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{{Infobox 犯罪者
 
|名前=アル・カポネ<br />{{lang|en|Al Capone}}
 
|画像=Al Capone-around 1935.jpg
 
|画像サイズ=200px
 
|画像説明=アル・カポネ(1935年)
 
|出生名={{lang|en|Alphonse Gabriel Capone}}<br />アルフォンス・ガブリエル・カポネ
 
|生年月日={{birth date|1899|1|17}}
 
|出生地={{USA1896}}、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]][[ブルックリン区]]
 
|没年月日={{death date and age|1947|1|25|1899|1|17|df=y}}
 
|死没地={{USA1912}}、[[フロリダ州]][[マイアミビーチ]]パームアイランド島
 
|死因=脳卒中に伴う肺炎
 
|国籍={{USA1912}}
 
|別名=[[スカーフェイス]]<br />暗黒街の顔役
 
|動機=
 
|罪名=脱税
 
|有罪判決=有罪
 
|刑罰=懲役
 
|現況=
 
|職業=[[ギャング]]<br />家具販売業者(自称)
 
|配偶者=[[メアリー・ジョゼフィン・カフリン]]
 
|両親=父:ガブリエーレ・カポネ<br>母:テレサ・ライオーラ
 
|子=[[アルバート・フランシス・カポネ]]
 
|署名=Al Capone Signature.svg
 
}}
 
'''アル・カポネ'''({{lang-en|Al Capone}}、[[1899年]][[1月17日]] - [[1947年]][[1月25日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ギャング]]。「カポネ」は[[イタリア語]]の発音であり、英語の発音では「カポーン」が近い。
 
  
[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]時代に、[[シカゴ]]で高級ホテルを住まい兼事務所にしてそこから組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業をして組織を拡大し、[[犯罪組織]]を統合近代化していったことで知られている。
+
'''アル・カポネ'''({{lang-en|Al Capone}}、[[1899年]][[1月17日]] - [[1947年]][[1月25日]]
  
[[身長]]は179cmで、当時としては大柄であった。顔に傷があったことで「スカーフェイス」というニックネームがあった。しかし、本人はこの呼び名を嫌っていたため、本人の前で呼ぶ者はいなかった。
+
アメリカのギャング団のボス。シカゴとその周辺の犯罪組織を支配した。 1925年から,32年に脱税で逮捕されるまでの間が活動の最盛期で,[[禁酒法]]下で酒の密売を牛耳って巨利を得た。
 
+
家族は妻の[[メアリー・ジョゼフィン・カフリン|メエ]]と息子の[[アルバート・フランシス・カポネ|ソニー]]。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 生涯 ==
 
[[ファイル:Al Capone mother.jpg|thumb|right|150px|アルと母テレサ]]
 
[[1899年]]、[[ニューヨーク]]の[[ブルックリン区]]に[[イタリア王国|イタリア]]の[[カンパニア州]][[サレルノ県]][[アングリ]]出身の[[イタリア系アメリカ人]]の家に九人兄弟の四男として生まれる。父のガブリエーレは[[理髪師]]であり、母のテレサは[[裁縫]]婦であった。
 
 
 
少年時代のアルは6年生まで成績も良かったが、その後は学校をサボるようになる。7年生に進級する頃、担任の女教師に注意され、殴り合いの喧嘩となって2度と学校には行かなかったという。この頃のアルは遊び好きで、洒落た服を着て外出しはしゃいだりした。また、ビリヤードの名手で町のチャンピオンであったという。幼友達だったエドワード・ディーン・サリヴァンによれば、アルは無邪気な少年で、酒は一滴も飲まなかったが、「アドニス社交クラブ」という暴力の巣窟のような店に出入りしていたという。ここでアルは銃の扱いかたを覚え、イタリアン・マフィアの幹部[[ジョニー・トーリオ]]<ref>http://www.britannica.com/biography/Johnny-Torrio</ref>とも出会う。
 
 
 
=== 犯罪の世界へ ===
 
まだ駆け出しの頃、トーリオの紹介で[[フランキー・イェール]]と出会う。アルはイェールに気に入られ、彼の店「ハーヴァード・イン」で皿洗いから給仕、バーテンダーから用心棒までなんでもこなした。そして、イェールに認められて本格的に暗黒街に入る。[[シチリア]]出身ではなかったためマフィア本流には加われなかった。
 
