「デビッド・ロイド・ジョージ」の版間の差分

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{{政治家
 
{{政治家
 
|人名 = 初代ロイド=ジョージ伯爵<br />デビッド・ロイド・ジョージ
 
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初代[[ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵]]'''デイヴィッド・ロイド・ジョージ'''({{lang-en|'''David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[メリット勲章|OM]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1863年]][[1月17日]] - [[1945年]][[3月26日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。
 
 
[[1890年]]に[[自由党 (イギリス)|自由党]][[庶民院 (イギリス)|下院]]議員として政界入りする。[[1905年]]以降の自由党政権下で急進派閣僚として[[社会改良主義|社会改良政策]]に尽くす。彼の主導によりイギリスに老齢年金制度や健康保険制度、失業保険制度が導入された。
 
 
[[第一次世界大戦]]中の[[1916年]]12月に総辞職した[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]首相に代わって[[イギリスの首相|首相]]に就任。強力な戦争指導体制と[[総力戦]]体制を構築してイギリスを勝利に導いた。[[パリ講和会議]]に出席するなど戦後処理も指導し、[[戦間期]]の[[ヴェルサイユ体制]]の構築に大きな役割を果たした。[[1921年]]には[[アイルランド]]の[[大英帝国]][[自治領]]としての独立を認めた([[アイルランド自由国]])。[[1922年]]に[[大連立]]を組んでいた[[保守党 (イギリス)|保守党]]の離反で総辞職に追い込まれた。
 
 
首相退任後は自由党の没落もあって権力から遠ざかっていったが、政治活動は衰えず、[[ケインズ主義]]経済政策を確立して[[公共事業]]の拡大を訴えた。また晩年には反独派から親独派に転じた。
 
 
== 概要 ==
 
[[1863年]]に[[イングランド]]・[[マンチェスター]]に生まれる。幼くして父を失い、[[ウェールズ]]・{{仮リンク|ラナスティムドゥイ|en|Llanystumdwy}}の母方の伯父のもとに身を寄せる。伯父は[[非国教徒 (イギリス)|非国教徒]]のウェールズ愛国者で[[自由党 (イギリス)|自由党]]を支持する[[中産階級]]者だった。ロイド・ジョージもウェールズ民族主義の影響を受けて、[[イングランド国教会|国教会]]・[[保守党 (イギリス)|保守党]]・大地主に対する反抗心を培って育った。
 
 
小学校卒業後、[[1878年]]から弁護士事務所で書生として働く。1884年に弁護士資格を取得し、弁護士事務所を独立開業する。弱者のための弁護活動を多く行い、とりわけ国教会の墓地への非国教徒の埋葬が拒否された事件における非国教徒の弁護活動でウェールズ民族主義者として名を馳せるようになる。
 
 
[[1890年]]に{{仮リンク|カーナーヴォン選挙区|label=カーナーヴォン・バラ選挙区|en|Caernarfon (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙に自由党候補として出馬し、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選する。議員生活初期の頃は自由党議員としてより、ウェールズ選出の議員として行動することが多く、ウェールズの教会を国教会から独立させることを盛んに訴えた。また地主に打撃を与えることを目的に[[禁酒運動]]にも取り組んだ。[[1899年]]には老齢年金に関する庶民院特別委員会の委員となり、老齢年金制度導入の提言を行ったが、同年に勃発した[[第二次ボーア戦争]]のため実現しなかった。同戦争への反戦運動を主導し、それによって知名度を上げる。[[1902年]]にはバルフォア教育法への反対運動を主導した。
 
 
[[1905年]]12月に[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]を首相とする自由党政権が成立すると通商大臣として入閣した。[[1908年]]4月に首相が[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]に代わると[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]に転任する。1908年7月には{{仮リンク|1908年老齢年金法 (イギリス)|label=老齢年金法|en|Old-Age Pensions Act 1908}}制定を主導し、70歳以上の高齢者に年金を支給する無拠出老齢年金制度を創出した。その財源確保のため、[[自由帝国主義]]派閣僚が訴えていた海軍増強に反対した。社会保障費や[[ドイツ帝国]]との[[建艦競争]]によって増大した財政支出を補うため、[[1909年]]4月には[[所得税]]の[[累進課税]]性強化、[[相続税]]増額、土地課税など富裕層から税金を取り立てる「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を議会に提出する。保守派や地主貴族から強い反発を招き、11月に貴族院で否決されたが、{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910}}や[[議会法]]の法案提出を挟んで、1910年4月に成立させることに成功した。[[1911年]]には{{仮リンク|1911年国民保険法 (イギリス)|label=国民保険法|en|National Insurance Act 1911}}の制定を主導し、これによりイギリスに健康保健制度と失業保険制度が創出された。[[1912年]]には{{仮リンク|マルコニ社|en|Marconi Company}}が{{仮リンク|帝国無線通信網|en|Imperial Wireless Chain}}の建設を受注した件で[[インサイダー取引]]を行ったという疑惑を受けて政治生命を失いかけたが、なんとか乗り切った({{仮リンク|マルコニ事件|en|Marconi scandal}})。
 
 
[[第一次世界大戦]]が勃発した直後には参戦に反対していたが、まもなく参戦派に転じた。反戦派最大の大物閣僚である彼の転向によってアスキス内閣は参戦を決定した。[[1915年]]5月に自由党・保守党の大連立によるアスキス[[挙国一致内閣]]が成立すると新設された{{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}に就任し、軍需産業への政府介入の強化に務めた。
 
 
さらに[[1916年]]6月に敵対していた陸軍大臣[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー|キッチナー伯爵]][[元帥 (イギリス)|元帥]]が死亡すると代わって{{仮リンク|陸軍大臣 (イギリス)|label=陸軍大臣|en|Secretary of State for War}}に就任する。好転しない戦局や軍部が議会政治家の言うことを聞かない状況に焦燥し、優柔不断なアスキス首相を戦争指導から遠ざけて強力な戦争指導ができる政府を樹立する必要性を痛感するようになった。1916年12月、保守党党首[[アンドルー・ボナー・ロー]]の支持を得て、自分を委員長とした少数閣僚による軍事委員会を作ることをアスキス首相に要求した。アスキスが応じないのを見ると辞職を表明した。保守党閣僚たちも辞職を表明したため、アスキス内閣は総辞職に追い込まれた。
 
 
組閣の大命を受け、自由党ロイド・ジョージ派と保守党に支えられた{{仮リンク|ロイド・ジョージ内閣|en|Lloyd George ministry}}を組閣し、大戦後半戦を主導した。[[総力戦]]体制を強化すべく、{{仮リンク|食糧省 (イギリス)|label=食糧省|en|Minister of Food (United Kingdom)}}を新設して食料配給制に移行した。{{仮リンク|船舶省 (イギリス)|label=船舶省|en|Minister of Shipping}}を新設して商船の政府統制を強化し、商船を船団にして海軍に護衛させ、ドイツ海軍の[[無制限潜水艦作戦]]に対抗した。西部戦線の膠着状態を破るための塹壕突破兵器として戦車の開発も急がせた。また女性の銃後の活躍を認めて、戦時中の1918年2月に[[普通選挙]]と30歳以上の婦人に選挙権を付与する選挙法改正を行った。
 
 
[[ロシア革命]]によりロシアの政権を掌握した[[ウラジーミル・レーニン]]率いる[[ボルシェヴィキ]]政権が[[1918年]]2月に独断でドイツと講和して戦争から離脱すると、[[アメリカ]]や[[日本]]などとともに反ソ干渉戦争を開始した。戦後には干渉戦争への関心を無くすも、反共主義者の陸軍大臣[[ウィンストン・チャーチル]]や保守党からの強い要望で[[1919年]]秋までは続行した。1920年の[[ポーランド・ソビエト戦争|ソビエトのポーランド侵攻]]でもポーランドを支援したが、ポーランド侵攻が失敗に終わった後の[[1921年]]には世界に先駆けてソビエトと通商条約を締結した。
 
 
1918年11月にドイツ政府が連合国との[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]に応じたことで第一次世界大戦は終結した。戦勝気分の冷めぬうちにと12月にも[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]を行った。政権派の候補にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ロー連名の推薦状(クーポン)が手交されたため、クーポン選挙と呼ばれた。選挙の結果は政権側(とりわけ保守党)の大勝に終わった。
 
 
1919年1月から[[パリ]]で行われた[[パリ講和会議|講和会議]]に出席し、アメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]やフランス首相[[ジョルジュ・クレマンソー]]らとともに会議を主導してドイツに付きつける講和条件を決定した。6月にドイツ政府にこれを飲ませて[[ヴェルサイユ条約]]を締結したことで[[戦間期]]の[[ヴェルサイユ体制]]が構築された。[[オスマン帝国]]に対しては[[セーブル条約]]を結ばせて同国の支配していたアラブ地域を英仏で分割した。イギリスは[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ]]と[[イギリス委任統治領メソポタミア|イラク]]を獲得した。これにより大英帝国は中東をかつてないほど強力に支配することになった。
 
 
アイルランド独立を目指す[[シン・フェイン党]]に対しては[[白色テロ]]をもって厳しく弾圧したが、融和的態度も示し、1921年10月にはシン・フェイン党幹部と交渉してアイルランドに大英帝国自治領[[アイルランド自由国]]としての独立を許した。
 
 
1921年10月の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]には外相[[アーサー・バルフォア]]を派遣したが、アメリカの圧力に屈する形で[[日英同盟]]を事実上破棄した。
 
 
[[1922年]]8月から9月の[[チャナク危機]]にはトルコとの開戦も辞さない強硬姿勢を貫いて外交勝利を得たものの、再度の戦争を嫌がる国内世論から批判を集めた。この事件はロイド・ジョージの「ワンマン政治」にかねてから不満を抱いていた保守党議員から離反されるきっかけとなり、10月19日には保守党社交界{{仮リンク|カールトン・クラブ|en|Carlton Club}}における保守党議員の投票で大連立解消の決議がなされた。ロイド・ジョージはこれ以上の政権運営不可能と判断してただちに総辞職した。
 
 
退任後、自由党が[[労働党 (イギリス)|労働党]]の後塵を拝する第三党に没落していくことに危機感を抱き、自由党アスキス派との関係改善に乗り出した。[[1923年]]12月の[[1923年イギリス総選挙|解散総選挙]]では両派合同して選挙戦に臨んだものの第三党の状態から抜け出すことはできなかった。[[1926年]]末にアスキスが政界引退すると代わって自由党党首となったが、旧アスキス派のロイド・ジョージ不信は根強く、これを機に多くの自由党員が自由党を離党したため、自由党が再び大政党となるのは難しい情勢となった。
 
 
[[ジョン・メイナード・ケインズ]]をブレーンとするロイド・ジョージは1920年代末からイエローブックやオレンジブックを発行して[[公共事業]]による[[有効需要]]増加と雇用創出を訴えるようになった。[[第二次世界大戦]]後に先進資本主義国で主流となる[[ケインズ主義]]の先駆けであったが、この段階では保守党からも労働党からも相手にされることはなかった。
 
 
保守党に操られた[[ラムゼイ・マクドナルド]]挙国一致内閣に協力したがる自由党議員が多いことに失望して、[[1931年]]に自由党党首職を辞した。以降は政界の一匹狼となったが、引き続き公共事業拡大を訴え続けた。[[1933年]]1月にドイツで公共事業拡大による失業対策を訴える[[ナチ党]]が政権を掌握したことも好意的に見ており、以降親ナチス派として行動した。もっともドイツが対外進出路線を強めると[[ネヴィル・チェンバレン]]の融和政策を批判するようになった。第二次世界大戦中の1940年5月に彼が庶民院で行った演説がチェンバレン失脚・チャーチルの首相就任の一因となった。
 
 
[[1944年]]末に[[ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵]]に叙されるも[[1945年]][[3月26日]]には死去した。
 
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== 生涯 ==
 
=== 生い立ち ===
 
[[File:Lloyd George museum at Llanystumdwy - geograph.org.uk - 1309904.jpg|250px|thumb|ロイド・ジョージが育った[[ウェールズ]]・{{仮リンク|ラナスティムドゥイ|en|Llanystumdwy}}にある{{仮リンク|ロイド・ジョージ博物館|en|Lloyd George Museum}}]]
 
[[1863年]][[1月17日]]に[[イングランド]]・[[マンチェスター]]に生まれる。父は教師ウィリアム・ジョージ。母はその妻で[[ウェールズ]]・{{仮リンク|ラナスティムドゥイ|en|Llanystumdwy}}出身のエリザベス(旧姓ロイド)。姉にメアリーがおり、後に弟ウィリアムが生まれる<ref name="高橋(1985)47">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.47</ref>。
 
 
父ウィリアムは[[1864年]]に教職を退き、[[ウェールズ]]・{{仮リンク|ハヴァーフォードウェスト|en|Haverfordwest}}に小規模な農場を購入して一家でそこへ移住したが、同年のうちに[[肺炎]]で死去している<ref name="高橋(1985)47">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.47</ref>。路頭に迷った母エリザベスは三人の子らを連れて、ラナスティムドゥイで靴屋を営む兄リチャード・ロイドのもとに身を寄せた<ref name="高橋(1985)48">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.48</ref>。
 
 
後年ロイド・ジョージは貧しい家庭で育ったかのように語っていたが、実際にはロイド家は割と恵まれた[[中産階級]]の家庭だったようである<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.48/52</ref>。伯父は道徳心ある[[非国教徒 (イギリス)|非国教徒]]であり<ref name="水谷(1991)45">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.45</ref>、ウェールズ愛国者だった<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.52-53</ref>。伯父は地主{{#tag:ref|当時のウェールズは農業が主産業でごく少数の大地主によって支配されていた。ウェールズでは[[アイルランド]]のようにイングランド人の{{仮リンク|不在地主|en|Absentee landlord}}が地主層を占めるということはなく、基本的には同じウェールズ人が地主層を占めたが、彼らの多くは中世以来イングランド化しており、[[イングランド国教会]]に属して保守党を支持する人々だった<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.48-49</ref><ref name="坂井(1967)319">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.319</ref>。そのためウェールズにおいても地主と一般民衆の乖離は激しかった<ref name="高橋(1985)49">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.49</ref>。|group=注釈}}の不興を買うことを恐れず自由党支持を公言したので、伯父の店は村における自由党の選挙活動の非公式本部として使われることもあったという<ref name="高橋(1985)52">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.52</ref>。
 
 
[[1865年]]に[[非国教徒 (イギリス)|非国教会]]([[イングランド国教会|国教会]]ではない[[プロテスタント]])の「[[ディサイプルス|キリストの弟子]]」派の洗礼を受けた<ref name="高橋(1985)263">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.263</ref>。
 
 
[[1869年]]にラナスティムドゥイにある国教会が管理する「国民学校」の小学校に入学した。成績は優秀だったが、国教会信仰を押し付けられることには強く反発する学生だったという。国教会の礼拝に参加させられそうになると、他の反国教会派の学生とともに礼拝から抜けだしたという<ref name="高橋(1985)54">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.54</ref>{{#tag:ref|とはいえロイド・ジョージは敬虔な非国教徒だったというわけではないらしく、後年に彼自身が語ったところによると、11歳の頃には信仰の喪失を自覚していたという。家庭の信仰には付き合ったが、彼は宗教を信仰としてというより文化として楽しんだという<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.54-55</ref>。|group=注釈}}。
 
 
子供の頃の愛読書は[[ヴィクトル・ユーゴー]]の『[[レ・ミゼラブル]]』であったといい、弱者に対する共感をこの著作から培ったという<ref name="高橋(1985)87">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.87</ref>。また地主から土地を追われた小作人の子供たちが小学校から去らねばならなくなる光景をしばしば目撃し、地主への憎しみを募らせたという<ref name="坂井(1967)320">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.320</ref>。
 
 
子供の頃から大人を驚嘆させるほどの論客だったといい、子供たちの間でもリーダー的存在だったという<ref name="高橋(1985)55">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.55</ref>。当時イギリスの子供たちは[[普仏戦争]]の影響でよく戦争ごっこして遊んだが、その遊びでロイド・ジョージはいつも指揮官役だったという<ref name="原田(1917)28">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.28</ref>。村は牧歌的そのもので、ロイド・ジョージもよく野や山を駆け回って遊んだが、そこでも「軍隊」を編成しては大地主の果樹園から木の実を盗むなどしたという<ref name="高橋(1985)55">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.55</ref>。
 
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=== 弱者のための弁護士 ===
 
[[File:The chapel where Lloyd George got married - geograph.org.uk - 1774730.jpg|250px|thumb|ロイド・ジョージが{{仮リンク|マーガレット・ロイド・ジョージ|label=マーガレット|en|Margaret Lloyd George}}と結婚式を挙げた{{仮リンク|クリクキエス|en|Criccieth}}の[[チャペル]]。]]
 
15歳の時の[[1878年]]7月、近隣の{{仮リンク|ポートマドック|en|Porthmadog}}にある弁護士事務所「ブリーズ、ジョーンズ・アンド・カソン(Breeze, jones &amp; Cusson)」で書生として働くようになった<ref name="高橋(1985)111">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.111</ref>。ここの所長であるブリーズ夫妻はロイド・ジョージを我が子のように可愛がってくれたといい、ロイド・ジョージはその好意を無駄にすることなく、仕事しながら法学書を読みあさったという<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.51-53</ref>。
 
 
勉学の合間を縫って政治活動にも積極的に参加し、農民運動や[[禁酒運動]]{{#tag:ref|醸造業者は伝統的に保守党支持層であった<ref name="バトラー(1980)59">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.59</ref>。|group=注釈}}に携わった<ref name="水谷(1991)46">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.46</ref>。また地元新聞に政治論文を投稿し続け、1880年11月には{{仮リンク|保守党貴族院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Lords 1834–present}}[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯爵)|ソールズベリー侯爵]]の演説を批判した彼の論文がはじめて新聞に掲載された<ref name="高橋(1985)117-118">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.117-118</ref>。自由党の運動員としての活動も1880年から開始した<ref name="高橋(1985)263">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.263</ref>。1882年6月の日記を見る限り、この時期、彼は軍隊に入隊していたようである<ref name="原田(1917)68">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.68</ref>。
 
 
[[1884年]]に弁護士試験に合格して弁護士資格を取得し、{{仮リンク|クリクキエス|en|Criccieth}}で弁護士事務所を開業した。1887年には弟ウィリアムも弁護士資格を獲得し、二人で弁護士事務所を運営するようになった<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.112/263</ref>。
 
 
独立弁護士となった後も政治活動に熱心だった。ウェールズ小作農に働きかけて、カーナーヴォンシャー農民組合を結成させることに貢献し、後にはその書記長を務めた。また{{仮リンク|トマス・ジー|en|Thomas Gee}}の10分の1教区税反対運動にも参加した<ref name="坂井(1967)320">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.320</ref><ref name="高橋(1985)112">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.112</ref>。さらに中央政界の自由党新急進派[[ジョゼフ・チェンバレン]]の影響を受けて都市の労働者階級にも社会改良政策による保護が必要と考えるようになったという<ref name="坂井(1967)321">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.321</ref>。
 
 
弁護士としての仕事も弱者のためのものが多く、[[治安判事]]に徹底的に反抗した<ref name="高橋(1985)112">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.112</ref>。地元の国教会がオズボーン・モーガン埋葬法に違反して土地の寄進者(地主)との契約を盾に非国教徒の[[メソディスト]]式埋葬を拒否した事件で非国教徒の弁護を行ったことでウェールズ民族主義の英雄として名を馳せるようになった<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.112-113</ref>。
 
 
[[1888年]][[1月24日]]にはクリクキエスの名士リチャード・オーウェンの娘{{仮リンク|マーガレット・ロイド・ジョージ|label=マーガレット|en|Margaret Lloyd George}}と結婚している<ref name="原田(1917)98-99">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.98-99</ref>。
 
