黒田長政

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黒田長政
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年12月3日1568年12月21日
死没 元和9年8月4日1623年8月29日
主君 織田信長豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
筑前福岡藩初代藩主
氏族 黒田氏(※幼少時は小寺姓

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名筑前福岡藩初代藩主。

戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男九州平定文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

生涯

出生

永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高と正室櫛橋光嫡男として播磨姫路城にて生まれる[1]。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。当時、この名前は縁起の良い名前として武将の嫡子にはよくつけられた名前である。当時の黒田家は御着城主・小寺氏の家老として小寺姓を賜り名乗っており、小寺吉兵衛とも呼ばれる。

織田家の人質時代

父・孝高は中央の織田信長に伺候し、織田氏家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従っていたが、天正5年(1577年)10月15日に孝高は秀吉に対して起請文を提出し、松寿丸を人質として秀吉に預けている。松寿丸は秀吉の居城・近江長浜城にて、秀吉・おね夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたという。この頃、別所重棟の娘と婚約しているが、のちに破談となった。

天正6年(1578年)、信長に一度降伏した武将・荒木村重が反旗を翻す(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込むも説得に失敗し逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ孝高を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿丸は処刑されることになった。ところが、父の同僚・竹中重治(半兵衛)が密かに松寿丸の身柄を居城・菩提山城城下に引き取って家臣・不破矢足(喜多村直吉)の邸[注釈 1]に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をするという[注釈 2]機転を効かせた[4][注釈 3]

有岡城の陥落後、父が救出され疑念が晴らされたため[注釈 4]、姫路へ帰郷した。

羽柴(豊臣)家の家臣時代

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の備中高松城攻めに従い、初陣の冠山城の戦いなど中国地方毛利氏方と戦った(備中高松城の戦い)。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、初めて河内国内に450石の領地を与えられる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を務め、雑賀衆根来衆菅達長率いる長宗我部水軍と戦った。その功績により、加増2,000石を与えられる。

天正15年(1587年)の九州平定では、長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて孝高に豊前国中津に12万5,000石が与えられた。しかし豊前の国人勢力を懐柔するのは困難であった。その中の有力領主の一人・城井鎮房(宇都宮鎮房)は秀吉の出陣要請に対して、病気と称して自身は出陣せず、息子の城井朝房に僅かな手勢を付けて参陣させた。このような鎮房の態度に秀吉は不信を抱き、以後の豊前国の治世の困難を憂慮して九州平定後、鎮房に伊予国への移封を命ずる。移封は加増を伴ったものであるが鎮房は先祖伝来の地に固執して朱印状の受け取りを拒否し、秀吉の怒りを買うに至る。

この期に及んでは穏便に事を修めることが不可能と悟った長政は城井谷を攻撃したが、地の利のある鎮房のゲリラ戦術に苦戦した。そこで黒田父子は付け城を築いて兵站を断つ持久戦法をとり、他の国人勢力を各個攻め下していった。これが功を奏し形勢は逆転し、鎮房は12月下旬に13歳になる娘・鶴姫を人質に差し出すことを条件に和議を申し出、それが受け入れられ鎮房は恭順を誓った。しかし秀吉の承認を得ることは出来なかった。

秀吉の承認を得ることができないと知った長政は城井一族の誅伐を決心した。天正16年4月20日(1588年5月15日)、長政は鎮房を中津城に招いたが、家臣団は城下の合元寺に留め置かれた。わずかな共の者と中津城に入った鎮房は、長政によって酒宴の席で謀殺された。そして大量の黒田勢が合元寺に差し向けられ、斬り合いの末城井の家臣団は全員が討ち取られた。さらに黒田勢は城井谷城に攻め寄せて陥落させ、鎮房の父・城井長房を殺害した。また、鎮房の嫡男・城井朝房は、黒田孝高に従い一揆鎮圧のため出陣していたが肥後国で孝高によって暗殺された。こうして城井氏の勢力の殲滅に成功した長政は、人質の鶴姫を13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にして処刑した[5][6]

