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{{基礎情報 過去の国
 
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|略名=ポーランド
 
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{{ポーランドの歴史}}
 
[[File:Europe mainland d1097.JPG|250px|thumb|<small>[[1097年]]の中央ヨーロッパ、黄色がポーランド王国</small>]]
 
'''ポーランド王国'''(ポーランドおうこく)は、[[1025年]]から[[1569年]](リトアニアとの二重王国時代を含めると[[1795年]])まで[[ポーランド]]一帯を支配していた[[王国]]。[[14世紀]]に[[リトアニア大公国]]と合同し、[[14世紀]]から[[16世紀]]にかけて北は[[エストニア]]、南は[[ウクライナ]]までをも含む大王国を形成、[[人口]]や[[領土]]において当時の[[ヨーロッパ]]最大の国家「[[ポーランド・リトアニア共和国]]」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、[[18世紀]]に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立した[[ポーランド第二共和国|ポーランド共和国(第二共和国)]]、1939年からの[[ポーランド亡命政府]]、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。
 
  
{{anchor|ポーランド公国|}}
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[[File:Europe mainland d1097.JPG|250px|thumb|left|<small>[[1097年]]の中央ヨーロッパ、黄色がポーランド王国</small>]]
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'''ポーランド王国'''(ポーランドおうこく)
  
== 歴史 ==
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[[1025年]]から[[1569年]](リトアニアとの二重王国時代を含めると[[1795年]])まで[[ポーランド]]一帯を支配していた[[王国]]
=== ピャスト朝 ===
 
{{main|{{仮リンク|ポーランド王国 (1025年–1385年)|en|Kingdom of Poland (1025–1385)}}}}
 
[[ファイル:Polen 960-992.png|thumb|left|170px|建国時代のポーランド王国<br>現代のポーランド共和国とほぼ同じ領土]]
 
[[ファイル:Map of Poland ja.png|thumb|left|130px|現代のポーランド共和国]]
 
[[ファイル:Polska 992 - 1025.png|thumb|left|170px|建国直後の時代に拡張したポーランド王国および当時ピャスト朝が支配していた各国<br>([[チェコ]]および[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]])]]
 
現在のポーランドは[[10世紀]]まで地方ごとにいくつかの西[[スラヴ人]]の公国によって分割支配されていたが、10世紀後半に[[ピャスト朝]]の公[[ミェシュコ1世]]によって統一され、[[キリスト教]]化されることによって'''ポーランド公国'''となった。この時、キリスト教化は[[神聖ローマ帝国]]を介さずローマによって直接行われた。これはポーランドが帝国秩序には組せず、あくまで帝国とは対等の完全独立国であることを宣言する意味合いがあった。
 
  
[[11世紀]]、ミェシュコの子のポーランド公[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]](「勇敢王」)は積極的に公国の勢力を拡大、[[神聖ローマ帝国]]の東部([[マイセン]]など)、[[キエフ]]地方までの[[ウクライナ]][[ボヘミア王国]]の西部、[[ポメラニア公国]]などを支配下に収め、広大な領土を実現、さらに神聖ローマ帝国の内政に積極的に干渉し圧力をかけ、時には帝国に対し積極的に戦争を仕掛け、かつ皇帝[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]を公国首都の[[ポズナン]]に呼びつけ、帝国の支配体制には組せず、あくまでポーランドと神聖ローマ帝国は対等の地位にあることを内外にアピールするなど、強大な権力を誇った。
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[[14世紀]][[リトアニア大公国]]と合同し、[[14世紀]]から[[16世紀]]にかけて北は[[エストニア]]、南は[[ウクライナ]]までをも含む大王国を形成、[[人口]][[領土]]において当時の[[ヨーロッパ]]最大の国家「[[ポーランド・リトアニア共和国]]」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、[[18世紀]]に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。
  
この時代にポーランド公国と神聖ローマ帝国の間で取り決めた西方国境線と南方国境線は、現在のポーランド共和国の国境線にきわめて似通っている。東方国境線は慣習的なものであるが、建国時代のものは[[プロイセン]]地方と[[ブク川]]を基準としてだいたい安定していた。これによってボレスワフ1世は[[ポーランド国王]]の称号を内外から認められるようになり、'''ポーランド王国'''を成立させる。
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法的には1918年に成立した[[ポーランド第二共和国|ポーランド共和国(第二共和国)]]、1939年からの[[ポーランド亡命政府]]、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。
  