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=== 庶民院議員に初当選 ===
 
1880年代後半にはウェールズの急進的政治活動家として著名になっていたロイド・ジョージは1888年夏にも{{仮リンク|カーナーフォン選挙区|label=カーナーヴォン・バラ選挙区|en|Caernarfon (UK Parliament constituency)}}の[[自由党 (イギリス)|自由党]]候補者に選ばれた<ref name="高橋(1985)120">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.120</ref><ref name="原田(1917)101">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.101</ref>。また[[1889年]]には創設されたばかりのカーナーヴォン州議会の参事会員(Alderman)にも選出されている<ref name="高橋(1985)120">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.120</ref>。
 
 
[[1890年]]4月にカーナーヴォン・バラ選挙区で{{仮リンク|1890年カーナーヴォン・バラ選挙区補欠選挙|label=補欠選挙|en|Caernarvon Boroughs by-election, 1890}}があり、保守党候補である大地主{{仮リンク|ヒュー・エリス=ナニー|en|Hugh Ellis-Nanney}}と議席を争った<ref name="高橋(1985)120">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.120</ref>。選挙戦でロイド・ジョージはソールズベリー侯爵内閣{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}[[アーサー・バルフォア]]が主導するアイルランド弾圧政治を批判し、自由党党首[[ウィリアム・グラッドストン]]のアイルランド自治の方針に賛意を示した。そしてウェールズも宗教の自由のため立ちあがる必要があることを訴えた。またウェールズの土地制度や労働法の不公平さを批判し、土地譲渡・土地税・土地借用の負担を軽減することを公約した。さらに禁酒や地方自治強化の方針も示した<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.109-111</ref>。そして「丸太小屋で育った人間の夜明けがついに始まったことをトーリー(保守党)はいまだに悟っていない」と宣言した<ref name="水谷(1991)48">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.48</ref>。
 
 
しかし当時の自由党は分裂状態であり、加えてロイド・ジョージ自身も選挙区の自由党組織にあまり気を使わなかったので苦しい選挙戦を強いられた。ウェールズ民族主義の高揚に後押しされて18票差という僅差で保守党候補を破って初当選を果たしたものの、この時の苦戦の反省でロイド・ジョージは地元選挙区に気を配るようになり、以来55年にわたってこの選挙区から当選し続けることができた<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.120-121</ref>。
 
{{-}}[[#toc|【↑目次へ移動する】]]
 
=== 処女演説 ===
 
1890年[[4月17日]]に庶民院に初登院した<ref name="原田(1917)117">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.117</ref>。6月13日の{{仮リンク|処女演説|en|Maiden speech}}ではソールズベリー侯爵内閣が推し進める填補法{{#tag:ref|填補法とは、酒類販売の特許に対する代償として収納すべき地方税を農工業教育の目的に使用することを定めた法律である<ref name="原田(1917)123">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.123</ref>。|group=注釈}}を「酒類販売業者を擁護する法案」と批判し、この法案の提出者である保守党議員[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]]と[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]]議員[[ジョゼフ・チェンバレン]]を糾弾した<ref name="原田(1917)124">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.124</ref>。
 
 
ほとんどの新人議員は処女演説では無難な演説をしておくものだが、ロイド・ジョージはその慣例を守らなかった<ref name="高橋(1985)59">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.59</ref>。とりわけ当時時代の寵児だったチェンバレンを批判したことはロイド・ジョージの勇名を轟かせるに十分な効果があった<ref name="中村(1978)26">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.26</ref>。マスコミからも絶賛され、『{{仮リンク|ペルメル・ガゼット|en|Pall Mall Gazette}}』紙は「カーナーヴォンの新議員の処女演説は驚嘆に値する。彼の前途は注目するべきであろう」と書いている<ref name="原田(1917)125">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.125</ref>。
 
{{-}}[[#toc|【↑目次へ移動する】]]
 
=== ウェールズの議員として ===
 
ロイド・ジョージの初期の議員活動は、自由党議員としてよりもウェールズの議員としてのものが目立つ<ref name="原田(1917)131">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.131</ref>。
 
 
[[1891年]]の10分の1教区税法案には強く反対し、自党の修正案にさえ反対票を投じている<ref name="原田(1917)125-126">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.125-126</ref>。[[1892年]]4月の牧師懲戒法案{{#tag:ref|堕落した国教会牧師の懲戒を定める法律<ref name="原田(1917)129-130">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.129-130</ref>。|group=注釈}}にも党首グラッドストンの意向に背いて反対した。ロイド・ジョージがこの法案に反対したのは国教会が「浄化」されてしまったらウェールズ国教会の腐敗ぶりを訴える主張に説得力がなくなり、ウェールズの宗教的独立が遅れてしまうと懸念してのことであったという(もちろん公にそのようなことを言うわけにはいかず、表向きは「問題が山積しているのに、このような小さな問題を審議している場合ではない」という理由を掲げていた)<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.130-131</ref>。
 
 
1892年6月末に{{仮リンク|1892年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1892}}で地元選挙区に帰ったロイド・ジョージはウェールズ国教会にウェールズ国民の要求を受け入れさせようと訴えた。7月8日の投票、10日の開票の結果、ロイド・ジョージは2154票を獲得し、保守党候補に196票差で勝利した<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.136-138</ref>。総選挙全体の結果も自由党の辛勝となり、8月には自由党議員[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]の提出した内閣不信任案が可決され、第二次ソールズベリー侯爵内閣は総辞職し、グラッドストンが4度目の組閣の大命を受けた<ref name="中村(1978)21">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.21</ref><ref name="原田(1917)140">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.140</ref>。
 
 
グラッドストンに睨まれるロイド・ジョージには何のポストも与えられず、しかもロイド・ジョージの盟友だったトム・エリスが大蔵省政務次官に任じられたので、ロイド・ジョージは議会内で孤立した格好となった<ref name="原田(1917)141">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.141</ref>。だが、ロイド・ジョージの活動が衰えることはなく、[[1893年]]にはウェールズの教会を国教会から独立させる法案をめぐってグラッドストン政権の「手ぬるさ」を批判した<ref name="原田(1917)150-151">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.150-151</ref>。貴族院で否決されることが分かりきっている法案だったのでグラッドストン政権もこの法案に本気で取り組んでいなかったのである<ref name="中村(1978)25">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.25</ref>。
 
 
ロイド・ジョージはウェールズ教会独立を訴える演説をウェールズ各地で行って世論を喚起した。その結果、グラッドストンの後を受けて首相・自由党党首となった[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)|ローズベリー伯爵]]も無視できなくなり、1895年には[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]アスキスが再びウェールズ教会を国教会から外す法案を提出した<ref name="原田(1917)151-153">[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.151-153</ref>。ロイド・ジョージはこの法案の審議で「ウェールズ人民が腐敗した国教会の支配のために被った損害」を次々と指摘し、また前保守党政権を批判して{{仮リンク|保守党庶民院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Commons 1834–1922}}バルフォアと論争になったが、これを論破した<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.153-154</ref>。一方で法案の「手ぬるさ」も批判し、しばしばアスキス内相に対する妨害も行った<ref name="中村(1978)25-26">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.25-26</ref>。同年6月にローズベリー伯爵内閣が陸軍予算をめぐる問題で躓いて総辞職したためウェールズ教会独立法案も流産した<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.26-27</ref>。
 
 
保守党党首ソールズベリー侯爵が三度目の大命を受け、保守党・自由統一党連立政権(統一党政権)が発足した。同政権は庶民院の過半数の議席を持っていないので、すぐにも{{仮リンク|1895年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1895}}に打って出た。今回の総選挙は自由党に不利であり、ロイド・ジョージも落選を覚悟していたが、予想に反して彼は安定して再選を果たした<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.156-157</ref>。ただ全国的には与党の勝利に終わった<ref name="村岡(1991)210">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.210</ref>。
 
 
[[1896年]]6月に与党が提出した農業課税法について「地主を優遇して下層民をますます貧しくする法案」と厳しく批判した。この時のロイド・ジョージの反対闘争は与党議員の賛成多数で1週間の登院停止処分を受けるほど激しいものであり、ウェールズの自由党系新聞から喝采を送られている<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.159-161</ref>。
 
 
しかし同年7月に自由党党首ローズベリー伯爵が主催する晩餐会に出席した際にロイド・ジョージが発表した「ウェールズ自治案」に対する反応は芳しくなく、これをきっかけにロイド・ジョージは、ウェールズ問題だけ掲げていても全イギリス国民の支持は得られないと痛感するようになり、全イギリスの自由主義のために戦う必要があると確信するようになったという<ref>[[#原田(1917)|原田(1917)]] p.165-166</ref>。
 
 
[[1899年]]5月には「老齢適格貧困者に関する庶民院特別委員会」の委員となり、無拠出の老齢年金制度を新設すべき旨の報告書を議会に提出した。ところが1899年10月より[[第二次ボーア戦争]]が開始されたことで戦費の維持のために老齢年金制度は流産した<ref name="坂井(1967)322">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.322</ref>。
 
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=== 第二次ボーア戦争の反戦運動 ===
 
[[File:Spioenkop1.jpg|250px|thumb|{{仮リンク|スピオン・コップの戦い|en|Battle of Spion Kop}}で戦死したイギリス兵の遺体を放り込んだ塹壕。]]
 
[[File:VerskroeideAarde1.jpg|250px|thumb|ボーア人の民家を焼き払うイギリス軍の[[焦土作戦]]。]]
 
第三次ソールズベリー侯爵内閣植民地大臣[[ジョゼフ・チェンバレン]]の帝国主義政策をめぐって自由党は、帝国主義を支持するローズベリー伯爵やアスキスら[[自由帝国主義]]派と帝国主義に批判的な[[ウィリアム・バーノン・ハーコート]]や[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]ら小英国主義派に分裂していた<ref name="中村(1978)29">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.29</ref>。この分裂は第二次ボーア戦争が始まると更に深刻化した。自由帝国主義派は政府の戦争遂行を支持したが、党首キャンベル=バナマンらは「戦争が始まった以上、政府を支持するが、早期に講和を結ぶべし」と主張した。一方ロイド・ジョージはどちらにも属さず、「親ボーア派」と呼ばれる反戦派の中心人物となった<ref name="高橋(1985)153">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.153</ref>。
 
 
ロイド・ジョージは1899年10月29日の庶民院における演説で「政府は無益な戦争を開始し、それによって老齢年金に使用されるべき財源も消費した。南アフリカ([[トランスヴァール共和国]])に在住している外国人(イギリス人)は不平不満を述べているが、これはイギリス本国における生活の敗残者の不平よりも重大な問題ではない」と訴えた<ref name="坂井(1967)323">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.323</ref>。
 
 
こうした反戦運動によってロイド・ジョージの名はイギリス中に広く知られるようになったが、反戦派は少数派であり、地元ウェールズでも支持されているとは言い難かった<ref name="高橋(1985)153">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.153</ref>。緒戦のボーア軍の奮戦で戦争が長期化の様相を呈する中、[[1900年]]初頭に反戦運動が一時的に盛り上がったが<ref name="坂井(1967)196">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.196</ref>、2月になるとイギリス軍の反転攻勢があり、加えてチェンバレン植民地相が民衆の帝国主義感情を喚起する演説を行ったことで、反戦派への批判が高まった。ロイド・ジョージも4月に[[バンガー (ウェールズ)|バンガー]]で反戦演説を行っていた際に戦争支持派の民衆から棍棒で滅多打ちにされて意識不明の重体に陥っている<ref name="坂井(1967)197">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.197</ref>。さらに5月に[[マフィケング]]で包囲されていたイギリス軍が救出されると英国民の戦争翼賛ムードが最高潮に達し、もはや反戦集会など開くことは一切できなくなった<ref name="坂井(1967)197">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.197</ref>。
 
 
6月にイギリス軍がトランスヴァール共和国首都[[プレトリア]]を占領すると戦勝ムードが広まった。保守党政権はこれを利用して9月にも解散総選挙を行った<ref name="坂井(1967)198">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.198</ref>。この選挙でロイド・ジョージは「政府はチェンバレンが株主になっている{{仮リンク|キノック社|en|Kynoch}}に優先的に海軍の爆発物の注文を出した」と批判した<ref name="吉沢(1989)196">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.196</ref>。しかし結局与党(保守党と自由統一党)は野党(自由党とアイルランド国民党)に134議席という大差をつけて勝利した。この敗北で自由党の結束はますます乱れ、アスキスら自由帝国主義派とロイド・ジョージら親ボーア派の溝が深まった<ref name="中村(1978)30">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.30</ref>。
 
 
戦争は[[ゲリラ戦]]と化して、その後も続き、ロイド・ジョージら親ボーア派はイギリス軍による[[焦土作戦]]を批判した<ref name="中村(1978)31">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.31</ref>。いつまでも終わりが見えない戦争にイギリス国内でも厭戦気分が高まっていった<ref name="岡倉(2003)149">[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.149</ref>。また[[強制収容所]]でボーア人に対して加えられた暴虐への批判も高まった<ref name="高橋(1985)155">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.155</ref>。だがこれによってロイド・ジョージへの批判熱が収まったわけではなく、1901年12月にロイド・ジョージがチェンバレン植民地大臣の地元バーミンガムで演説会を開催した際には戦争支持派の民衆が暴動を起こすという事態に発展している(この時ロイド・ジョージは警察官に変装して難を逃れた)<ref name="高橋(1985)154">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.154</ref>。
 
 
結局、この戦争はボーア人側も厭戦気分が高まったことで、1902年3月に休戦協定、5月に講和条約が結ばれ、ボーア人が英国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の主権を受け入れてイギリスの統治に帰順するということで終結した<ref>[[#岡倉(2003)|岡倉(2003)]] p.153-154</ref>。
 
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=== バルフォア教育法への反対 ===
 
ソールズベリー侯爵内閣[[第一大蔵卿]][[アーサー・バルフォア|バルフォア]](同年7月に首相)は、1902年3月に「バルフォア教育法」と呼ばれる{{仮リンク|1902年教育法 (イギリス)|label=教育法|en|Education Act 1902}}の法案を議会に提出した<ref name="坂井(1967)323">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.323</ref>。これは1870年にグラッドストン自由党政権下で制定された初等教育普及のための{{仮リンク|1870年初等教育法|label=初等教育法案|en|Elementary Education Act 1870}}に続くもので、中等教育普及のために州議会がすべき支援を定めた法律であるが、同時に1870年の初等教育法で定められていた非国教徒(自由党支持基盤)が強い影響力を持つ学務委員会(School Attendance Committee)を廃止して、新たな小学校監督機関として{{仮リンク|地方教育庁 (イギリス)|label=地方教育庁|en|Local education authority}}を設置させるものでもあった。加えて国教会とカトリックの学校には地方税の一部を導入するという条文もあり、全体的に非国教徒に不利益な内容だった<ref name="村岡(1991)229">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.229</ref><ref name="トレヴェリアン(1975)185">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.185</ref>。
 
 
非国教徒の反発は激しく、とりわけウェールズで反対闘争が激化した。庶民院ではロイド・ジョージが中心となって同法への反対運動が展開された<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.323-325</ref><ref name="村岡(1991)230">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.230</ref>。結局、この法案は可決されたものの、ロイド・ジョージの反対闘争によって審議は紛糾し、法案可決まで9カ月かかった。その間にボーア戦争以来、小英国主義派と自由帝国主義派に分裂していた自由党はこの法案への反対運動を共通項に一つにまとまることができた<ref name="村岡(1991)230" />。
 
 
また法案可決後にウェールズで行われた非国教徒の学生の学校ボイコット運動の先頭に立つことになった。ロイド・ジョージ自身はこのボイコット運動にあまり乗り気でなかったが、立場上、避けられなかったという。この運動はあまり盛り上がらず、寄付金もさほど集まらなかったので継続は難しくなり、ロイド・ジョージの指導力にも疑問が呈されるようになった。しかし彼にとっては幸いなことに世論の関心はまもなく関税問題に向かったので、この問題は自然収束し、彼のウェールズでの権威に決定的な傷が入ることはなかった<ref name="高橋(1985)158-159">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.158-159</ref>。
 
  
=== キャンベル=バナマン内閣通商大臣 ===
+
({{lang-en|'''David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[メリット勲章|OM]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}[[1863年]]1月17日 - [[1945年]]3月26日)
関税問題で保守党政権内の意見対立は深刻化し、首相バルフォアは保守党分裂を避けるため、[[1905年]][[12月4日]]に総辞職した<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.231-232</ref>。これを受けて国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]は、同日中に自由党党首[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]に組閣の大命を与えた。ロイド・ジョージは同内閣に{{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}として入閣した<ref name="中村(1978)35">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.35</ref>。当時43歳であり、[[閣内大臣]]では最も若年だった。またウェールズ人として初入閣でもあった<ref name="高橋(1985)160">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.160</ref>。
 
  
2年強の通商大臣在職中にロイド・ジョージは3つの法律の制定を主導した。[[1906年]]には「生産調査法(Census of Production Act)」を制定して産業統計を正確に行うことを目指した。ついで[[1907年]]には「パテント及びデザイン法(Patents and Designs Act)」の制定を主導し、自国産業の国際競争力強化に努めた。さらに[[1908年]]にはロンドン港の荷物運搬の効率化を目指して「ロンドン港法案(Port of London Bill)」の作成にあたったが、この法案の成立はロイド・ジョージの通商大臣退任後となった<ref name="高橋(1985)162">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.162</ref>。
+
[[イギリス]]の政治家。幼時に父を失い,叔父のもとで育てられ弁護士となった。
  
しかし公約だった「ウェールズ非国教化法案」は延期すると発表し、ウェールズで批判を集めた<ref name="高橋(1985)264">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.264</ref>。
+
1890年自由党から出馬して下院議員に当選,党内急進派として[[ボーア戦争]]に反対した。 1905年 [[H.カンベル=バナマン]]内閣に商務相として入閣。
{{-}}[[#toc|【↑目次へ移動する】]]
 
=== アスキス内閣大蔵大臣 ===
 
[[File:David Lloyd George 1902.jpg|180px|thumb|ロイド・ジョージ大蔵大臣(1908年)]]
 
1908年4月、病気で退任したキャンベル=バナマンに代わって大蔵大臣[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]が組閣の大命を受け、{{仮リンク|アスキス内閣|en|Liberal Government 1905–1915#Asquith’s Cabinet}}が成立した。空いた大蔵大臣のポストにはロイド・ジョージが就任した<ref name="高橋(1985)163">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.163</ref>。また[[ウィンストン・チャーチル]]がロイド・ジョージの後任の通商大臣に就任した。急進派として知られるこの二人の入閣で改革機運は高まった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.234-235</ref>。
 
  
ロイド・ジョージが大蔵大臣に就任した頃のイギリスの社会状況は厳しかった。1907年後半から[[不況]]が押し寄せ、1907年に3.7%だった失業率は、翌1908年には7.8%に跳ね上がっていた<ref name="ピーデン(1990)21">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.21</ref>。こうした中で労働党の「[[労働権]]の確立」を訴える運動が盛り上がっていき<ref name="坂井(1967)383">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.383</ref>、他方保守党の関税改革派も「関税が国民の仕事を守る」と主張して再攻勢をかけてきていた<ref name="ピーデン(1990)21">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.21</ref>。自由党としては伝統的支持層である中産階級の支持を失わずに労働者階級に支持を拡大させて立て直しを図りたいところであり、それが本来[[自由放任主義]]の立場である自由党が[[社会政策]]を実施する背景となった<ref name="ピーデン(1990)19-21">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.19-21</ref>。
+
1908年[[H.アスキス]]内閣の蔵相。第1次世界大戦中の 1915年軍需相,その後陸相となり,1916年アスキス辞任のあとわずか5人の閣僚から成る「戦時内閣」を組閣し,強力な指導力でイギリスを勝利へ導いた。
  
