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[[ファイル:Kladderadatsch 1875 - Zwischen Berlin und Rom.png|thumb|300px|対立する[[ドイツ国首相|帝国宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]と[[教皇]][[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]を描いた風刺画([[1875年]])]]
 
'''文化闘争'''(ぶんかとうそう、{{lang-de|Kulturkampf}})は、[[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ]]によって生み出された言葉で、[[1871年]]から[[1878年]]にかけて[[ドイツ帝国]][[ドイツ国首相|宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク]]によって行われた、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]に関する政策を指す。
 
  
==概要==
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'''文化闘争'''(ぶんかとうそう、{{lang-de|Kulturkampf}})
[[19世紀]]の半ばまで、[[カトリック教会]]はまた政治勢力でもあった。[[イタリア半島]]の[[ローマ]]を中心に残された[[教皇領]]は[[フランス]]の援助を受けていたが、[[プロイセン王国]]を盟主とするドイツ諸邦がフランスを破った[[普仏戦争]]により消滅し、現代の[[イタリア]]地域が[[イタリア王国]]によってほぼ統一された。しかし[[プロテスタント]]が支配的な[[プロイセン王国]]においても、主に[[オーストリア]]など南ドイツで優勢なカトリック教会は、人々の生活のあらゆる面において強い影響力を保持していた。新しく成立したドイツ帝国では、この世俗主義的な国家の力を支持することをビスマルクは念頭に置き、カトリック教会に対する政治的制御によって教会の政治的・社会的影響力を低下させようとした。
 
  
[[1871年]]の「説教壇法(カンツェルパラグラフ''Kanzelparagraf'')」は、[[1875年]]にビスマルクが導入した数々の対カトリック制裁措置につながった。[[病理学]]者であり当時リベラル政党[[進歩党]]のドイツ帝国議会議員であった[[ルドルフ・ルートウィヒ・カール・ウィルヒョー|ウィルヒョー]]は、カトリック教会の見地からビスマルクの政策を描写するため、[[1873年]][[1月17日]]のプロイセン王国議会において「文化闘争(Kulturkampf)」という言葉を初めて使った。この思想対立は徐々にビスマルクの政治的敗北を招くことになっていくが、それとともにカトリック教会との闘争状態の緩和、[[ローマ教皇]][[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]の死去後に即位した新教皇[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]との和解、説教壇法([[1853年]]まで続けられた)と届出結婚制を除いた社会的拘束の解除が行われていった。
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ドイツ史上の概念。 1870年代の[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]による[[カトリック教会]]に対する政治闘争。
  
歴史家の間では一般的に、文化闘争は教皇ピウス9世のカトリック教会を相手として、差別的な社会的拘束を掛けることであったとされる。その他には、やはりカトリックがマジョリティの位置を占める反[[ポーランド]]的要素もその政策に見ることができる。
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ビスマルクは国家統制の必要から反プロシア的なカトリック教会に対する攻撃を行なった。具体的には,教会の学校に対する監督権の排除と国家によるそれの管掌,1871年の教壇条例による牧師の反政府宣伝の禁止,73年の[[五月法]]による牧師の任免権の国家による管掌,さらに出生,死亡,結婚など戸籍事務の国家への移譲,不従順な牧師の追放などである。この政策に対するカトリック側による反撃も強く,それは[[中央党 (ドイツ)|中央党]] (カトリック政党) の議席増加となって現れた。ビスマルクは,自己の予想に反して,この文化闘争が大きくなったこと,その他の事情を考慮して,78年の新教皇レオ 13世の即位を契機に,これに終止符を打った。しかし,この闘争によってドイツのカトリック勢力は大きな打撃をこうむった。
 
 
== 経緯 ==
 
ドイツ帝国は[[1866年]]成立の[[北ドイツ連邦]]を引き継いだものであるため、南ドイツの国々(特にカトリックの[[バイエルン州|バイエルン]])の帝国への加盟は[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の目にはドイツ帝国の安定に対する潜在的脅威と映った。[[1870年]][[第1ヴァティカン公会議|第1回バチカン公会議]]で[[教皇不可謬説|教皇不可謬性]]が宣言されたことを契機として緊張が高まった。ドイツ東部(主に[[ポーランド人]])、[[ラインラント]]、[[アルザス=ロレーヌ]]でも多くの[[カトリック教会|カトリック]]教徒が存在した。ビスマルクは[[オーストリア帝国]]の介入を慎重に避けながらドイツ帝国を組織していった。オーストリア帝国は上記のカトリック諸地域よりさらに強力なカトリック国家であったからである。[[カトリック教会]]の影響を抑えるために採られた手段の中には、[[1871年]]に[[刑法典 (ドイツ)|ドイツ刑法]]に付加された第130条aが挙げられる。これは聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課すというものだった。この条項は「説教壇法(カンツェルパラグラフ''Kanzelparagraf'')」と呼ばれた。
 
