高倉天皇

提供: miniwiki
移動先:案内検索


高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日応保元年9月3日) - 1181年1月30日治承5年1月14日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:1168年4月9日仁安3年2月19日) - 1180年3月18日治承4年2月21日))。憲仁(のりひと)という。

後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇後鳥羽天皇らの父。

略歴

母・平滋子平清盛の妻・平時子の異母妹であり、政界の実力者・清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、まだ皇子のなかった二条天皇の後継に擁立する動きがあり、誕生直後の9月15日、叔父の平時忠と清盛の弟・平教盛は二条天皇により解官されている。永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)の3歳の年長であるにも関わらず、仁安元年(1166年)10月10日、皇太子に立てられた。2年後の仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇をわずか5歳(満3歳)で退位させ、自身が8歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷いた。

承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘(つまり従姉に当たる)平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える。治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、同年12月15日には皇子を早々に皇太子とした。

翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲り、院政を開始するが間もなく病に倒れた。

後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平氏一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説や後白河院がこれを嫌って自分の皇子(天皇の異母弟)を天皇の養子にして譲位させようとしていたとする説も出ている[1]

系譜

系図

テンプレート:皇室鎌倉前期

后妃・皇子女

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。清閑寺旧境内の山腹に所在する。

治承5年(1181年1月14日の天皇崩御の夜、遺詔によって清閑寺法華堂に奉葬された。のちに法華堂は消滅したが、祭祀は継続されており、幕末には聖護院宮の管理下にあった。明治29年(1896年)、六条天皇清閑寺陵と区別して現陵号を設定。陵域内には、法華堂の基壇と見られる墳丘と、小督局の墓と伝える宝篋印塔がある。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注

  1. 高倉天皇も父である後白河院を警戒して母・建春門院から継承した所領を自己のものとし、崩御の際には中宮であった徳子に継承させようとしている(佐伯智広「高倉皇統の所領伝領」(初出:『日本史研究』549号(2008年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5)。

関連項目