上昇、機会費用を差し引いた通貨発行益が目減りすることになった。国法銀行券発行益の減り具合は、農業地帯の西部・南部で深刻なものとなった。なぜなら券の発行総額は上限を法定された上で、人口等の経済規模にしたがって各州に配分されたからである。[12]

通貨の不足した農業地帯はミシシッピ川流域を指す。ここはジョン・ローのときモーゲージを貸しこまれ、19世紀末の時代人にフランスをモーゲージ大国と呼ばせたエリアである[13]。そこでフランスの金融制度を研究することになった。

歴史

FRB設立

ジョージ・コーテルユー財務長官は、金融業界を保護するために、経済の安定を維持する国家主導の十分な能力が必要であると考えた。その対策として、まずオルドリッチ・ヴリーランド法English版1908年)でアメリカ通貨委員会English版を設立。1910年11月22日、ジョージア州沿岸のジキル島English版J・P・.モルガンが所有するジキル島クラブEnglish版[注釈 7]で秘密会議が開かれ、FRBを設立する計画が討議された。計画は、彼らが掌握した貿易金融を促進すべく、アメリカの国際的な手形交換制度を建設した。

ギャランティなどが担う綿・穀物の貿易金融とは一見独立して、国内の工業系大企業は自己金融による輸出を拡大していた。デュポンコダックゼネラルモーターズゼネラルエレクトリックNCRレミントンランドウェスタンエレクトリックウェスティングハウスなど約30社は、1910年にアメリカ製造業者輸出協会(American Manufacturers Export Association)を結成した[14][注釈 8]

1913年中に、この段すべての出来事がおきた。まずアメリカ合衆国憲法修正第16条アメリカ合衆国憲法修正第17条が批准された。ジキル島での会合時すでに修正が議論されていた2つの変革は、各州の財政力と政治力をそぎ落とした。基礎工事が済むと、J.P.モルガンやポール・ウォーバーグDeutsch版English版ジョン・ロックフェラーの後ろ盾の下に、ウッドロウ・ウィルソン大統領[注釈 9]ロバート・オーウェンEnglish版カーター・グラスの提出したオーウェン・グラス法English版[注釈 10]に署名した。こうして、多くの上院議員が休暇で不在の隙を突いて12月23日にワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した[注釈 11]。「準備」とは預金準備のことを意味する。

1914年、USスチール社長でAMEA理事でもあったジェームズ・ファレル(James A. Farrell)が、連邦準備法に外国手形の割引特権と外国支店の設立(次節)が認められていることを指摘し、これらにより米系銀行による貿易金融が現実的となったことを喜び、また積極的な資本輸出を主張した[15][注釈 12]。このAMEAは1917年、フランスの復興需要について報告書をまとめている[16][注釈 13]

外国手形の日本語訳はまちまちで、銀行引受手形(Bankers Acceptance)と書くことが比較的多い。それまで銀行引受手形の割引は(ニューヨーク銀行やギャランティ・トラストが)ロンドン市場で行っていたが、資金調達コストが割高であった。そこで、国内の銀行引受手形市場を整備・拡充することで資金調達コストを引き下げる努力がなされた。連邦準備制度が全面的にサポート、国債ディーラーも積極的に参加した。しかし肝心の清算銀行が資金を積極的には供給しなかった。1918年、連邦準備制度が手形を売戻条件付で買い入れた。こうして銀行引受手形がレポ市場の端緒となった。[17][注釈 14]

1921年4月、ポール・ウォーバーグが国際引受銀行(International Acceptance Bank)をニューヨークで開業した。主要株主はクーン・ローブM・M・ヴァールブルク&CON・M・ロスチャイルド&サンズおよびその他であった。業務は銀行引受手形であり、合衆国では連邦準備局(連邦準備制度の旧名)とIAB が事実上独占した。ヨーロッパでは馴染みの貿易金融であった。[18]

ロスチャイルド家だけでなくユニオン・バンクもIAB の経営を支えた[19]。ロックフェラーのEquitable Trust Company(現・JPモルガン)やディロン・リードも協力し、IAB の短期信用網をティッセンなどが利用した[20]

エッジ法

FRBができるときにウォルター・エッジEnglish版が、FRBの会員銀行は国際銀行業務とその他の国際金融業務に参入するため、連邦企業を組織できるようにするべきだと提唱した。この提案は、オーウェン・グラス法に附属する形で法律エッジ法English版となった。当時、欧州諸国は債務を抱え、合衆国からの輸入物をUSドルで買う余裕がなかった。そこでウォルター・エッジは、連邦企業がヨーロッパの輸入を金融し、短期貸しを長期貸しへロールオーバーしつつ、欧州経済の回復に応じて償還させるという提案をした[注釈 15]グラス・スティーガル法が通過した1933年、議会は連邦企業の商業銀行業務を制限するのを忘れた。[21]

エッジ法は、大銀行がオフショア・ファンドや合同運用信託を使って1940年投資会社法を脱法するとき、連邦企業を通じて資金を供給した。1956年銀行持株会社法(Bank Holding Company Act)は銀行持株会社とその子会社による非銀行業務を原則禁止としていたが、オフショア・ファンド、つまりユーロ市場で活躍中の連邦企業は例外だった。