==== 老齢年金法 ====
+
1918年総選挙で大勝,翌年講和会議に出席したが,22年保守党との連立がくずれ首相を辞任。 26年アスキスの引退後党首となったが,自由党の勢力を回復できず,31年の大恐慌により指導力を失った。
1908年5月にロイド・ジョージは[[労働党 (イギリス)|労働党]]が求めていた無拠出の老齢年金制度の法案を庶民院に提出した。これまで貧しい高齢者が無償で救済を受けるためには[[救貧法]]を利用するしかなく、その適用を受けるためには監獄のような救貧院に入らなければならなかったので、これは高齢者の生活保障の大改革だった。だが野党保守党からは「国民道徳の低下を招く」という批判を受けた。これに対してロイド・ジョージは「軍の兵士たちには年金を与えるのに、産業の老兵たちは貧苦の中で死なせるというのは非道である」と反論した<ref name="吉沢(1989)32">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.32</ref>。またこの法案は財源の裏付けがないと批判されたが、それについてもロイド・ジョージは軍事費を削減したので問題無しと反論した<ref name="坂井(1967)379">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.379</ref>。老齢年金制度はすでにドイツで運用されている制度だったが、ドイツでは拠出制だった。それを無拠出とする理由についてロイド・ジョージは拠出制だと収入がない婦人が年金を受けられなくなるし、貧しい労働者はそんなものを拠出している余裕がないことを指摘した。加えて拠出制にすると{{仮リンク|友愛組合|en|Friendly society}}や労働組合の保険制度と利害が衝突する恐れが高いことも指摘した<ref name="坂井(1967)379">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.379</ref>。
 
  
この法案は、予算案の付属として出されたため、保守党が多数を握る貴族院としても否決させるのは難しかった(金銭法案は庶民院が決めるというのが英国議会の不文律だった)<ref name="吉沢(1989)32-33">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.32-33</ref>。またこの法案には労働党や「{{仮リンク|救貧法及び貧困の救済に関する王立委員会|en|Royal Commission on the Poor Laws and Relief of Distress 1905-09}}」が主張する救貧法廃止と「労働権」の確立の論議{{#tag:ref|救貧法を廃止することで労働能力の無い貧困者への給付を労働能力のある貧困者に対する給付と切り離し、労働能力の無い貧困者は「老齢者、児童、病人、精神障害者」という4つの分類ごとに置かれた委員会から給付を受けられるようにし、一方労働能力のある貧困者には労働権を与えて、失業の撲滅を図ることで貧困から解消しようという主張<ref name="坂井(1967)381">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.381</ref>。|group=注釈}}が労働者層の支持を集める前に「先手」を打つという保守的な意味もあったため、1908年7月にも野党保守党の支持も得て可決されている<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.380-383</ref><ref name="村岡(1991)235">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.235</ref>。
+
1938年以後宥和政策に反対し,40年 [[W.チャーチル]]に入閣を求められたが辞退。 1945年伯爵。
  
この{{仮リンク|1908年老齢年金法 (イギリス)|label=老齢年金法|en|Old-Age Pensions Act 1908}}によって1909年より70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されるようになった。救貧法の適用を受けることで「被救済民」のレッテルを貼られるのを恐れていた低所得高齢者から非常に感謝されたといわれ<ref name="吉沢(1989)32-33" />、同法は長きにわたり「ロイド・ジョージ」という渾名で呼ばれて親しまれた<ref name="坂井(1967)382">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.382</ref>。
+
主著『大戦回顧録』 War Memoirs (1933~36) ,『講和条約の真相』 The Truth about the Peace Treaties (38)  
  
==== 海軍増強論争をめぐって ====
 
[[File:ChurchillGeorge0001.jpg|180px|thumb|アスキス内閣の二大急進派閣僚ロイド・ジョージ(左)と[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]](右)]]
 
イギリスの国際的地位は[[1870年代]]以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけイギリスに急追していたのが[[ドイツ帝国]]だった。ドイツ資本主義の急速な発展を背景に[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は[[1890年代]]後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して[[帝国主義]]外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった<ref name="坂井(1967)394">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.394</ref>。これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.393-396</ref>。しかし[[1908年]]2月に[[帝国議会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年[[弩級戦艦]]を3艦、[[巡洋艦]]を1艦ずつ建艦して1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦合わせて58艦の保有を目指すことになった<ref name="坂井(1967)397">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.397</ref>。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.397-398</ref>。
 
 
こうした中で発足したアスキス内閣は、発足後ただちに自由帝国主義派と急進派に分裂し、海軍増強論争が起こった<ref name="坂井(1967)393">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.393</ref>。{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}[[レジナルド・マッケナ]]や外務大臣[[エドワード・グレイ]]ら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対してロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障の財源確保を優先させるべきと主張した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.397-398</ref>。
 
 
1908年8月にドイツの国民保険制度を視察するため訪独したロイド・ジョージは、ドイツ内務大臣[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]と会見したが、彼から「イギリスは我々を包囲しようとしている」「あらゆるプロイセン人は死ぬまで祖国を守る」と釘を刺されたうえ、市井でもドイツ国民の愛国心の高揚ぶりを目撃することになった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.400-398</ref>。これを警戒したロイド・ジョージは4艦の弩級戦艦の建艦を認めるに至り、閣内対立は一時収束した<ref name="坂井(1967)398">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.398</ref>。
 
 
しかし[[1909年]]1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した<ref name="坂井(1967)403-404">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.403-404</ref>。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4艦以上建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した<ref name="坂井(1967)404">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.404</ref>。結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で[[1910年]]にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた<ref name="坂井(1967)407">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.407</ref>。{{-}}
 
 
==== 「人民予算」 ====
 
[[File:Meeting of Asquith cabinet19090001.jpg|250px|thumb|1909年の[[パンチ (雑誌)|パンチ誌]]の風刺画。人民予算が[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]で否決された際の[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣の「悲しみ」を風刺している。飛び上がって喜ぶ[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]を持ちあげる人物がロイド・ジョージ。]]
 
大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「貧困と悲惨を根絶するための戦争の戦費」と称して「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を議会に提出した<ref name="坂井(1967)413-414">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.413-414</ref>。この予算はドイツとの建艦競争や老齢年金などの社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった<ref name="村岡(1991)238">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.238</ref>。人民予算には[[所得税率]]の引き上げと[[累進課税]]性の強化、[[相続税]]の引き上げ、そして土地課税制度導入が盛り込まれていた<ref name="村岡(1991)239">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.239</ref>。
 
 
この予算はイギリス政界や世論を二分した。ロイド・ジョージの片腕であるチャーチルが「予算賛成同盟(Budget League)」を結成したのに対抗して保守党の{{仮リンク|ウォルター・ロング|en|Walter Long, 1st Viscount Long}}らは「{{仮リンク|予算反対同盟|en|Budget Protest League}}」を結成した。両組織とも激しい大衆取り込み・動員を行った<ref name="村岡(1991)239">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.239</ref><ref name="坂井(1967)421">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.421</ref>。一方ロイド・ジョージは[[ナサニエル・ロスチャイルド (初代ロスチャイルド男爵)|ロスチャイルド卿]]が人民予算反対運動の黒幕と見て、彼を激しく個人攻撃した<ref name="坂井(1967)422">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.422</ref>。
 
 
人民予算は庶民院を通過したものの、貴族院からは「社会主義予算」「アカの予算」と徹底的な攻撃を受けた<ref name="村岡(1991)240">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.240</ref>。とりわけ土地課税は地主貴族たちを刺激し、「土地の[[国有化]]を狙うもの」という批判が噴出した<ref name="坂井(1967)427">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.427</ref>。自由党内のホイッグ派(土地貴族が多い)も保守党と声を合わせるようになったため、結局土地課税についてはロイド・ジョージ自身が骨抜き修正している<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.420-421</ref>。それにも関わらず、「人民予算」は1909年11月に庶民院の[[読会制|第三読会]]を通過した後、貴族院から激しい反発にあった。地主貴族たちはなおも土地の国有化につながる法案と信じていた。結局貴族院は11月30日に人民予算を賛成75、反対350という圧倒的大差でもって否決した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.427-428</ref>。
 
 
これを受けてアスキス内閣は人民予算の承認と貴族院の権限縮小を求めて12月3日に議会を解散し、総選挙に打って出た<ref name="坂井(1967)428">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.428</ref>。この選挙戦は事実上ロイド・ジョージが指揮をとったが、彼は予定されていた選挙スローガンの一つ「ウェールズ国教会の廃格」を取り下げさせている。非国教徒主義はもはや票にならないという判断だったという<ref name="坂井(1967)429">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.429</ref>。論点は「人民予算」と「貴族院権限縮小」に集中させた。貴族院権限縮小の訴えには国民はほとんど無関心だったが、人民予算についてはイングランド北部工業地帯やスコットランドで支持が広がった。しかし保守党の海軍増強の訴えの方がより幅広く支持を広げた。ロイド・ジョージはイギリスの海軍力はドイツのそれをはるかに凌駕しているとして海軍増強論に慎重姿勢を示したが、これは有権者からかなりの反発を招いた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.430-434</ref>。
 
 
そのため[[1910年]]1月に行われた{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910}}は接戦となり、自由党は275議席、保守党は273議席、アイルランド国民党は82議席、労働党は40議席を獲得した。大勝した前回選挙と比べると自由党は104議席を喪失した<ref name="坂井(1967)434">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.434</ref>。この選挙結果によりアスキス内閣は海軍増強路線に舵を切るようになり、またロイド・ジョージら急進派閣僚も自由帝国主義化を強めていくことになる<ref name="坂井(1967)435">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.435</ref>。
 
 
しかし自由党はアイルランド自治法案提出を公約に掲げていたのでアイルランド国民党から人民予算支持を取り付けることができ、また労働党も人民予算を支持する立場を表明した。そのため人民予算は1910年4月20日に再提出され、庶民院を可決後、貴族院の権限縮小を盛り込んだ[[議会法]]案も議会に提出することで貴族院を牽制しながら貴族院を無投票で通過させることに成功した。4月28日に国王エドワード7世の裁可を得て成立した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.447-448</ref>。
 
{{-}}
 
 
==== 議会法をめぐって ====
 
議会法案をめぐって自由党政権と保守党が緊迫する中の1910年[[5月6日]]にエドワード7世が崩御し、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が即位した。政界に「新王をいきなり政治危機に晒してはならない」という融和ムードが広まり、両党の会合が持たれた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.448-449</ref>。この際にロイド・ジョージは保守党に連立内閣を提唱したが、保守党議員にはロイド・ジョージを急進派として疎む者が多く、またアイルランド自治法案への反発も根強かったためうまくいかなかった。結局1910年11月までには両党の交渉は決裂に終わった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.450-452</ref>。
 
 
この決裂で議会法制定を目指すことにしたアスキス首相は、ジョージ5世から「総選挙を行って勝利した場合には貴族院改革法案に賛成する新貴族議員を大量に任命する」という確約を得て、11月26日にもこの年二度目の解散総選挙に打って出た。ロイド・ジョージの提案により自由党はこの選挙で「貴族が統治するか、民衆が統治するか」を選挙スローガンに掲げることになった。国民は貴族院改革にはほとんど無関心だったのだが、貴族院改革はアイルランド自治法案可決につながるためアイルランド自治派の有権者を惹きつけることには成功した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.454-455</ref>。12月の{{仮リンク|1910年12月イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, December 1910}}の結果は自由党272議席、保守党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席と前回総選挙とほとんど変わらないものだった<ref name="坂井(1967)455">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.455</ref>。
 
 
しかしアスキス内閣は[[1911年]][[2月21日]]の新議会で自党と友党アイルランド国民党があわせて過半数を制したので貴族院改革の国民のコンセンサスは得たと力説し、議会法案を再度議会に提出した<ref name="坂井(1967)455">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.455</ref>。法案は5月15日に庶民院を通過し、5月23日に貴族院へ送付されたが、貴族院は断固否決の姿勢を示した。7月にはこのままでは法案可決は難しい情勢となった。ロイド・ジョージは7月18日にもバルフォアや保守党貴族院院内総務[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]と会談し、王から新貴族任命の承諾を得ており、貴族院が議会法案を否決した場合、国王大権で法案に賛成する新貴族を任命することになるであろう旨を通達した<ref name="坂井(1967)456">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.456</ref>。
 
 
これを知ったバルフォアやランズダウン侯爵はもはや抵抗不可能と判断して議会法を成立させるべきと考えたが、保守党内には政府の態度は脅迫に過ぎないとして貴族院権限縮小に反対し続ける者が多かった。貴族院保守党は分裂状態のまま8月10日の投票を迎え、一部保守党貴族院議員が賛成票を投じた結果、賛成131、反対114という僅差で議会法が可決成立した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.457-460</ref>。
 
 
==== 国民保険法 ====
 
[[File:David Lloyd George c1911.jpg|180px|thumb|1911年のロイド・ジョージ。]]
 
議会法可決後、ロイド・ジョージの主導で{{仮リンク|1911年国民保険法 (イギリス)|label=国民保険法|en|National Insurance Act 1911}}が制定された<ref name="高橋(1985)168">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.168</ref>。
 
 
この法律は2部構成になっており、第1部は疾病に備えた健康保険制度を定めており、賃金労働者の多くを加入対象としていた(中産階級は民間保険の者が多い)<ref name="ピーデン(1990)30">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.30</ref>。負担割合は被保険者が週4[[ペニー|ペンス]](女性は3ペンス)、雇用主が週3ペンス、国家が週2ペンスとなっており、それをちゃんと収めていれば、疾病の場合には男性被保険者には週10[[シリング]]、女性被保険者には週7シリング6ペンスが友愛組合や労働組合から支給されるという内容である<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.235-236</ref>。ロイド・ジョージは「この法律で賃金労働者は4ペンス払って9ペンスもらえる」と豪語したが、労働者にとって週4ペンスというのは決して安い額ではなかった<ref name="ピーデン(1990)30">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.30</ref>。
 
 
この健康保険制度はドイツ帝国宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が制定した疾病保険制度をモデルとした物であった。ロイド・ジョージは「ドイツの後塵を拝する水準であってはならないのは海軍力だけではない」と力説し、ドイツを越える疾病保険制度の導入の必要性を訴えた<ref name="吉沢(1989)34">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.34</ref>。ドイツの疾病保険制度と比べるとドイツのものが国家主導なのに対して、イギリスのものは国家と民間団体の協力の上に成り立っている観があった。これは権威主義と自由主義のお国柄の違いと考えられている<ref name="村岡(1991)256">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.256</ref>。
 
 
第2部は建設や造船関係の業種の労働者を対象とした[[失業保険]]制度を定めていた。被保険者と雇用主が週2と2分の1ペンスを負担し、国が1と3分の1ペンスを負担した<ref name="ピーデン(1990)30">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.30</ref>。
 
 
この国民保険法は福祉国家への第一歩を踏み出した法律であるが、その内容ははなはだ不十分であった<ref name="高橋(1985)168">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.168</ref><ref name="ピーデン(1990)31">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.31</ref>。国民保険の本格的整備は[[第二次世界大戦]]後を待つことになる<ref name="ピーデン(1990)31" />。
 
 
==== マルコニ事件 ====
 
[[File:David Lloyd George 1911.jpg|180px|thumb|1911年に描かれたロイド・ジョージの肖像画({{仮リンク|クリストファー・ウィリアムズ (画家)|label=クリストファー・ウィリアムズ|en|Christopher Williams (Welsh artist)}}画)]]
 
{{main|{{仮リンク|マルコニ事件|en|Marconi scandal}}}}
 
[[1911年]]の[[帝国会議]]で[[大英帝国]]各地に無線中継地を設置して{{仮リンク|帝国無線通信網|en|Imperial Wireless Chain}}を整備することが決議された<ref name="中村(1978)82">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.82</ref>。郵政大臣[[ハーバート・サミュエル]]は帝国防衛委員会の小委員会である帝国無線通信委員会の「勧告に従って」、同年12月より{{仮リンク|マルコニ社|en|Marconi Company}}との交渉を開始した<ref name="吉沢(1989)47">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.47</ref>。翌[[1912年]][[3月7日]]にマルコニ社は[[イギリス政府]]から帝国内の6か所{{#tag:ref|イングランド、[[ムハンマド・アリー朝|イギリス半植民地エジプト]]、[[イギリス領東アフリカ]]、[[南アフリカ連邦]]、[[イギリス領インド帝国]]、{{仮リンク|イギリス領シンガポール|en|Singapore in the Straits Settlements}}の6か所。|group=注釈}}に無線中継地を建設する工事の仮受注を受けた旨を社報で発表した<ref name="吉沢(1989)40">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.40</ref>。さらに7月19日に正式な契約が交わされた<ref name="吉沢(1989)61">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.61</ref>。
 
 
この契約でサミュエルと交渉していたマルコニ社側の担当は常務取締役ゴッドフリー・アイザックス(Godfrey Isaacs)だったが、彼はロイド・ジョージの側近である{{仮リンク|法務総裁 (イギリス)|label=法務総裁|en|Attorney General for England and Wales}}[[ルーファス・アイザックス (初代レディング侯爵)|ルーファス・アイザックス]]の弟だった<ref name="吉沢(1989)51">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.51</ref>。この関係のためにアイザックス兄弟とサミュエルの三人が結託してポールセン社の無線を不当に退けて、「質の悪い」マルコニ社の無線を優遇して採用したという噂が流れた(三人ともユダヤ人であったこともこの噂を助長した)<ref name="吉沢(1989)53-54">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.53-54</ref>。またこの間マルコニ社の株が上がり続けており{{#tag:ref|1911年5月に1ポンドだったのが、帝国会議議決があった後の7月には2ポンドになり、1912年3月にマルコニ社社報で仮契約発表があると5ポンドまで上がり、さらに4月には仮契約の噂が広まったことと[[タイタニック (客船)|タイタニック]]沈没事件で無線技術が注目されたことで9ポンド13シリングまで暴騰した。しかしこの後、急落し、7月までに5ポンドに戻った<ref name="吉沢(1989)53-54">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.53-54</ref>。|group=注釈}}、閣僚たちが[[インサイダー取引]]で儲けたという噂が広がり始めた<ref name="吉沢(1989)53-54">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.53-54</ref><ref name="中村(1978)83">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.83</ref>。
 
 
夏休み明けの1912年10月11日から庶民院でマルコニ問題が取り上げられた。サミュエルは契約が進められていた当時マルコニ社の無線が最も優れていたことを説得力ある主張で訴えた<ref name="吉沢(1989)106-108">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.106-108</ref>。一方インサイダー取引疑惑についてはルーファス・アイザックスから否定した。ロイド・ジョージ自身ははっきりとは否定せず、ルーファスに任せて引っこんでいた<ref name="吉沢(1989)108-115">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.108-115</ref>。[[1913年]]2月、フランスの『{{仮リンク|ル・マタン (フランス)|fr|Le Matin (France)|en|Le Matin (France)|label=ル・マタン}}』紙がサミュエルとアイザックス兄弟のインサイダー取引疑惑を報じたが、これに対してルーファスは事実無根として同紙を訴えた。裁判自体は『ル・マタン』側が非を認めて争わなかったことでルーファスの勝訴に終わったが、この裁判の際にルーファスは、アメリカ・マルコニ社の株を所有していること、その一部をロイド・ジョージに売ったこと、しかしアメリカ・マルコニ社はイギリス・マルコニ社とは全く無関係であること、またこの株について儲かるどころか損をしたことを証言した<ref>[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.165-168</ref>。
 
 
これは昨年10月11日の議会での発言と食い違っているように思われた<ref name="中村(1978)83">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.83</ref>。そのため庶民院のマルコニ契約特別委員会は、1913年3月から5月にかけてアイザックス兄弟やロイド・ジョージ、サミュエルらを証人喚問した<ref name="吉沢(1989)178">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.178</ref>。証人喚問でロイド・ジョージは「[[イギリス政府|陛下の政府]]とアメリカ・マルコニ社の間にはアメリカ・マルコニ社の株価を上げるようないかなる契約も交渉もないのだから自分のアメリカ・マルコニ社への投資(彼は投機ではなく投資とした)については何の問題もない」と答弁した<ref name="吉沢(1989)195-197">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.195-197</ref>。
 