天正17年(1589年)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。

文禄元年(1592年)から行なわれた文禄・慶長の役では渡海している。長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正らとは別の進路を取る先鋒となった。釜山上陸後は金海昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺永同、文義、清州、竹山を進撃して5月7日に漢城へ到達した。5月初旬の漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王宣祖を追って開城を攻略した。6月15日の大同江の戦いでは朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。6月16日、敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領した。6月下旬には黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。8月初旬の漢城会議での援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした。文禄2年(1593年)正月に中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。漢城に集中した日本軍は碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。

和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)、長政配下の後藤基次が先陣争いで活躍した。その後の南部布陣期の長政は機張城を守備する。

慶長元年(1596年)9月に日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。慶長2年(1597年)7月に元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。長政は再度5千人の軍役を課せられ加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成して黄石山城を攻略し(黄石山城の戦い)、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。長政ら右軍は忠清道の天安へ進出した。日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めた[4]。長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した[7]。その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州慶山密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。

占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理・楊鎬、提督・麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。

このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。

関ヶ原の戦い

ファイル:Site of Kuroda Nagamasa and Takenaka Shigekado's Positions.jpg
関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との路線対立から五大老徳川家康に接近し、先に結婚していた蜂須賀正勝の娘・糸姫と離別し、家康の養女・栄姫保科正直の娘)を新たに正室に迎えた。

慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正ら武断派(いわゆる七将)と共に石田三成を襲撃した。この頃、根岸兎角ら優秀な鉄砲の遣い手を多数、召抱えている。

慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田長政軍の活躍は凄まじく、家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として、子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前国名島に、52万3,000余石の大封を与えられた。

江戸時代

慶長6年(1601年)、豊前国より筑前国に入府。海外貿易の大湊、博多大津(三津七湊)を要する筑前は古来より町人や禅僧の力が強い地であり、長政や家臣達は威力を示すために武装して入部した。これを『筑前お討ち入り』といった。当初入城した小早川氏の居城であった名島城は手狭で簡素な城であり、太守としては不便な土地であったことから、父・如水とともに新たな城を築城する。と並ぶ商人の街・博多の那珂川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎といったその地を、黒田氏ゆかりの備前国の故地からとって福岡と名付け、同年に着工し、慶長11年(1606年)に福岡城は7年あまりで全体が完成。長政は初代福岡藩主となる。

慶長8年(1603年)、朝廷より従四位下、筑前守に叙任される。

慶長9年(1604年)、父・如水が京都伏見屋敷(または福岡城三の丸御鷹屋敷)にて死去。如水はキリシタンであったため、葬儀はキリスト教カトリック式及び仏式で行われ、仏式では臨済宗京都大徳寺他にて大々的に取り行う。また、播磨国の鶴林寺に於いては、福岡藩の安寧と故地播磨をしのび大法要を行い、金銀を寄進した。

慶長10年(1605年)、藩領内の土地や住民に対し錠書を出す。

慶長11年(1606年)、長政は筑前入部に従い同行してきた商人・大賀宗九に対し徳川家康から海外貿易を行うための朱印状を受けさせる。宗九はこの貿易により巨万の富を築き以降、博多筆頭町人、福岡藩黒田家御用の地位を得、博多一の豪商となった。また、この年に亡父・如水の供養ために、京都の大徳寺山内に塔頭・龍光院を建立。

ファイル:The Siege of Osaka Castle.jpg
大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)右隻(大阪城天守閣所蔵)

慶長17年(1612年)に、嫡男の黒田忠之とともに上洛し、忠之は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠から松平の名字を与えられる[8]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、代理として忠之を出陣させる。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では秀忠に属して盟友の加藤嘉明とともに陣を張り、豊臣方と戦った。また、戦後、家臣の黒田一成に命じ、当時一流の絵師を集めて自らも参陣した『大坂夏の陣図屏風』(通称『黒田屏風』)を描かせたが、その絵の中には徳川軍の乱妨取りも詳細に描かれており、何故徳川方の長政が、味方の残酷極まりない有り様をこの大作に描かせたのか現在も論争が絶えない。同屏風は、大阪市所有(大阪城天守閣保管)で、国の重要文化財に指定されている。

