ja>翼のない堕天使 |
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− | {{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=いたりあ1521__世界史}}
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− | {{Battlebox
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− | |battle_name=イタリア戦争
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− | |campaign=イタリア戦争
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− | |conflict=イタリア戦争
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− | |image=[[ファイル:Battle of Pavia, oil on panel.jpg|350px]]
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− | |caption=[[パヴィアの戦い]]
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− | |date=[[1494年]] - [[1559年]]
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− | |place=[[イタリア]]全域
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− | |result='''最終的な結果'''<br />
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− | *神聖ローマ帝国([[ハプスブルク帝国]][[オーストリア公国|オーストリア]])の勢力拡大
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− | *イタリア諸侯のハプスブルク家による統制
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− | |combatant1=[[ファイル:Flag of the Duchy of Milan (1450).svg|22px]] [[ミラノ公国]]<br />{{MRV}}<br />[[ファイル:Flag of Florence.svg|22px]] [[フィレンツェ共和国]]<br />[[ファイル:Emblem of the Papacy SE.svg|18px]] [[教皇領]]<br />[[ファイル:Coat of arms of the House of Este (1471).svg|16px]] {{仮リンク|フェラーラ公国|en|Duchy of Ferrara|preserve=1}}<br />[[ファイル:Bandera de Nápoles - Trastámara.svg|22px]] [[ナポリ王国]]<br />[[ファイル:Armoiries Espagne Catholique.svg|20px]] [[スペイン|カスティーリャ・アラゴン]]<br />{{FRA987}}<br />{{HRR}}<br />{{ENG927}}<br />{{SCO843}}<br />{{OTT}}<br />[[ファイル:Early Swiss cross.svg|20px]] {{仮リンク|スイス原初同盟|en|Old Swiss Confederacy}}
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− | }}
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− | [[ファイル:Italia. Cambiamenti territoriali (1495-1535).png|thumb|400px|イタリア戦争におけるイタリアの領土変更]]
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− | '''イタリア戦争'''(イタリアせんそう、{{lang-it|Guerre d'Italia}}、{{lang-fr|Guerres d'Italie}})、または'''イタリア大戦争'''(イタリアだいせんそう、{{lang-it|Grandi Guerre d'Italia}})、'''ハプスブルク・ヴァロワ戦争'''({{lang-en-short|Habsburg–Valois Wars}})、'''ルネサンス戦争'''({{lang-en-short|Renaissance Wars}})は、[[16世紀]]に主に[[ハプスブルク家]]([[神聖ローマ帝国]]・[[スペイン]])と[[ヴァロワ朝|ヴァロワ家]]([[フランス王国|フランス]])が[[イタリア]]を巡って繰り広げた戦争である<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/イタリア戦争-31187 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-12 }}</ref>。[[教皇領]]、{{仮リンク|イタリアの都市国家|en|Italian city-states}}、[[ヴェネツィア共和国]]、[[西ヨーロッパ]]のほとんどの国([[イングランド王国|イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]、前出のフランス、スペイン、神聖ローマ帝国)も参戦した。戦争の期間は、本項では[[1494年]]から[[1559年]]としてはいるが、戦争の期間や区分けは諸説あり、必ずしも一定しているわけではない。
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− | [[ミラノ公国]]と[[ナポリ王国]]の継承争いから始めたこの戦争は、やがて諸国を巻き込み、権力と領土を争うための戦争となり、数々の同盟、対抗同盟、裏切りが行われた。