 
 
1920年(1919年や1921年とする説もある)にトーリオに呼ばれてシカゴへ行く。この頃アルは、[[ホワイト・ハンド]]を痛めつけたため、ボスのワイルド・ビル・ロベットから狙われていた。他にも2件の殺人事件に関与し、起訴されそうでもあった。そのためシカゴ行きはちょうど良かった。シカゴへ行くとき友人の[[ラッキー・ルチアーノ]]から2万ドルの餞別をもらったという。ルチアーノは後年「カポネのやつ感極まって、今にも泣きそうな顔だったよ」と語っている。
 
 
 
シカゴでは、最初[[ジム・コロシモ]]の売春宿で[[ポン引き]]などをしていた。この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習ったという。
 
 
 
1年とたたないうちにトーリオの犯罪帝国で出世し、賭博場兼売春宿の支配人にもなり、雇われ人ではなくパートナーになると、客引きなどする必要はなくなった。この頃すでに2万5千ドル近い年収を稼ぐ実業家になっていたという。さらにシカゴに自分名義で家を購入しブルックリンから家族を呼んだ。妻子だけではなく母や兄弟たちも呼んだ。
 
 
 
その後、ウィリアム・E・ディヴヴァーがシカゴ市長になると政治改革が続くと考え、事業の本部をシセロへ移した。
 
 
 
[[ダイオン・オバニオン]]を暗殺した頃から、自分も暗殺されるのではないかという恐怖から警備が厳重になった。どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行き、外出には必ず車を使った。この時期、自宅以外1人でいることは無かったという。
 
 
 
[[1925年]][[1月12日]]、“ハイミー”ワイスと“スキーマー”ドルッチと[[ジョージ・モラン]]は最初のカポネ暗殺を企て、アルの車に[[トンプソン・サブマシンガン|トミーガン]]で攻撃した。ボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れるほどの威力であった。運転手は負傷したが、アルは車にいなかったため、無事だった。その後、トミー・クイリンジョーネという若い運転手が誘拐されて殺されるという事件があった。
 
 
 
===「暗黒街の顔役」 ===
 
[[1925年]]、ジョニー・トーリオが敵に襲われて引退するとアルは縄張りを譲られ、26歳にして組織のトップに立った。”酒の密売”でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。さらに[[ウィリアム・ヘイル・トンプソン|“ビッグ・ビル”・トンプソン]]をはじめ、市議会議員、警察などの官憲を買収して勢力の拡大と安泰化を図った。1920年代のアル・カポネは、実質的に市長ともいえる存在となっていた。1927年頃にはシカゴで有名人となり、1929年にカポネ一家の年間の収益は6200万ドル(現在の貨幣価値に換算すると8億3千万ドル)にもなった。カポネはジャズの大ファンであり、秘密の酒場や会員制クラブで、黒人ジャズ・ミュージシャンに演奏させたりもした。有名なジャズ・ミュージシャンを拉致して、演奏させたこともあった。
 
 
 
部下の[[ジャック・マクガーン]]が「ジョージ・“バグズ”・モラン一味を抹殺すべきだ」と言ったとき、アルにとってもモランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため、それに同意し、彼に1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束をした。そして[[1929年]][[2月14日]]、[[聖バレンタインデーの虐殺]]は実行された。この事件は全米のマスコミに大きく取り上げられた。虐殺が行なわれた当時、アルはマイアミ・ビーチに滞在していた。警察はアルを疑い電話の記録を調べたが、事件の前後数日間はシカゴからの記録もなかった。
 
 
 
[[1929年]][[5月]]にアトランティック・シティで行なわれた暗黒街の会議の後、拳銃の不法所持で自作自演で逮捕される。その理由は、聖バレンタインデーの虐殺でカポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味だった。このことも会議の議題の一つになっていた。刑期は[[5月17日]]から[[1930年]][[3月17日]]の10ヶ月間。刑務所内では言うまでもなくVIP待遇だった。一部資料によると莫大な利益を上げているカポネと、ニューヨークやその他のギャングの仲が悪くなり、カポネが身の危険を感じたためだという話もある。
 