ポーランド王国は、後に「[[黄金の自由|貴族共和政]]」に発展した有力者の分権的性格が建国以前から根強いために、国王の王権が弱く、ボレスワフ1世が没してから数代経つと、王族や貴族による内紛が頻発するようになった。[[12世紀]]後半に即位した[[カジミェシュ2世]]の時代には、父[[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世]]の[[ボレスワフ3世の遺言状|遺言状]]で国土が多くの子供に分割相続されてしまい、頂点にピャスト家の大公を戴く複数の公国へと分裂状態に陥る。さらにその後を継いだ[[レシェク1世]]は、大公権の弱さのために3度も廃位された上、最終的には[[1227年]]に暗殺されてしまう。
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{{anchor|ポーランド公国|}}
  
[[1241年]]には[[バトゥ]]率いる[[モンゴルのポーランド侵攻|モンゴル帝国軍の第1次ポーランド侵攻]]を受け、[[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]]でポーランド軍は彼我の兵力差などから大敗し、総大将[[ヘンリク2世]]も戦死した。その後、大公位はレシェク1世の子[[ボレスワフ5世]]が継いだが、[[1245年]]に{{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}}では[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]にモンゴルと共に侵攻し、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は[[ジョチ・ウルス]]の属国と化した。[[1259年]]のモンゴル軍による第2次ポーランド侵攻を防げず[[ハンガリー王国|ハンガリー]]に亡命する。そして、このモンゴル侵攻によってポーランド国土は荒廃した。[[1286年]]と[[1287年]]にモンゴル軍による第3次ポーランド侵攻が行なわれ、ハールィチ・ヴォルィーニの[[レーヴ・ダヌィーロヴィチ]]は、モンゴル軍を利用して、[[ハンガリー王国]]の[[ザカルパッチャ]]地方とポーランド王国の[[ルブリン]]を占領した。
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{{ウクライナの歴史}}
 
 
14世紀はじめに即位した国王[[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]により、長く分裂状態にあったポーランドはようやく統一された。しかし今度は、神聖ローマ帝国やボヘミア王国などからの外圧を受けるようになる。これに対して、ヴラディスワフ1世の後を継いで即位した[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]](大王)は、巧みな平和外交によってこの外圧を乗り切るとともに、[[ハールィチ・ヴォルィーニ戦争]]([[1340年]] - [[1392年]])による[[リトアニア]](分割された旧ハールィチ・ヴォルィーニ大公国領)への領土拡張や内政改革による国力増強などに多くの成功を収め、ポーランドの最盛期を築き上げた。
 
 
 
=== ヤギェウォ朝 ===
 
{{main|{{仮リンク|ポーランド王国 (1385年–1569年)|en|Kingdom of Poland (1385–1569)}}|ヤギェウォ朝}}
 
[[ファイル:Jagiellon countries 1490.PNG|thumb|300px|left|ヤギェウォ家の人物を君主に戴いていた国家群(ヤギェウォ王朝連合)<br>ポーランド王国を中心にリトアニア・ボヘミア・ハンガリーなど、中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパ主要部の大半を占めた]]
 
[[1370年]]に没したカジミェシュ3世には嫡子も庶子もいなかったため、カジミェシュ3世の甥(姉の子)にあたるハンガリー王[[ラヨシュ1世]]が国王ルドウィク1世として迎え入れられたが[[1382年]]に没し、その9歳の娘[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]がポーランド女王に即位して、再びハンガリーとの[[同君連合]]を解消した。
 
 
 
この頃、[[バルト海]]沿岸部に陣取る[[ドイツ騎士団]]がポーランドへの圧迫を加えており、[[シュラフタ]](ポーランド貴族)はこれに対抗するために、自国内に対立構造がなく、貴族たちがみな同意できるような立場にある指導者を求めた。そこで、当時まだ異教信仰([[:en:Romuva (religion)|Romuva]])に留まっていたリトアニア大公ヨガイラ([[リトアニア語|リトアニア名]]: {{lang|lt|Jogaila}}、ポーランド名: ヤギェウォ - {{lang|pl|Jagiełło}})がヤドヴィカの夫として選ばれ、[[1386年]]にヨガイラはキリスト教に改宗して、ポーランド王[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]として即位、ヤドヴィガとヴワディスワフ2世は夫婦による共同統治の形態をとり、リトアニア大公は従弟の[[ヴィータウタス|ヴィトルト]](ヴィタウタス)が継ぎ、ポーランドとリトアニアは緊密な同盟関係に入った([[クレヴォの合同]])。[[1572年]]まで続く[[ヤギェウォ朝]](ヤゲロー朝)の始まりである。
 