 
 
[[1872年]][[3月]]には宗教学校は当局から査察を受けることになった。[[6月]]には政府系の学校から宗教の教師が追放された。加えて、[[アダルベルト・ファルク]]の導入した「[[五月法]]」によって、国家は聖職者教育を細かく管理するようになり、聖職者の絡んだ事件を官吏が扱う教区裁判所を設置し、全ての聖職者が記載された届書の提出を求めた。[[1872年]]には[[イエズス会]]の活動が禁止された。この禁止措置は[[1917年]]まで続いた。[[1872年]][[12月]]には[[バチカン]]と断交した。[[1874年]]になると、結婚はカトリック教会の手から離れて、教会の儀式でなく世俗的な儀式によって行われても有効となった。ベルリン動物園のライオンが毒殺されたことさえカトリック教会の陰謀だと非難された。[[1874年]][[7月13日]]、バド・キッシンゲンの街でエドゥアルト・クルマンがビスマルクをピストルで暗殺しようとしたが、ビスマルクは手を負傷しただけだった。クルマンはビスマルクを暗殺しようとした理由として反教会的な法律を挙げた。
 
 
 
[[カトリック教会]]の影響力は[[カトリック中央党]]が代表したが、これを制限しようとしたビスマルクの試みは不成功に終わった。[[1874年]]のドイツ帝国議会選挙では、カトリック勢力の議席は2倍に増えることとなった。[[ドイツ社会民主党|社会民主党]]に対抗する必要からビスマルクは反教会的態度をやわらげるようになった。特に[[1878年]]の[[教皇]][[レオ13世]]即位の後その傾向が顕著となった。ビスマルクはいまや多数派となったカトリック系の議員に対して自らの政策の正当性を訴えるために、ドイツ国内における[[ポーランド人]](圧倒的にカトリック教徒が多かった)の存在を引き合いに出すようになった。
 
 
 
「文化闘争」は当初は収穫があったにせよ、大体においてビスマルク政権の成功とはいえなかった。文化闘争の結果として後に残ったものはドイツ帝国の構成国家や主流から取り残された人々の疎外の助長であった。また、教皇至上権論的なカトリック教徒と[[ルーテル教会]]信徒の間の断絶を拡大させた。
 
 
 
== ポーゼン/ポズナン公国における文化闘争 ==
 
文化闘争は特に[[プロイセン]]のうちの[[ポーランド人]]居住地域に大きな衝撃をもたらした。この時期ポーランドは国家として消滅しており、[[オーストリア帝国]]、[[プロイセン王国]](プロイセン王国は後にドイツ帝国の一部となった)、[[ロシア帝国]]の3つによって[[ポーランド分割|分割]]されていた。かつて[[ポーランド・リトアニア共和国]]だった領域における広範な[[ドイツ化]]運動は、カトリック教会や(カトリックが主流の)南ドイツの国々に対する闘争と同時に始まった。このためヨーロッパ修史の分野では、文化闘争の[[反カトリック]]的要素は通常[[ドイツ帝国]]内における(言語や文化を含む)ドイツ化運動と不可分と捉えられる。
 
 
 
「[[五月法]]」が成立すると、[[プロイセン王国]]の当局は[[ポーランド語]]を教える学校の大半の閉鎖を開始した。代わりに[[ドイツ語]]を教える学校設置が進められた。[[1872年]][[11月]]にファルクは布告を出し、翌年の春までに学校における全ての宗教教育はドイツ語で行われるようにした。カトリック教徒のポーランド人と聖職者から起こった抵抗運動は翌年までに抑えられた。このとき[[ポズナン]]と[[グニェズノ]]のカトリック神学校が閉鎖された。国家は以前は教会が後援していた学校における教育監督権を取り上げた。カトリック教会の財産は没収され、各修道会は解散させられた。カトリック教会の自由を保証していたプロイセン王国憲法の条項は削除された。他の地域と比較して[[ポズナン|ポーゼン]]地方(現[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ地方]])における文化闘争ははるかに強い[[民族主義]]的性格を帯びていた。
 