 
 
[[1930年]]の暮れ、逮捕を逃れるため、アルはシカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日に3度、無料給食を提供した。このことは新聞などでも報じられ、国民が感心した出来事だった。無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かる、とアルは言っていた。しかし、実際には経費のほとんどはアル・カポネ自身が負担したのではなく、地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに寄付させたもので、彼らはアルの言いなり状態だったという。
 
 
 
=== アメリカ合衆国対アルフォンス・カポネ ===
 
[[ハーバート・フーヴァー|フーヴァー]]政権下、[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]][[アンドリュー・メロン]]の号令のもと、[[所得税]]の[[脱税]]と、[[ボルステッド法]]違反の両面からカポネに対する追及が進められた。特に後者で密造酒関係の調査を行なった[[エリオット・ネス]]のチームは「アンタッチャブル」と呼ばれ世間の耳目を集めたが、最終的に脱税を主としてカポネは告発された。
 
 
 
[[1931年]][[10月7日]]、アル・カポネの脱税裁判が始まった。裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場のことなどを証言した。アルは合計11年の懲役、罰金8万ドルの有罪判決を受けた。刑を宣告されたとき、自分が予想していたよりも過酷な宣告だったため、微笑は苦いもので今にも怒りが爆発しそうだったという。
 
 
 
アルは裁判が始まる前に、陪審員候補者のリストを入手して1人千ドルで買収した。しかし、このことはアルの一味だった[[エドワード・J・オヘア]]が事前に密告したため、開廷するや陪審員を入れ替えられてしまい、目論見が外れた。アル・カポネは事前に陪審員を買収したということもあって、彼の弁護士は裁判での弁護を怠っていたといわれている。1990年代に行なった模擬裁判でアル・カポネは無罪だったという。
 
 
 
=== 刑務所での生活 ===
 
[[1931年]][[10月24日]]、アルはクック郡刑務所に入る。この刑務所でアルは所長と職員を買収し、レキシントン・ホテルに住んでいたころと変わらない豪華な生活をしており、そこから以前と同じように組織を動かしていた。所長がアルの機嫌をとっていたという。しかし[[1932年]][[5月2日]]、アルにとって最後の望みであった再審請求は最高裁から退けられた。この時、アルはかなり失望したという。
 
 
 
1932年[[5月3日]]の午後、アルは家族に別れを告げ、列車でアトランタへ向かった。このとき、刑務所へ向かうアルを見ようと来た[[エリオット・ネス]]がおり、アルとネスは少し話をしたという。アルとネスが会ったのはこの時が最後である。
 
 
 
アルがアトランタ刑務所に入ったころ、新聞にはアル・カポネが刑務所を牛耳っていると書かれていたが、実際には逆で、アルが他の囚人の標的になっており、「酒と女はどこにある?デブ」などと罵倒されたりもした。しかし、刑務所内では娑婆にいた頃、アルに世話になった者もいて、そういった連中はアルの味方になった。
 
 
 
ここでのアルの仕事は靴工場で靴の修理だった。毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせていたという。
 
 
 
=== アルカトラズ刑務所 ===
 
[[ファイル:Acaponeh.jpg|thumb|200px|アルカトラズ刑務所のカポネ]]
 
1932年8月22日に[[アルカトラズ刑務所]]に到着。通常囚人は列車から船に乗り換えて刑務所に移送されるが、カポネの逃亡及び奪還を恐れた当局は客車から彼を降車させず、客車を[[はしけ]]に乗せて直接刑務所まで船でけん引して移送した。囚人番号は#Az-85号になる。
 
 
 
刑務所の中では風呂場の掃除係として従順に刑に服しており、他の囚人からは「wop with the mop(「モップを持ったイタリア野郎」の意。wop([[ウォップ]])はイタリア系に対する[[蔑称]])と呼ばれていた。刑務所所内での態度は良好で、週末には囚人仲間と[[バンジョー]]を演奏して楽しんでいたという。しかし、次第に若年時に感染した[[梅毒]]が悪化し始める。
 
 
 