 
 
ヴワディスワフ2世は[[タンネンベルクの戦い_(1410年)|グルンヴァルトの戦い]](タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団に勝利して服属させる一方、南へは[[黒海]]方面への領土拡張に成功を収め、[[ポーランド・リトアニア合同]]国家の全盛期を築き上げた。しかし晩年に息子[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]への王位世襲と引き換えに、シュラフタたちに多くの特権を与えた。これが、後にポーランドの全盛期とその議会制民主主義([[黄金の自由]])を築き上げる原動力となったが、一方では王国の衰退を導いた内紛の一因ともなってしまう。
 
 
 
[[フス戦争]]([[1419年]] – [[1434年]])で、ポーランドは[[ボヘミア]]の[[フス派]]を支援し、「{{仮リンク|ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争 (1431年 - 1435年)|en|Polish–Teutonic War (1431–35)|label=ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争}}」で[[ドイツ騎士団]]を破った。しかし、[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]の治世になると、フス派の略奪行為を取り締まり、{{仮リンク|グロトニキの戦い|en|Battle of Grotniki|label=グロトニキ(Grotniki)の戦い}}でポーランドにおけるフス派を壊滅させた。
 
 
 
ヤギェウォ朝のもとで、ポーランド王国とリトアニア大公国は一体化が進み、リトアニアや、後にリトアニア大公国からポーランド王国に行政が移ったウクライナ各県の貴族たちも、カトリックへの改宗を進めてシュラフタたちと同化していった。[[1569年]]、ポーランド王国とリトアニア大公国は[[ルブリン合同]]を結び、共通の君主を戴く[[人的同君連合]]からひとつの国家体制である[[物的同君連合]]「[[ポーランド・リトアニア共和国]]」に発展した。
 
 
 
== 影響 ==
 
=== 貴族共和制 ===
 
{{main|ポーランド・リトアニア共和国}}
 
[[ファイル:Europa 1600 en kairyou.JPG|right|thumb|300px|[[1600年]]のヨーロッパ<BR>[[水色]]がポーランド王国を盟主とする[[ポーランド・リトアニア共和国]]([[連邦国家]])]]
 
ヤギェウォ朝は[[1572年]]に断絶、翌年からポーランド王国は[[国王自由選挙|選挙王制]]となり、[[シュラフタ]]はヤギェウォ朝時代からの特権に加えて国王の選挙権を握った。この頃、ポーランドは[[大航海時代]]を迎えて人口増加著しい[[西ヨーロッパ]]への食料輸出が盛んで空前の好景気を迎えていたが、経済の活況の中からシュラフタの階層分化が進み、彼らの中から広大な領土をもつ大貴族([[マグナート]])が現われるようになっていた。この時代以降、ポーランド王はシュラフタによる議会政治の代表者となり、シュラフタの間で行われる選挙で国会(セイム)議員と元老院(セナト)議員が選ばれた。教会とマグナートが大きな力を持った。この体制を貴族共和制などと呼び、この時代のポーランド王国を「[[共和国]]」(Republika)と称することもある。英語では[[ノーマン・デイヴィス]]のようにThe Republicとすることもあるが、[[コモンウェルス|The Commonwealth]]と呼ぶことが一般的である。
 
 
 
選挙王制に入ったとき、ポーランドの領土は西では[[神聖ローマ帝国]]の境まで、東では現[[ベラルーシ]]・[[ウクライナ]]中部・[[ロシア]]西部にまで及ぶ大国であった。「共和国」のもとでの貴族共和政はポーランドの大国としての地位の確立と維持に積極的に寄与した。しかし[[17世紀]]に入ると、周辺国との相次ぐ戦争によりポーランドは国力を消耗、更に新大陸から輸入された安価な農産物が大量に欧州市場に流入し、食料輸出に大きく頼っていたポーランドの収支バランスは黒字から赤字に転落した。こうして多くの中小貴族達が経済的に没落していくと大貴族(マグナート)に頼るようになり、マグナートによる寡頭政治の傾向が強まっていった。全貴族([[シュラフタ]])が直接選挙によって選出する国王選挙でも中小貴族の経済的苦境につけこんだマグナートたちによる買収工作が盛んとなり、[[金権政治]]が横行するようになった。17世紀は[[ウクライナ・コサック]]による共和国への叛乱と[[ユダヤ人]]大虐殺、新興の[[スウェーデン王国]]・[[ロシア・ツァーリ国]]の侵攻が続き、ポーランドの国力は急速に衰微した。この混乱はポーランド史上「'''[[大洪水時代]]'''」と呼ばれる。
 