 
自由党議員が多数を占めるマルコニ特別委員会は6月11日に委員会案を決議して庶民院へ送付したが、そのなかでロイド・ジョージについて「アメリカ・マルコニ社とイギリス・マルコニ社の二社は無関係であると信じての株購入であり、責を問う必要はない」「ただ1912年10月11日の時点でちゃんと説明していたら、余計な誤解を受けずにすんだであろう」とした。だが野党保守党の委員ロバート・セシル卿はこの委員会案を認めず、「大蔵大臣の株購入は投資ではなく投機にあたる」「アメリカ・マルコニ社は間接的にだが、陛下の政府とイギリス・マルコニ社が結んだ契約に利害関係を持っている」という内容の独自の草案を作った<ref>[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.222-228</ref><ref name="中村(1978)83">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.83</ref>。
 
 
これを受けて保守党は6月18日にもアメリカ・マルコニ社の株を購入した閣僚の行動を遺憾とする決議案を庶民院に提出した。事実上ロイド・ジョージとルーファス・アイザックスに対する不信任決議案であった<ref>[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.238-239</ref>。これに対してロイド・ジョージもルーファスもこれまでの主張を繰り返し、汚職行為ではない旨の答弁を行った<ref name="吉沢(1989)246">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.246</ref>。保守党と自由党の睨みあいが続く中、アスキス首相は「閣僚たちの行動は軽率だった」という言葉を盛り込んだ修正案を提出することで保守党と妥協を図ろうかとも考えたが、ロイド・ジョージが辞表を提出するほど強く反対したため、結局閣僚の非を一切認めない修正案を提出することに決めた<ref>[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.251-252</ref>。
 
 
保守党決議案は否決され、自由党の修正案が可決成立した<ref name="吉沢(1989)261">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.261</ref>。こうしてロイド・ジョージは失脚を免れたが、弱者・労働者の味方としてのイメージダウンは避けられなかった。ロイド・ジョージの演説中にアスキス首相は他の閣僚に「天使の羽も少し切り取られた格好だね」と呟いたという<ref name="中村(1978)84">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.84</ref>。しかしロイド・ジョージの第一次世界大戦での国家への貢献を考える時、歴史家の多くは「ロイド・ジョージの政治生命をマルコニ事件で絶たなかったことは、イギリスにとって幸運なことであった」と論評している<ref name="吉沢(1989)262">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.262</ref>。
 
 
==== 内乱の危機の回避 ====
 
第一次世界大戦の前夜、イギリス国内は内乱の危機に陥っていた。
 
 
1911年6月にはイギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発し、各港は海運機能が麻痺した。一時下火になるも8月には鉄道労働者が海運労働者と連携したストライキを起こしたことで再び盛り上がった<ref name="坂井(1967)479-480">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.479-480</ref><ref name="村岡(1991)244">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.244</ref>。これに対してチャーチル内務大臣は徹底弾圧をもって臨み、各地に鎮圧軍を派遣したため、ロンドン、リヴァプール、{{仮リンク|ラネリー|en|Llanelli}}などでは多数の労働者が軍隊の発砲で死傷する事態となり、イギリスは混乱の極致に陥った<ref name="坂井(1967)480-481">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.480-481</ref>。事態を危惧したロイド・ジョージは、経営者たちのところを回ってドイツとの戦争が不可避かつ間近であると説得し、経営者たちに労働者に対して融和的態度を取らせたことでストライキを収束に向かわせた<ref name="坂井(1967)481">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.481</ref>。しかし1912年以降もストライキが発生し、大戦直前時のイギリスは革命前夜の空気さえ漂っていた<ref name="村岡(1991)245">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.245</ref>。
 
 
またもう一つの内乱の危機がアイルランド問題だった。[[1912年]]から[[1914年]]にかけてアイルランド自治法をめぐって議会が紛糾する中、アイルランド北部[[アルスター]]の[[プロテスタント]]や保守党員たちは「アルスター義勇軍」を結成し、アイルランド自治にアルスターが含まれることに抵抗した。これに対抗して[[カトリック教会|カトリック]]が大多数を占める南アイルランドも「アイルランド義勇軍」を結成した。この両軍が睨みあう状態となり、アイルランドは内戦寸前の状態に陥った{{#tag:ref|アイルランドにはカトリックが多く、カトリックはアイルランド自治を求める者が多いが、北部アイルランドの[[アルスター]]は複雑だった。アルスターは9つの州からなるが、[[プロテスタント]]が多数な州とカトリックが多数派な州、両方が混在している州があったのである<ref name="坂井(1967)494">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.494</ref>。またアルスターはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一[[産業革命]]を経た地域であったため、アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいことだった<ref name="村岡(1991)250">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.250</ref>。|group=注釈}}。内乱を恐れたロイド・ジョージは、アルスターを5年か6年間自治の対象から除外し、その後アイルランドに加えるという妥協案を作成し、アスキス首相がこれをアイルランド国民党と保守党に提案したが、両党とも拒否した<ref name="村岡(1991)250">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.250</ref>。
 
 
アイルランド自治法案は1914年5月26日に庶民院を可決した。3度目だったので議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。内乱を回避するためアスキス首相が再びロイド・ジョージの妥協案を両党に提案したが、その交渉中に第一次世界大戦が勃発し、保守党党首[[アンドルー・ボナー・ロー]]との交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになった。内乱の危機は世界大戦のおかげで回避された格好であった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.512-513</ref><ref name="村岡(1991)251">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.251</ref>。
 
==== 第一次世界大戦の勃発と緒戦をめぐって ====
 
1914年6月の[[サラエボ事件]]を機に7月終わりから8月初めにかけて[[ドイツ帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]対[[ロシア帝国]]、[[フランス第三共和政|フランス共和国]]の[[第一次世界大戦]]が勃発した。イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦すべきか否か意見が分かれた。ロイド・ジョージは当初参戦に反対していた<ref name="河合(1998)150">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.150</ref>。
 
 
しかし8月2日にドイツ軍が[[ベルギー]]の中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明し、これを機にロイド・ジョージも参戦派に転じたことで、アスキス内閣は対独参戦を決定した。転向の理由についてロイド・ジョージはベルギーを救援する必要性をあげたが、実際にはイギリスの命運はフランスと切り離せないし、このような大事な問題で内閣を分裂させるわけにはいかないという考えが大きかったという<ref name="ボンド(2006)10">[[#ボンド(2006)|ボンド(2006)]] p.10</ref>。参戦反対派の[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]{{仮リンク|ジョン・モーリー (初代ブラックバーン子爵)|label=ブラックバーン子爵|en|John Morley, 1st Viscount Morley of Blackburn}}によればロイド・ジョージの転向はチャーチルの影響であったという<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.150-151</ref>。
 
 
ロイド・ジョージは大蔵官僚の「これまでの戦争は全て戦費の半分を課税で賄ってきた」という説得を受け入れず、借入金を中心にして政府の需要増大分を賄った(むろん税率の上昇も行ったが)<ref name="ピーデン(1990)40-42">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.40-42</ref>。主な借入先は銀行であり、イングランド銀行からも借り入れを行った結果、通貨[[インフレ]]が発生した。1914年に流通券という金に支えられていない新通貨を政府が発行したこともそれを加速させた<ref name="ピーデン(1990)43">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.43</ref>。[[1915年]]3月には労働組合指導者と交渉し、軍需産業の利潤を抑えることを条件に半熟練労働者や婦人労働者を利用することを認めさせた<ref name="ピーデン(1990)46">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.46</ref>。
 
 
一方作戦面では、西部戦線が膠着し、消耗戦の様相を呈する中の[[1915年]][[1月1日]]に「西部戦線で犠牲の多い戦闘を続けるより派遣軍をフランスからバルカン半島へ移し、対オーストリア作戦を開始すべき」という内容の覚書を内閣に提出した。陸軍大臣[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー|キッチナー伯爵]][[元帥 (イギリス)|元帥]]や[[イギリス海外派遣軍 (第一次世界大戦)|海外派遣軍]]司令官[[ジョン・フレンチ]]元帥ら軍部が強硬に反対したため、この時には沙汰やみとなったが、以降アスキス内閣は東部戦線を重視する東方派と西部戦線を重視する西方派に分裂していった<ref name="中村(1978)108">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.108</ref>。
 
 
ロイド・ジョージと同じく東方派だった海軍大臣チャーチルの主導で1915年3月から[[ガリポリの戦い]]が開始されたが、失敗に終わった。西部戦線も3月から5月にかけての攻勢が弾薬不足で失敗した<ref name="中村(1978)109">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.109</ref>。開戦以来の挙国一致ムードで議会における政党間争いは一時休戦という形になっていたが、1914年秋から1915年春にかけて自由党・保守党の関係は冷え込んでいった。とりわけ1915年3月から4月頃にロイド・ジョージが酒類製造業者の国家買い上げを計画したことに保守党は強く反発していた<ref name="バトラー(1980)57-59">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.57-59</ref>。そういう中で上記の作戦上の大失敗があったため、保守党党首ボナー・ローも党内の政権への不満を抑えがたくなっていった<ref name="河合(1998)159">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.159</ref>。
 
 
=== アスキス挙国一致内閣の軍需大臣 ===
 
[[File:M 124 Kitchener Llyod Paul Mantoux George Bertie of Thame Asquith Beyens de Broqueville Bourgeois Roques Briand Lacaze JOffre de Castelnau Rachitch Yovanovitch Vesnitch Pachitch Isvolski.JPG|250px|thumb|1916年3月の連合国会議に出席したロイド・ジョージ英軍需大臣(中央後ろ向きの英陸相[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー|キッチナー伯爵]]元帥から左に二人目)。]]
 
1915年5月にアスキス首相とロイド・ジョージ蔵相と保守党党首ボナー・ローの交渉が行われ、自由党と保守党の大連立による[[挙国一致内閣]]を成立させる運びとなった<ref name="中村(1978)110">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.110</ref>。この交渉により保守党からの評判が悪いロイド・ジョージは蔵相を離れて、新設される{{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}に転任することになった<ref name="バトラー(1980)60">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.60</ref>。軍需省は軍需に関する権能を陸軍大臣キッチナーから奪う形で新設された省庁だった<ref name="中村(1978)114">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.114</ref>。
 
 
軍需大臣ロイド・ジョージは役人よりも民間の企業家を積極的に登用し、軍需産業への国の介入を強化して軍需品価格の統制を行った。軍需産業がかつて生産したことのない物を生産できるよう、また大量生産方式を導入できるよう逐次援助を行った。さらに国立砲弾製造工場も増やしていった<ref name="ピーデン(1990)38">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.38</ref>。
 
 
大戦二年目になると戦死者の増大で兵員が枯渇した。イギリスでは伝統的に徴兵制は避けられてきたが、ロイド・ジョージはチャーチルや保守党閣僚たちとともに徴兵制導入を盛んに訴え、反対派の自由党閣僚を辞任に追いこみ<ref name="バトラー(1980)61">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.61</ref>、また慎重派のアスキス首相に重い腰を上げさせて、1916年5月に実現にこぎつけた<ref name="中村(1978)115">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.115</ref>。この徴兵制論争をきっかけにロイド・ジョージと保守党の関係は親密化した<ref name="バトラー(1980)61" />。
 
 
一方作戦面では軍部がロイド・ジョージやチャーチルのような議会政治家が作戦指導に口を出してくることをますます疎ましく思うようになっていた<ref name="水谷(1991)144">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.144</ref>。とりわけロイド・ジョージは現役軍人閣僚である陸軍大臣キッチナー伯爵元帥と激しく対立し、彼のことを「考え方が古い」「軍事情報を閣議で隠す」と批判した。キッチナーの方も議会政治家は機密を平気で自分の妻に話し、その妻が主婦仲間に広めていくと批判していた<ref name="中村(1978)118">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.118</ref>。二人の方針をめぐる対立も激しかった。ロイド・ジョージはチャーチルが海軍大臣時代に目を付けた「[[戦車]]」に注目し、その大量生産を目指したのに対し、キッチナーは戦車を「おもちゃ」と呼んで一蹴していた。またギリシャ・[[サロニカ]]に上陸していたイギリス軍をめぐる問題でも、ロイド・ジョージが親独的中立派のギリシャ王[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]を恫喝してでもサロニカの兵力を増強し、バルカン半島を固めるべきと訴えたのに対し、キッチナーはギリシャを訪問してギリシャ王の引見を受けていたため、彼の意を汲んでサロニカから撤退すべきと主張した。サロニカ論争はキッチナーが譲歩することで解決したものの、軍部と議会政治家の亀裂は深まっていく一方だった。ちなみに国王ジョージ5世や保守党、マスコミも議会政治家が軍事作戦に介入することには否定的だった<ref name="水谷(1991)144-145">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.144-145/149</ref>。
 
 
1916年5月31日の[[ユトランド海戦]]後、ロイド・ジョージはキッチナーを更迭しないなら辞職するとアスキス首相に申し出た。アスキスも議会政治家をないがしろにするキッチナーを快く思っていなかったが、キッチナーの国民人気は高く、簡単に切るわけにはいかなかった。そのためアスキスは折衷策としてキッチナーを使節として同盟国ロシアに派遣してロンドンを空けさせることにした。キッチナーはその道中の6月5日に[[オークニー諸島]]沖で乗船とともに沈んだ。[[機雷]]にかかったと言われるが、巷にはロイド・ジョージによる暗殺という噂が流れたという<ref name="中村(1978)118-119">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.118-119</ref>。
 
{{-}}[[#toc|【↑目次へ移動する】]]
 
=== アスキス挙国一致内閣の陸軍大臣 ===
 
[[File:Thomas Haig Joffre Lloyd George at Meaulte France 1916 IWM Q 1177.jpg|250px|thumb|[[1916年]][[9月12日]]、フランス・{{仮リンク|メオルト|fr|Méaulte}}。中央の4人のうち左から仏副陸軍大臣{{仮リンク|アルベール・トーマ|fr|Albert Thomas (homme politique)}}、[[イギリス海外派遣軍 (第一次世界大戦)|英海外派遣軍司令官]][[ダグラス・ヘイグ]]大将、仏陸軍総司令官[[ジョゼフ・ジョフル]]大将、英陸相ロイド・ジョージ。]]
 
1916年6月28日、キッチナーの後任としてロイド・ジョージが{{仮リンク|陸軍大臣 (イギリス)|label=陸軍大臣|en|Secretary of State for War}}に就任した。しかし軍の作戦指導に関する権限の多くは、前陸軍大臣キッチナーと帝国参謀総長[[ウィリアム・ロバート・ロバートソン|ウィリアム・ロバートソン]]中将の協定により{{仮リンク|帝国参謀本部|en|Imperial General Staff}}が握っており、陸軍大臣の権限は弱かった<ref name="中村(1978)129">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.129</ref>。ロイド・ジョージは陸軍大臣の権限を強化しようと努めたが、そういう画策は国王ジョージ5世や軍部の不興を買うだけだった<ref name="中村(1978)119">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.119</ref>。
 
 
西部戦線では7月から11月にかけて[[ソンムの戦い]]が発生し、イギリス軍は40万人もの死傷者を出した。この悲惨な戦いにアスキスへの不満の声は高まった<ref name="村岡(1991)261">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.261</ref>。この間の10月にロイド・ジョージは戦況打開のため東部戦線に力を入れることを考え、英仏伊連合軍で[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]に進軍して[[ルーマニア王国]]を助ける作戦を提案したが、帝国参謀総長ロバートソンによって退けられた<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.120/128</ref>。
 
 
ロイド・ジョージはあまりに犠牲者が多い戦況や軍部が議会政治家の言うことをますます聞かなくなっている状況に焦燥しており、11月になると強力な戦争指導を行える新政府が必要との認識を強めた<ref name="中村(1978)123">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.123</ref>。すでに軍事委員会という少数の閣僚による戦争指導機関が設置されていたが、ロイド・ジョージは委員長アスキスが優柔不断なためにこの委員会がうまく機能していないと考えていた。そのためアスキスを含まない3人ぐらいの極少人数の閣僚から構成される軍事委員会を作り直し、そこに独裁権を与えるべきと考えるようになった<ref name="中村(1978)128">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.128</ref><ref name="村岡(1991)261">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.261</ref>。
 
 
これをアスキス首相に認めさせるためには{{仮リンク|保守党庶民院院内総務|en|Leader of the Conservative Party (UK)#Leaders in the House of Commons 1834–1922}}(実質的党首)のボナー・ローの支持が必要だった。ボナー・ローの秘書である[[マックス・アトキン (初代ビーバーブルック男爵)|マックス・アトキン(後のビーバーブルック卿)]]を仲介役にして秘密裏に話を進めていった。11月25日にボナ・ローからアスキス首相に軍事委員会創設計画の原案が提出され<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.123/146-149</ref>、12月1日にはロイド・ジョージからもその計画の覚書がアスキスに提出された<ref name="中村(1978)154">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.154</ref>。
 
 
アスキスは少数の軍事委員会構想には賛成したが、その委員長は首相である自分がなるべきと主張した。ロイド・ジョージはそれを拒否し、12月5日に辞職を表明した<ref name="村岡(1991)261">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.261</ref><ref name="君塚(1999)187">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.187</ref>。ロイド・ジョージなくして政権運営は困難と考えられていたので、保守党閣僚はロイド・ジョージに不信感を持っている「3C」([[オースティン・チェンバレン]]、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル卿]]、[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン侯爵]])さえもアスキスに妥協を求めた<ref name="バトラー(1980)63">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.63</ref>。保守党全閣僚が辞職を申し出た結果、アスキス内閣は総辞職した<ref name="中村(1978)185">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.185</ref><ref name="君塚(1999)187">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.187</ref>。
 
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=== ロイド・ジョージ内閣 ===
 
[[File:PMLloydGeorge--nsillustratedwar03londuoft.jpg|180px|thumb|1916年のロイド・ジョージ]]
 
1916年[[12月6日]]午前9時半に保守党党首[[アンドルー・ボナー・ロー|ボナー・ロー]]が組閣の大命を受けたが、彼は組閣にはアスキスとロイド・ジョージの協力が不可欠である旨を上奏し、御前を退下して早速二人に相談した。ロイド・ジョージは「私は首相になりたいのではない。アスキスの優柔不断を一掃したかったのだ。軍事委員会の委員長にさえしてもらえれば私は十分だ。喜んで貴方の下で働く」と述べて協力を約束したが、アスキスの方は「誰か中立的な立場の者が首相になるのでない限り、協力しない」と返答し、ロイド・ジョージを支持する限りボナー・ローにも協力できない旨を表明した。またバルフォアに組閣させるという妥協案への協力も拒否した<ref name="君塚(1999)187">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.187</ref><ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.187-189</ref>。
 
 
午後3時から各党代表による御前会議が開催されたが、アスキスはこの席上でもロイド・ジョージへの協力もボナー・ローへの協力も明言せず、御前会議後には次期内閣への協力を拒否する旨を正式に表明した<ref name="君塚(1999)187">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.187</ref>。これによりアスキスの協力を組閣の前提としていたボナー・ローは大命を拝辞したので、午後7時にロイド・ジョージに組閣の大命が下った<ref>[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.195-196</ref>。
 
 
グレイ外相や[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|サイモン]]内相など自由党閣僚は全員アスキスを支持し、{{仮リンク|ロイド・ジョージ内閣|en|Lloyd George ministry}}への協力を拒否して辞職した<ref name="君塚(1999)188">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.188</ref>。しかしロイド・ジョージはボナー・ローとバルフォアの支持を取りつけることには成功したため、保守党の大半の協力は得られる形勢となった<ref name="中村(1978)196">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.196</ref>。組閣の目途が立つと自由党議員からもロイド・ジョージ支持に転じる者が増えていった(自由党議員たちはロイド・ジョージが組閣に失敗すると見ていたためアスキスに付く者が多かった)。結局、自由党議員260名のうち136名ほどがロイド・ジョージ内閣支持を表明した<ref name="中村(1978)199">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.199</ref>。以降自由党はアスキス派とロイド・ジョージ派に分裂することとなった<ref name="君塚(1999)189">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.189</ref>。労働党も分裂し、党首ヘンダーソンらはロイド・ジョージに協力したが、[[ラムゼイ・マクドナルド|マクドナルド]]らは協力を拒否した<ref name="君塚(1999)189">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.189</ref>。{{-}}
 