[[1936年]]に囚人によるストライキがあったがアルは参加しなかった。このことで他の囚人から妻と子を殺してやるなどの脅しを受けた。すると、アルは独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。この子供じみた行動も梅毒による痴呆症状だが、看守や囚人たちはそれと知らないので、長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうと思っていた。
 
 
 
1936年[[6月23日]]にはジミー・ルーカスという囚人に刃物で刺されるという事件があった。原因はルーカスがアルから金をゆすろうとしたが断ったのと、ストに参加しなかったこと。ルーカスはその後、6ヶ月間の隔離棟での生活で狂人になったという。
 
 
 
その後、アルの梅毒はますます悪化し、心身は衰弱していった。[[1938年]]の検査で初めて梅毒が発覚し、刑務所の医師は症状の改善を期待して[[梅毒#.E3.81.8B.E3.81.A4.E3.81.A6.E3.81.AE.E7.99.82.E6.B3.95|マラリアを接種]]したが、ほとんど効果はなかった。
 
 
 
[[1939年]]1月に[[ロサンゼルス]]近くの連邦矯正施設に移送され、そこで残りの刑期の1年近くを過ごす。
 
 
 
同年[[10月25日]]、[[連邦捜査局|FBI]]捜査官のD・W・マジーがアルを面会した。彼はこの時の面会について、アルは現実と妄想の区別が付かず、理性を失っていたと感じたという。
 
 
 
同年[[11月16日]]、アルは釈放された。このときのアルはクック郡刑務所に入るときの身なりがよく自信に満ちあふれた人物とは別人であったという。
 
 
 
=== 出所後 ===
 
出所後、アルは[[ボルチモア]]のユニオン記念病院で、[[梅毒]]の治療を受けることになる。4ヶ月の治療の後、アルと家族は[[フロリダ]]のパームアイランド島にある家で生活する。この頃、アルの家には暗黒街の人間が訪れてきて、アルと[[雑談]]をしたり、他の兄弟と商談をしたという。
 
 
 
[[1945年]]、アルは梅毒治療として、民間人で初めて[[ペニシリン]]を投与されたが、病気が進行しすぎていたため、効果はなかった。
 
 
 
[[1947年]][[1月25日]][[土曜日]]の[[東部標準時]][[午前]]7時25分、アルは[[脳卒中]]に伴う[[肺炎]]により[[死亡]]した。出所してから死亡するまで、かつて牛耳ったシカゴへは戻ることはなかった。アルは土曜日に死亡したので、各紙の[[日曜日]]版には大きく報じられた。[[ニューヨーク・タイムズ]]はこのことを「悪夢の終わり」と伝えた。
 
 
 
[[1947年]][[2月4日]]に行われた葬儀の会葬者の中には、かつて「アルの側近」だった[[ジェイク・グージック]]や、後に「シカゴの大物ボス」になる[[マレー・ハンフリーズ]]の姿もあった。
 
 
 
=== 死後 ===
 
アルが死んだのち、シカゴ暗黒街のボスは、フランク・ニティ、[[ポール・リッカ]]、[[トニー・アッカルド]]、[[サム・ジアンカーナ]]、{{仮リンク|サム・バッタグリア|en|Sam Battaglia}}と引き継がれていく。
 
 
 
== スカーフェイス事件 ==
 
ハーヴァード・インで働いて1年ほどたったある夜、店にいた若い女性客にひわいな言葉を言った。すると、女性客の兄のフランク・ガルチョが妹を侮辱された事に怒ってアルを1発殴り、更にナイフで左頬と首筋を切りつけ、店から逃走した。このとき顔に傷がついたことで「スカーフェイス(向こう傷)」という異名がついた。この後、アルはガルチョを探し復讐しようとしていた。そのため、ガルチョは知り合いを通じて、サルヴァトーレ・ルカーニア(後の[[ラッキー・ルチアーノ]])にこの事件を話した。このことでアル、ルカニーア、ガルチョ、そしてイェールで正式な話し合いをした。その結果、ガルチョの妹を侮辱したアルがガルチョに謝罪することになった(資料によってはルチアーノではなくジュゼッペ・マッセリアとするものもある)。
 
 
 
後年、権力を持ったアルは報復する事はせず、そればかりか彼を週給100ドルで使い走りに雇ったという。
 
 
 
