「岡崎嘉平太」の版間の差分

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'''岡崎 嘉平太'''(おかざき かへいた、[[1897年]]([[明治]]30年)[[4月16日]] - [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月22日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。
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'''岡崎 嘉平太'''(おかざき かへいた、[[1897年]]([[明治]]30年)[[4月16日]] - [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月22日]])
 
 
[[1972年]][[岡山県]][[賀陽町]](現・[[吉備中央町]])名誉町民。[[1978年]]、[[勲一等瑞宝章]]受章。[[1985年]]、岡山県[[総社市]][[名誉市民]]<ref>[http://www.city.soja.okayama.jp/hisyo/shisei/meiyo_shimin.html 総社市]</ref>。[[1985年]]、岡山県[[名誉県民]]<ref>[http://www.pref.okayama.jp/page/288556.html 岡山県名誉県民 - 岡山県ホームページ(総務学事課)]</ref>。[[1987年]]、[[中華人民共和国|中国]][[洛陽|洛陽市]]名誉市民。
 
 
 
== 来歴・人物 ==
 
=== 生い立ち ===
 
岡山県[[賀陽郡]]大和村(現・吉備中央町)に、[[農業]]・岡崎鶴太郎の長男として生まれる。
 
 
 
[[尋常小学校]]1年の頃に自宅が全焼し、吉備郡総社町(現・[[総社市]])に移り住む。旧制岡山中学校(現・[[岡山県立岡山朝日高等学校]])を経て、[[1916年]][[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学する。一高時代は[[ボート]]部で活動し、また中国人留学生たちとの交流を深める。
 
 
 
=== 日銀及び大東亜省 ===
 
[[1922年]]、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を卒業<ref name=50years42>大空への挑戦 ANA50年の航跡 42頁</ref>後、先輩の世話で<!--出典ここから-->[[日本銀行]]に入行する<ref name=50years42/>。営業局次長、外国為替部次長を経て、<!--出典ここから-->[[日中戦争]]下の[[1939年]]に、日銀を依願退職し、上海に華興商業銀行を設立して理事となり<ref name=50years42/>、[[中華民国維新政府]]統治下の[[上海市|上海]]へ赴任した。
 
 
 
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])中の[[1942年]]には、[[大東亜大臣]]となった旧知の[[青木一男]]に請われ<!--出典ここから-->[[大東亜省]][[参事官]]となり日本に戻る。翌[[1943年]]には[[汪兆銘政権]](南京国民政府)下の上海へ[[領事館]]参事官として再び戻る<ref name=50years42/>。終戦後は日本人の[[引揚者|引揚げ]]に従事し、[[中華民国]]当局との交渉を行った。
 
 
 
=== 池貝鉄工及び丸善石油社長 ===
 
[[1946年]]の帰国後は、経営危機に陥っていた[[池貝|池貝鉄工]]社長([[1949年]])と[[コスモ石油|丸善石油]]社長([[1951年]])に[[天下り]]し、再建にあたった。<!--出典ここから-->岡崎は戦後、公職追放されていたが、池貝鉄鋼の再建に成功したため公職追放特免を受けた<ref name=50years42/>。また経営者としての活動と平行して日中([[中華人民共和国]])間の経済交流推進に取り組み、[[1954年]]に[[日本国際貿易促進協会]]常任委員に就任。[[1962年]]には[[全日本空輸]](以下「全日空」と表記)の社長を兼任したまま[[高碕達之助]]とともに訪中し[[LT貿易]]協定を結んだ。
 
 
 
=== 全日空社長 ===
 
[[1952年]]に全日空の前身である[[全日本空輸#前身|日本ヘリコプター輸送]]副社長となり、[[1961年]]には[[美土路昌一]]の後を継いで全日空の第2代社長に就任する。岡崎が社長に就任した当時の日本の航空業界は、50%の政府出資に加え特別法により例外的に各種の助成を受けていた日本航空でさえ1954年度に15億円以上の累積赤字を抱えるほど貧弱であり、全日空も1956年度を除き、1959年度まで7度の経常赤字を計上していた<ref>大空への挑戦 ANA50年の航跡 26頁</ref><ref>大空への挑戦 ANA50年の航跡 Data Archive</ref>。岡崎は会社を一つにまとめつつ、[[全日本空輸#前身|極東航空]]や[[藤田航空]]を合併し規模を拡大させ、[[運輸省]]とたびたび衝突しながらも国内線航空会社としての地位を確立させている。しかし、[[1966年]]に[[全日空羽田沖墜落事故]]、[[全日空松山沖墜落事故]]と航空事故が相次ぎ、翌[[1967年]]に社長を辞任する。
 
 
 
=== 日中覚書貿易事務所代表・経済協会顧問 ===
 
[[1962年]]日中貿易交渉の副団長として訪中した際、[[周恩来]]は岡崎一行に対し次のように述べ、岡崎はその言葉に感銘を受けたと後に語っている。
 
「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し人民を傷つけ苦しめてきました。我々は深い恨みがあります。
 
しかし、中国と日本の間には2000年に渡る友好の歴史があります。
 
戦争による不幸な歴史はわずか数十年に過ぎません。我々は日本に恨みを持っていますが、それを忘れようと努力をしています。これからは日中が力を合わせてアジアを良くして行こうではありませんか。」
 
 
 
 
 