第二次世界大戦中はレポ取引が停止され、一方では大銀行だけでなく生保・年金までもが大量の米国債を消化していた。1951年に財務省との「アコード」が法制化して、連邦準備制度の金融政策の独立性を保障するとともに、米国債にかぎってレポ取引を再開した[17]。こうしてアメリカの機関投資家へ資金が流れた。それは住宅ローンだけでなく、地方債と連邦債でも運用された。1962年、OECD資本移動自由化コードを設定し、多国籍企業にも資金を供給できるようになった。

1975年、会員銀行とその系列企業が20をこえ、それらは30以上の連邦企業(Edge Act corporation)を経営している。この連邦企業は普通、会員銀行の子会社である。FRBは国内の連邦企業について、会員銀行が行う海外事業に付随する業務しか行わないと約束してはいるが、しかしウォール・ストリート・ジャーナルをはじめとする経済各紙掲載の公告は、オフショア市場開発、穀物取引、ロンドンのよく分からない市場混乱、国際的な中期融資、国際的な不動産貸借、そして合衆国輸出入銀行の事業に対し、連邦企業が連邦政府を通して融資を行っている実態を示す。[21][注釈 16]

エッジ法は国際銀行法(International Banking Act of 1978)によって修正され[22]、国際銀行業務へ参入する要件を緩和した。シティバンクは代表的な連邦企業であるが[23]ユーロ債市場を牽引したことでも有名である。

2002年9月、エッジ法によりニューヨーク連邦準備銀行の監督で即時決済銀行(CLS)がサービスを開始した。CLSは国際銀行間通信協会のネットワークを利用した、世界で唯一の多通貨決済システムである。為替差損を回避するため、参加通貨[注釈 17]を発行する各中央銀行の重なった営業時間帯に、CLSが中央銀行にもつノストロ口座を利用してPVP決済する。国内決済のように、流動性供給銀行という通貨不足を互助する仕組みがある。CLSは通貨取引開発税をめぐる議論でも言及されている。

世界準備制度

1928年12月14日の国際連盟理事会で、金融委員会からの勧告が採択された。勧告の内容は、金購買力変動を調査する委員会を設置するものであった。アルベルト・ヤンセン(Albert-Édouard Janssen)を議長とする委員会に、ジョージ・ロバーツ親子(父がGeorge E. Roberts、子はミドルネームだけが父と異なりBassett)が委員として参加した[注釈 18][注釈 19]。1930年6月に最初の中間報告書が提出された[25]。報告書は金本位制の準備金が世界的に不足している計算結果を示した。さらに各国の準備金保有割合も弾き出した。1928年時点で、主要15カ国が世界の準備金100億3500万ドルの91.2%をもっており、そのうちアメリカだけで37.3%を占めるというのである。FRB が報告書の公表に強く反対したので、公表は1930年9月となった。報告書は準備金節約の手段として、郵便諸制度の活用を推奨したり、金為替制度の拡大を追認したりした。前者はライヒスバンクに、後者はフランス銀行に有利な主張であった。準備金の偏在と世界恐慌との関係は、後にも委員会の権限外として調べられることがなかった。

1934年、金準備法(Gold Reserve Act)が成立して、アメリカの金輸出は固定価格で金売買を行っている外国中央銀行に対してだけなされることになり[26][注釈 20]、1974年12月まで民間の金兌換はできなくなった。財務省は通貨安定基金を使いドル相場を統制できるようになった。また物価の安定を名目とした外国為替介入や公開市場操作も可能となった。こうした手段は準備金の輸出を直接規制しうるものであった。固定化するドル安に、欧州各国はデフレ政策と通貨切り下げで応戦した。1936年9月25日、英仏が白旗をあげてアメリカと三国通貨協定(Tripartite Agreement)を結んだ。この策定にパウル・ファン・ゼーラントらベルギー勢が尽力した。

第二次世界大戦中の1938年、FRB はフランス銀行から準備金600トンの移送を受け入れた。戦後経済ではキューバが米州機構を脱退するまでにファンド・オブ・ファンズ知的所有権保護合同国際事務局ジュネーヴ金融が台頭した。

ブレトンウッズ体制下の1962年7月21日、FRB はスイス国立銀行と結んだスワップ協定を公表した。ニクソン・ショックより9年も早いドル防衛である。二者の他にスイス銀行国際決済銀行が連携して、ニューヨーク連邦準備銀行に4.32億スイスフランを集め、その反対債権を利用して米国債に1億US ドルをもっていき兌換を阻止した。技術的に同様のスワップ協定は少し前に英仏オランダベルギーカナダと結んでいた。イングランド銀行は年始に金プールの代理人として参加国中央銀行から承認され、プール引き出しを連銀に報告しなくてよいことになっており、協力的な立場にあった。それにしても7月21日協定は直ちにプロセスの半分を履行するという電撃的なものであった。公表から2週間ほどの間に国際決済銀行はさらに1千万ドルのスワップを追加した。そして少し後に連銀と西ドイツブンデスバンクの間に5千万ドルのスワップ協定が結ばれた。[28]