== シセロ・トリビューン紙 ==
 
1920年代に[[ロバート・セント・ジョン]]というジャーナリストはシセロ・トリビューンという新聞でカポネ一味の悪影響を糾弾し、暴露していた。そのため、[[ラルフ・カポネ]]が部下を使いセント・ジョンを暴行した。アルはそのことを謝り、金で解決しようとした。しかし、セント・ジョンは金を受け取らなかった。そのため、アルは新聞社の出資者に圧力をかけ、新聞社の権利を買い取ることにした。その後、セント・ジョンは新聞社を去った。
 
 
 
== マクスウィギン事件 ==
 
[[1926年]][[4月27日]]、カポネ組の構成員が、敵のオドンネル兄弟と間違えてウィリアム・H・マクスウィギンという若い検事を殺害してしまった。そのため、アル・カポネは指名手配された。300人の刑事が3ヶ月捜査しても見つからなかったので、アル・カポネは[[カナダ]]か[[イタリア]]へ逃亡したのではないかという噂が流れた。実際には[[ミシガン州]][[ランシング (ミシガン州)|ランシング]]に身を隠し、友人のアンジェロ・マストロピエトロの協力を得て、安楽な逃亡生活をおくっていた。
 
 
 
ランシングでは暴力や殺人はなかったが、それでも警戒して[[ジャック・マクガーン]]と[[フランク・ニティ]]の2人の部下を呼んだ。アルはランシング郊外のラウンド・レイクの湖の周辺を散歩したり、ひと泳ぎしたり、ときには湖に遊びに来た子供たちの相手をした。ランシングに住むイタリア系の人々はアルの潜伏に手を貸していた。この頃ランシングの人たちはブラック・ハンドの残党やパープル・ギャングの犠牲になっていた。アルはそういった連中に「ランシングの人たちに手を出すなら、このアル・カポネが相手になる」と言うと、彼らは手を引いたという。貧しい家庭には生活費や学費を出したり、子供たちを連れてアイスクリームを買いにいったり、こうしてアルはこの街で人気者になった。
 
 
 
3ヶ月間ランシングで過ごした後、シカゴへもどる。1926年7月29日、シカゴ刑事裁判所に出頭する。警察などが事件を調べていくうちにマクスウィギン殺人事件は起るべくして起った事故ということになった。なぜなら、マクスウィギンはアイルランド系のギャングスターと付き合いがあり、禁酒法に違反してもぐり酒場にも頻繁に出入りし、とても検事とは思えない行動をとっていたためである。アルに対しても、3ヶ月間行方をくらましている間に市民の怒りはおさまっており、捜査でも事件について法的に立証できず、アルは自由の身になった。
 
 
 
== 恩師イェール暗殺 ==
 
1928年、この頃フランキー・イェールとの闇酒取引はうまくいっていなかった。イェールは酒を運ぶトラックのハイジャックが増え続けていると言っていた。このことについてアルはイェール本人を疑っていた。この輸送ルートはカポネ組の大きな収入源(この頃アルの年収は推定で1億ドルを超えていた)の一つだった。詳しく知るために友人のジェームズ・デ・アマートをブルックリンに送りイェールの監視を頼むが、アマートはやがて殺された。そしてイェールの闇酒取引の不正が疑いから確信に変わり、[[ジェイク・グージック]]らと暗殺を計画する。マクガーン、アルバート・アンセルミ、ジョン・スカリーゼ、フレッド<キラー>バーグの部下を使い、1928年7月1日に暗殺を実行する。その年の夏の終わりに、イェール暗殺の仕返しと思われる事件があった。アルの友人でウニオーネ・シチリオーネの会長のアントニオ・ロンバルドが暗殺され、そのあとを継いだパスカリーノ・ロロルドも暗殺された。
 
 
 