藩主となって以降、数々の産業を奨励し博多人形博多織高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となる。

元和9年8月4日(1623年8月29日)、徳川家光の三代将軍宣下の先遣として、早くに上洛し、畿内にある関ヶ原合戦場など自らの足跡を巡っているが、既に病にかかっており、京都における黒田家の位牌寺・報恩寺の客殿寝所にて、56歳の生涯を終える。辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空」。

跡を忠之が継いだ。生前の長政は、忠之の器量を心配して、廃嫡を考えたこともあったが、重臣の栗山利章(大膳)に諌められ、思いとどまった。そして栗山に忠之の補佐を託して亡くなった長政だが、後に忠之と栗山が対立するお家騒動が勃発することになった(黒田騒動[9]

人物

黒田藤巴紋
  • 父・孝高ほどの軍略知略の人物ではなく、どちらかといえば武勇に優れた勇将であった[1]。ただし関ヶ原の戦いにおける西軍諸将の東軍寝返りの調略に代表されるように、父譲りの知略も持ち合わせていた。
  • 歴史学者の渡邊大門が唱える新説によれば、父・孝高は天下取りも出来るほどの逸材だったとの評は、実は長政による宣伝であったという。長政の遺言書には、「自分と父は、関が原の戦いで天下を取ろうと思えば取れたが、父はほぼ九州を支配下においており、自分がいなければ徳川家は関ヶ原で勝てたかどうかわからない。徳川家に天下を取らせることが良いことだと思ったために、この程度で甘んじたのだ。家康公もそのことがよくお分かりだったので、実質的に100万石の領地を与えられ、将軍家の姫君が降嫁し、子々孫々まで罪を免除されたのだ」と大いに自己宣伝をしている。これを伝え聞いた黒田藩士の学者・貝原益軒らが、『黒田家譜』において黒田孝高を持ち上げたために、孝高の逸話が多く作られたとされているがそれを証明する文書が無い等、この渡邊大門の新説に対する異論も数多くある。なお、長政の遺言書は黒田騒動の時に幕府に寛大な措置を求めるために用意されたとする偽作説も小説などにあるが、こちらも定かではない[10]
  • 熟慮断行の気性であったとされ、父・如水はそれを優柔不断のように見たのか「自分はかつて小早川隆景に、物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたとも言われる。
  • 築城の名手でもあり、家臣には林直利など天才的な石工、石材加工の職人集団がおり、江戸城築城の際の天守台、本丸の石垣、福岡市の箱崎宮住吉神社、徳川家康を祀る日光東照宮の石の大鳥居(日本三大鳥居)、石塔、徳川期大坂城名古屋城の通称「清正石」など、さまざまな巨石の建造物を各地に残している。各地の石切場に多くの石丁場(石切丁場)を作り、有名な天狗岩丁場などがある香川県小豆島[注釈 5]のほか、福岡県糸島市、静岡県伊豆市、神奈川県真鶴町本小松石)などに遺跡がある。なお、日光東照宮には正室の栄姫(徳川家康の養女)も女性としては唯一、献灯篭を許されている。