銀証分離の緩和

1968年から銀行引受手形市場は、ギャランティのユーロクリアが支配するユーロダラーに奪われていた。1971年、NY手形交換所(New York Clearing House)加盟銀行9行がCHIPSを稼動[29]。これは、ユーロダラーやマネー・マーケット・ファンドコマーシャル・ペーパーと並んで、連邦準備制度が要求する預金準備率をメガバンクが無視する常套手段としてもてはやされた[30]

1970年代、エージェンシー(政府=ジニー・メイ)と政府支援機関(GSEs)がモーゲージを証券化するようになった。

1975年、連邦準備制度による通貨供給量の増加に歯止めをかけようと議会が挑み、金融政策の目標値を公表・達成させるために民主的統制を制度保障する合意を得た。しかし同年3月の両院共同決議を最初として、連邦準備制度は二方向から攪乱してきた。通貨の定義を複数設けて(M1A, M1B, M2, M3, L)、それぞれに目標値を出すようにした。しかも供給量伸び率目標値の変動幅を算定する式を年内に五回も変更した。[31]

1976年、怒った議会は連邦準備制度の重役を連銀レベルまで調べあげて、民間銀行や大企業との具体的な人的関係を暴露した[32]。連邦準備制度は同年からフェデラル・ファンド金利の変動許容幅を狭めて現金の不足を演出し、なおかつ供給量伸び率の変動許容幅を広げて存分に現金を注入、インフレを煽動した[31]

1978年アメリカで外国銀行の支店設置を一つの州に限るという法律ができたが、バークレイズは適用除外された[注釈 21]

1979年10月、オイルショックボルカー・ショックに発展した。そこで1982年後半から金融と規制を順に緩和した。

規制緩和について。グラス・スティーガル法第20条と1956年銀行持株会社法は、それぞれ異なる角度から銀証分離を定めている。これらに基づいて、銀行持株会社が所有できる非銀行子会社は、常識的な態様で銀行業務に付随し、かつ証券業務を主体としないものに制限されていたのである。ここで子会社の認可を出していたのはFRB であり、司法当局ではない。そして銀証分離はグラム・リーチ・ブライリー法ができる前からFRB が大幅に緩和していた。[33]

1987年4月にFRB は、コマーシャル・ペーパー、モーゲージ担保証券、特定地方財源債の引受を業務に含む子会社に対する認可を求めてきた銀行持株会社に対し、これら業務を銀証分離の対象とした上で、それら業務からの収入がその子会社の総収入において5%以内であれば先の主体性を否定して認可するという態度を示した。この5%以内という収入制限は、1989年に10%、1997年には25%になった。子会社の営める証券業務範囲も1989年には社債、1990年には株式にまで拡大した。[33]

このような緩和に伴い、地方債・モーゲージ証券・および国債をあつかうミューチュアル・ファンドへ資金が流入した。ファンドは以前から株式も積極的に購入しており、銀行は流れ出た預金を独自の投資信託で吸収していた。1863年国法銀行法(National Bank Act 1863)は銀行が事業会社株式を取得することを禁じていたが、投信は良い抜け穴であった。

このようなシャドー・バンキング・システムはグローバル化してゆき、世界金融危機までシステミック・リスクを高めた。

世界金融危機以降

FRBは世界金融危機に際し、TARPに紛れて16兆ドルもベイルアウトEnglish版した。融資先は以下の15行。[34]


2008年11月7日、ブルームバーグがベイルアウトなどの情報開示を求めてニューヨーク南部地区地方裁判所で連邦準備制度理事会を提訴した。翌年8月24日、FRB に対し開示命令が出た。27日、裁判所はFRB の打診を受けて9月30日までの履行延期を認めた。その間に手形交換所協会の加盟銀行が連絡をとり、訴訟に介入しFRB を弁護しはじめた。2010年5月4日に協会とFRB は控訴したが、いずれも8月20日に却下された。26日、合衆国最高裁判所は上告の準備として10月19日までの履行延期を認めた。訴訟は最終的に棄却され、2011年3月21日に再び開示命令が出た。FRB は5日以内にブルームバーグへ情報を提供することとなった。なお、ブルームバーグへはメリルリンチが30%資本参加している。

名前の列挙された銀行は手形交換所協会の加盟銀行として上のような防戦を展開する一方で、サブプライム住宅ローン危機の引き金となった住宅ローン担保証券をめぐり次々と訴訟を提起されている[35]。またベイルアウトを受けた銀行の多くは、手形交換所協会の加盟銀行であるHSBCの不祥事ロングターム・キャピタル・マネジメントの救済融資に登場する。

不祥事の一部が周知され、2015年5月13日に米上院銀行委員会の長が、FRBに対する議会の監査強化や大手金融機関の資産基準引き下げなどを盛り込んだ、多岐にわたる法案を提出する運びとなった[36]。同年3月、FRB とその他主要中央銀行はブロックチェーンによる通貨のデジタル化と決済ネットワークの構築に関してIBM と非公式に協議していた[37][38]