==== 総力戦体制の構築 ====
 
[[File:PMLloydGeorgeAtGuildHall1917--nsillustratedwar03londuoft.jpeg|180px|thumb|1917年、{{仮リンク|ギルドホール (ロンドン)|label=ギルドホール|en|Guildhall, London}}で戦時国債を要求するロイド・ジョージ。]]
 
保守党を中心に支持されるロイド・ジョージ内閣は、対独強硬姿勢を崩さなかった<ref name="河合(1998)172-173">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.172-173</ref>。「いかなる領土も要求しないが、ドイツ軍国主義を打倒する」という大義名分はロイド・ジョージをして「侵略に対する懲罰」「ドイツの民主主義の推進」に固執させ、ドイツとの和平交渉を進めることを一段と困難にした<ref name="ボンド(2006)15">[[#ボンド(2006)|ボンド(2006)]] p.15</ref>。
 
 
ロイド・ジョージは、5人から7人という少人数の閣僚から成る{{仮リンク|戦争内閣|en|War Cabinet}}を中心とした強力な戦争指導体制を目指した。首相が兼ねるのが通例である[[庶民院院内総務]]もボナー・ローに任せることで議会への出席回数を減らし、戦争指導に集中できる環境を作った。{{仮リンク|食糧省 (イギリス)|label=食糧省|en|Minister of Food (United Kingdom)}}を新設することで、これまで国家の統制外だった食料を統制下におき、配給制にすることで戦時の食料不足に対応した。また{{仮リンク|船舶省 (イギリス)|label=船舶省|en|Minister of Shipping}}を新設し、商船や造船に対する国家の介入を強めた<ref name="村岡(1991)261-262">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.261-262</ref>。
 
 
小麦の70パーセントを国外からの輸入に頼っていたイギリスは、1916年秋から開始されたドイツ海軍の潜水艦[[Uボート]]による[[無制限潜水艦作戦]]に苦しめられていた<ref name="ピーデン(1990)38" />。これに関してロイド・ジョージは1917年4月にも海軍省ヘ乗り込んで海軍軍部を叱責し、これまで海軍が渋っていた護衛船団方式を採用させた。海軍がこれまで商船を船団にして護衛するのを嫌がっていたのは、大船団は狙われやすいうえ、商船に隊列を維持する能力はないと思われていたからだった。だがそれは杞憂にすぎず、護衛船団方式に切り替えた結果、撃沈される商船数は激減した<ref name="水谷(1991)147-148">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.147-148</ref>。
 
 
他方、ロイド・ジョージはなるべく輸入に頼らなくて済むよう国内生産の増大も目指し、1917年には穀物生産法を制定して小麦やじゃがいもの最低価格を6年間保証した。さらに農業局に強制権限を与えることで農地の有効活用を図った<ref name="ピーデン(1990)38" />。
 
 
チャーチルを軍需大臣に任じて[[塹壕]]を突破できる戦車の開発を急いだが<ref name="河合(1998)174">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.174</ref>、軍部との対立は依然として続いた。とりわけ[[イギリス海外派遣軍 (第一次世界大戦)|英海外派遣軍司令官]][[ダグラス・ヘイグ (初代ヘイグ伯爵)|ダグラス・ヘイグ]]大将との確執は深まった。ヘイグは国王侍従武官だった人物で国王ジョージ5世の寵愛を盾に政府の決定に逆らい続けた。ロイド・ジョージの見るところ、ヘイグは古い騎兵至上主義であり、戦車の有用性を認めない頑迷な人物だった。他方ヘイグから見れば、ロイド・ジョージは東部戦線増強論で兵力を分散させ、西部戦線を膠着状態に追い込んだ元凶であった。ジョージ5世が常にヘイグを支持したこともあって、二人の争いは「国王陛下の軍隊VS政府」の様相を呈するようになった<ref>[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.152-153</ref>。{{-}}
 
 
==== ロシアの脱落と干渉戦争 ====
 
[[File:Wladiwostok Parade 1918.jpg|250px|thumb|1918年9月、ウラジオストクを行進する連合軍。]]
 
[[File:BritishInterventionPoster.jpg|250px|thumb|「赤の化け物」との戦いを支援することをロシア人に訴えるイギリスのポスター。]]
 
1917年3月、厭戦気分が高まるロシア帝国で[[ロシア革命]]が発生し、[[ロマノフ朝]]の帝政が倒れた。[[ゲオルギー・リヴォフ]](後[[アレクサンドル・ケレンスキー]])を首班とする臨時政府は戦争を継続したものの、[[ソビエト]]が要求する「無併合・無賠償」をスローガンにするようになり、暗に英仏の領土欲と賠償金欲を批判した。この影響でイギリス国内でも自由党や労働党内の反戦派の活動が活気づいた<ref name="河合(1998)171-172">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.171-172</ref>。
 
 
ロイド・ジョージはアメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領にならってロシアの臨時政権を承認した<ref name="守川(1983)94">[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.94</ref>。しかし臨時政府の戦争離脱志向を警戒し、5月には労働党党首ヘンダーソンをイギリス代表としてロシアへ派遣し、独断で休戦しないようロシア政府を説得しようとしたが、ヘンダーソンは逆に説得されてしまい、ロシア政府の提唱する[[ストックホルム]]での社会主義政党の会議に労働党を出席させることを約束して帰ってきた。ロイド・ジョージ自身はストックホルムの会議に前向きであったものの、強硬派の保守党から支持を失うような行動をとるわけにはいかないし、またフランス政府からも反対されたため、結局ヘンダーソンの提案を却下するしかなかった。これによりヘンダーソンは辞職し、代わりに労働党から[[ジョージ・ニコル・バーンズ]]が入閣したが、これをきっかけにイギリス労働運動は挙国一致内閣から離れていくことになる<ref name="河合(1998)172-173" />。
 
 
1917年11月にはロシアで[[ボルシェヴィキ]]の革命が発生し、[[ウラジーミル・レーニン]]の政権が誕生したが、ロイド・ジョージは反戦を掲げるボルシェヴィキ体制の承認は拒否した。12月にボルシェヴィキ政府は独断でドイツ帝国と休戦交渉に入った。ロイド・ジョージもアメリカ大統領ウィルソンもロシアの戦争脱落を防ぐための演説を盛んに行い、ウィルソンはその中で[[十四か条の平和原則]]を発表したが、ボルシェヴィキ政権はこれらを無視した。ドイツとボルシェヴィキの和平交渉は一時決裂するも、ドイツ軍の再攻撃を受けてボルシェヴィキ側が全面譲歩を受けいれたことで、1918年2月に[[ブレスト=リトフスク条約]]が成立し、ロシアは戦争から離脱した<ref name="守川(1983)95-98">[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.95-98</ref>。
 
 
ロイド・ジョージはボルシェヴィキ体制から波及してくる反戦・親独・親墺・親トルコの波を危険視し、ロシア革命に干渉する必要性を痛感した。1918年1月の閣議で同盟国[[日本]]に[[ウラジオストク]]方面の[[シベリア鉄道]]を抑えさせることを閣議決定した<ref name="村岡(1991)283">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.283</ref>。しかしアメリカは日本にウラジオストクへの派兵を許せば、極東における日本の覇権が確固たるものになるとして難色を示した<ref name="守川(1983)99">[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.99</ref>。結局イギリスは3月に[[ムルマンスク]]に少人数の自軍部隊を上陸させることになった<ref name="村岡(1991)283">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.283</ref>。
 
 
5月に反墺的な[[チェコ軍団]]の兵士たちがシベリアで反乱を起こした。これに影響されてロシア国内の反革命勢力も伸長した。好機と見たロイド・ジョージは、アメリカや日本とともにチェコ軍団援護のための干渉戦争を開始することを決定した。8月に英米軍は[[アルハンゲリスク]]に上陸し、日本軍はウラジオストクに上陸した。しかし10月頃から休戦の噂が広まったことやチェコ軍団が崩壊したことで、英米日三国とも出兵の大義名分やメリットがなくなっていった<ref name="守川(1983)100-104">[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.100-104</ref>。
 
 
11月に大戦が終結するとロイド・ジョージは干渉戦争から撤退することを希望するようになり、アメリカのウィルソン大統領と協力して関係主要国及びロシア各勢力を招いた講和会議を提唱したが、[[白軍]]の反対により流産した。イギリス国内でも陸軍大臣チャーチルや保守党がボルシェヴィキとの妥協に反対し、干渉戦争の続行を主張した。保守党に離反されては政権を維持できないロイド・ジョージは、干渉戦争続行を黙認するよりほかなかった。またロイド・ジョージはパリ講和会議への出席のため長期間ロンドンを留守にしなければならなかったのでその間チャーチルは意のままに干渉戦争をやることができた<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.182-183</ref>。しかしイギリス兵の厭戦気分は高まっており、直接の増兵は難しかったため、チャーチルにできたことは金銭支援が主だった。チャーチルの主導の下イギリス政府が白軍に対して行った金銭支援は1億ポンドにも及ぶ<ref name="河合(1998)184">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.184</ref>。
 
 
1919年秋の[[アントーン・デニーキン]]の最初の敗北を好機としてロイド・ジョージは「果てしない内戦にかくも高価な干渉を行う財政的余裕はない」として干渉戦争からの撤兵を宣言した。これに対してチャーチルは閣議で「政府にはロシア政策がない」と不満を漏らしたが、ロイド・ジョージは「政府のロシア政策は貴下が閣議に採択させた悪い政策の結果から逃れることである」と言い返したという<ref name="河合(1998)184">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.184</ref>。こうしてイギリス軍はロシアからほとんど撤兵することとなった<ref name="村岡(1991)284">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.284</ref>。
 
 
1920年春から始まった[[ポーランド・ソビエト戦争|ソビエトのポーランド侵攻]]ではポーランド支援を行ったが、ロイド・ジョージはチャーチルと違い、これを新たな干渉戦争のきっかけとすることを考えていなかった。ソビエト軍がポーランド侵攻に失敗して撤退した後の1921年3月16日に世界に先駆けてソビエトと通商条約を結ぶことでその存在を容認した<ref name="村岡(1991)284">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.284</ref>。{{-}}
 
 
==== 普通選挙と婦人選挙権の確立 ====
 
大戦中の1918年2月に選挙法改正を行った。これにより選挙権の財産資格・居住資格が廃され、[[普通選挙]]が確立した。さらに30歳以上の婦人にも選挙権が認められた。婦人に選挙権が認められたのはこの改正の時が初めてであり、有権者数は一気に3倍となった<ref name="ピーデン(1990)49">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.49</ref>。
 
 
この改正の背景には長引く戦争と総力戦体制によって、中産階級と労働者階級の格差、および熟練労働者と非熟練労働者の格差が縮まったこと、女性労働者の軍需産業への進出が進んだことがある<ref name="村岡(1991)271">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.271</ref>。当時、選挙権は戦争協力と不可分に結びついており、従軍しない女性には選挙権は認められるべきではないというのが一般的な考え方だった。自由党においてさえも、ロイド・ジョージ以外の政治家は婦人選挙権に慎重な者が多かった。今回女性に選挙権を認めたのは、今度の大戦における女性の銃後の功績が世間一般に認められた形であった<ref name="吉沢(1989)27">[[#吉沢(1989)|吉沢(1989)]] p.27</ref>。
 
 
ただしこの段階では婦人の選挙権資格年齢は30歳と男子(21歳)よりも高く設定された。これが男子と同じ21歳に引き下げられるのは[[1928年]]を待つことになる<ref name="村岡(1991)271">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.271</ref>。
 
 
==== 終戦とクーポン選挙 ====
 
1918年3月にドイツ軍はアメリカが本格参戦して来る前に決着をつけようと最後の大攻勢に出たが([[1918年春季攻勢]])、5月になるとその勢いも弱まった。初夏にドイツ軍は再攻勢に出たが、その頃にはアメリカ軍がヨーロッパに到着し始めており、攻勢は失敗に終わった。9月には[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]大将らドイツ軍部も戦意を失い、ドイツ宰相[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]がアメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]との交渉を開始した。[[ドイツ革命]]後、[[フリードリヒ・エーベルト]]独政権は連合国側の要求を受け入れて[[11月11日]]に[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]を結んだ。
 
 
ロイド・ジョージは戦勝気分が冷めぬうちに戦時中延期され続けていた総選挙を行うことを決意した<ref name="河合(1998)177">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.177</ref>。戦争終結翌月の12月に[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]が実施され、大連立政権支持の候補者にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ロー連名の推薦書(クーポン)が与えられた(このためクーポン選挙と呼ばれる)<ref name="村岡(1991)281">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.281</ref>。トーリー(保守党)とホイッグ(自由党)という二大政党の枠組みではなく、クーポンの有無で争うという異例の総選挙となった<ref name="水谷(1991)192">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.192</ref>。
 
 
ロイド・ジョージの本心はドイツへの復讐には否定的だったのだが、終戦直後の国民の復讐世論を敏感に感じとり、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の処罰を訴えた。さらにドイツから「最後の一滴まで」賠償金を絞り取ることも公約した。しかしヴィルヘルム2世処罰の訴えは彼の従兄弟にあたる国王ジョージ5世を怒らせ、また君主主義者の閣僚チャーチルを困惑させたという<ref>[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.218/253</ref>。
 
 
選挙の結果は自由党ロイド・ジョージ派が136議席、保守党が333議席を獲得して大連立派が勝利する一方、自由党アスキス派や[[ラムゼイ・マクドナルド]]ら労働党反戦派などクーポンをもらえなかった議員たちは惨敗した<ref name="河合(1998)179">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179</ref>。大連立の中でもとりわけ保守党が大勝し、彼らが今後の政局の主導権を握る事となった<ref name="河合(1998)179-180">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179-180</ref><ref name="高橋(1985)190">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.190</ref>。保守党はこの大勝後もしばらくロイド・ジョージを首相のままにして大連立政権を継続するが、これは戦争直後は挙国一致を続けるべきという空気が強かったためと言われている<ref name="ブレイク(1979)234">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.234</ref>。またボナー・ローやバルフォア、オースティン・チェンバレンら保守本流にとって自由党と労働党の連立は「社会主義に傾く可能性が高い」ため、阻止したい事態であった<ref name="水谷(1991)194">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.194</ref>。
 
 
==== パリ講和会議とヴェルサイユ条約 ====
 
[[File:Big four.jpg|250px|thumb|1919年5月27日、パリ講和会議の際の四巨頭。左からロイド・ジョージ英首相、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]伊首相、[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]仏首相、[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]米大統領。]]
 
第一次世界大戦のドイツとの講和や戦後処理をめぐる会議はフランス首都[[パリ]]で行われ、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側と自称する29カ国が出席した([[パリ講和会議]])<ref name="マクミラン(2007)上79-80">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.79-80</ref>。とはいえ小国の発言力は小さく、イギリス、[[アメリカ]]、[[フランス第三共和政|フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]の5か国の代表2人ずつ(日本以外は首脳と外相)で10人委員会を組織し、これがパリ講和会議における最高会議となった<ref name="マクミラン(2007)上76">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.76</ref>。さらに3月末には日本人と外務大臣を外した4人委員会(ロイド・ジョージ、フランス首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]、アメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]、イタリア首相[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]])が組織されて、これが講和会議を主導するようになった<ref name="マクミラン(2007)上76">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.76</ref><ref name="守川(1983)238">[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.238</ref>。
 
 
イギリスからはロイド・ジョージ、外務大臣[[アーサー・バルフォア]]、外務省政務次官[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル卿]]、大蔵省官僚[[ジョン・メイナード・ケインズ]]らが出席した。また[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[南アフリカ連邦]]といった大英帝国自治領はイギリスと別個に代表を送った。自治領ではないが、[[イギリス領インド帝国|インド]]も代表を送った(ただしその代表はイギリス本国の[[インド担当大臣]]{{仮リンク|エドウィン・サミュエル・モンタギュー|en|Edwin Samuel Montagu}}とイギリスに従順な[[マハーラージャ|マハラジャ]]だったため、イギリスの傀儡に過ぎなかった)<ref>[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.56-73</ref>。{{-}}
 
===== 国際連盟創設をめぐって =====
 
[[1919年]][[1月25日]]にアメリカ大統領ウィルソンを議長として[[国際連盟]]創設のための委員会が組織された。国際連盟は理想主義者のウィルソンのかねてからの持論であり、パリ講和会議において真っ先に話し合われる議題とされた。ロイド・ジョージは国連の有効性を疑っていたが、アメリカに満足感を与え、かつ再度の大戦を回避する国際体制構築を求めていた自国民への人気取りのために賛成した。ただし自身はほとんど関与せず、ロバート・セシル卿と[[ヤン・スマッツ]](南アフリカ連邦代表)に委員を任せた<ref>[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.116-117/124</ref>。
 
 
国連規約の議論に際して日本代表委員は[[人種的差別撤廃提案]]を提出したが、アジア・アフリカに広大な植民地を持つ大英帝国(特に[[白豪主義]]を掲げるオーストラリア首相[[ビリー・ヒューズ|ヒューズ]])に認められるものではなく、イギリス代表委員ロバート・セシル卿が強硬に反対した。南部アメリカ人であるウィルソンも人種についてはそれほど自由主義的ではなく、また人種差別の根強いアメリカ西海岸の感情を配慮する必要があったので、最終的にはウィルソンの決定でこの提案は退けられた<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.65-71</ref>。
 
 
またフランス代表委員は国連に強制力をもたせるため、国連軍を創設することを要求したが、ロイド・ジョージは恒久的な対ドイツ軍事同盟を作ろうというフランスの企みと見てウィルソンと連携してこれを阻止した<ref>[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.125-126</ref>。
 
 
===== 領土分割問題をめぐって =====
 
[[File:FochClemenceauLloydGerogeOrlandoSonnino28374v.jpg|250px|thumb|1919年。左から[[フェルディナン・フォッシュ|フォッシュ]]仏元帥、[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]仏首相、ロイド・ジョージ、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]伊首相、{{仮リンク|シドニー・ソンニーノ|label=ソンニーノ|it|Sidney Sonnino}}伊外相。]]
 
ウィルソンが旧来の植民地支配の形態を嫌ったため、ドイツ植民地は形式的には国際連盟が領有しつつ、国連が列強諸国に統治を委任するという形式で分割されることになった([[委任統治]])<ref name="マクミラン(2007)上132">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.132</ref>。「委任統治」というのは目新しい概念であったが、新世界秩序においてロイド・ジョージは基本的にアメリカと妥協する意思であり、異議を唱えなかった<ref name="波多野(1998)12">[[#波多野(1998)|波多野(1998)]] p.12</ref>。
 
 
イギリスは[[ドイツ領カメルーン]]の一部と[[ドイツ領東アフリカ]]の大部分を獲得し、フランスは[[ドイツ領トーゴ]]とドイツ領カメルーンの大部分を手に入れた。[[ベルギー]]も[[ベルギー領コンゴ]]に隣接する[[ルワンダ]]と[[ブルンジ]](ともにドイツ領東アフリカの一部だった)を獲得した。なおベルギーが新植民地を獲得することについて、ロイド・ジョージは[[3C政策]]の脅威になると見て反対していたが、阻止できなかったという経緯だった<ref name="マクミラン(2007)上141-143">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.141-143</ref>。
 
 
また[[オスマン帝国|オスマン・トルコ帝国]]の領土についても話し合われたが、パリ講和会議に先立つ1918年12月にロイド・ジョージとクレマンソーはロンドンで会談を行っており、そこで[[サイクス=ピコ協定]]を前提に中東地域を英仏で分割することを約定した。ウィルソンは中東にはさほどの関心を示さなかったのでこの問題は英仏が自由に処理できることとなった<ref name="マクミラン(2007)下145-146">[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.145-146</ref>。最終的にパリ講和会議最高会議は[[十字軍]]時代からのフランスの領土である[[フランス委任統治領シリア|シリア]]と[[フランス委任統治領レバノン|レバノン]]をフランスの委任統治領、[[イギリス委任統治領メソポタミア|イラク]]と[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ]]([[ヨルダン]]含む)をイギリスの委任統治領とすることを決定した。なおイギリスと[[フサイン=マクマホン協定]]を結んでいた[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル王子]]も講和会議に出席しており、統一アラブ王国の樹立を求めていたが、誰からも相手にされなかった(ファイサルはこの後フランス庇護下でシリア王となったが、フランス政府の不興を買ってすぐにも王位を追われ、イギリス庇護下でイラク王となる)<ref name="モリス(2010)上383-384">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.383-384</ref>。
 
