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[[ファイル:Mito Plan m.jpg|thumb|right|240px|水戸城の縄張り図]]
 
  
[[ファイル:Mito Castle air.jpg|thumb|right|240px|水戸城の航空写真<br>(1986年度撮影・国土航空写真)]]
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'''水戸城'''(みとじょう)
[[ファイル:Mito_castle_honmaru_karabori.jpg|thumb|right|240px|本丸空堀(現・JR水郡線)]]
 
  
'''水戸城'''(みとじょう)は、[[常陸国]][[茨城郡]]水戸(現在の[[茨城県]][[水戸市]]三の丸)にあった[[日本の城]]である。
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鎌倉期~江戸期の城。茨城県水戸市三の丸にある。城は1190~98年(建久年間)に大掾資幹(だいじょうすけもと)の築城といわれ、のち1426年(応永33)大掾満幹(みつもと)が城主のとき、江戸通房(みちふさ)に城を奪われた。さらに1590年(天正18)には佐竹義宣(さたけよしのぶ)が江戸氏を滅ぼして水戸城に入り、93年(文禄2)に大改修を行っている。関ヶ原の戦いののち佐竹氏は秋田に移封され、家康の五男武田信吉(のぶよし)、10男徳川頼宣(よりのぶ)、ついで1609年(慶長14)に十一男頼房(よりふさ)が入封し、以来徳川御三家(ごさんけ)の一つとして世襲し、明治維新を迎えた。城は南に千波(せんば)湖、北には那珂(なか)川が流れ、水中に突出した台地の東端に築かれており、東から東二の丸、本丸、二の丸、三の丸が連なる連郭式の曲輪(くるわ)配置であった。三の丸に藩校弘道館(こうどうかん)が残る。
 
 
[[江戸時代]]には、[[徳川御三家]]の一つ[[水戸徳川家]]の居城であった。[[茨城県指定史跡]]。[[三の丸]]にある[[藩校]]・[[弘道館]]は国の[[史跡|特別史跡]]。
 
 
 
== 概要 ==
 
水戸市の中心部、[[水戸駅]]の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式[[平山城]]である。北部を流れる[[那珂川]]と南部に広がっていた[[千波湖]]を天然の堀としていた。本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。また、城郭には[[石垣]]がなく、全て土塁と空堀で構成されていた。徳川御三家の居城であったにもかかわらず、[[尾張藩]]の[[名古屋城]]、[[紀州藩]]の[[和歌山城]]に比べるとかなり質素で、防衛上の重要性がなかったためか城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったようである。水戸徳川家が参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため水戸城は藩主の居城としての役割を担っていなかったのである。
 
 
 
江戸時代の[[櫓]]は、二の丸に現在の[[茨城県立水戸第三高等学校]]と[[茨城大学教育学部附属小学校]]・[[茨城大学教育学部附属幼稚園|附属幼稚園]]にまたがる形で存在した。三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは[[江戸氏]]の頃とされる。[[天守]]は建造されず、3重5階建ての[[御三階櫓]]があった。
 
 
 
御三階櫓は[[明治]]の解体を免れたが、[[太平洋戦争]]時の[[水戸空襲]]で焼失し、以後再建されていない。城跡は二の丸・三の丸付近が整備されており、土塁・空堀が現存している。また、三の丸には[[水戸藩]][[藩校]]であった[[弘道館]](国の[[重要文化財]]、特別史跡)が現存している。また、薬医門([[茨城県指定文化財一覧#建造物|茨城県指定有形文化財]])は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある[[茨城県立水戸第一高等学校]]に移築されている。
 
 
 
現在の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、[[水戸市立水戸第二中学校]]、[[水戸市立三の丸小学校]]、茨城大附属小・幼稚園が建っている。三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしている。
 
 
 
本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり橋が掛けられていたが、明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路([[茨城県道232号市毛水戸線|県道232号市毛水戸線]])として、本丸と二の丸の間の堀は鉄道([[東日本旅客鉄道|JR]][[水郡線]])として転用された。
 
 
 
=== 御三階櫓 ===
 
水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であり、[[1764年]](明和元年)に焼失した当時は[[銅板葺]]であったが、以前は[[茅葺]]であり極めて簡素であったという。焼失後、[[1766年]](明和3年)に再建され三階櫓という実質上の天守となった。2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の[[破風]]のない層塔型で、櫓台はなく、地面に敷かれた[[礎石]]の上に建っているものであった。初重下部を石垣の代わりに海鼠壁で覆い、あたかも[[石垣]]の上に3重の櫓が建っているかのように見せていた。昭和戦前期までは残っていたが、[[1945年]](昭和20年)の[[日本本土空襲|水戸空襲]]により焼失した。なお、[[日本本土空襲|空襲]]等[[太平洋戦争]]の戦災で焼失した天守相当の建築のうち再現されていないのは現在水戸城だけである。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 馬場・佐竹時代 ===
 