2018年5月22日、下院がドッド・フランク法の規制を一部緩める改正案を通過させた。賛成258票、反対159票の賛成多数。法案審議は超党派で進められた。オバマ前政権による規制強化を転換させた。上院は同法案を3月中旬に既に可決しており、ドナルド・トランプ大統領が近く署名して成立する見通し。骨子は3点。第1に、ストレステスト(健全性検査)を受けなければならないなど、厳しい規制の対象となる銀行の基準が、現行の資産規模500億ドルから2,500億ドルに引き上げられ、その対象が狭められる。第2は、小規模銀行に対して、住宅担保貸出関連業務や証券トレーディングへの規制が緩和される。第3に、ボルカー・ルールは総資産100億ドル以下などの条件を満たせば適用しない。改正の見送られた項目もあるが、実質的な修正は連邦準備制度などが裁量をもっている。5月30日にボルカー・ルールを改定する「ボルカー・ルール2.0」が採決される。ドラフト作成を主導したのは、昨年トランプ政権が金融監督担当のFRB副議長に指名したクォールズ(Randal Quarles)である。[39][注釈 22]

「ボルカー・ルール2.0」には2017年6月の段階で5つの要点を指摘されている。そのうち二つは先に掲げたドッド・フランク法改正の骨子(第2および第3)と共通している。残りの3点はシャドー・バンキング・システムの再拡大へ直結する(以下に箇条書き)。

連邦準備銀行の株主

連邦準備制度理事会は政府機関であるが、各連邦準備銀行は株式を発行する法人である。ただし、合衆国政府は連邦準備銀行の株式を所有しておらず、各連邦準備銀行によって管轄される個別金融機関が出資(=株式の所有)義務を負っている[42][43][44]。また、個人や非金融機関の法人は連邦準備銀行の株式を所有できない。

個別金融機関による出資額は金融機関の資本規模に比例するが、連邦準備銀行理事を選出する際の投票権は出資規模に関わらず一票ずつであるため、大手銀行が主導権を握るといったことはできない[43]

連邦準備法により[45]、連邦準備銀行の株主が連邦準備制度に及ぼす影響力はきわめて小さいものに限定されている。連邦準備法における連邦準備銀行の株主の位置づけは、9人の連邦準備銀行理事のうち6人を選定するにすぎない(他の3人は連邦準備制度理事会が指名)[46]。また、連邦準備銀行理事の権限は理事長の選出のみであり、その理事長の権限も以下のものに限られている。

  • 連邦公開市場委員会(FOMC)委員12人中5人の選出[47]
  • 連邦準備制度理事会への提言[48]

連邦準備制度は大統領の指名と議会の承認による連邦準備制度理事会の主導により運営されている。但し、連邦準備制度理事会が政府機関であるのに対し、連邦準備銀行が民間企業の形式を採っているのは事実である。とはいえ完全な民間企業とも言えず、両者を折衷した性格を持っている[43]

主要業務

ファイル:Federal Funds Rate (effective).png
フェデラル・ファンド金利の推移(1954年~2005年)

中央銀行としての一般的な業務は次のようなもの。

以下は新しい知見となりうるもの。

実際、支払制度が十分に維持されているとは言いがたい。2016年2月にバングラデシュ銀行が不正送金で損害を受けた事件をめぐり、バングラデシュ警察が捜査したところ、FRBはファイアウォールを有効にせずに10ドルの中古ルーターで国際銀行間通信協会に接続していたことが分かった[49]。他にもずさんな実態の中央銀行があるものと世銀関係者が見ている。

金融政策の独立性については発足当時政府の影響を強く受けたとされる。この点、ミルトン・フリードマンなどが、「世界恐慌にまで発展した1920年代のアメリカの金融バブル崩壊に際して、連邦準備制度が明白な不作為によって事態を深刻化させた」と指摘する。この考え方は今ではベン・バーナンキ(第14代議長)をはじめとする経済学者に広く受け入れられている[50]。戦後、ブレトンウッズ体制がスタートし、FRBと財務省が協定を締結し、金融政策の独自性を持つようになったとされる。

組織

連邦準備制度理事会

連邦準備制度理事会 (Federal Reserve Board of Governors) は連邦準備制度の統括機関。中央銀行に相当。14年任期の理事7人によって構成され、理事の中から議長・副議長が4年の任期で任命される。議長・副議長・理事は大統領上院の助言と同意に基づいて任命する。

金融政策の策定と実施を任務としており、また連邦準備制度の活動の最終責任を負う。

大統領に対して、政府機関中最も強い独立性を有する一方で、世界経済に対する影響力は絶大であるため、FRB議長は「アメリカ合衆国において大統領に次ぐ権力者」と多くの人々に考えられている[51]

現在の理事会メンバーは以下の通りである。定員は7人。

役職 氏名 就任年月日 任期満了予定年月日 前職
議長 ジャネット・イエレン 2010年10月4日[52] 2024年1月31日(理事の任期[52]
2018年2月3日(議長の任期[52]
連邦準備制度理事会副議長
副議長 スタンレー・フィッシャー 2014年6月17日 2028年1月31日(理事の任期)
2018年6月12日(副議長の任期)
2017年10月13日辞任予定
イスラエル銀行総裁
(アメリカとイスラエルの二重国籍)
副議長 ランダル・クオールズ 上院の承認待ち。 財務次官(ジョージ・W・ブッシュ政権)
カーライル・グループ
理事 ラエル・ブレイナード 2014年6月16日[53] 2026年1月31日[53] 国際担当財務次官[53]
理事 ダニエル・タルーロ 2009年1月28日[54] 2022年1月31日[54] ジョージタウン大学ローセンター教授[54]
理事 ジェローム・パウエル 2014年6月16日(再任)[55] 2028年1月31日[55] カーライル・グループ幹部[55]
理事 空席
理事 空席