 
一方イタリアは[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密協定]]を理由に[[リエカ|フィウメ]]や[[ダルマチア]]の領有権を要求したが、ウィルソンが秘密協定を「旧外交」として嫌っていたばかりか、英仏もイタリアは大戦で足を引っ張っていただけなのに図々しいと見ていたため、クレマンソーがロンドン秘密協定にフィウメは含まれていないと反対し、ロイド・ジョージもフィウテのイタリア系人口はイタリアが言うほど多くないとして反対した。その後の交渉の中で英仏はイタリアに譲歩の姿勢を示したものの、ウィルソンが強硬に反対し続け、これを不服としたオルランド首相は4月24日をもって講和会議から引き揚げた<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.15-43</ref><ref>[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.239-242/250-251</ref>。
 
 
太平洋のドイツ植民地については赤道以北を日本、赤道以南を大英帝国自治領オーストラリアとニュージーランドが獲得した<ref name="マクミラン(2007)上141">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.141</ref>。また[[中華民国]][[山東省]]のドイツ[[租借地]]をめぐっては戦時中に日本と中華民国間で結ばれた[[対華21カ条要求|秘密協定]]の有効性が焦点となったが、ロイド・ジョージが日本に好意的な態度をとる一方、ウィルソンは中国に好意的な態度をとった。しかしウィルソンもイタリアに続いて日本が離脱することは避けたがっており、人種差別撤廃案を蒸し返さないことを条件として日本支持に転じた。その結果、協定無効を主張する中国は退けられ、日本がドイツの山東省の権益を確保した<ref name="マクミラン(2007)下85-86">[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.85-86</ref><ref name="守川(1983)243-253">[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.242-253</ref>。{{-}}
 
 
===== ドイツへの処罰問題 =====
 
[[ヴァイマル共和国軍|ドイツ軍]]については戦車、空軍、重砲、潜水艦など近代兵器すべての保有を禁止し、かつ陸軍兵力10万人、海軍兵力1万5000人に限定されることになった<ref name="マクミラン(2007)上235">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.235</ref>。当初[[フェルディナン・フォッシュ|フォッシュ]]仏元帥はドイツ陸軍兵力について14万人を上限とする兵役1年の徴兵制軍隊にすべきと主張したが、ロイド・ジョージは徴兵制は軍事訓練を受けた国民を大量に作り出すので危険と反対し、クレマンソーとともに20万人を上限とする志願制軍隊とすることを主張した。フォッシュ元帥は志願制は量より質を上げるのでより危険だと反論したが、結局10万人の志願制軍隊とすることで決着した<ref>[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.224-225</ref>。
 
 
ドイツに課す賠償金額をめぐってはロイド・ジョージは「最後の一滴まで絞り取る」とした先の総選挙の公約を守る必要があった。保守党からも世論からもその強い要請があった。そのため「侵略の被害国」であるフランスやベルギーとともに強硬姿勢をとり、経済的混乱を抑えるためになるべく少ない金額で確定しようとするアメリカに強く反対した。アメリカが賠償総額を決めようとした際にもロイド・ジョージは反対した。もし少ない額で賠償額を確定したら国内で大騒動が起こる事は必至だし、巨額の賠償額を確定してもドイツ政府に払えるはずがないので、賠償総額を確定させないのが一番よいと考えたのだった。最終的に英仏の希望通り賠償総額は明記されないことになったが、これについてアメリカの専門家は「(賠償総額の確定が)延期されたことで英仏首相は賠償で得られる物がいかに少ないか、公表せずに済み安堵しているだろう。両首相はもし事実を知られたら政府が転覆することを知っている」と評した<ref>[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.241-258</ref>。
 
 
===== ヴェルサイユ条約締結 =====
 
[[File:William Orpen - The Signing of Peace in the Hall of Mirrors, Versailles.jpg|180px|thumb|[[1919年]][[6月28日]]、[[ヴェルサイユ条約]]調印式を描いた絵画。中央に座っている2人の右側がロイド・ジョージ({{仮リンク|ウィリアム・オーペン|en|William Orpen}}画、[[帝国戦争博物館]]所蔵)。]]
 
パリ講和会議で取り決められた講和条件は5月7日に召集されたドイツ政府の代表使節に通達された。クレマンソーはドイツ側が拒否した場合は仮借なき武力行使を行うことを提案し、ロイド・ジョージもウィルソンもそれを支持した。これにより連合国軍最高司令官フォッシュ元帥が42個師団にドイツ侵攻準備命令を下した。イギリスも海上封鎖を行った。しかしあまりに過酷な条件にドイツ世論やドイツ議会はもちろん、エーベルト政権内でも反発は強く(連合国のドイツ侵攻の構えはハッタリと見る者も多かった)、ドイツ側がどう出るかは不透明だった<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.239-242/249-250</ref>。
 
 
5月30日にドイツ代表は条件を緩和するよう懇願する反論を提出したが、この際にロイド・ジョージは条件緩和に応じるべきと主張した。その結果、上[[シレジア]]地方についてはドイツに帰属するか、ポーランドに帰属するか住民投票で決めると変更された。またロイド・ジョージは[[ラインラント]]占領期間の短縮も提案したが、これについてはクレマンソーが猛反発したため取り下げている。結局エーベルト政権は受諾するより他にないと判断し、最終期限の6月23日に連合国に受諾を通達。6月28日にヴェルサイユ条約が調印されるに至った<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.246-253</ref>。
 
 
この条約によって形成された国際体制をヴェルサイユ体制と呼ぶ。{{-}}
 
 
==== 中東の支配の確立 ====
 
[[File:Sykes-Picot.svg|thumb|250px|1916年の[[サイクス=ピコ協定]]の中東分割図。赤がイギリス、青がフランス。ロシアが連合国から脱落する前なのでロシアの取り分(緑)も予定されている。またこの段階ではパレスチナは国際管理下(ピンク)と予定されていたが、1918年12月のロイド・ジョージとクレマンソーのロンドンでの会談によりイギリス領とすることに決した<ref name="マクミラン(2007)下146">[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.146</ref>。]]
 
第一次世界大戦前までのイギリスのアラブ政策はオスマン・トルコ帝国の領土保全であり、トルコに対するアラブ人の独立運動に手を貸すことはなかった。しかし一次大戦でトルコがドイツ側で参戦したため、イギリスは[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン]]率いる[[ハーシム家]]と[[フサイン=マクマホン協定]]を結んで、アラブ反乱を促すようになった<ref name="モリス(2010)上368-374">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.370-374</ref>。
 
 
この密約はハーシム家を首長とするアラブ王国の樹立を認めたものだが、その領土については曖昧になっていた。ハーシム家は中東の大部分が含まれるものと解釈していたが、イギリス側はあくまでその範囲を[[ヒジャーズ王国]]限定に考えていた<ref name="守川(1983)295">[[#守川(1983)|守川(1983)]] p.295</ref>。しかもハーシム家は大戦中に何度かトルコ側に寝返る気配を見せるなどしたため、イギリスとしてはハーシム家をあまり当てにしておらず、ハーシム家との約束もそれほど真剣に考えていなかった<ref name="モリス(2010)上375-376">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.375-376</ref>。
 
 
そのためイギリスは遠慮なくこの密約と矛盾するようにも思われる協定や宣言を出した。1916年には西部戦線から対トルコ戦線に兵力を移転させる同意をフランスから得る目的でフランスと[[サイクス・ピコ協定]]を結んで、シリア、レバノン、トランスヨルダン、イラクを英仏で分割することとパレスチナを国際管理下に置くことを約定した<ref name="マクミラン(2007)下146">[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.146</ref>。さらにユダヤ人に戦費を吐き出させるため、1917年には[[バルフォア宣言]]を発してパレスチナにユダヤ民族の郷土を作ることも約束した([[三枚舌外交]])<ref name="モリス(2010)上376">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.376</ref>。
 
 
しかしロイド・ジョージにとってこれらは矛盾する物ではなかった。ロイド・ジョージが思い描いていた中東の未来図は[[小アジア]]にギリシャ世界、パレスチナにユダヤ文明を復活させ、その両者と大英帝国[[非公式帝国|半植民地]][[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]にスエズ運河と「インドの道」を確保させつつ、内陸部に大英帝国庇護下のハーシム家統治のアラブ人王国をいくつか樹立することで[[ガージャール朝|ペルシャ]]からの石油ルートも確保するというものであった<ref name="マクミラン(2007)下146">[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.146</ref>。
 
 
パリ講和会議での連合国の合意を前提に、1920年8月に[[オスマン・トルコ帝国]]と連合国の間に[[セーヴル条約]]が締結された。これによりシリアとレバノンはフランス委任統治領、イラクとパレスチナはイギリス委任統治領となった。しかし新たに認められたアラブ人国家は[[ヒジャーズ王国]]だけであり、これに失望したアラブ人はイラクで反英蜂起を開始した<ref name="モリス(2010)上384">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.384</ref>。またパレスチナについてもロイド・ジョージが大英帝国ユダヤ自治領を最終形態として思い描いていたのに対して、[[ハイム・ヴァイツマン]]らシオニストはあくまで独立したユダヤ人国家を想定していたため、食い違いが生じていた<ref name="モリス(2010)上377">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.377</ref>。
 
 
アラブ人の不満を抑えるため、1921年[[5月18日]]、植民地大臣チャーチルに{{仮リンク|カイロ会議|en|Cairo Conference (1921)}}を主催させ、イラクとヨルダンにハーシム家の王国を建国することを許した。無論どちらもイギリス庇護下という条件付きである。また1922年にはエジプトにも形式的独立を許したが、こちらも実質的にはイギリス支配下に置かれたままだった。この体制のもと、大英帝国の中東への支配力はかつてないほど強固になった。「インドの道」は完全に安全を保証され、イラクとペルシャ湾岸と[[アーバーダーン]]の石油の全てはイギリスの手中に収まったのだった<ref name="モリス(2010)上387-388">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.387-388</ref>。{{-}}
 
 
==== ワシントン会議と日英同盟の破棄 ====
 
[[ファイル:Crown Prince Hirohito and Lloyd George 1921.jpg|thumb|250px|[[1921年]][[5月15日]]、[[昭和天皇|皇太子裕仁親王]](前列左から3人目)らと]]
 
日本の[[国内総生産]]は1885年から1920年までの間に3倍に成長し、とりわけ鉱業と製造業は6倍という急成長を遂げていた。1914年までに[[日本海軍]]のあらゆる艦船が国産できるようになり、その海軍力は世界第3位か第4位に数えられるようになっていた(ドイツ海軍力の評価で順位が変わる)<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.52/57</ref>。また大きな貿易収支黒字国家として経済的にも無視できない国になっていた。この貿易黒字は大戦でヨーロッパ列強が没落したことでさらに伸び、日本の対英・対米輸出額は戦前の2倍、対中輸出額は4倍、対露輸出額は6倍になった。日本商船の数は急増し、あちこちに日本人が顔を見せるようになった<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.52/58</ref>。
 
 
このような状況の中、欧米人の間で急速に[[黄禍論]]が高まっていった。イギリスは自国の中国・インド市場に日本が食い込んでくることを恐れ、アメリカも中国・フィリピン市場を日本に奪われることを恐れた。特にアメリカは[[マニフェスト・デスティニー]]の掛け声とともに西進を押し進めている最中であり、1916年には両洋艦隊の建設を宣言し、日本との対決姿勢を強めていた。大戦末には白人連合を作って日本を潰す必要があるとの認識が白人国家間で共有されるまでに至った<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.58/60-62</ref>。
 
 
日本には資源がないため、欧米に黄禍論で団結されて貿易を切られた場合干上がることは確実だった。また日本の人口は1885年から1920年までの間に約1.5倍に急増しており、増加した人口の職場(植民地)の確保にも迫られていた。その両方を解決できるのがアジア、とりわけ中国への進出だった。中国は1911年の[[辛亥革命]]の失敗で無秩序の極致に陥っており、またアジア知識人層には西欧帝国主義に唯一抵抗できる勢力として日本に期待する者が多く、すでに日本から帝国主義的進出をだいぶ受けている中国においてさえ知識人層の間では日本留学が流行っていた。こうした状況から日本国内で徐々に[[アジア主義]]と反米の機運が高まりはじめた<ref>[[#マクミラン(2007)下|マクミラン(2007) 下巻]] p.58-63</ref>。
 
 
日米軋轢が増し、アメリカからイギリスに日英同盟を破棄せよとの圧力が強まっていく中の[[大正]]10年(1921年)5月、日本皇太子裕仁親王(後の[[昭和天皇]])が訪英した。5月13日に駐英日本大使館で開かれた[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード皇太子]]を主賓とする晩餐会にロイド・ジョージも出席し、裕仁親王と20分ほど歓談した。裕仁親王が「日英両国がよく同盟の誼を重んじて東洋平和、否、世界平和擁護の為に貢献したことの甚少なからぬとは頗る欣しく」と述べたのに対して、ロイド・ジョージは「日英両国の親善関係を末永く持続させるよう十分な努力を惜しまぬ覚悟です」と答えたという。また健康を気遣ってくれた裕仁親王に感謝したロイド・ジョージは裕仁親王と固く握手した。さらに5月15日には裕仁親王歓迎のための午餐会を主催した。午餐会後にはロイド・ジョージと裕仁親王は一緒に散歩して歓談した<ref name="波多野(1998)95-96">[[#波多野(1998)|波多野(1998)]] p.95-96</ref>。
 
 
しかし皇太子の訪英も日英同盟を維持させるには至らなかった。同年12月の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]でイギリス代表として出席した外相バルフォアはこれ以上対米関係を悪化させないため、[[日英同盟]]に代えて日英米仏で[[四カ国条約]]を締結した。これについてイギリス政府は「日英同盟破棄ではなく拡大」と弁明したが、実質的には同盟の破棄も同然であった<ref name="波多野(1998)83">[[#波多野(1998)|波多野(1998)]] p.83</ref>。
 
 
またイギリスはこれまで世界第二位の海軍国と第三位の海軍国を合わせた海軍力よりも多い海軍力を保有することを目指してきたが、大戦で疲労したイギリスにもはやそれだけの海軍力を維持することはできず、新たな海軍大国となったアメリカと日本に急追されていた。建艦競争の再発を恐れるイギリスは、ワシントン会議において[[ワシントン海軍軍縮条約]]の締結に応じた。この条約によりイギリスとアメリカと日本の海軍力比率は5:5:3と定められた。これによりイギリスは戦艦と巡洋艦26隻を含む657隻を廃船することとなり、イギリスの海軍力の絶対的優位が崩れた。また[[英領香港]]を海軍基地として使うことができなくなり、租借地[[威海衛]]からも英海軍を撤収させることになった<ref name="モリス(2010)上318-319">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.318-319</ref>。{{-}}
 
 
==== アイルランド自由国をめぐって ====
 
[[File:David Lloyd George - Punch cartoon - Project Gutenberg eText 17654.png|180px|thumb|1920年9月15日のパンチ誌の風刺画。一次大戦が終わっても様々な問題に忙殺されるロイド・ジョージ。]]
 
大戦中の1916年4月に[[ダブリン]]でアイルランド民族主義者が蜂起を起こすも鎮圧され、その指導者が即決の軍事裁判で処刑されるという事件があった([[イースター蜂起]])<ref name="村岡(1991)275">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.275</ref>。この事件を機にアイルランド民族主義が燃え上がり、1918年の総選挙でもアイルランド国民党に代わって急進的なアイルランド独立政党[[シン・フェイン党]]が躍進した<ref name="村岡(1991)286-287">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.286-287</ref><ref name="河合(1998)179">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179</ref>。
 
 
シン・フェイン党はロンドンの議会に入ることを拒否し、ダブリンに独自の国民議会を形成した。アイルランド義勇軍の武装抵抗も激化し、まもなくシン・フェイン党の政治的抵抗と合流した<ref name="村岡(1991)286-287" />。これに対してロイド・ジョージは「{{仮リンク|補助部隊 (イギリス)|label=補助部隊|en|Auxiliaries}}」や「{{仮リンク|ブラック・アンド・タンズ|en|Black and Tans}}」を編成し、[[白色テロ]]をもって厳しく弾圧した<ref name="村岡(1991)287">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.287</ref>。一方で融和政策もとり、1920年12月には一次大戦開戦で流産していたアイルランド統治法を制定した。これにより、アイルランドとイギリスの結合関係は残しつつ、アイルランド北部6州とそれ以外のアイルランドにそれぞれ自治議会を置き、また南北アイルランドの話し合いの場としてアイルランド協議会が設置されることになった。アイルランド独立を求めるカトリックやアイルランド・ナショナリスト、アイルランド独立に反対するプロテスタントや統一派、ともに一定の満足を与えようという趣旨のものであった<ref name="村岡(1991)287">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.287</ref>。
 
 
国王ジョージ5世の北アイルランド訪問で対立関係が一時的に緩和して1921年7月に休戦が成り、10月からロイド・ジョージやチャーチルらイギリス政府代表と[[アーサー・グリフィス]]や[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]らシン・フェイン党代表の交渉の場が設けられた<ref name="河合(1998)190">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.190</ref>。この交渉の結果、アルスターのうち統一派が多い6州にはイギリスに残るかアイルランドに加わるかの選択権を残しつつ、それ以外のアイルランドは大英帝国自治領[[アイルランド自由国]]として独立することで妥協に達した([[英愛条約]])<ref name="河合(1998)191">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.191</ref><ref name="村岡(1991)287">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.287</ref><ref name="坂井(1974)17">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.17</ref>{{#tag:ref|その後この条約の是非をめぐってアイルランド内で[[アイルランド内戦]]が勃発するも条約支持派が勝利している<ref name="河合(1998)191" />。|group=注釈}}。
 
 
だがこの妥協には保守党から反発が多く、保守党の政権離脱の最初の兆候が見られた。保守党議員のうち60名ほどが造反してこの法案に反対票を投じたのである<ref name="河合(1998)191">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.191</ref>。未来の保守党党首である[[スタンリー・ボールドウィン]]は、この法案は自由党ロイド・ジョージ派と保守党内法案賛成派を統合して新たな党を作ろうというロイド・ジョージの布石ではと疑いを持った<ref name="坂井(1974)17">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.17</ref>。
 
 
==== 叙爵問題 ====
 
ロイド・ジョージが首相だった6年弱の間に94件の新貴族叙爵、1500件の[[ナイト爵]]授与が行われている。これは他の政権と比べても群を抜いて多い。そればかりかロイド・ジョージは[[パブリックスクール]]出身者であるべき、地主であるべきといったこれまでの叙爵の暗黙の条件を無視して実業家に叙爵することが多かった<ref>[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.199-202</ref>。
 
 
こうした中、保守党議員の間にロイド・ジョージはイギリスの貴族制度を破壊ないし形骸化しようと目論んでいるのではという疑念が高まっていった<ref name="水谷(1991)202">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.202</ref>。ついには「買爵斡旋業者」の存在まで噂されるようになり、1922年初夏には279人もの庶民院議員が叙爵に関する調査委員会の設置を要求するに至った。これに対してロイド・ジョージは議会をうまく抑えて、議会の調査委員会ではなく、政府の任命する[[王立委員会]]によって調査するということで議会の妥協を引き出した<ref>[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.204-205</ref>。
 
 
この叙爵問題が総辞職の直接のきっかけになったとは言えないが、ロイド・ジョージの保守党陣笠議員(一般議員)に対する求心力低下が深刻化している象徴的事件であった。叙爵問題で調査員会の設置を求めた279人の議員のうち保守党議員は約半数を占めており、この面子は後にカールトン・クラブの投票で造反した議員と顔触れがほぼ一致している<ref name="水谷(1991)206">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.206</ref>。
 