| + | '''イタリア戦争'''(イタリアせんそう、{{lang-it|Guerre d'Italia}}、{{lang-fr|Guerres d'Italie}})、または'''イタリア大戦争'''(イタリアだいせんそう、{{lang-it|Grandi Guerre d'Italia}})、'''ハプスブルク・ヴァロワ戦争'''({{lang-en-short|Habsburg–Valois Wars}})、'''ルネサンス戦争'''({{lang-en-short|Renaissance Wars}}) |
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− | == 前史 ==
| + | 1494~1559年おもに 16世紀前半,イタリア支配をめぐるフランスの[[バロア家]]対ドイツ,スペインのハプスブルク家の対立を軸とした戦争。第1期 (1494~1516) はフランス王[[シャルル8世]]がナポリの王位継承を主張してイタリアに遠征したのが契機。諸国の反対にあい失敗したが,1499年次のフランス王ルイ 12世はミラノ公領を制圧。 1513年6月,フランスは神聖同盟諸国とノバラに戦って敗れたが,15年9月,即位したばかりのフランソア1世はマリニャーノの戦いに大勝し報復した。第2期 (21~59) の戦争は,皇帝選挙の勝者[[カルル5世]]と敗者[[フランソア1世]]の間の北イタリア支配権をめぐる戦いをもって再開された。前後4回にわたる戦闘では,まず,25年フランソア1世はパビアの戦いに大敗し捕えられ,29年にはカンブレー条約で皇帝側の勝利に帰した。しかし,36年以来フランソア1世は東からドイツを脅かすトルコと同盟し,イングランドと結んだ皇帝勢力に再三再四戦いを挑んだ。結局,勝敗を決するにいたらず,44年クレピーの和約を結んだ。戦争はさらに,フランソア1世,カルル5世死後もその後継者の[[アンリ2世]]とスペイン王[[フェリペ2世]]に引継がれた。フランス王軍はイタリアへ,逆にフェリペ2世軍は北フランスに侵入したが,59年4月[[カトー=カンブレジの和約]]をもって長期にわたる戦争は終結した。この間,27年のドイツ=スペイン傭兵隊による「[[ローマの略奪]]」をはじめ諸国軍のイタリア侵攻はルネサンス文化を荒廃させた。 |
− | [[ヴェネツィア共和国]]と[[ミラノ公国]]の間の{{仮リンク|ロンバルディア戦争|en|Wars in Lombardy}}が1454年に終結した後、[[フィレンツェ共和国]]の[[コジモ・デ・メディチ]]と[[ロレンツォ・デ・メディチ]]の時代は1482年から1484年までの{{仮リンク|フェラーラ戦争|en|War of Ferrara}}を除き、平和な時期が続いた。 | + | |
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− | フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は[[第一次イタリア戦争]]に先立って、1493年に神聖ローマ帝国と{{仮リンク|サンリス条約|en|Treaty of Senlis}}を、[[アラゴン連合王国]]と{{仮リンク|バルセロナ条約|en|Treaty of Barcelona}}を、イングランド王国と{{仮リンク|エタプルの和約|en|Peace of Étaples}}をそれぞれ締結し、イタリア以外のヨーロッパ諸国との関係を改善した<ref>Lessafer, ''Peace Treaties and International Law in European History: From the Late Middle Ages to World War One'', 23.</ref><ref>Morris, ''Europe and England in the Sixteenth Century'', 150.</ref>。
| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
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− | [[1435年]]以降、[[ナポリ王国]]を支配していたフランス系のアンジュー家([[アンジュー=シチリア家]]、後に[[ヴァロワ=アンジュー家]])と[[アラゴン王国|アラゴン王家]]([[トラスタマラ家]])が争い、[[1443年]]、ナポリはアラゴン王家の支配下に入った。[[15世紀]]末以降、フランスがナポリあるいはミラノ継承を主張し、イタリアに侵攻した。一方のハプスブルク家は神聖ローマ皇帝として[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の擁護者を自認していた。
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− | == 戦闘の経過 ==
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− | === イタリア戦争(1494年 - 1498年) ===
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− | {{Main|第一次イタリア戦争}}
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− | 1494年、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が「ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征。この過程で[[メディチ家]]が[[フィレンツェ]]から追放された。翌年[[ナポリ]]を占領するが、[[教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]、神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]を結び対抗したため、撤退する。
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− | === イタリア戦争(1499年 - 1504年)===