連邦公開市場委員会

連邦公開市場委員会 (Federal Open Market Committee, FOMC) は、FRBが定期的に開く会合で、FRB理事7人と連邦準備銀行総裁5人(ニューヨーク連邦準備銀行総裁と、持ち回りで選ばれる他地区連銀の総裁4人。それ以外の地区連銀総裁も議論には参加するが議決権はない)で構成されるアメリカの金融政策決定機関である。議長はFRB議長、副議長はニューヨーク連邦準備銀行総裁が担当する。

FOMC定期的会合は年間8回開かれ、フェデラル・ファンド金利の誘導目標、及び公定歩合が決定されるが、市場の急変などでは臨時会議が開かれ、暫定的に公定歩合などが決定される(例:2000年末の株価大暴落時や、エンロンショック2007年8月17日の0.5パーセント引き下げ等)。

連邦準備銀行

ファイル:Federal Reserve Districts Map.svg
12の地区割。■は本部所在地。☆はFRS。

連邦準備銀行 (Federal Reserve Banks) は市中銀行の監督と規制など、公開市場操作以外の連邦準備制度の業務を行い、また連邦準備券ドル紙幣)の発行を行う。連邦銀行(連銀)と呼ばれることもある。以下の12地区に分割されている。このうち第2地区のニューヨーク連邦準備銀行が全体の要となる。

地区 銀行 本部所在地
第1地区 ボストン連邦準備銀行 マサチューセッツ州ボストン
第2地区 ニューヨーク連邦準備銀行 ニューヨーク州ニューヨーク
第3地区 フィラデルフィア連邦準備銀行 ペンシルベニア州フィラデルフィア
第4地区 クリーブランド連邦準備銀行 オハイオ州クリーブランド
第5地区 リッチモンド連邦準備銀行 バージニア州リッチモンド
第6地区 アトランタ連邦準備銀行 ジョージア州アトランタ
第7地区 シカゴ連邦準備銀行 イリノイ州シカゴ
第8地区 セントルイス連邦準備銀行 ミズーリ州セントルイス
第9地区 ミネアポリス連邦準備銀行 ミネソタ州ミネアポリス
第10地区 カンザスシティ連邦準備銀行 ミズーリ州カンザスシティ
第11地区 ダラス連邦準備銀行 テキサス州ダラス
第12地区 サンフランシスコ連邦準備銀行 カリフォルニア州サンフランシスコ

歴代議長

連邦準備制度理事会の長は「議長」(Chair of the Federal Reserve Board)と呼ばれる。

氏名 期間 大統領
1 チャールズ・S・ハムリン
Charles S. Hamlin
副議長はen:Frederic Adrian Delanoウォーレン・デラノ・ジュニアの息子。
100px 1914年8月10日 - 1916年8月10日 ウッドロウ・ウィルソン
2 ウィリアム・P・G・ハーディング
William P. G. Harding
100px 1916年8月10日 - 1922年8月9日 ウッドロウ・ウィルソン
ウォレン・ハーディング
3 ダニエル・R・クリシンジャー
Daniel R. Crissinger
100px 1923年5月1日 - 1927年9月15日 ウォレン・ハーディング
カルビン・クーリッジ
4 ロイ・A・ヤング
Roy A. Young
100px 1927年10月4日 - 1930年8月31日 カルビン・クーリッジ
ハーバート・フーヴァー
5 ユージン・メイアー
Eugene I. Meyer
キャサリン・グラハムの父
100px 1930年9月16日 - 1933年5月10日 ハーバート・フーヴァー
フランクリン・ルーズベルト
6 ユージン・R・ブラック
Eugene R. Black
1933年5月19日 - 1934年8月15日 フランクリン・ルーズベルト
7 マリネア・S・エクルズ
Marriner S. Eccles
100px 1934年11月15日 - 1948年1月31日 フランクリン・ルーズベルト
ハリー・S・トルーマン
8 トマス・B・マッカーベ
Thomas B. McCabe
1948年4月15日 - 1951年3月31日 ハリー・S・トルーマン
9 ウィリアム・マチェスニー・マーティンJr.
William McChesney Martin, Jr.
100px 1951年4月2日 - 1970年1月31日 ハリー・S・トルーマン
ドワイト・D・アイゼンハワー
ジョン・F・ケネディ
リンドン・ジョンソン
リチャード・ニクソン
10 アーサー・F・バーンズ
Arthur F. Burns
100px 1970年2月1日 - 1978年1月31日 リチャード・ニクソン
ジェラルド・R・フォード
ジミー・カーター
11 G・ウィリアム・ミラー
G. William Miller
100px 1978年3月8日 - 1979年8月6日 ジミー・カーター
12 ポール・A・ボルカー
Paul A. Volcker
100px 1979年8月6日 - 1987年8月11日 ジミー・カーター
ロナルド・レーガン
13 アラン・グリーンスパン
Alan Greenspan
100px 1987年8月11日 - 2006年1月31日 ロナルド・レーガン
ジョージ・H・W・ブッシュ
ビル・クリントン
ジョージ・W・ブッシュ
14 ベン・S・バーナンキ
Ben S. Bernanke
100px 2006年2月1日 - 2014年1月31日 ジョージ・W・ブッシュ
バラク・オバマ
15 ジャネット・イエレン
Janet Yellen
100px 2014年2月1日 - 2018年2月3日 バラク・オバマ
ドナルド・トランプ
16 ジェローム・パウエル
Jerome Powell
100px 2018年2月5日 - 現在 ドナルド・トランプ