 
ちなみに叙爵に関する王立委員会の調査は結論が出る前にロイド・ジョージ内閣が総辞職する羽目になったことで終了している<ref name="水谷(1991)205">[[#水谷(1991)|水谷(1991)]] p.205</ref>。
 
 
==== チャナク危機 ====
 
[[File:Atatürk in Izmir, 1922.jpg|180px|thumb|1922年の[[ムスタファ・ケマル・パシャ]]。]]
 
セーヴル条約によってオスマン・トルコ帝国の[[小アジア]]地域の一部にギリシャが進出し、イギリスも海峡沿いの基地を維持した。これに反発した[[ムスタファ・ケマル・パシャ]]はオスマン・トルコ帝国政府と別に[[アンカラ]]にトルコ共和国政府を樹立し、セーブル条約の拒否を宣言した<ref name="モリス(2010)上314-315">[[#モリス(2010)上|モリス(2010) 上巻]] p.314-315</ref>。ケマルはトルコ国民軍を率いてギリシャ占領軍に攻撃を仕掛けてこれを駆逐した([[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]])。のみならずケマル軍は1922年8月にダーダネルス海峡(戦後、中立化されていた)付近まで侵攻してきて、中立地帯の[[チャナッカレ|チャナク]]に駐屯するイギリス軍を攻撃する構えを見せた([[チャナク危機]])<ref name="河合(1998)193">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.193</ref><ref name="坂井(1974)18">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.18</ref>。
 
 
ロイド・ジョージは、{{仮リンク|チャールズ・ハリングトン|en|Charles Harington Harington}}中将率いる現地のイギリス軍に持ち場の死守命令を下した。またトルコが侵略を辞めない場合にはイギリス地中海艦隊を派遣する旨の宣言も発した。だがケマルは動じず、連合国の提案する休戦協定の誘いを断り、コンスタンティノープルを窺う地点にまで軍を移動させた<ref>[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.18-19</ref>。
 
 
これに脅威を感じたギリシャの元首相[[エレフテリオス・ヴェニゼロス|ヴェニゼロス]](当時亡命中)はロンドンへ急行してロイド・ジョージからギリシャ支援の約束を引きだした。9月28日の閣議決定によりロイド・ジョージはケマルに対して「チャナクへの侵攻を中止し、かつムダニア会談に応じるべし。さむなくばイギリス軍は貴軍の侵攻を阻止する」という最後通牒を発した<ref name="坂井(1974)19">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.19</ref>。イギリス政府の強硬な態度を恐れたケマルはついに休戦協定に応じた。この1年後には[[ローザンヌ条約]]が締結されてトルコとの国境が確定され、海峡の中立は回復された<ref name="河合(1998)193-194">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.193-194</ref>。
 
 
外交的には勝利したものの、この件はイギリス国民の批判を集めた。大戦から解放されたばかりなのに新たな戦争を招きそうな外交をするなという世論が強かったのである。この世論を背景に労働党のみならず大連立相手の保守党も主戦派として行動した首相ロイド・ジョージと植民地相チャーチルを批判するようになった<ref name="河合(1998)194">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.194</ref>。またボールドウィンら保守党内の反大連立派はロイド・ジョージとチャーチルはキリストVSイスラムの戦争を起こして解散総選挙することで自分たちに有利な議会状況を作ろうとしているのでは、という疑いを深めた<ref name="坂井(1974)19">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.19</ref>。{{see also|バジル・ザハロフ}}
 
 
==== 政権崩壊 ====
 
チャナク事件はきっかけに過ぎず、自由党と保守党の大連立はすでにガタが来ていた。保守党議員たちはロイド・ジョージのワンマン政治にうんざりしていたし、アイルランド自由国に承服しかねる思いの者も多くいた。このまま大連立を組んでいたら保守党は次の総選挙で惨敗し、大連立維持派と反対派で分裂すると考えている者もいた<ref>[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.235/239-241</ref>。
 
 
ただ保守党党首は1921年3月にボナー・ローが病で退任してから[[オースティン・チェンバレン]](ジョゼフ・チェンバレンの長男)が務めており、彼は大連立維持派だった。チェンバレンは[[1922年]]9月の閣議でのロイド・ジョージ首相の早期解散方針にも賛同を与え、保守党内でひんしゅくを買った<ref name="ブレイク(1979)240">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.240</ref>。
 
 
そしてついに1922年[[10月19日]]、保守党社交界{{仮リンク|カールトン・クラブ|en|Carlton Club}}で開催された保守党庶民院議員274名の会合の席上でボールドウィンが大連立を解消すべき旨の動議を提出したところ、185対88で可決されるに至った。立場を不明瞭にしていた前党首ボナー・ローも連立解消に賛成する演説を行い、多くの議員に影響を与えたと見られる<ref name="ブレイク(1979)241">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.241</ref><ref name="坂井(1974)24-28">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.24-28</ref>。
 
 
これを受けてチェンバレンは保守党首職を辞した。保守党に離反されては政権運営は不可能であり、ロイド・ジョージもカールトン・クラブでの決議を聞くやただちに総辞職している<ref name="ブレイク(1979)241" /><ref name="君塚(1999)191">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.191</ref>。後任の首相にはボナー・ローが就任し、保守党単独政権が発足した。この交代に際してロイド・ジョージはウェールズから来た代表者団の団長に扮して、ボナー・ローの恩恵を受ける演技をして話題になった<ref name="ブレイク(1979)241" />。
 
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=== 首相退任後 ===
 
==== 自由党の没落とアスキス派との和解 ====
 
[[File:David Lloyd George cph.3c33019.jpg|180px|thumb|1922年11月14日のロイド・ジョージ]]
 
保守党は過半数を得ていなかったのでボナー・ローは首相就任後ただちに[[1922年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た。その総選挙で保守党は345議席を獲得し、単独での政権運営が可能となった<ref name="高橋(1985)200">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.200</ref>。労働党は142議席を獲得して野党第一党となった。自由党は党分裂が響いてアスキス派54議席、ロイド・ジョージ派62議席と、両派を合わせても労働党の議席に及ばなかった<ref name="河合(1998)196">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.196</ref>。
 
 
この危機感から両派に和解の必要性が認識されるようになるも、アスキス派のロイド・ジョージへの個人的恨みは深く、またロイド・ジョージもアスキス派を「古い自由主義にすがって改革できない人々」と軽蔑していたため、両派の再統合は容易ではなかった<ref name="高橋(1985)201">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.201</ref>。
 
 
しかしまもなくボナー・ローに代わって首相・保守党党首となった[[スタンリー・ボールドウィン]]が保護関税の導入を主張したのに対してロイド・ジョージ派、アスキス派がそろって反対したことで両派の統合の空気が生まれた。1923年11月13日には保護貿易反対を共通項にした両派の共闘が成立。マクドナルド率いる労働党も保護貿易に反対したので、ボールドウィン首相は解散総選挙で民意を問うこととした<ref name="君塚(1999)194">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.194</ref>。この選挙戦にあたって自由党両派はアスキスのもとで統一して戦うことで合意した<ref name="高橋(1985)201">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.201</ref>。12月の[[1923年イギリス総選挙|総選挙]]の結果、自由党は159議席に回復したものの、労働党が191議席、保守党が258議席を獲得し、自由党の第三党状態は定着してしまった<ref name="高橋(1985)201">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.201</ref>。
 
 
この選挙の後の1924年1月、自由党は労働党に閣外協力して、史上初の労働党政権である第一次マクドナルド内閣を成立させた<ref name="君塚(1999)195">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.195</ref>。しかし労働党政権は失業対策をめぐって自由党と対立したため、すぐにも政権運営に行き詰まり、10月には[[1924年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た。この選挙で保守党は419議席を獲得する大勝をおさめたが、労働党は151議席に落ち、自由党は40議席に急落した。マクドナルド内閣は総辞職し、保守党政権の第二次ボールドウィン内閣が発足することとなった<ref name="君塚(1999)196">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.196</ref>。
 
 
1925年にアスキスはオックスフォード伯爵に叙せられて貴族院入りしたため、庶民院自由党はロイド・ジョージが取り仕切るところとなった<ref name="君塚(1999)196">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.196</ref>。さらに1926年末にはアスキスが政界引退したため、代わって自由党党首となった。しかし依然として旧アスキス派はロイド・ジョージに従わず<ref name="高橋(1985)206">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.206</ref>、1928年にアスキスが死去すると旧アスキス派の面々はロイド・ジョージの指導を嫌がって次々と自由党を離党した。これによりもはや自由党が保守党や労働党に迫る議席を得られる見込みはなくなった<ref name="君塚(1999)196">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.196</ref>。
 
 
==== ケインズ主義の確立 ====
 
1927年8月にロイド・ジョージは自由党産業研究会(Liberal Industrial Inquiry)を創設し、ここに[[ジョン・メイナード・ケインズ]]ら「[[大きな政府]]」志向の経済学者を糾合して、自由党の新たな経済政策を立案させた。第二次世界大戦後に先進資本主義国の主流となる[[ケインズ主義]]はここから生まれたものだった<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.206-207/266</ref>。
 
 
これらの研究に基づいて1928年2月には『イギリス産業の将来(Britain's Industrial Future)』(イエローブック)、1929年3月には『我々は失業を克服できる(We Can Conquer Unemployment)』(オレンジブック)を出版した。この中でロイド・ジョージは1924年体制の二大政党(保守党と労働党)は失業問題や経済不況を解決するための積極的姿勢がなく、自分たちの勢力の維持に努めているだけと批判し、政府による積極的な公共事業と有効需要を生み出す政策の必要性を訴えた<ref name="高橋(1985)207">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.207</ref>。ロイド・ジョージによれば道路と橋の建設、住宅建設、電話網整備、電力基盤整備、下水道整備、ロンドン交通網整備に公共事業の余地があり、これによって55万人の雇用を創出できるという。そしてこれらの公共事業費は増税をしなくても、雇用増加に伴う失業手当支給件数の減少、軍事費縮小、道路基金、景気上昇による歳入の増加で賄えるという<ref name="高橋(1985)207">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.207</ref>。
 
 
しかし保守党も労働党も公共事業による失業対策という新概念を激しく批判した。1929年の総選挙の際には保守党と労働党が一緒になって自由党を攻撃したほどであった<ref name="バトラー(1980)96">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.96</ref>。イデオロギー上の立ち位置としては自由党は保守党と労働党の間に位置するが、この時期、政治的積極性という意味では明らかに労働党より自由党の方が上であった<ref name="高橋(1985)208">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.208</ref>。
 
 
==== マクドナルド挙国一致内閣への協力と批判 ====
 
[[File:LloydGeorgeEn1932.jpeg|250px|thumb|1932年のロイド・ジョージ]]
 
[[1929年イギリス総選挙|1929年の総選挙]]では保守党が260議席、労働党が288議席、自由党が59議席を獲得し、労働党政権の{{仮リンク|第二次マクドナルド内閣|en|Second MacDonald ministry}}が発足した。内閣発足後間もなくニューヨーク・ウォール街の大暴落に端を発する[[世界大恐慌]]が始まった。マクドナルド首相は財政支出削減を目指したが、労働党内には失業手当支給額の削減について反発が強く、政権は危機的状態に陥った<ref name="君塚(1999)196">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.196</ref>。
 
 
党外に活路を見出さんとするマクドナルド首相は、1930年夏に保守党のボールドウィンと自由党のロイド・ジョージに対して政党間協議を申し入れた。ボールドウィンはこれを拒否したが、ロイド・ジョージは受け入れた<ref name="バトラー(1980)108">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.108</ref>。ロイド・ジョージには国家的危機に際しては挙国一致政府を形成しなければならないという信念があったのである<ref name="バトラー(1980)113">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.113</ref>。その交渉の席でロイド・ジョージはかねてからの持論である公共事業(開発公債を発行しての道路建設計画)を行うことと投票制度を第3党に有利な[[選択投票制]]か[[比例代表制]]に変更することを要求した。労働党は公共事業については拒否したが、投票制度を選択投票制にするのは構わないと返答した。自由党幹部[[ハーバート・サミュエル]]の骨折りで労働党と自由党の暗黙の協力関係は成立し、1931年3月頃から両党の代表者は定期的に会合を持つようになった<ref name="バトラー(1980)108-109">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.108-109</ref>。
 
 
1931年8月にマクドナルド首相はポンドの平価を維持すべく、失業保険手当の大幅カットを断行した。これにより労働党政権は分裂・崩壊した<ref>[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.114-115</ref>。国王ジョージ5世がマクドナルド首相と野党党首たちの関係を取り持った結果、マクドナルドを首班とする労働党大連立派(ごく少数)・保守党・自由党大連立派による{{仮リンク|マクドナルド挙国一致内閣|label=挙国一致内閣|en|First National ministry}}が形成されることになった。自由党では[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|サー・ジョン・サイモン]]ら旧アスキス派が政権参加に慎重な姿勢を示したが、ロイド・ジョージや[[ハーバート・サミュエル]]らは政権参加に前向きだった<ref name="君塚(1999)197-198">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.197-198</ref>。サミュエルはマクドナルド挙国一致内閣に入閣し、ロイド・ジョージは閣外で中立的立場をとった。しかし挙国一致内閣の政策はあまりにも保守党寄りだったため、やがてロイド・ジョージは批判的立場に転じた。特にマクドナルドが保守党の政策を掲げて解散総選挙に臨もうとすると批判を強めた<ref name="高橋(1985)208">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.208</ref>。
 
 
==== 自由党党首辞職 ====
 
1931年9月30日にロイド・ジョージは挙国一致内閣を支持する自由党議員に手紙を送り、「保守党の圧力と誘導によりマクドナルド首相がこの重大な時期に総選挙日程を早めたことはまったく馬鹿げたことだ。ポンド平価に関する政府のやり口は全くひどい。自由党はこのような政策に対する責任から手を引かねばならない。」「(このまま政権側にいても)名前だけの自由党大臣が残るだけである。」「保守党を権力の座に就けることだけを目的としたこの陰謀に私の仲間が何の関わりも持たないようにすることを希望する」と訴えた<ref name="高橋(1985)208-209">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.208-209</ref>。しかし自由党議員たちは挙国一致内閣から離れようとせず、これを不服としたロイド・ジョージは[[1931年]]10月の[[1931年イギリス総選挙|解散総選挙]]を前に自由党党首職を辞した<ref name="高橋(1985)209">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.209</ref>。
 
 
ロイド・ジョージは一族に当たる3人の議員だけを率いて自由党を飛び出し、政界で全く孤立した存在となる。一方挙国一致内閣支持にとどまった自由党も閣内協力派(サミュエル派・国民自由党)と閣外協力派(サイモン派)に分裂していく<ref name="高橋(1985)209">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.209</ref>。
 
{{-}}
 
 
==== 晩年と死去 ====
 
[[File:Visit of Field Marshal Smuts, Prime Minister of South Africa To the House of Commons, Westminster, London, 21 October 1942 TR240.jpg|180px|thumb|1942年10月21日、大英帝国自治領[[南アフリカ連邦]]首相[[ヤン・スマッツ]]元帥を迎えて庶民院で演説するロイド・ジョージ。]]
 
政界の一匹狼になったとはいえ、ロイド・ジョージの知名度は抜群であり、大衆人気は衰えなかった<ref name="高橋(1985)209">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.209</ref>。[[1935年]]1月には「平和と再建の行動のための会議(Council of Action for Peace and Reconstruction)」運動を組織して、公共事業の拡大を訴えた<ref name="高橋(1985)209">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.209</ref>。[[1933年]]から[[1936年]]にかけて全6巻で回顧録を出版している<ref name="ボンド(2006)50">[[#ボンド(2006)|ボンド(2006)]] p.50</ref>。
 
 
1933年1月にはドイツで[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を掌握したが、ロイド・ジョージは公共事業の拡大による失業対策を唱えるナチ党に好感を持っており、以降[[ナチス・ドイツ]]に対する寛容を訴えるようになった<ref name="高橋(1985)267">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.267</ref>。[[1936年]]9月にはナチ党の[[ニュルンベルク党大会]]に出席するために訪独し、党大会直前の9月4日に[[ベルヒテスガーデン]]で[[アドルフ・ヒトラー]]と会見した。かつては「カイザーを縛り首にせよ」と叫んだこともある反独派のロイド・ジョージだが、イギリスとドイツは同じ民族であることやボルシェヴィキに対抗する国際連帯の必要性を雄弁に語るヒトラーには強い感銘を受けた<ref name="トーランド(1979)上451-452">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979) 上巻]] p.451-452</ref>。帰国後、ロイド・ジョージは『[[デイリー・エクスプレス]]』に寄稿して「ヒトラーは素手でドイツを深淵から引き上げた」「彼は生まれながらの指導者であり、断固たる決意と怯むことを知らぬ勇気を持ち、老人には信頼され若者には偶像視されている」「我が国にも彼のような優れた資質を持つ指導者が欲しいものだ」と語った<ref name="トーランド(1979)上453">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979) 上巻]] p.453</ref><ref name="阿部(2001)324">[[#阿部(2001)|阿部(2001)]] p.324</ref>。
 
 
一方で対独戦争の危機が迫ってくると[[ネヴィル・チェンバレン]]の弱腰外交を批判するようになり、[[ソビエト連邦]]との同盟を主張するようになった。[[第二次世界大戦]]中の1940年5月の庶民院における演説では、チェンバレンに辞職を求めた。彼のこの演説がきっかけの一つとなり、チェンバレンは辞職し、チャーチル(彼は1924年に保守党に移っていた)が首相となった<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.210/267</ref><ref name="世界伝記大事典(1981,12)355">[[#世界伝記大事典(1981,12)|世界伝記大事典(1981) 12巻]] p.355</ref>。
 
 
[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス戦]]で英仏軍が惨敗した後の1940年5月28日、首相チャーチルから入閣要請を受けたが、断っている。チャーチルとしてはドイツに和平交渉を提案しなければならなくなった場合に備えて、親独派のロイド・ジョージを入閣させたがっていたといわれる<ref name="ルカーチ(1995)153">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.153</ref>。一方ヒトラーの方もイギリス占領後には親独派のウィンザー公([[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]])を王位に戻し、また首相の座にはロイド・ジョージを据えることを考えていたという<ref name="世界伝記大事典(1981,12)355" />。
 
 
1941年5月にはチャーチル批判を行ったが、同年から[[サリー (イングランド)|サリー州]]チャートで引退生活に入った<ref name="高橋(1985)267">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.267</ref>。
 
 
1941年1月に妻マーガレットと死別し、その2年後の1943年に{{仮リンク|フランセス・ロイド・ジョージ (ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵夫人)|label=フランセス・スティヴンソン|en|Frances Lloyd George, Countess Lloyd-George}}と再婚した<ref name="高橋(1985)267">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.267</ref><ref name="世界伝記大事典(1981,12)355" />。
 
 
[[1944年]]になるとラナスティムドゥイへ移住するが、まもなく病身となる<ref name="高橋(1985)210">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.210</ref>。1944年12月31日に[[ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵]]とグウィネズ子爵(Viscount Gwynedd)の爵位を受け、1945年2月から貴族院に移籍したが<ref name="HANSARD" /><ref name="世界伝記大事典(1981,12)355" />、同年3月26日に永眠した。82歳だった<ref name="高橋(1985)267">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.267</ref>。
 
 
{{Gallery
 
|lines=3
 
|File:DavidLloydGeorgeGrave.JPG|ロイド・ジョージの墓
 
|File:LloydGeorgeStatueParliamentSq.JPG|ロンドン・{{仮リンク|パーラメント・スクウェア|en|Parliament Square}}にあるロイド・ジョージ像
 
|File:David Lloyd George - geograph.org.uk - 558845.jpg|[[ウェールズ]]・[[カーディフ]]にあるロイド・ジョージ像
 
|File:David Lloyd George statue, Caernarfon - geograph.org.uk - 163316.jpg|ウェールズ・[[カーナーヴォン]]にあるロイド・ジョージ像
 