== ニューヨーク・マフィアとの関係 ==
 
ニューヨークで[[カステランマレーゼ戦争]]([[1929年]] - [[1931年]])と呼ばれる[[サルヴァトーレ・マランツァーノ]]([[1886年]] - [[1931年]])と[[ジョー・マッセリア]]([[1879年]] - [[1931年]])の間でイタリア系[[マフィア]]の覇権争いが行なわれていた1931年、アル・カポネは最初マッセリア側に軍資金を送ったが、マランツァーノ側から早まったマネはしない方が良いと言われ、それ以上のことはしなかった。4月にマッセリアが暗殺されて抗争が終わり、5月にシカゴでギャングの集まりがあった時に、マランツァーノはアルのことをシカゴ・ファミリーのボスとして認め、アルを讃える演説をした。このときアルは、マランツァーノにダイヤをちりばめた腕時計を贈った。マランツァーノに同行して来た[[ジョゼフ・ボナンノ]]はこのときのことを「カポネは最高のホストだった」と絶賛している。マランツァーノはニューヨークのマフィアを5つのグループに分割し[[五大ファミリー]]を統括するボスとなったが、9月にマッセリアと協定を結んでいた[[コーサ・ノストラ]]の[[ラッキー・ルチアーノ]]に暗殺され、ニューヨーク・マフィアはラッキー・ルチアーノの傘下となった。さらにルチアーノは[[コミッション]]の元に[[:en:Philadelphia crime family]]・[[:en:Buffalo crime family]]・[[:en:Los Angeles crime family]]・[[シカゴ・アウトフィット]]を置く現在に続く組織を固め、後に[[:en:Detroit Partnership]]・[[:en:Kansas City crime family]]が加わった。ラッキー・ルチアーノも前述のシカゴ会合に出席している。
 
 
 
== 人物像 ==
 
若い頃のアルは家族思いで、チンピラ時代に3〜10ドルの金を稼ぐと、その金を家に持ちかえり母親に渡すような少年だった。成長するに従いファイヴ・ポインツ・ジュニアなど色々なギャングに入ったりもしたが堅気の仕事もしており、製本工場やボーリング場で働いていた。
 
 
 
メエとの出会いは19歳のときである。[[1918年]][[12月4日]]に息子のソニーが生まれ、[[12月30日]]に結婚式が行われた。実際のアルは、結婚してから[[フランキー・イェール|イェール]](ニューヨークのギャング、後出)の下で働くのを一時期やめて、[[ボルチモア]]へ行き、建設会社に簿記係(この時代のギャングで簿記が出来たのはカポネぐらいであろう)として就職した。毎日スーツにネクタイのまじめな服装で経営者のピーター・アイエロの事務所へ出勤した。近所の住民によるとアルは頭の良い好人物であったという。しかし、父ガブリエーレが死んだ1920年ごろにジョニー・トーリオとイェールとの付き合いを再開した。1920年、アイエロに退職を申し出た。餞別としてアイエロはアルに500ドル貸し、アルはこの恩義を決して忘れなかった。後年にピーター・アイエロが技術大会でシカゴに来たとき、大物になったアルは彼を歓迎する宴会を開き、[[シセロ]]ではパレードを行なった。
 
 
 
酒の密売については、「俺は人々が望むものを与えてきた。なのに俺に返ってくるのは悪口だけだ」と言っていた。
 
 
 
その陽気な性格からマスコミにも取り上げられることが多く、自らも生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行うなど大衆の支持獲得に腐心した。
 
 
 
ボクシング世界チャンピオンの[[ジャック・デンプシー]]とは友人だった時期もあり、試合前には花束を贈ったりもした。デンプシーもアルのことを「最高のファンの一人」と言っていた。
 
 
 
彼は世の中について「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に変える悪徳銀行家は、家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、よっぽど刑務所行きの資格がある。この稼業に入るまでは悪徳政治家など世の中には高価な服を着て偉そうな話し方をする悪党がこんなに多いとは知らなかった」とコーネリアス・ヴァンダービルトのインタビューで答えている。
 
 
 
== 大衆文化への影響 ==
 
=== 映画・テレビ ===
 
アル・カポネをモデルにした映画やテレビドラマは数多く作られ、今も歴史上最も有名なギャングとして語り伝えられている。[[エドワード・G・ロビンソン]]主演の『{{仮リンク|犯罪王リコ|en|Little Caesar (film)}}』はアル・カポネをモデルにした映画であり、[[ポール・ムニ]]主演の『[[暗黒街の顔役 (1932年の映画)|暗黒街の顔役]]』も同様で、[[アル・パチーノ]]主演の『[[スカーフェイス (映画)|スカーフェイス]]』はそのリメイク版。
 