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− | {{Main|第二次イタリア戦争|グラナダ条約|トレント条約|ブロワ条約 (1504年)}}
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− | 1499年、フランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]が「父[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|オルレアン公]]からミラノを継承した」と主張し、ミラノ出身の[[ジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ]]を最高司令官とするフランス軍が侵攻(オルレアン公は[[ヴィスコンティ家]]の血を引いていた)。[[1500年]]に{{仮リンク|ノヴァーラの裏切り|de|Verrat von Novara|en|Treason of Novara}}で、[[スフォルツァ家]]の[[ルドヴィーコ・スフォルツァ|イル・モーロ]]を幽閉、ミラノ公国を征服(1513年まで)。1503年、スペインの[[ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ|コルドバ]]将軍がナポリを征服。以後、スペインのナポリ総督が支配する。1504年、[[ブロア条約 (1504年)|ブロア条約]]により休戦。フランスがナポリを放棄。
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− | === カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)===
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− | {{main|カンブレー同盟戦争}}
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− | 1511年、教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]がアラゴン、ヴェネツィア、イングランド、スイスと[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]を結び、フランスに対抗。[[1513年]]2月に[[ボスコリ事件]]で[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]が失脚、3月に[[メディチ家]]から新教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]](在位:[[1513年]] - [[1521年]])が誕生、[[6月6日]]にミラノからフランス軍が追放される({{仮リンク|ノヴァーラの戦い (1513年)|fr|Bataille de Novare (1513)|de|Schlacht bei Novara (1513)|en|Battle of Novara (1513)|label=ノヴァーラの戦い}})。[[スフォルツァ家]]が一時復帰。1515年、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]がミラノに侵攻({{仮リンク|マリニャーノの戦い|it|Battaglia di Marignano|fr|Bataille de Marignan|de|Schlacht bei Marignano|en|Battle of Marignano}})。スフォルツァ家を追放し、ミラノを支配する。
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− | === ウルビーノ戦争(1517年) ===
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− | {{main|[[ウルビーノ戦争]]}}
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− | カンブレー同盟戦争でフランスとヴェネツィアが教皇に勝利したのに乗じて、前年に破門されウルビーノ公位から追放された[[フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ]]は教皇から公国を奪還する画策をはじめた。
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− | 1517年のはじめ、フランチェスコ・マリーア1世は[[ウルビーノ]]で[[コンドッティエーレ]]の[[フランチェスコ・デル・モンテ]]率いる教皇軍を撃退、市民の熱烈な歓迎の下で入城した。
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− | 教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]はあわてて1万の軍勢を雇い、[[ロレンツォ2世・デ・メディチ]]、{{仮リンク|レンツォ・ダ・チェーリ|en|Renzo da Ceri}}、{{仮リンク|ジュリオ・ヴィテッリ|en|Giulio Vitelli}}、{{仮リンク|グイド・ランゴーニ|en|Guido Rangoni}}などの[[コンドッティエーレ]]をウルビーノに送った。ロレンツォ2世は4月4日の[[モンドルフォ]]包囲戦で銃傷を負い[[トスカーナ]]へ戻ってしまい、代役の{{仮リンク|ビッビエーナ枢機卿|en|Bernardo Dovizi}}は無能で統率がうまくいかず[[ポッジボンシ]]で大敗、[[ペーザロ]]まで撤退した。
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− | 形勢有利なフランチェスコ・マリーア1世だったが、彼は資金繰りに失敗して[[ヴェローナ]]で雇った傭兵に払うお金がなくなった。トスカーナや[[ウンブリア州|ウンブリア]]での戦況も膠着したため和平を模索するようになる。9月、フランチェスコ・マリーア1世と教皇は平和条約に署名した。