[[ファイル:Karte polnischeteilungen4.png|thumb|400px|[[ポーランド・リトアニア共和国]]の分割]]
 
 
 
[[17世紀]]末には、[[第二次ウィーン包囲]]で[[オスマン帝国]]の大軍を蹴散らし一躍全ヨーロッパの英雄となった[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]王の下、ある程度の中興を果たすが、ヤン3世の死後息子の[[ヤクプ・ルドヴィク・ソビェスキ|ヤクプ]]が国王選挙に敗北し、対抗馬で[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]](アウグスト2世)がカトリックに改宗してポーランド王位に就き「'''ポーランド=リトアニア=ザクセン同君連合'''」が成立すると、ザクセン側の北方への野心により対スウェーデン戦争([[大北方戦争]])を開始してしまう。アウグスト2世はロシア・ツァーリ国と連合して最終的にはかろうじて勝利国側に立ったが、当初はスウェーデンに敗れて一時ポーランド王が廃位され、スウェーデンの傀儡の国王([[スタニスワフ・レシチニスキ]])を擁立されるなど失態を犯している。
 
 
 
このアウグスト2世の戦争で国家財政はさらに逼迫し、ここから大北方戦争で強大化したロシア・ツァーリ国、[[プロイセン王国]]に東西から挟まれると言う脅威が派生し、王権も弱体化する結果となる。[[18世紀]]以降は強国となった[[ロシア帝国]]、スウェーデン王国、プロイセン王国に対抗するだけの力を失っていった。その後、王国では[[ポーランド継承戦争]]([[1733年]] - [[1735年]])をはじめとする王位をめぐっての抗争や貴族による内紛が相次ぎ、国力が著しく衰退する。
 
 
 
しかしポーランドの国威復活を望む[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]](スタニスワフ2世、在位:[[1764年]] - 1795年)をはじめとした改革勢力は[[1791年]]に[[ポーランド・リトアニア共和国]]は[[ヨーロッパ]]史上初の[[民主主義]]成文[[憲法]](一般に'''[[5月3日憲法]]'''と呼ばれる)を制定、この偉大なる民主憲法は即時発布された。この憲法によりポーランド王国と[[リトアニア大公国]]は連邦国家として完全に統一されることになった。
 
 
 
この憲法発布を見て自分たちの[[絶対王政]]に対する脅威と感じたロシア、プロイセン、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の三大国は、貴族([[シュラフタ]])、僧侶、学術エリート以外の一般庶民にも広く[[参政権]]を拡大していくことに反対していた反[[民主主義]]グループのポーランド大貴族([[マグナート]])に取り入ることで[[1772年]]、[[1793年]]、そして[[1795年]]の3度にわたっての[[ポーランド分割]]を敢行した。貴族のうち外国勢力と結託した者の領地はそれぞれの個人資産として保全されたが、最後の分割でポーランドの国家として領土そのものは完全に地上から消し去られ、スタニスワフ2世は退位した。ここにポーランド王国は消滅した。
 
  
[[19世紀]]初頭、[[ナポレオン・ボナパルト]]の登場により[[ワルシャワ公国]]が成立したが、[[ナポレオン戦争]]敗退によって王国復興の望みは完全に絶たれた。その後に待っていたのは、[[ウィーン体制]]によるロシア帝国の圧政であった([[ポーランド立憲王国]])。ポーランドが独立を回復するのは[[1918年]]のことであった。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ポーランドの歴史]]
 
* [[ポーランド君主一覧]]
 
* [[国王自由選挙]]
 
* [[ヘンリク条項]]
 
* [[保守王党派クラブ]] - 現代においてポーランドの王政復古を目指す超党派組織。
 
 
 
{{ウクライナの歴史}}
 
  
 
{{デフォルトソート:ほおらんとおうこく}}
 
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[[Category:963年に設立された国家・領域]]
 
[[Category:963年に設立された国家・領域]]
 
[[Category:1796年に廃止された国家・領域]]
 
[[Category:1796年に廃止された国家・領域]]
 
[[no:Kongedømmet Polen (1025-1385)]]
 

2018/8/17/ (金) 22:49時点における最新版



1097年の中央ヨーロッパ、黄色がポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)

1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国

14世紀リトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。

法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。




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