築城は古く[[平安時代]]末期まで遡る。[[常陸国]]の[[国司|大掾]]であった[[平国香]]の子孫である馬場資幹により[[建久]]年間(1190年 - 1198年)に築かれたとされる。以後、[[大掾氏]](馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「'''馬場城'''」と呼ばれていた。
 
 
 
[[1416年]](応永23年) [[室町時代]]に入り、[[上杉禅秀の乱]]で、当主の[[大掾満幹]]は[[上杉禅秀]]側に加担したが、[[室町幕府|足利幕府]]側についた[[江戸通房]]に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。
 
*[[1510年]](永正7年) [[江戸通雅|通雅]]・[[江戸通泰|通泰]]の父子は主家と同格の地位を得た。
 
*[[1590年]](天正18年) [[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]の際に[[江戸重通]]は[[後北条氏|北条氏]]側に加担し、逆に[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]・[[佐竹義宣 (右京大夫)|義宣]]父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、[[1594年]](文禄3年)に重通を敗走させた。
 
 
 
義宣はそれまでの居城であった[[太田城_(常陸国)|太田城]]から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]では曖昧な態度で終始したため、[[1602年]](慶長7年)には[[徳川家康]]によって水戸から追放され、[[出羽国]][[秋田市|秋田]]に転居させられた([[久保田藩]])。
 
 
 
同年に家康は、[[陸奥国|奥州]]を睨む好地として五男の[[武田信吉]]を15万石で水戸に入城させたが、翌[[1603年]](慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の[[徳川頼宣]]を20万石で入城させた。
 
 
 
=== 徳川時代 ===
 
[[1609年]](慶長14年) 頼宣には[[駿府藩]]50万石を与え、末子で十一男の[[徳川頼房]]が[[下妻城]]より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と[[城下町]]を拡充し二の丸に居館を構えた。天守は構えず、破風などの飾りのない三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造した。また、[[櫓 (城郭)|櫓]]・[[多聞櫓|多聞]]([[長屋]])も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。<!--歴代城主の中で、頼房の三男・[[徳川光圀|光圀]]や9代藩主の[[徳川斉昭|斉昭]]は名君として有名である)。--><!--なぜ名君なのか?の説明が無い。-->藩校の弘道館は[[1841年]](天保12年)に9代藩主の[[徳川斉昭|斉昭]]によって開かれた(斉昭は翌年の[[1842年]](天保13年)に[[日本三名園]]の一つである[[偕楽園]]を城の西部に開いている)。
 
 
 
[[幕末]]には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。[[1864年]](元治元年)、遂に天狗党が[[筑波山]]で挙兵し[[天狗党の乱]]が起こった。この対立は[[明治維新]]まで続き、[[1868年]](明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。
 
 
 
=== 近現代 ===
 
水戸城は[[1871年]](明治4年) の[[廃藩置県]]により廃城となった。翌[[1872年]](明治5年)7月19日に[[東京鎮台]]の歩兵2個小隊が駐屯し、東京鎮台の第4分営となった<ref>『太政類典』第2篇第205巻(兵制4・武官職制4)「[https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000000851385 東京鎮台第四分営ヲ常陸国元水戸城ニ置ク]」</ref>。
 
 
 
*[[1945年]](昭和20年)[[8月2日]] [[水戸空襲]]により三階櫓を焼失。
 
*[[1952年]](昭和27年) 弘道館が国の特別史跡に指定される。
 
*[[1964年]](昭和39年) 弘道館正庁、至善堂、正門および塀が国の重要文化財に指定される(塀は附(つけたり)指定)。
 
*[[1967年]](昭和42年) 土塁と空堀が[[茨城県指定文化財一覧#史跡|茨城県の史跡]]に指定される。
 
*[[1983年]](昭和58年) 薬医門が[[茨城県指定文化財一覧#建造物|茨城県の指定建造物]]となる。
 
*[[2006年]](平成18年)4月6日 [[日本100名城]](14番)に選定された。
 
 
 
====復元整備事業====
 
平成に入ってから水戸市によって大手門などの整備計画が策定され復元などが進められている<ref>[http://www.city.mito.lg.jp/001373/001374/0/rekisi/kihonkeikakuwosakuteisimasita.html 水戸城大手門、二の丸角櫓、土塀整備基本計画を策定しました]</ref><ref>[http://www.city.mito.lg.jp/001373/001374/0/rekisi/kihonkeikakuwosakuteisimasita_d/fil/ootemontouseibikihonkeika.pdf 水戸城大手門、二の丸角櫓、土塀整備基本計画基本計画(PDF)]</ref><ref>[https://mito.mykoho.jp/article/茨城県水戸市/広報みと-平成28年10月1日号/特集-よみがえる水戸城-水戸城大手門・二の丸角櫓/ 特集 よみがえる水戸城 水戸城大手門・二の丸角櫓を復元]</ref>。
 