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− | [[1517年]]にレオ10世が[[サン・ピエトロ大聖堂]]建設資金の為にドイツでの[[贖宥状]]販売を認めると、[[マルティン・ルター|ルター]]は[[95ヶ条の論題]]でこれに抗議した。
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− | === 神聖ローマ皇帝選挙(1519年) ===
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− | 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、孫のスペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世が皇帝選挙で争い、[[1519年]]に[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が[[神聖ローマ皇帝]]に即位してスペイン王を兼ねた。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執があったが、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり、重大な脅威を受けることになったため、フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になった。
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− | 異教徒である[[オスマン帝国]]の存在や、折から始まった[[宗教改革]]もこの混乱に輪をかけた。イタリア各国も利害が相反してしばしば対立して、一致して対抗することなくハプスブルク家あるいはヴァロワ家と結んだため、付け入る隙を与えることになった。16世紀のイタリアは[[ルネサンス]]文化の最盛期でもあるが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになる。
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− | === イタリア戦争(1521年 - 1526年)===
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− | {{Main|第三次イタリア戦争|マドリード条約 (1526年)}}
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− | [[1521年]]以降、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った。[[1521年]]、教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]([[メディチ家]]出身)は神聖ローマ皇帝カール5世と結び、フランス支配下のミラノを攻め、奪還。
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− | [[1522年]]の[[ロドス包囲戦 (1522年)|ロドス包囲戦]]で[[ロドス島]]の[[聖ヨハネ騎士団]]と[[ヴェネツィア共和国]]の連合軍が[[オスマン帝国]]に敗北する。
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− | [[ドイツ農民戦争]]([[1524年]] - [[1525年]])。
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− | [[1525年]][[2月24日]]、[[パヴィアの戦い]]でフランス王フランソワ1世は捕虜となり、[[マドリード]]に幽閉される。
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− | 1526年、捕虜となっていたフランソワ1世はカール5世と[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]を締結することを余儀なくされ<ref name="Christine Shaw p. 155">Michael Mallett and Christine Shaw, ''The Italian Wars: 1494–1559'', p. 155.</ref>、釈放される代わりにイタリア、[[フランドル]]、[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]への請求を全て取り下げた。
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− | === コニャック同盟戦争(1526年 - 1529年)===
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− | {{Main|コニャック同盟戦争|貴婦人の和約}}
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− | 1526年5月22日、教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]は神聖ローマ帝国の勢力の増大を憂慮し、[[コニャック同盟]]を結成する<ref name="Christine Shaw p. 155" />。同盟の成員は[[教皇領]]、フランス王国<ref name="Albert Guérard p. 135">Albert Guérard, ''France: A Modern History'', p. 135.</ref>、イングランド王国、[[ヴェネツィア共和国]]、[[フィレンツェ共和国]]、[[ミラノ公国]]だった。[[1527年]]、コニャック同盟に報復のため神聖ローマ皇帝軍がローマを攻める([[ローマ略奪]])。ローマは蹂躙され、教皇庁は屈服する。一方、ローマ略奪の報が伝わると、フィレンツェからメディチ家が追放される。[[1529年]]、ジェノヴァがカール5世の支援を受け、フランスの支配下を脱する。ボローニャにイタリア諸国(メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まり、カール5世に服することを決める。オスマン帝国の[[スレイマン1世]]による[[第一次ウィーン包囲]](9月 - 10月)。「[[貴婦人の和約]]」でフランスは賠償金を支払い、イタリアを放棄(10月)。
