鉄のカーテン

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ファイル:Iron Curtain Final.svg
鉄のカーテン(ただし、東ドイツ発足後のためシュテッティンが境ではない)

鉄のカーテン(てつのカーテン、: Iron Curtain)は、冷戦時代のヨーロッパにおいて東西両陣営の緊張状態を表すために用いられた比喩である。同じく冷戦による分断の象徴として有名なベルリンの壁とは異なり、物理的な構造物のことではない。

由来

イギリスウィンストン・チャーチルが第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンウェストミンスター大学English版で行った演説[1]の中で、下記の演説をしたことにちなむ。

From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic, an iron curtain has descended across the Continent. Behind that line lie all the capitals of the ancient states of Central and Eastern Europe.

バルト海シュテッティンからアドリア海トリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。

— ウィンストン・チャーチル

米ソ冷戦の緊張状態を表す言葉として盛んに用いられた。

その後、ヨシップ・ブロズ・チトーが指導していたユーゴスラビア、またアルバニア社会主義国でありながらも東側陣営から離脱して非同盟の動きを見せたり、ドイツの東西分裂により生まれたドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足後に東側陣営へ組み入れられるなどして、境となる線は何度か変化した。

有名になったのは上記のチャーチル演説以降であるが、ナチス・ドイツ宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスがこの1年前に、同様の言葉を雑誌に寄稿した論文に用いたり、日記にしたためたりしている。またさらに遡ること15年、ソビエト連邦の作家レフ・ニクーリンが著したエッセイの中にも、ヨーロッパの東西陣営の緊張を表す言葉としてこの言葉が登場している。

この「鉄のカーテン」は、ヨーロッパの東西分断を象徴する言葉でもあり、「西欧」「東欧」という表現が盛んに用いられる契機ともなった。

ベルリンの壁

ヨーロッパで「鉄のカーテン」を象徴する出来事は、1948年6月24日ベルリン封鎖1949年の東西ドイツ分離独立、1961年8月13日ベルリンの壁の建設である。ドイツは両陣営によって東西に分断されたため、特にカーテンの影響を受けやすい状況にあった。

「鉄のカーテン」の消滅

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「鉄のカーテン」が存在したことを示す看板

1989年5月、改革を進めていた時のハンガリー首相ネーメト・ミクローシュにより、ハンガリー・オーストリア国境間に存在した鉄条網が撤去された。ハンガリーの西欧復帰を目指した政策の一つであったが、これが鉄のカーテンに穴をあけることになった。

この報道を西ドイツテレビ放送によって知った東ドイツ国民は、ハンガリーを経由して西側に亡命できると思い、同国に殺到した。8月19日汎ヨーロッパ・ピクニックを経て、9月11日にはハンガリーは東ドイツ国民の西側諸国への出国を解禁した。

そしてこれにより、東ドイツ国民が西への出国を求めてチェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド等へ殺到、東ドイツ国内でも政府への不満と自由を求める動きからデモが頻発し、11月9日ベルリンの壁崩壊に至った。また、東欧諸国でも民主化運動(東欧革命)が勃発した。1990年10月3日には東西ドイツが統一され、これをもって「鉄のカーテン」は消滅した。

「鉄のカーテン」消滅は、ドイツを中心とした「中欧」の概念が復活・クローズアップされることにもつながった。

比喩的用例・派生語

脚注

関連項目