 
 
1957年に[[酒類取締局]](現[[アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局]])捜査官[[エリオット・ネス]]の活躍を描いて発行された『The Untouchables』は、1950年代後半に『[[アンタッチャブル (テレビドラマ)|アンタッチャブル]]』としてTVドラマ化され人気を博したが、内容のほとんどはドラマシリーズ用のフィクションである。描かれているネスやカポネの人物像には、現実との乖離が指摘されている{{誰|date=2010年2月}}。
 
 
 
なお、『The Untouchables』の映像化作品には、1950年代後半〜1960年代初頭にかけて放送された残党を逮捕する上記テレビドラマ版の他に、テレビ放送に先駆けて公開されたカポネ逮捕劇の映画『[[アンタッチャブル (テレビドラマ)|ザ・アンタッチャブル どてっ腹に穴をあけろ]]』、1987年に製作・公開されて大ヒットしたリメイク映画版『[[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]』([[ブライアン・デ・パルマ]]監督作品。主演:[[ケビン・コスナー]]。カポネ役:[[ロバート・デニーロ]])、1990年代にテレビドラマ化されたリメイクテレビドラマ版『{{仮リンク|新アンタッチャブル|en|The Untouchables (1993 TV series)}}』がある。
 
 
 
=== 舞台 ===
 
2015年、[[宝塚歌劇団]][[雪組]]公演のミュージカル『アル・カポネ - スカーフェイスに秘められた真実 -』が[[梅田芸術劇場#シアタードラマシティ|シアタードラマシティ]]と[[赤坂ACTシアター]]で上演。作・演出は[[原田諒]]、主演は[[望海風斗]]<ref>{{cite web|url=http://kageki.hankyu.co.jp/news/detail/47b44cdcfd95a728d1dca4f3f4b1431a.html|title=2015年 公演ラインアップ【シアター・ドラマシティ、東京特別】<5月~6月・雪組『アル・カポネ ―スカーフェイスに秘められた真実―』>|publisher=[[宝塚歌劇団]]|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20}}</ref>。第23回[[読売演劇大賞]]の作品賞・上半期ベスト5に選ばれた<ref>{{cite web|url=http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2015/07/28.php|title=「第23回読売演劇大賞」上半期ベスト5が発表に|publisher=シアターガイド|date=2015-07-28|accessdate=2015-07-30}}</ref>。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
[[ジャマイカ]]の[[ディージェイ]]、[[デニス・アルカポーン]]はカポネから影響を受け、自らの芸名とした。「Guns Don't Argue」など、自らをカポネになぞらえた作品も多く発表している。イギリスのグループ、ペイパー・レースは「ザ・ナイト・シカゴ・ダイド」の歌詞の一部で、アル・カポネについても歌っている。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 山田吐論『実録マフィア映画の世界』
 
* [[ローレンス・バーグリーン]]『カポネ 人と時代-愛と野望のニューヨーク篇-』
 
* ローレンス・バーグリーン『カポネ 人と時代-殺戮と絶望のシカゴ篇-』
 
* [[ヒロ服部]]『アメリカを震撼させた男たち』
 
* アメリカン・マフィア「完全版」DVD-BOX([[CBS]])
 
 
 
== 関連作品 ==
 
* ドキュメンタリー 「[[失われた世界の謎]]」シリーズ 第25回「アル・カポネの暗黒の街」([[ヒストリー・チャンネル]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Al Capone}}
 
* [[ギャング]]
 
* [[マフィア]]
 
* [[ラッキー・ルチアーノ]]
 
* [[アメリカ合衆国における禁酒法]] - [[ボルステッド法]] - [[禁酒]]
 
* [[ジョセフ・P・ケネディ]] - 禁酒法時代に密接な関係を作り、財を築いた。
 
* [[梅毒]]
 
 
 
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アル・カポネ英語: Al Capone1899年1月17日 - 1947年1月25日

アメリカのギャング団のボス。シカゴとその周辺の犯罪組織を支配した。 1925年から,32年に脱税で逮捕されるまでの間が活動の最盛期で,禁酒法下で酒の密売を牛耳って巨利を得た。



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