脚注

注釈

  1. 後者は恐慌の扇動者であったサミュエル・ジョードン(Samuel Jaudon)が支配した。
  2. IBC は為替取引をロンドン市場へ依存していた。これには資金調達の都合等さまざまな理由を指摘できる。明らかなものとして、ニューヨーク支店はニューヨーク州法で外国銀行とみなされ、預金受入・手形割引・証券発行を全て禁止されていた。
  3. 前者の発券銀行名First National Bank of Trenton、国債を担保に発行していることが読み取れる。
  4. ニューヨーク(後に中央準備市)とその他16都市(後に準備市)の国法銀行は銀行券流通高および預金額の1/4を合衆国の合法貨幣(現金)で準備金として保有すること、その他の国法銀行(後に地方銀行)は銀行券流通高および預金額の15%を合衆国の合法貨幣(現金)で準備金として保有すること、この準備15%のうち3/5を準備市または中央準備市の国法銀行に預金で保有することができる(第31条)。先の16都市の国法銀行はその準備の半分をニューヨーク市国法銀行に預金で保有することができる(第32条)。
  5. 個人預金ではシカゴが5970万ドルから1億9170万ドルに、セントルイスが2170万ドルから7140万ドルに増加した。ババではシカゴが4660万ドルから2億1810万ドルに、セントルイスでは1040万ドルから8060万ドルに増加した。
  6. 国法銀行は3万ドル以上、払込資本金の1/3以上の額の合衆国利付き登録国債を財務省に預託しなければならない(第16条)。通貨監督官はその預託合衆国債の市場価格の90%に相当する銀行券を交付する。しかし額面価格の90%を超えてはならない(第21条)。
  7. Jekyll Island Clubアメリカ合衆国国家歴史登録財となっている。
  8. 参加企業を一瞥すれば、モルガンを通じてギャランティに関係すると分かる。
  9. FRBの基礎構築に貢献したウィリアム・マカドゥーに娘をやった。
  10. 第26条が1900年金本位法でも謳われた次の事項を確認している。合衆国で発行または鋳造される全貨幣が、本位価値の金と平価に維持されること。そして維持と準備の責任は財務長官にあること。一方でオーウェン・グラス法は、加盟銀行から買い入れた国債を担保とする連邦準備銀行券Federal Reserve Bank notes の発行を可能にした。さらに、現実取引による商業手形・銀行引受手形・金および金証券を担保に連邦準備券Federal Reserve notes も発行できるようになった。連邦準備券は償還が手厚い。財務省においては金、連銀においては金または合法貨幣で償還された。関税をふくむ納税においては完全な通用性が認められた。
  11. クリスマス休暇中、自分たちが買収した議員を残らせ、95名の下院議員と32名の上院議員が不在の中で採決を決行した。
  12. 同年AMEAに参加していた企業は235社であった。
  13. 1918年、AMEA参加企業が814社に急増した。
  14. ここまでの運動が欧州の復興を助けたので、国内産業は競争にさらされた。1918年、アメリカはシャーマン法をウェッブ・ポメリン法で修正し輸出カルテルを認めた。
  15. 1923年、連邦準備制度は金融調節手段として米国債を対象としたレポ取引を始めた[17]。このころヴァイマル共和政に大量の借款が供与された。償還は世界恐慌のとき、ドイツに対してはヤング案を成立させ、欧州各国に対してはトマス附属書で金本位制を曲げるという便宜まで図られた。
  16. 著者ライト・パットマンは機関投資家による合衆国経済の独占を1968年に報告している。この実績が基く詳細なデータは日本語で読むことができる。
  17. 当初はUSドル、ユーロ、日本円、英ポンド、スイスフラン、カナダドル、豪ドルの7つ。2003年9月にデンマーククローネ、ノルウェークローネ、スウェーデンクローネ、シンガポールドルが追加された。2004年12月には香港ドル、韓国ウォン、ニュージーランドドル、南アフリカランドが追加された。2008年5月にイスラエスシュケルとメキシコペソが追加されて参加通貨は17となった。
  18. ベルギー国立銀行出身のヤンセンはドーズ案策定においてベルギーを代表した。後にポール=アンリ・スパーク外相と同期で財務大臣を務めた。
  19. ジョージ・ロバーツ親子のプロフィール。父はウィリアム・マッキンリー大統領のときに鋳造所の所長(Director of the United States Mint)として活躍、1914年に下野してからシティバンク会長のアシスタントをするようになった。子は日清戦争開戦年に生まれた。1917年コロンビア大学を卒業。第一次世界大戦おわりごろに在欧米軍の中尉となった。1919年ニューヨーク連邦準備銀行で働きはじめ、1926年シティバンクへ移った。1943年から1969年まで全米経済研究所を経営した。1982年まで研究所の投資委員会で会長だった。子の記事が未作成なのでソースを貼っておく。[24]
  20. この1934年から約半世紀も続いた合衆国の金融規制は、後に銀行カルテルだと批判された。[27]
  21. 外国銀行の支店設置を一つの州に限るという法律(International Banking Act of 1978)の例外規定は、州際銀行業務を禁じるマクファーデン法(McFadden Act)の適用を除外した。
  22. 連邦準備制度以外で「ボルカー・ルール2.0」の採決に参加するのは、連邦預金保険公社、通貨監督庁(Office of the Comptroller of the Currency)、証券取引委員会、商品先物取引委員会(Commodity Futures Trading Commission)である[40]
  23. 即時グロス決済資金移動ネットワーク。日銀ネットのようなもの。個人手形交換所の CHIPS と結合し、プライベートの有限会社に運用されている。
  24. 自動手形交換制度。実質的な証券集中保管機関。
  25. NACHA は ACH のスポンサー。1974年という、国際決済オンライン化が世界で一気に普及した時期に設立されたNPO