}}
 
{{-}}[[#toc|【↑目次へ移動する】]]
 
== 人物 ==
 
[[File:Portrait Sketch of David Lloyd George.jpg|180px|thumb|1919年に描かれたロイド・ジョージの絵画([[ジェイムズ・ガスリー (画家)|ジェイムズ・ガスリー]]画)]]
 
[[19世紀]]の地主貴族支配時代から[[20世紀]]の大衆民主主義時代への移行期の代表的な政治家だった。「初めて位階人臣を極めた庶民の子」と呼ばれた<ref name="世界伝記大事典(1981,12)353">[[#世界伝記大事典(1981,12)|世界伝記大事典(1981) 12巻]] p.353</ref>。{{仮リンク|アルフレッド・ジョージ・ガーディナー|en|Alfred George Gardiner}}は1916年に「蟻や蜂の生態を研究してきた人々のように、客観的に距離を置いて大衆の生活を研究してきた人々によって我々の政治は支配されてきた。[[ジョン・ブライト|ブライト]]、[[リチャード・コブデン|コブデン]]、[[ジョゼフ・チェンバレン|チェンバレン]]でさえ大衆ではなかった。彼らは[[中産階級]]に属し、貧乏人を偉大なる雇用者の道具として知っていた。ジョージ氏は大衆の場それ自体から出てきた。デモクラシーは彼の中にその声を見つけたし、また彼が心に留める限りデモクラシーは彼に忠実だったろう」と評している<ref name="高橋(1985)4">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.4</ref>。
 
 
ロイド・ジョージと[[ウィンストン・チャーチル]]は第一次世界大戦前の自由党政権で急進派閣僚として社会改良政策を主導した。チャーチルの方は一次大戦後に「アカの恐怖」から社会改良政策に関心を失っていったが、ロイド・ジョージの方は生涯にわたって社会改良政策に関心を持ち続けた<ref name="高橋(1985)166">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.166</ref>。ただロイド・ジョージもチャーチルと同様に[[共産主義]]は嫌っていたという<ref name="マクミラン(2007)上61">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.61</ref>。チャーチルはロイド・ジョージについて「言葉や物事の外側を見透かす独特の底深い直観力を持っていた。おぼろ気ではあるが、確かにレンガ造りの壁の向こう側を見抜き、他の人よりも2つ先の野原にいる獲物を追うようなビジョンを持っていた。」と評している<ref name="高橋(1985)8">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.8</ref>。
 
 
ロイド・ジョージは専門知識に乏しいところがあったが、専門家をうまく使ってそれを補うのが得意だった。ロイド・ジョージの政務次官だった{{仮リンク|ハドソン・ケアリー (初代デヴォンポート子爵)|label=ハドソン・ケアリー|en|Hudson Kearley, 1st Viscount Devonport}}はロイド・ジョージについて「様々な問題についての知識を全く持たなかった。しばらくたって分かったことだが、彼は事務手続き上の型にはまった雑務をとても嫌っていた。しかし彼は天才で、天才ならば、ほとんどの人が人生に成功するために必要と考えるものを大体、無しで済ませることができる。ロイド・ジョージの場合は、素早く的確に人間の性質を理解でき、更にそれが無限の勇気と結合していたところに、天賦の才能が表れている」と評している<ref name="高橋(1985)160">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.160</ref>。[[ジョン・メイナード・ケインズ]]は「ロイド・ジョージは何事も根付いていない。彼は空虚であり内容がない。彼は仲間を利用し、利用される道具であり、同時にその使い手でもある。彼はそう形容されるように[[プリズム]]であり、光線を集めて屈折させ、もし多くの方向から光線が入るなら最も美しく輝く」と評している<ref name="高橋(1985)9">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.9</ref>。
 
 
戦争を嫌っていたが、大戦中の[[1916年]]には労働者代表に対して「一端戦争となれば、成功する見込みがないとしても不屈にやり遂げなければならない」と語っている<ref name="マクミラン(2007)上62">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.62</ref>。
 
 
雄弁家として知られた。フランスのクレマンソーの演説が痛烈・嫌味、アメリカのウィルソンの演説が説教くさかったのに対して、ロイド・ジョージの演説はウィットに富んで親しげだった。演説のコツについてロイド・ジョージは「ちょっと間をおき、人々に手を伸ばし、私の方に引きつける。あたかも子供のように、幼子のように」と語っている<ref name="マクミラン(2007)上59">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.59</ref>。また、[[アドルフ・ヒトラー]]は『[[我が闘争]] 第2巻』において演説の天才と評している。
 
 
[[ゴルフ]]好きであり、生涯を通じてウォルトンヒースGCの会員だった。しかしゴルフの腕前は高くなかったらしく、スコア100を切るのに四苦八苦し、ハンディも20を切ることはなかった。しかし[[クラブ (ゴルフ用具)#ウッド|ドライバー]]・ショットをまっすぐ飛ばすことは得意であり、コーチの{{仮リンク|ジェームズ・ブライド (ゴルファー)|label=ジェームズ・ブライド|en|James Braid (golfer)}}は「ドライバーに限って申し上げますと、閣下の腕はプロ並みですね」と述べたという。ゴルフの上手い下手についてロイド・ジョージは「ハンディ30の人は、ゴルフをおろそかにする。ハンディ20の人は、家庭をおろそかにする。ハンディ10の人は、仕事をおろそかにする。ハンディ5以下の人は全てをおろそかにする」「幸いなるかな。ダッファー諸君。君は誰よりも多く歩き、誰よりも多く打つ幸運に恵まれている」という言葉を残している<ref name="夏坂(1997)121-122">[[#夏坂(1997)|夏坂(1997)]] p.121-122</ref>。{{-}}
 
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== 研究と評価 ==
 
ロイド・ジョージの研究は三期に分けることができる。最初は第一次世界大戦終結までであり、この頃には「貧乏人から首相にまで上り詰めた男」として徹底的に美化されていた。[[ハーバート・デュ・パルク]](Herbert Du Parcq)の伝記、{{仮リンク|フランク・ディルノット|en|Frank Dilnot}}の著作がその典型である<ref name="高橋(1985)13">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.13</ref>。
 
 
しかし一次大戦後に一転して偏見に彩られた批判的な著作が急増した。1930年の{{仮リンク|チャールズ・マレット|en|Charles Mallet}}の著作、1939年の[[ワトキン・デイヴィス]](Watkin Davies)の伝記、長男リチャード(父と折り合いが悪かった)の著作、マコーミック(D.McCormick)の研究などがその典型である。今日の研究ではこの時期に広められた批判的評価の多くが事実に基づかない偏見であることが明らかになっている。偏見が広まったのはアスキス派がロイド・ジョージの悪口を広めていたこと、ロイド・ジョージの金銭面や女性面での俗説が出回っていたことが原因と考えられる<ref name="高橋(1985)13">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.13</ref>。
 
 
しかし[[1960年代]]から再評価が始まった。当時の政府文書の大部分やロイド・ジョージの個人文書の一部が公開されたことで彼のことをより深く研究できるようになったためである。これらの資料を前提とした新研究により従来の悪評が偏見だったことが明らかになってきたのである。特に大きかったのはこれまでロイド・ジョージは宮廷陰謀を企んでアスキスを失脚させて取って代わったと考えられていたのが、実際にはロイド・ジョージはアスキスを首相のままにして、そのうえで能率的な戦争遂行体制を作ろうと努力していたのにむしろアスキスがそれを拒否したという事実が判明したことだった<ref name="高橋(1985)14">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.14</ref>。また貴族称号の売買など金銭面の貪欲さについても、そうやって集めたお金の多くをロイド・ジョージは自由党の選挙資金、あるいは彼の政策研究のために使用しており、彼の私生活自体は極めて質素だったことから、私利私欲でやっていたわけではないと擁護されるようになった<ref name="高橋(1985)14">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.14</ref>。
 
 
彼は多面的な政治家であり、統一した理解が難しいといわれる。たとえばボーア戦争の時は完全平和主義者のように見えるが、チャナク危機ではむしろ好戦的に見える。大蔵大臣の時は民主主義のリーダーのようだったが、首相になると独裁者のように見えることなどである。したがって一言で規定することは困難な政治家であり、[[ロバート・スカリー]](Robert J. Scally)は「[[社会帝国主義]]」、{{仮リンク|ケネス・モーガン|label=ケネス・モーガン|en|Kenneth O. Morgan}}は「農村急進派」、{{仮リンク|ジョージ・ダンガースフィールド|en|George Dangerfield}}は「卓越した[[デマゴーグ]]」、{{仮リンク|ステファン・コス|en|Stephen Koss}}は「[[プラグマティズム]]」など歴史家ごとに各人バラバラに定義している<ref>[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.14-16</ref>。
 
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== 栄典 ==
 
=== 爵位 ===
 
*[[1945年]]、初代[[ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵]]([[連合王国貴族]]爵位)<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p19916.htm#i199156 |title= David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor |accessdate= 2013-12-14 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>
 
*1945年、初代グウィネズ子爵(連合王国貴族爵位)<ref name="thepeerage.com" />
 
 
=== 勲章 ===
 
*1919年、[[メリット勲章]](OM)<ref name="thepeerage.com" />
 
*{{仮リンク|聖ジョン名誉勲章|en|Venerable Order of Saint John}} ナイト・オブ・グレース(K.G.St.J.)<ref name="thepeerage.com" />
 
*[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]([[イタリア]]勲章)<ref name="thepeerage.com" />
 
 
=== その他 ===
 
*1905年、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="thepeerage.com" />
 
[[#toc|【↑目次へ移動する】]]
 
 
== 家族 ==
 
[[File:Frances Stevenson 1916.jpg|250px|thumb|後妻の{{仮リンク|フランセス・ロイド・ジョージ (ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵夫人)|label=フランセス・スティーブンソン|en|Frances Lloyd George, Countess Lloyd-George}}。]]
 
1888年に地元の名士の娘{{仮リンク|マーガレット・ロイド・ジョージ|label=マーガレット・オウェン|en|Margaret Lloyd George}}と結婚し、彼女との間に以下の5子を儲けた。
 
*第一子(長男)リチャード(Richard)([[1889年]]-[[1968年]]):第2代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵
 
*第二子(長女)メェアー(Mair)([[1890年]]-[[1907年]])
 
*第三子(次女)オルウェン(Olwen)([[1892年]]-[[1990年]]):歴史家[[マーガレット・マクミラン]]の祖母。
 
*第四子(次男)[[グウィリム・ロイド・ジョージ (初代テンビー子爵)|グウィリム]]([[1894年]]-[[1967年]]):初代[[テンビー子爵]]。
 
*第五子(三女){{仮リンク|メガン・ロイド・ジョージ|label=メガン|en|Megan Lloyd George}}([[1902年]]-[[1966年]])
 
 
ロイド・ジョージはしばしば浮気し、マーガレットも一時は腹に据えかねて別居した<ref name="マクミラン(2007)上61-62">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.61-62</ref>。公然と愛人と同棲生活を送ったイギリス首相は[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|グラフトン公爵]]以来と言われる<ref name="ブレイク(1979)241">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.241</ref>。
 
 
後に妻と同居に戻ったものの、ロイド・ジョージの浮気癖は抜けず、1919年からは末娘の家庭教師だった{{仮リンク|フランセス・ロイド・ジョージ (ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵夫人)|label=フランセス・スティーブンソン|en|Frances Lloyd George, Countess Lloyd-George}}と愛人関係になった<ref name="マクミラン(2007)上62">[[#マクミラン(2007)上|マクミラン(2007) 上巻]] p.62</ref>。フランセスはロイド・ジョージの秘書を30年にわたって務めた。ロイド・ジョージは1941年にマーガレットと死別し、1943年に彼女と再婚している<ref name="世界伝記大事典(1981,12)355" />。{{-}}
 
[[#toc|【↑目次へ移動する】]]
 
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
+
{{reflist}}
=== 注釈 ===
 
{{reflist|group=注釈|1}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]|date=2001年(平成13年)|title=ヒトラー全記録 1889-1945 20645日の軌跡|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[岡倉登志]]|date=2003年(平成15年)|title=ボーア戦争|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634647008|ref=岡倉(2003)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[河合秀和 (政治学者)|河合秀和]]|date=1998年(平成10年)|title=チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版|series= [[中公新書]]530|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121905307|ref=河合(1998)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年(昭和42年)|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref=坂井(1967)}}
 
*{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1974年(昭和49年)|title=近代イギリス政治外交史3 スタンリ・ボールドウィンを中心として|publisher=創文社|asin=B000J9IXRE|ref=坂井(1974)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[高橋直樹 (政治学者)|高橋直樹]]|date=1985年(昭和60年)|title=政治学と歴史解釈 ロイド・ジョージの政治的リーダーシップ|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130360395|ref=高橋(1985)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・トーランド]]|translator=[[永井淳]]|date=1979年(昭和54年)|title=アドルフ・ヒトラー 上|publisher=[[集英社]]|asin=B000J8GV9W|ref=トーランド(1979)上}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}|translator=[[大野真弓]]|date=1975年(昭和50年)|title=イギリス史 3|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020370|ref=トレヴェリアン(1975)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[中村祐吉]]|date=1978年(昭和53年)|title=イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇|publisher=[[集英社]]|asin=B000J8P5LC|ref=中村(1978)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[夏坂健]]|date=1997年(平成9年)|title=騎士たちの一番ホール 不滅のゴルフ名言集|publisher=[[日本ヴォーグ&スポーツマガジン社]]|isbn=978-4529028110|ref=夏坂(1997)}}
 
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[波多野勝]]|date=1991年(平成3年)|title=裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794208217|ref=波多野(1998)}}
 
*{{Cite book|和書|editor={{仮リンク|デヴィッド・バトラー (社会学者)|label=デヴィッド・バトラー|en|David Butler (psephologist)}}編|translator=[[飯坂良明]]、[[岡沢憲芙]]、[[福岡政行]]、[[川野秀之]]|series=[[UP選書]]205|date=1980年(昭和55年)|title=イギリス連合政治への潮流|publisher=[[東京大学出版会]]|asin=B000J8AD6E|ref=バトラー(1980)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[原田栄一郎]]|date =1917年(大正6年)|title=大宰相ロイドジヨーヂ|url={{NDLDC|956054}}|publisher=[[白水社]]|ref=原田(1917)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|G.C. ピーデン|en|G. C. Peden}}|translator=[[千葉頼夫]]、[[美馬孝人]]|date=1990年(平成2年)|title=イギリス経済社会政策史 ロイドジョージからサッチャーまで|publisher=[[梓出版社]]|isbn=978-4900071643|ref=ピーデン(1990)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[早川崇]]|date=1979年(昭和54年)|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref=ブレイク(1979)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ブライアン・ボンド|en|Brian Bond}}|translator=[[川村康之]]、[[石津朋之]]|date=2006年(平成18年)|title=イギリスと第一次世界大戦 歴史論争をめぐる考察|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=978-4829503720|ref=ボンド(2006)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[マーガレット・マクミラン]]|translator=[[稲村美貴子]]|date=2007年(平成19年)|title=ピースメイカーズ〈上〉 1919年パリ講和会議の群像|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=978-4-8295-0403-1|ref=マクミラン(2007)上}}
 
*{{Cite book|和書|author=マーガレット・マクミラン|translator=稲村美貴子|date=2007年(平成19年)|title=ピースメイカーズ〈下〉 1919年パリ講和会議の群像|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=978-4-8295-0404-8|ref=マクミラン(2007)下}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[水谷三公]]|date=1991年(平成3年)|title=王室・貴族・大衆 ロイド・ジョージとハイ・ポリティックス |series= [[中公新書]]1026|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121010261|ref=水谷(1991)}}
 
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[村岡健次 (歴史学者)|村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[守川正道]]|date=1983年(昭和58年)|title=第一次大戦とパリ講和会議|publisher=[[柳原出版]]|isbn=978-4840950039|ref=守川(1983)}}
 
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャン・モリス|en|Jan Morris}}|translator=[[椋田直子]]|date=2010年(平成22年)|title=帝国の落日 上巻|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062152471|ref=モリス(2010)上}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[吉沢英成]]|date=1989年(平成元年)|title=マルコニ事件 民主主義と金銭|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480855176|ref=吉沢(1989)}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ルカーチ (歴史学者)|ジョン・ルカーチ]]|date=1995年(平成7年)|title=ヒトラー対チャーチル 80日間の激闘|publisher=[[共同通信社]]|isbn=978-4764103481|ref=ルカーチ(1995)}}
 
*{{Cite book|和書|date=1981年(昭和56年)|title=世界伝記大事典〈世界編 12〉ランーワ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7VF4O|ref=世界伝記大事典(1981,12)}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[自由主義]]
 
* [[社会保険]]
 
* [[ケインズ主義]]、[[公共事業]]、[[ナチス・ドイツの経済]]
 
* [[マーガレット・マクミラン]](曾孫:カナダの歴史家)
 
* [[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]:ロイド・ジョージが大蔵大臣として仕えた前首相
 
* [[ウィンストン・チャーチル]]:自由党議員時代にロイド・ジョージの片腕だった。
 
*一次大戦期のアメリカ大統領
 
*:[[ウッドロウ・ウィルソン]]
 
*一次大戦期のフランス首相
 
*:{{仮リンク|アレクサンドル・リボ|fr|Alexandre Ribot}}、[[アリスティード・ブリアン]]、[[ポール・パンルヴェ]]、[[ジョルジュ・クレマンソー]]
 
*一次大戦期のドイツ首相
 
*:[[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク]]、[[ゲオルク・ミヒャエリス]]、[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]、[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]、[[フリードリヒ・エーベルト]]
 
*一次大戦期のロシア首相
 
*:[[イワン・ゴレムイキン]]、[[ボリス・スチュルメル]]、[[アレクサンドル・トレポフ]]、[[ニコライ・ゴリツィン]]、[[ゲオルギー・リヴォフ]](臨時政府)、[[アレクサンドル・ケレンスキー]](臨時政府)、[[ウラジーミル・レーニン]](ボルシェヴィキ政権)
 
*一次大戦期の日本の[[内閣総理大臣]]
 
*:[[大隈重信]]、[[寺内正毅]]、[[原敬]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
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* {{hansard-contribs | mr-david-lloyd-george | David Lloyd George}}
 
* {{NPG name|name=David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George}}
 
* {{UK National Archives ID}}
 
* {{PM20|FID=pe/011570|NAME=David Lloyd George}}
 
* {{Librivox author |id=11361}}
 
* {{Internet Archive author|name= David Lloyd George}}
 
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  {{Succession box| title  = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|通商大臣 (イギリス)|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}| years  = [[1905年]] - [[1908年]]| before = [[ジェイムズ・ガスコイン=セシル (第4代ソールズベリー侯爵)|第4代ソールズベリー侯爵]]| after  = [[ウィンストン・チャーチル]]}}
 
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2018/8/9/ (木) 00:06時点における最新版

ロイド・ジョージ.jpg


英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC1863年1月17日 - 1945年3月26日)

イギリスの政治家。幼時に父を失い,叔父のもとで育てられ弁護士となった。

1890年自由党から出馬して下院議員に当選,党内急進派としてボーア戦争に反対した。 1905年 H.カンベル=バナマン内閣に商務相として入閣。

1908年H.アスキス内閣の蔵相。第1次世界大戦中の 1915年軍需相,その後陸相となり,1916年アスキス辞任のあとわずか5人の閣僚から成る「戦時内閣」を組閣し,強力な指導力でイギリスを勝利へ導いた。

1918年総選挙で大勝,翌年講和会議に出席したが,22年保守党との連立がくずれ首相を辞任。 26年アスキスの引退後党首となったが,自由党の勢力を回復できず,31年の大恐慌により指導力を失った。

1938年以後宥和政策に反対し,40年 W.チャーチルに入閣を求められたが辞退。 1945年伯爵。

主著『大戦回顧録』 War Memoirs (1933~36) ,『講和条約の真相』 The Truth about the Peace Treaties (38)

脚注