釜山アメリカ文化院放火事件

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釜山アメリカ文化院放火事件
各種表記
ハングル 부산 미국문화원 방화사건
漢字 釜山美國文化院放火事件
発音 プサン ミグンムヌァウォン パンファ サコン
日本語読み: プサンあめりかぶんかいん ほうかじけん
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釜山アメリカ文化院放火事件(プサンアメリカぶんかいんほうかじけん)は、1982年3月18日韓国の第2の都市である釜山直轄市(現・釜山広域市)にあったアメリカ文化院に反米主義者の学生達が放火した事件のことである。

事件の概要

1982年3月18日午後2時頃、釜山直轄市中区大庁路にある釜山アメリカ文化院で火災が発生した。文化院の1階は全焼し、文化院の室内にいた大学生1名が焼死した他、3名が負傷した[1]。そして火災発生した直後、文化院の周辺で光州事件を武力弾圧した全斗煥政権の打倒と、同政権を支援するアメリカを帝国主義者と断定し追い出すための反米闘争を呼びかけるビラ数百枚が何者かによって撒かれた。

警察は、この火災が反政府運動を行っていた学生の一部左翼分子による放火事件と見て大規模捜査を開始した。事件発生から14日目の同年4月18日、主犯の文富軾(当時高神大学校4年生)と女学生の2名が警察に自首した。彼らの自首によって放火の共犯者3名とビラ散布者3名、反米反政府を目的とする学習会に参加した3名が逮捕された。さらに翌15日、1980年5月の光州事件で指名手配された学生も主犯者ら2名を教育扇動したとして逮捕された。また4月5日には主犯者らを匿っていた神父ら4名も犯人隠匿などの容疑で逮捕された。

この結果、同事件で検挙された被疑者は15名となり、彼らは国家保安法、戒厳法、現住建造物放火致死傷、集会及び示威に関する法律違反などの容疑で起訴された。1982年8月11日の判決公判で釜山地方裁判所は、文富軾ら2名に死刑、2名に無期懲役、その他の事件関係者に3年から15年の懲役刑を宣告した。また指名手配犯を匿った神父には懲役3年、資格停止3年の判決を宣告した。その後、大邱高等裁判所を経て、翌1983年3月8日の大法院における上告審判決公判で被告人全員の上告を棄却し、被告人全員の刑が確定した。だが、判決確定から一週間後の3月15日、全斗煥大統領の特別赦免で文富軾ら2名を死刑から無期懲役に減刑した。

影響

一般市民を巻き込んだ放火という形の運動手法に対しては運動圏(韓国民主化運動勢力の急進派を指す言葉)の一部からも批判が上がり、一般市民からの幅広い共感をも得ることはできなかった。しかし、この放火事件の頃から韓国の学生運動は従来までの反政府・民主化運動から性格を変え、体制そのものの変革を目指す運動へと変化し始めた。

著書

  • 『失われた記憶を求めて 狂気の時代を考える』現代企画室、2005年7月。ISBN 4-7738-0412-2 - 事件の主犯である文富軾の著書。

脚注

参考文献

  • 尹景哲『分断後の韓国政治』木鐸社
  • 韓国史編纂委員会 金容権編著『朝鮮韓国 近現代史事典』日本評論社

参考サイト

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