道南十二館

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道南十二館(どうなんじゅうにたて)

十七世紀の半ばに著わされた『新羅(しんら)之記録』に、長禄元年(一四五七)胡奢魔尹(こしゃまいん)を指導者とするアイヌ民族の大蜂起が勃発した際、渡島(おしま)半島南部の海岸地帯に十二ヵ所の和人の拠点(館)があったことがみえている。これを道南十二館という。すなわち、志濃里(志苔、しのり)・箱館・茂別(もべつ)・中野・脇本・穏内(おんない)・覃部(およべ)・大館・禰保田(ねぼた)・原口・比石(ひいし)・花沢の諸館である。この蜂起では茂別・花沢を除き他の館は陥落し、永正九年(一五一二)のアイヌの攻撃によって、志濃里・箱館は再び陥落している。その後、上ノ国勝山にあった蠣崎氏(松前氏の前身)が大館へ移り地歩を固めるにしたがい、館主の多くがこれに臣従していったために、これらの館は廃絶された。館主には安東氏嫡流の「季」の諱を用いている者が多く、津軽安東氏と深い関係をもっていたと考えられる。館は中小河川の河口部や天然の良港を控えて立地しており、また当時の北海道では米作は行われておらず、館主の主たる経済基盤はアイヌとの交易やコンブやサケなどの豊かな漁業生産を背景に、上方(かみがた)方面との交易活動によって成り立っていたとみられる。これを物語るように、志濃里館や原口館の周辺部から膨大な備蓄銭が発見されている。なお、十二館のうち所在地の明らかなものは志濃里・茂別・穏内・大館・比石・花沢の六ヵ所であり、中世の北海道にはこのほか七ヵ所の館が存在していたという。