出典

  1. 大森拓磨 黎明期アメリカ・インディアナの銀行制度 1814-1832年 アメリカ連邦準備制度の新たな嚆矢として 経済理論 332, pp.117-148, 2006-07
  2. 松田智雄 『巨富への道 西欧編』 中央公論社 1955年 128頁
  3. 入江節次郎 『世界金融史研究』 藤原書店 1991年 pp.425-431.
  4. Leland Hamilton Jenks, The Migration of British Capital to 1875, Thomas Nelson and Son Ltd, 1927, p.96.
  5. Mira Wilkins, The History of Foreign Investment in the United States to 1914, Harvard University Press, 1989, pp.67-68.
  6. Jenks, The Migration of British Capital to 1875, p.100.
  7. Guaranty Trust Co., One Hundred Years of Banking Service 1839-1939, New York, 1939, pp.19-25.
  8. One Hundred Years of Banking Service 1839-1939, p.26.
  9. Guaranty Trust Co, Banking Power of the Trust Company, 1905, p.18.
  10. The Banking Almanac, Waterlow and Sons Limited, London, 1910, p.414.
  11. Moody's Magazine, Vol.17, 1914, pp.405, 408.
  12. 12.0 12.1 片桐謙 『アメリカのモーゲージ金融』 日本経済評論社 1995年 第1章
  13. The Century, Vol.42, Century Company, 1891, p.467.
  14. AMEA, Proceedings of Annual Convention, 1911, pp.145-145.
  15. AMEA, Proceedings of Annual Convention, 1914, pp.71-76.
  16. インターネットアーカイブ AMEA, Franco=American Trade, Sep-Oct, 1916.
  17. 17.0 17.1 17.2 レポ・トレーディング・リサーチ 『最新 レポ取引のすべて』 日本実業出版社 2001年12月 108-111頁
  18. ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』 日本経済新聞社 1998年 p.341.
  19. Youssef Cassis, Eric Bussière, London and Paris as International Financial Centres in the Twentieth Century, OUP Oxford, 2005, p.158.
  20. Youssef Cassis, Philip Cottrell, Iain L. Fraser, The World of Private Banking, Routledge, 2016. "The International Acceptance Bank not only collaborated with the Equitable Trust Company, one of the largest New York banks, but also …"
  21. 21.0 21.1 Wright Patman, "What's wrong with the Federal Reserve and what to do about it", American Bar Association Journal vol.61. February, 1975 p.183.
  22. James T. Tynion III, "New Rules for Edge Act Corporations Under The International Banking Act of 1978", Fordham International Law Journal, Volume 3, Issue 2, 1979, Article 4
  23. Commercial West, Vol.167, Commercial West Company, 1985. "Citibank International is an Edge Act corporation, set up for conducting foreign banking and other financial business."
  24. ニューヨーク・タイムズ George B. Roberts, 102, Director Of Citibank Economics Division 1996/9/4
  25. League of Nations, Interm Report of the Gold Delegation of the Financial Committee, Geneva, 1930.
  26. 矢尾次郎 『米国連邦準備制度』 東洋経済新報社 1978年 379頁
  27. Thomas F. Huertas, "The Regulation of Financial Institutions: AHistorical Perspective of Current Issues", in George J. Benston (ed.), Financial Services: The Changing Institutions and Government Policy, Prentice-Hall, 1983, pp.6-27.
  28. 東京銀行月報 14, (11), 1962年11月 「スイス中銀・BISとニューヨーク連銀間のスワップ協定」
  29. ダラス連邦準備銀行 THE CLEARIIIGH OUSEII ITERBAIIKP AYI,IEI{TSSY STEII: A DTSCRIPTIOOXF ITS OPERATIOAIN AND RISK MANAGEMENT, JUNE 1989
  30. マクスウェル・ニュートン 『米国中央銀行 The FED』 東洋経済新報社 1985年 287頁