逸話

  • 朝鮮出兵の折の加藤清正の虎退治の逸話が江戸時代以降、軍記物語講談で世間に広く知られ大変有名になったが、その元の話は長政とその家臣らの虎退治である。他にも長政の功績や逸話が後世に他の武将のものとされて『絵本太閤記』など軍記物に紹介されており、現代において長政の評価が低い原因のひとつと言われる。近年、福岡市博物館など、黒田家に関わる文書の研究が進み、再評価の動きがある。
  • 豊臣秀吉の死後は藤堂高虎に負けず劣らずの体で、徳川家康に忠実に仕えた。蜂須賀正勝の娘・糸姫を離縁して家康の養女栄姫をめとり、さらに家康の命令の天下普請賦役をつつがなくこなした。特に江戸城の天守台及び本丸の石垣普請等、これらの功により外様大名でありながらも信頼された。また、家康に柳生宗厳(石舟斎)を京都で引き合わせて、柳生氏が徳川将軍家の剣術指南役となるきっかけを作っている。
  • 石田三成を恨んでいたとされ、その原因としてかつて父が失脚した一因に、三成との対立があったからと言われる。反面、後日談として関ヶ原の合戦後に三成への侮蔑の言葉を浴びせずに馬を降り敵軍の将として礼節を示したのは、長政と藤堂高虎だけだったという逸話もある。この時、長政は馬から降りて「不幸にしてこうなってしまわれた。これを召されよ」と着ていた羽織を脱ぎ、縄目の上から掛けて三成に遣わし、手向けの言葉を送った[11]
  • 長政は会津征伐出陣に際し、黒田家の御用を勤めていた、元足利将軍家の茶の宗匠・比喜多養清との繋がりで臨済宗建仁寺の塔頭・両足院にて必勝祈願し、元は鞍馬寺にあり同寺に祀られていた小さな毘沙門天像を兜の中に入れ関ヶ原に出陣した。明治になり黒田侯爵家から像が寄進され、現在は両足院毘沙門天堂に秘仏として祀られる。
  • 関ヶ原の戦いには、かつて幼少期の織田家の人質の頃、処刑されるところであった長政(松寿丸)を助けた恩人である竹中重治の子にあたる竹中重門が長政軍の客将として加わり、烽火場の陣(岡山烽火場、または丸山烽火場)を敷いている。
  • 関ヶ原戦直後、家康は長政の功労に自らその手をとって賞したという。帰郷してこのことを父・如水に話すと、如水に「それはどちらの手であったか」と尋ねられた。長政が「右手でございます」と答えると、如水に「その時、左手は何をしていた?(空いた手で家康の首を取れる絶好の機会にお前は何をしていた)」と詰問されたという話がある[注釈 6]
  • 領地の筑前南部、筑紫平野は九州一の穀倉地帯であり、当時は日本有数の米所であった。長政は筑後川から灌漑用水を引き、新田開発を奨励した。遠賀平野においても遠賀川から用水を引き新田開発を行った。糸島地区では干拓を奨励し、新たに2万石の田畑を開発している。
  • 父・如水が死去すると、黒田家随一の勇将で武功も多く如水から家臣ながら大名並みの厚遇を与えられていた後藤基次(又兵衛)を追放し、さらに奉公構という措置を取った。これは、一般には長政が基次の功績とかつて如水に寵愛されたことを疎ましく思ったからとされるが、むしろ基次は長政から厚遇されており、実際には、長政が仲の悪い細川家との付き合いを家臣に禁じたにもかかわらず、基次がこの掟に従わなかったことが主原因とする見方が強い[注釈 7]
  • バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先してキリスト教棄教すると長政自らも改宗した。徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰したという。
  • 「異見会」という家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論の上で決断する仕組みを作ったとされる。その場でもし、長政に少しでも怒るような雰囲気が見られると、他の者達は「おやおやこれは一体どういうことですか怒り給えるように見えますぞ」と言い、すると長政は「いやいや、心中には少しも怒りはない」と顔色を和らげたという。
  • 晩年には長男の万徳丸(後の黒田忠之)の器量を心配して、いくつもの家訓(御定則)を与えている(御定則は後世の創作であるとも)。また、一時は忠之を廃して三男の黒田長興を後継者にすることを考えたとされる。
  • 息子・忠之が4歳の袴着式を迎えた時、母里友信は「父君以上の功名を挙げなさい」と言ったという。それを知った長政は「父以上の功名とは何事だ。朝鮮でも度々、その後も関ヶ原の合戦と、私は武辺を示してきた。私は其方共に見限られるような武将ではない!」と激怒し、友信を誅そうとしたという。ただし、栗山利安のとっさの取り成しにより収まった。
  • 死の床につき、家老宛に「徳川家が天下を取れたのは、黒田父子の力によるもの」としたためたという。事実、徳川秀忠からの書状に匂わせる記述がある。このことから関ヶ原の戦いでの東軍勝利の影の功労者として、長政はこの戦いを生涯の誇りとしたとされる[13][1][14]
  • 長政は常に秀吉・家康と誰かの下にあって戦場で働いたため、自分が最高司令官になって大軍の指揮を執りたいという望みがあった[1]。長政は筑前の太守になると、2万の兵の調練を行った[14]。だが大坂の陣も結局は家康の戦であり、長政が最高司令官になる機会は遂になかった。長政は死の直前、遺言として「死に際し残念なのは、今2万の士卒を率いる将であり、日頃よく調練し、戦いに臨めば節制厳粛にして縦横無尽、心のごとく自由ならしめんことが必然なのに、これを試みることができないことである」と述べたという[4]
  • 長政は能楽観世流謡曲を得意とし、観世大夫・黒雪斎暮閑に学び家臣らによく謡って聞かせたという。家臣の母里友信はこの時、我慢できずに長政に人前では謡ってはなりませぬと進言したという。そして友信に長政は、率直に申したと、刀「関の孫六」を授けたという逸話が残っている。後年、黒田家の式楽の内、能楽は喜多流に替わるが、長政は父と豊臣時代から交流のあった初世の喜多七太夫長能を重用している。
  • 天正19年(1591年)、長政は高野山常喜院に、護摩堂本尊である大威徳明王像、幣振不動明王を寄進している。
  • 名将言行録』に、家中の剣の達人、林田左門に挑んだ家中の若者に対し、その勇を褒めつつ、「素人が達人に勝てぬのは当然のことであり、恥ではない。私も若い頃、柳生但馬(柳生宗矩)や疋田文五郎(疋田景兼)には散々に打ち据えられたものだ。そなたは林田に入門し、よく励んで腕を上げよ」と諭したところ、若者は感激して奮起し、後に達人となったので、人々は長政に主の器量ありと称えたという逸話がある。

