重原藩

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重原藩(しげはらはん)は、明治改元後から廃藩置県までの間に存在した。石高は2万8000石。藩庁は重原陣屋に置かれた[1]

地理

現在の愛知県知立市を中心に、刈谷市安城市豊田市のそれぞれ一部が藩領であった。知立(上重原村-867石、牛田村-579石、中村-362石、谷田村-224石、八田村-222石、来迎寺村-93石)。刈谷(小垣江村-1255石、下重原村-694石、野田村-531石、半城土村-437石、高須村-296石、犬ヶ坪村-190石)。安城(里村-741石、今村-646石、福釜村-483石、高棚村-475石、榎前村-448石、箕輪村-251石、篠目村-208石、和泉村-152石、大浜茶屋村-35石)。豊田(駒場村-788石、東鴛鴨村-443石、西鴛鴨村-443石、堤村-180石)。刈谷市下重原町(浄福寺)に陣屋跡が残される。

藩史

この地は元々は刈谷藩の領土だったが、寛政2年(1790年)、土井氏の第3代藩主・土井利制の時代に寛政一揆が発生し、この責任を取らされ1万3000石を陸奥福島藩と村替え(領地替え)の処罰を課せられた。

福島藩主・板倉勝尚戊辰戦争で新政府に反抗したことから罪に問われ、明治元年(1868年)12月に3万石の所領のうち2000石を削減され、さらに強制的に隠居することを命じられた。

代わって家督を継いだ板倉勝達は、寛政4年(1792年)から三河国内にあった福島藩飛び地に移封され、これに福島藩旧領と上総国内にあった所領を合わせて2万8000石の藩主として、重原藩を立藩する。また、旧幕府直轄地三河県府藩県三治制)の一部地域も重原藩に編入される。明治2年(1869年)の版籍奉還で重原藩知事に任命された勝達は、行政機構の改革をはじめ、藩校・教導館を養正館に改称して教育の普及に尽力した。

なお、藩庁の建設も行なわれたが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県により重原藩は廃藩となって中止された。そして重原県額田県を経て、愛知県に編入された。

歴代藩主

板倉家

2万8000石

  1. 勝達〔従五位下・内膳正〕

脚注

  1. 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(351ページ)