[[1968年]]以降は日中覚書貿易事務所代表として訪中を重ねながら、政界の[[古井喜実]]、[[田川誠一]]らとともに日中貿易冬の時代を乗り切り[[日中国交正常化]]に尽力する。[[周恩来]]首相とも親睦を深め「兄(岡崎が1歳年上)、弟」と呼び合うほどの信頼関係を築いたという。これがきっかけで岡崎の描いていた民間レベルでの貿易構想は「日中総合貿易に関する覚書([[LT貿易]])」という形で現実化することとなった。しかし当時は風当たりも強く[[右翼団体]]が自宅を囲んだりし警察が自宅に泊まり込むほどだった。
 
 
 
日中国交正常化の際には、[[田中角栄]]総理が中国を訪問する2日前、[[周恩来]]は岡崎をもてなすために、食事会を開いた。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです.」と言ったという。その後も[[日中経済協会]]常任顧問として日中貿易に携わり、生涯訪中回数は101回に達した。特に、[[1987年]][[4月16日]]の全日空の中国路線参入では、90歳の高齢ながら初便の北京行きに乗り込んでいる。岡崎はかつて周と交わした「全日空での中国訪問」の約束を果たした。この日は岡崎の90歳の誕生日であり、この日を北京便の初日にしたのは、全日空の女子社員の総意からだったという<ref>本所次郎著 『騏驎おおとりと遊ぶ<下>』 (2002年 ISBN 4198614652)  p358 </ref>。
 
 
 
=== 死去 ===
 
[[1989年]][[9月22日]]、自宅階段で転倒して頭部を強打し、[[急性硬膜下血腫]]により死去。享年92。没後[[正三位]]。岡崎の生前の功績を称えるべく、[[1990年]]に岡崎嘉平太国際奨学財団が、[[2001年]]には生誕地の[[吉備中央町]]に岡崎嘉平太記念館がそれぞれ設立された。全日空は岡崎の遺志を継ぎ、現在でも社員寮の一部を留学生に提供している。
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
=== 岡崎家 ===
 
* 父・'''鶴太郎'''<ref name="Zinzi12pToukyou・p166">猪野三郎監修『<small>第十二版</small> 大衆人事録』(昭和12年)東京・一六六頁</ref>([[農業]])
 
* 母・'''のぶ'''<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/>
 
:[[明治]]2年([[1869年]])生<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/> - 没
 
* 姉・'''宇多得'''<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/>
 
* 妹
 
:'''亀得'''<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/>'
 
:'''幸得'''<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/>
 
* 妻・'''時子'''([[鹿児島県]][[士族]]・湯地彦二 二女<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/>)
 
:[[明治]]39年([[1906年]])生<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/> - 没
 
* 長男<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/> - 岡崎彬(日航部長、全日空第2代社長)
 
* 二男<ref name="Zinzi12pToukyou・p166"/>
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 岡崎嘉平太伝刊行会(編) 『岡崎嘉平太伝-信はたて糸 愛はよこ糸-』 [[ぎょうせい]]、[[1992年]] ISBN 4324033021
 
* 『[[私の履歴書]] 昭和の経営者群像6』 [[日本経済新聞社]]、1992年 ISBN 4532165067
 
* 『われらの生涯のなかの中国』([[伊藤武雄 (中国研究者)|伊藤武雄]]・[[松本重治]]との共著) [[みすず書房]]、[[1983年]] ISBN 4622008416
 
* {{Cite book|和書|author=ANA50年史編集委員会|year=2004|title=大空への挑戦 -ANA50年の航跡-|publisher=全日本空輸株式会社|isbn=}}
 
*[http://www.okazaki-kaheita.jp/about/ronnbunn%20pdf/A.pdf 中日国交回復の祖•岡崎嘉平太の「信」と「愛」]三江学院 2011
 
  
== 関連項目 ==
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経営者。 1922年東京大学を卒業,日本銀行に入る。 39年上海の華興商業銀行理事,[[大東亜省]]参事官。 45年敗戦処理で国民党政府湯恩伯将軍と交渉。引揚げ帰国後,池貝鉄工,丸善石油の再建で評価され,全日空の副社長,61年社長となる。 62年[[高碕達之助]]経済訪中団に同行以来,日中友好に専念した。高碕の死後,日中民間総合貿易の中心人物となった。 67年全日空社長を退くが,その後も全日空に隠然たる影響力をもった。 78年勲一等瑞宝章受章。
* [[岡山県出身の人物一覧]]
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== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
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* [http://www.okazaki-kaheita.jp/ 岡崎嘉平太記念館]
 
* [http://www.okazaki-kaheita.jp/ 岡崎嘉平太記念館]
  
{{先代次代|日本航空協会会長|第4代:1981年 - 1987年|[[柳田誠二郎]]|[[荒木茂久二]]}}
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おかざき かへいた
岡崎 嘉平太
生誕 1897年4月16日
岡山県賀陽郡大和村(現・吉備中央町
死没 (1989-09-22) 1989年9月22日(92歳没)
死因 急性硬膜下血腫
遺体発見 自宅
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法学部
職業 実業家
肩書き 全日空社長など
受賞 勲一等瑞宝章受章など

岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年明治30年)4月16日 - 1989年平成元年)9月22日

経営者。 1922年東京大学を卒業,日本銀行に入る。 39年上海の華興商業銀行理事,大東亜省参事官。 45年敗戦処理で国民党政府湯恩伯将軍と交渉。引揚げ帰国後,池貝鉄工,丸善石油の再建で評価され,全日空の副社長,61年社長となる。 62年高碕達之助経済訪中団に同行以来,日中友好に専念した。高碕の死後,日中民間総合貿易の中心人物となった。 67年全日空社長を退くが,その後も全日空に隠然たる影響力をもった。 78年勲一等瑞宝章受章。


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