 
 
その後まもなく、[[プロイセン王国]]当局はさらなる抑圧政策を行った。185人の[[司祭]]が拘留され、数百人が国外亡命を余儀なくされた。ポーランド[[首座大司教]][[ミェチスワフ・レドゥホフスキ]]も拘留された。残りのカトリック司祭たちの大多数は当局に隠れて礼拝を行わなければならなかった。拘留された聖職者のうちの殆どは[[1870年代]]の終わりごろまでに釈放されたが、そのうちの多数は国外亡命をさせられた。第三者の多くはこういった反カトリック的・反ポーランド的政策はかえってポーランドの独立運動を助長するものだと考えた。文化闘争を追求するビスマルクの動機には、ポーランド人に対する個人的反感があったかもしれない。[[ドイツ帝国]]の他の地域とは対照的に、[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]地方(当時は[[ポズナニ|ポーゼン]]地方と呼ばれていた)における文化闘争は[[1880年代]]になっても終わることがなかった。ビスマルクは社会主義者に対抗するためにカトリック教会との連携に非公式な署名をしたが、ドイツ帝国内におけるポーランド人居住地域ではドイツ化政策は続けられた。
 
 
 
[[1886年]]になると[[エドゥアルト・フォン・ハルトマン]]の作った標語「ドイツの土地のスラヴ人根絶」に沿って、[[プロイセン王国]]領内の[[ポーランド]]における政府当局は新しいドイツ化政策を準備した。この政策の立案者であった[[ハインリヒ・ティーデマン]]によると、以前に行われていたポーゼン地方への[[ドイツ人]]移住の試みが失敗した理由は、それらのドイツ人が「移住に対する正当性の確信が持てず、移住先で自らを異邦人と考えた」からであるとされた。ティーデマンによる解決法は、行政手段によって土地の取得を促進することと同時に、移住するドイツ人に対して移住先の社会生活や土地からポーランド人を追い出すことは正しいことなのだと納得させることであった。国家の管理下にあった「定住委員会([[:en:Ansiedlungskommission|Ansiedlungskommission]])」はポーランド人から土地や財産を強制的に買い上げ、ドイツ人に安く払い下げた。この政策によって22,000家族がポーランドに移住したが、住民全体におけるポーランド人の占める割合は変化しなかった。「ドイツ東部委員会」(Deutscher Ostmarkenverein)も同様な活動をしたがほとんど成功しなかった。それに対して、文化闘争で行われたドイツ人の諸活動はポーランド人の民族意識を呼び起こし、ドイツ人がポーランドの文化や経済に対抗するために創設した各組織と酷似した対抗的[[民族主義]]組織がポーランド人によって創設されることになった。[[1904年]]までポーランド人農家が新しく家を建てることを禁止した法律が施行されていたが、ポーランド人の民族意識は非常に強かったため国内で不穏な状態が続くことになった。[[フジェシニァ]]の学校児童による抗議行動や[[ミハウ・ドゥジマワ]]による闘争は象徴的な出来事である。ドゥジマワは家を建てる代わりにサーカス団の使うような荷馬車に住むことで法律の規制をうまく回避して自らの抗議行動が衆目を集めるように図った([[ドゥジマワのバン]])。
 
 
 
大体においてポーゼン地方におけるドイツ化政策は失敗した。ポーランド人に反することを狙った行政手段はその多くが[[1918年]]まで採られていたが、[[1912年]]から[[1914年]]までの間ではポーランド人所有の土地はたった4つしか収用されなかった。一方この時期にはポーランド人の社会組織はドイツ人の商業組織にうまく対抗し、ドイツ人から土地を買い上げるまでになった。この地域におけるポーランド人とドイツ人との間の長い抗争は、すべてのポーランドでの民族意識を発展させた。これはポーランドのほかの地域における自己意識とは異なっており、[[社会主義]]的でなく主に[[民族主義]]的な概念と関連していた。この民族意識は[[20世紀]]になってポーランドの他の地域にも広がっていった。
 
 
 