系譜

子孫

  • 嫡男・忠之の血筋はその後、黒田光之 - 綱政 - 宣政と続いたが、宣政には子が生まれなかったため、これを以って断絶となった。宣政の跡を継いで6代目福岡藩主となった継高は、綱政の弟・長清の子で孝高・長政の血を引いていたが、継高の実子である重政長経はともに早世してしまい、正室・幸子(圭光院)との間に儲けた長女、藤子が嫁いだ岡山藩池田氏から外孫池田長泰を養子に迎えようとしたが、幕府の意向により御三卿一橋徳川家から治之を養子に迎えたため、これを以って断絶となった。
  • 三男・黒田長興の系統(秋月藩)も、長重長軌と続いて断絶しており、よって長政の男系子孫はいないということになる。

ただし、女系を介しての子孫は続いており、以下のようになる。

黒田家(宗家)
黒田家(秋月家)
秋月黒田家は、男系3代で絶えた後、女系で第4代黒田長貞から最後の藩主の長徳まで長政の血統を継いでいた。しかし、長徳は黒田本家から長敬黒田長知の子)を養子に迎えたため、これをもって途絶えることとなった。長徳の血統は以下のとおり。
長政
 
長興
 
勝子(黒田一貫室)
 
鶴子(野村祐春室)
 
長貞
 
春姫(秋月種美室)
 
秋月種茂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
黒田長舒
 
長韶
 
慶子(長元室)
 
長徳
 
 
 
 

関連作品

その他

  • 特撮番組『ウルトラマン』に登場する怪獣・ゴモラの頭のデザインは、長政の兜を元にしている[15]
  • 京都市上京区の「甲斐守町」の地名は、黒田長政の屋敷があった跡だと考えられ、他にも伏見城の鬼門の方角のキリシタン大名の武家地にも屋敷があった。
  • 神奈川県真鶴町の西念寺には、黒田長政の供養塔がある。これは江戸城築城の際、普請を請け負った真鶴の本小松石を発見した黒田藩を顕彰したものである。
  • 愛知県名古屋市金山の高野山真言宗・真勝院には、長政が寝所に祀っていた念持佛、大威徳明王尊像が秘仏として祀られている。
  • 長政の肖像画は数点残っているが、著名な福岡市博物館の騎馬像の他、江戸の黒田家菩提寺祥雲寺には大徳寺住持である江月宗玩賛による僧形肖像画が残されている。
  • 福岡県糟屋郡新宮町に興雲寺がある。これは、長政の死去後亡骸を福岡に運んだ際に一晩亡骸を安置したことから、後に黒田家より長政の戒名の一部を寺院の名前として下賜されたものである。