 
 
[[2015年]]、大手門復元に向け寄付を募る「一枚瓦城主」が始まった<ref>[http://www.city.mito.lg.jp/001373/001400/ichimaigawarajousyu.html 一枚瓦城主募集]</ref><ref>[http://www.sankei.com/region/news/150609/rgn1506090003-n1.html 水戸城大手門復元へ好発進 「一枚瓦城主」100万円鬼瓦も]</ref>。同年4月には三の丸「杉山門」が復元され周辺も整備された<ref>[http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14283281924501 「門」再生や見晴らし台 水戸城跡景観整備]</ref>。
 
 
 
== 現地状況 ==
 
[[ファイル:Mito_castle_sannomaru_karabori.jpg|thumb|right|240px|三の丸空堀]]
 
;所在地
 
* 茨城県水戸市三の丸
 
;交通アクセス
 
* JR常磐線「水戸」駅から徒歩約8分
 
;一般公開状況
 
旧水戸城の城郭は、見学できる場所とできない場所に分かれている。
 
* 旧本丸 - 茨城県立水戸第一高等学校の敷地になっており、見学目的での立ち入りも可能。
 
* 旧二の丸 - 道路以外の学校敷地内には常時の立ち入りができない。
 
* 旧三の丸 - 水戸市立三の丸小学校を除き、弘道館は有料で、その他の敷地は無料で立ち入りができる。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 『[[太政類典]]』。[https://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館デジタルアーカイブ]を閲覧。
 
* {{Cite book|和書|editor=西ヶ谷恭弘|title=定本 日本城郭事典|publisher=[[秋田書店]]|year=2000|page=61-63|isbn=4-253-00375-3}}
 
* 清水 哲[http://sitereports.nabunken.go.jp/10483 「水戸城跡 一般県道市毛水戸線道路改良事業地内埋蔵文化財調査報告書」『茨城県教育財団文化財調査報告 329』]財団法人茨城県教育財団、2010年。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commons|Category:Mito_Castle}}
 
* [[茨城県指定文化財一覧]]
 
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
  
 
==外部リンク ==
 
==外部リンク ==
 
* [http://www.koen.pref.ibaraki.jp/ 茨城県営都市公園] - 公式サイト
 
* [http://www.koen.pref.ibaraki.jp/ 茨城県営都市公園] - 公式サイト
*[http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0203000000 正保城絵図(国立公文書館デジタルアーカイブ)]常陸国水戸城絵図あり
 
*[http://sitereports.nabunken.go.jp/ja 全国遺跡報告総覧]- 奈良文化財研究所
 
  
 
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[[Category:茨城県指定史跡]]
 
[[Category:茨城県指定史跡]]

2018/10/6/ (土) 15:19時点における最新版

水戸城
茨城県
別名 馬場城、水府城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
(御三階櫓・独立式層塔型3重5階(1766年再)非現存)
築城主 馬場資幹
築城年 建久年間(1190年 - 1198年
主な改修者 佐竹義宣徳川頼房
主な城主 大掾氏(馬場氏)、江戸氏佐竹氏
徳川氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 薬医門1棟・藩校、土塁、空堀
指定文化財 茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)
位置 北緯36度22分30.54秒
東経140度28分44.17秒
地図
水戸城の位置
水戸城

水戸城(みとじょう)

鎌倉期~江戸期の城。茨城県水戸市三の丸にある。城は1190~98年(建久年間)に大掾資幹(だいじょうすけもと)の築城といわれ、のち1426年(応永33)大掾満幹(みつもと)が城主のとき、江戸通房(みちふさ)に城を奪われた。さらに1590年(天正18)には佐竹義宣(さたけよしのぶ)が江戸氏を滅ぼして水戸城に入り、93年(文禄2)に大改修を行っている。関ヶ原の戦いののち佐竹氏は秋田に移封され、家康の五男武田信吉(のぶよし)、10男徳川頼宣(よりのぶ)、ついで1609年(慶長14)に十一男頼房(よりふさ)が入封し、以来徳川御三家(ごさんけ)の一つとして世襲し、明治維新を迎えた。城は南に千波(せんば)湖、北には那珂(なか)川が流れ、水中に突出した台地の東端に築かれており、東から東二の丸、本丸、二の丸、三の丸が連なる連郭式の曲輪(くるわ)配置であった。三の丸に藩校弘道館(こうどうかん)が残る。

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