==他の文化闘争==
 
'''文化闘争'''(''Kulturkampf'')という語は、他の時代の他の場所におけるドイツ帝国の例に似た文化的抗争を指す場合にも使われている。
 
 
 
[[アメリカ合衆国]]では、「[[文化戦争]]」という言葉が特に[[パット・ブキャナン|パトリック・ブキャナン]]によって使われている。これは宗教的な保守主義者([[:en:social conservatives|social conservatives]])と世俗的な自由主義者([[:en:social liberals|social liberals]])との間で、[[1960年代]]に始まり現在まで続いている文化抗争を描写するために作られた。ブキャナンの文脈では、伝統的道徳と前衛的自由主義との間の戦争を表す言葉として使われているが、これは明らかに昔のドイツの例を喚起させるものである。この「文化戦争」の主題はブキャナンが[[1992年]]に[[共和党 (アメリカ)|共和党]]全国大会で行った激しい基調演説の基本思想となった。政治評論家たちはこれを、共和党内の社会的穏健派の多くを疎外したと見、これによって[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の対立候補[[ビル・クリントン]]が勝利することになったと考えている。「文化戦争」という言葉は[[2004年]]までアメリカの自由主義者と保守主義者の両方に広く使われていた。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
; ドイツ帝国
 
* [[オットー・フォン・ビスマルク]]
 
* [[ドイツ帝国]]
 
* [[オストフルフト]]
 
; カトリック主義
 
* [[教皇不可謬説]]
 
* [[政教分離原則]]
 
; ポーランド
 
* [[ドゥジマワのバン]]
 
; アメリカ合衆国
 
* [[保守主義]]
 
* [[自由主義]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.newadvent.org/cathen/08703b.htm カトリック・オンライン百科事典「文化闘争」]
 
*[http://members.aol.com/megxyz/heather.html ビスマルクの失敗: 文化闘争]
 
*[http://www.encyclopedia.com/html/K/Kulturka.asp 文化闘争]コロンビア百科事典
 
*[http://www.historychannel.com/thcsearch/thc_resourcedetail.do?encyc_id=214117 百科事典: 文化闘争][[:en:Funk and Wagnalls|Funk and Wagnalls]]の百科事典
 
*[http://www.historyhome.co.uk/europe/bisdom.htm ビスマルクの国内政策 1871 -1890]
 
*[https://web.archive.org/web/20051108200950/http://www.wlajournal.com/12_1/Boxwell.pdf 文化闘争の今昔]
 
*[http://www.assumption.edu/dept/history/HI14Net/Bismarckessay.html ビスマルクは1871年以降いかにしてドイツ帝国の国内における支援を強化することに成功したか?]
 
*[http://h-net.org/~german/gtext/kaiserreich/windhorst.html 1873年のプロイセン王国議会におけるルートヴィヒ・ヴィントトーストの演説]
 
*[http://www.zum.de/psm/imperialismus/bismarck3e.php 1873年のプロイセン王国貴族院におけるビスマルクの演説]
 
  
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[[Category:ドイツ帝国の政治]]
 
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[[Category:宗教的な差別]]
 
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[[Category:オットー・フォン・ビスマルク]]
 
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[[Category:ポーランドの歴史 (1795–1918)]]
 
[[Category:アメリカ合衆国の政治史 (1945年-1989年)]]
 
[[Category:アメリカ合衆国の政治史 (1990年-)]]
 
 
[[Category:ドイツ語の語句]]
 
[[Category:ドイツ語の語句]]

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文化闘争(ぶんかとうそう、ドイツ語: Kulturkampf

ドイツ史上の概念。 1870年代のビスマルクによるカトリック教会に対する政治闘争。

ビスマルクは国家統制の必要から反プロシア的なカトリック教会に対する攻撃を行なった。具体的には,教会の学校に対する監督権の排除と国家によるそれの管掌,1871年の教壇条例による牧師の反政府宣伝の禁止,73年の五月法による牧師の任免権の国家による管掌,さらに出生,死亡,結婚など戸籍事務の国家への移譲,不従順な牧師の追放などである。この政策に対するカトリック側による反撃も強く,それは中央党 (カトリック政党) の議席増加となって現れた。ビスマルクは,自己の予想に反して,この文化闘争が大きくなったこと,その他の事情を考慮して,78年の新教皇レオ 13世の即位を契機に,これに終止符を打った。しかし,この闘争によってドイツのカトリック勢力は大きな打撃をこうむった。



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