脚注

註釈

  1. 不破矢足邸跡は五明稲荷社となっており、現代にいたるまで松寿丸(長政)が匿まわれた時に植えたといわれるイチョウの木が残っていたが、腐食による倒木のおそれから2016年2月に伐採され、新たに若木を育成している。[2][3]
  2. 身代りとして松寿丸の遊び相手の首を差し出すことにより松寿丸自身の命は助かった。この身代りの親に対し、如水親子は後に扶持を与えている。この信長に対する処刑確認、いわゆる首実検の際、身代りの首を信長の前に届ける使者となったのも不破矢足であった。
  3. のちに長政は不破矢足を召し抱えようとするが、矢足自身はこれを固辞し、矢足の長男が福岡藩士となる。
  4. この際、信長は松寿丸の処刑を命じたことを悔やんだと伝えられ、また、松寿丸が生きていたことを知らされて安堵したと伝わる。
  5. 小豆島の「大坂城石垣石切丁場跡」は、石切丁場としては初めて、国の史跡に指定されている。
  6. ただし、この逸話は江戸時代の著者不明の古文書『古郷物語』が出所であり、現在確認できるそれ以前の史料には一切登場していない。長政が創作したいわゆる黒田官兵衛顕彰伝説の一つと考えられており、本郷和人も「如水の性格から言って考えにくい、この時の長政は唯一の黒田家の跡取りで、ここまで非情なことをする人ではない」と否定的な意見を述べている。[12]
  7. 基次にはこの件以外にも長政の命令を軽視した逸話が数多く残っている。
  8. 井上庸名(つねな)は井上之房(九郎右衛門)の子でのちに徳川旗本に転身。異母妹達が大名家に嫁いでいるので不憫に思った長政は遺言で2,000石の化粧領と母・光の財産は全て菊に渡すよう命じている。(黒田文書)
  9. 黒田文書によれば、当初、徳姫は徳川家光の正室になる旨、準備されていたという。母・栄姫と家光生母のお江与との交換書簡にその記述が残っているが、何らかの理由で中止になり家光は五摂家鷹司家から正室を迎えた。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 楠戸
  2. 岐阜県不破郡垂井町文化財アーカイブなど多数
  3. “さよなら大イチョウ”. 読売新聞. (2016年2月10日). http://www.yomiuri.co.jp/local/gifu/news/20160209-OYTNT50138.html 
  4. 4.0 4.1 4.2 『黒田家譜』
  5. 吉永, pp. 258-286.
  6. 吉永, pp. 276-290.
  7. 『懲毖録』
  8. 村川浩平 『日本近世武家政権論』 近代文芸社、2000年。
  9. 黒田52万石を救った 栗山大膳
  10. 渡邉.
  11. 楠戸
  12. 本郷和人「戦国武将のLOE」週刊文春、2014年1月1日号
  13. 小学館『戦乱の日本史』
  14. 14.0 14.1 楠戸
  15. 悪のウルトラマン・ベリアルも登場! “ウルフェス前夜祭”をレポート!!

参考文献

書籍
  • 本山一城『黒田軍団~如水・長政と二十四騎の牛角武者たち~』宮帯出版社、2008年、ISBN 9784863502871
  • 楠戸義昭 『戦国武将名言録』 PHP研究所、2006年。ISBN 978-4569666518。
  • 吉永正春 『戦国九州の女たち』 西日本新聞社、1997年。ISBN 9784816704321。
  • 吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社、2000年、ISBN 9784874153215
  • 渡邉大門 『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』 角川学芸出版、2013年。
史料

関連項目

テンプレート:黒田氏歴代当主