  31. 31.0 31.1 マクスウェル・ニュートン 『米国中央銀行 The FED』 東洋経済新報社 1985年 107-110頁
  32. United States House of Representatives, Federal Reserve Directors: A Study Of Corporate And Banking Influence, 94th Congress, Second Session, 1976
  33. 33.0 33.1 樋口修 米国における金融・資本市場改革の展開 国立国会図書館調査企画課 2003年12月 pp.54-55.
  34. 北沢洋子 DebtNet通信 (vol.8 #22) 米GAOの監査はFRBによる16兆ドルの銀行救済融資を暴く 2011年9月 合衆国での報道。Federal Reserve gives 16 Trillion of your money to their bankster buddies. lincoln county watch
    バーニー・サンダース議員のブログ(出典下部)からGAOの監査報告書全文を読むことができる。The Fed Audit Thursday, July 21, 2011
  35. まずJPモルガン
    JPモルガン、マドフ事件めぐり当局と和解―26億ドル支払い 2014年1月8日07:30
    次にモルガン・スタンレー
    モルガン・スタンレーが3千億円で米司法省と和解 リーマン契機の不正販売で 2015.2.26
    そしてシティグループゴールドマン・サックスUBS
    米シティなど3行、住宅ローン証券訴訟で和解 2.35億ドル支払い 2015年2月14日
    極め付きにロイヤルバンク・オブ・スコットランドへ賠償命令
    野村とRBS、住宅ローン担保証券販売の米訴訟で損害賠償へ 2015/05/12
    この件ではリーマン・ブラザーズの3部門を買収した野村ホールディングスも被告となっている。すでに米連邦住宅金融局はバンカメも訴えており、これまでの住宅ローン担保証券をめぐる訴訟で179億ドル規模の和解合意に達している。
    野村とRBSに960億円の支払い命令-住宅証券販売で米地裁 2015/05/16 17:32 JST
  36. The Wall Street Journal 米上院銀行委員長、12日にFRB監査強化法案提出 2015年5月12日 14:55 JST
  37. 経済産業省 Fintech研究会資料 2015年11月30日 p.6.
  38. 日本デジタルマネー協会 BITCOIN2.0概況 2015.05.08 p.50.
  39. Nomura Research Institute, 米国金融規制強化法(ドッド・フランク法)が一部緩和へ 2018年05月25日
  40. Reuters, Fed to consider proposal to modify "Volcker Rule" at May 30 meeting, May 24, 2018
  41. efinancial career, 5 ways the proposed changes to the Volcker Rule would affect Wall Street trading jobs, by Sarah Butcher 13 June 2017
  42. 連邦準備制度理事会 (2007年3月7日). “FRB: FAQs: Federal Reserve System”. 連邦準備制度. . 2010/06/17閲覧.
  43. 43.0 43.1 43.2 Woodward, G. Thomas (1996-07-31). “Money and the Federal Reserve System: Myth and Reality - CRS Report for Congress, No. 96-672 E”. Congressional Research Service Library of Congress. http://home.hiwaay.net/~becraft/FRS-myth.htm . 2010閲覧.. 
  44. 日銀は、日本政府が株式(正確には出資証券)の55パーセントを保有し、残りが公開市場(ジャスダック)で流通されている。
  45. http://www.federalreserve.gov/aboutthefed/fract.htm
  46. http://www.law.cornell.edu/uscode/html/uscode12/usc_sec_12_00000302----000-.html
  47. http://www.law.cornell.edu/uscode/12/263.html
  48. http://www.federalreserve.gov/aboutthefed/fac.htm
  49. ZuuOnline バングラデシュ銀不正送金問題「FRBは中古10ドルのルーター使用 2016/4/30
  50. Wood & Woods 1990, p. 420
  51. アメリカ国務省. “米国の統治の仕組み – 連邦政府”. アメリカンセンターJAPAN. . 2016閲覧.
  52. 52.0 52.1 52.2 連邦準備制度理事会のホームページに掲載されたイエレンの経歴(英語)
  53. 53.0 53.1 53.2 連邦準備制度理事会のホームページに掲載されたブレイナードの経歴(英語)
  54. 54.0 54.1 54.2 連邦準備制度理事会のホームページに掲載されたタルーロの経歴(英語)
  55. 55.0 55.1 55.2 連邦準備制度理事会のホームページに掲載されたパウエルの経歴(英語)

参考文献

  • Wood, John Cunningham; Woods, Ronald N. (1990), Milton Friedman: Critical Assessments, Routledge, ISBN 0415020050 
  • フルフォード, ベンジャミン (2008/12/20). アメリカが隠し続ける金融危機の真実. 青春出版社. ISBN 978-4-413-03698-6. 
  • The Secrets of the Federal Reserve, 1952. Reprinted John McLaughlin, 1983, 208 pages, ISBN 0-9656492-1-0

外部リンク


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