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− | [[1530年]]、教皇クレメンス7世がカール5世に戴冠式を行う。フィレンツェが皇帝軍に包囲され、凄惨な戦闘の末に敗北。メディチ家が復帰する。メディチ家はハプスブルク家との結びつきを深め、フィレンツェの支配体制を確立する。こうしてイタリアにおけるハプスブルク家の優位が確定する。これ以降もフランスとの戦闘は続くが、覆ることはなかった。フランソワ1世はカール5世に対抗するため、カトリックであるにもかかわらずドイツの[[ルーテル教会|ルター派]][[プロテスタント]]諸侯を支援し、異教徒の[[オスマン帝国]]皇帝[[スレイマン1世]]ともひそかに同盟を結ぶ。[[1532年]]、フランスが[[シュマルカルデン同盟]]と同盟。
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− | === イタリア戦争(1536年 - 1538年)===
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− | {{main|[[第四次イタリア戦争]]}}
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− | 1535年、[[ミラノ公国|ミラノ公]]{{仮リンク|フランチェスコ2世・スフォルツァ|en|Francesco II Sforza}}が死去した。フランチェスコ2世に跡継ぎはなく、カール5世がミラノ公妃[[クリスティーヌ・ド・ダヌマルク]]の母の兄にあたるためミラノ公を継いだ。当時は民衆もイタリア諸国も反対しなかったが、カール5世の子[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ]]が公国を継承すると、フランソワ1世はイタリアに侵攻した。
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− | フランスの大将{{仮リンク|フィリップ・ド・シャボー|en|Philippe de Chabot}}は1536年3月に[[ピエモンテ州|ピエモンテ]]へ進軍、翌月[[トリノ]]を落城させたが、ミラノの包囲は失敗した。カールは反撃して[[プロヴァンス]]に侵攻、[[エクス=アン=プロヴァンス]]まで軍を進めて1536年8月に占領したが、フランス軍が[[マルセイユ]]への道を塞いだため進軍が止まってしまった。その後、防御を整えた[[アヴィニョン]]を攻めずスペインへ撤退した。
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− | 一方、イタリアにおいてフランソワ1世の軍勢はピエモンテで補給してジェノヴァへ進軍していた。また1536年、{{仮リンク|ジャン・ド・ラ・フォレ|en|Jean de La Forêt}}の外交努力でオスマン帝国との同盟を結び{{sfn|Mattingly|1955|p=155}}、年末には[[マルセイユ]]でフランス=オスマン連合艦隊が集結し、[[ジェノヴァ]]を脅かしていた。艦隊がジェノヴァを砲撃する一方フランス陸軍がジェノヴァを包囲する、という作戦案も定められたが{{sfn|Mattingly|1955|p=155}}、フランスとオスマン帝国にとっては不幸なことに、1536年8月に連合軍がジェノヴァに到着する頃にはジェノヴァの守備が大幅に強化されていた。その代わり、連合軍はピエモンテで荒らしまわり、多くの城を占領した{{sfn|Bury|1902|pp=72–73}}。1537年、[[バルバロス・ハイレッディン]]がイタリア海岸で海賊行為を繰り返したのち[[ケルキラ|コルフ]]を包囲したが、あまりフランスの助けにはならなかった{{sfn|Bury|1902|pp=72–73}}。
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− | カール5世は緒戦で不利だった上、フランスとオスマンとの[[二正面作戦]]の危険もあるため、結局折れて1538年6月18日にフランソワ1世とニースの和約で戦争を終結させた{{sfn|Bury|1902|pp=72–73}}。
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− | === イタリア戦争(1542年 - 1546年)===
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− | {{main|第五次イタリア戦争|クレピーの和約|アルドレスの和約}}
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− | [[ファイル:Siege of Nice (1543).jpg|thumb|1543年、フランス=オスマン連合艦隊による{{仮リンク|ニース包囲戦|en|Siege of Nice}}]]
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− | フランス王フランソワ1世は再び[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]と同盟を締結、1542年7月12日に神聖ローマ帝国に宣戦布告し<ref name=":1" />、ミラノはまたしても戦争の口実となった<ref name="Albert Guérard p. 135" />。フランソワ1世は自身の最後となるイタリア侵攻において、まずは{{仮リンク|ペルピニャン包囲戦|en|Siege of Perpignan (1542)}}に取り掛かった。1543年8月22日、[[バルバロス・ハイレッディン]]率いるフランス・オスマン連合艦隊は{{仮リンク|ニース包囲戦|en|Siege of Nice}}に勝利してニースの町を占領<ref name=":1">Michael Mallett and Christine Shaw, ''The Italian Wars: 1494–1559'', p. 238.</ref>、続いて城塞を包囲した。城塞の軍は1か月内に救出されたが、キリスト教とイスラム教の軍勢が共同してキリスト教徒の町を攻撃することは当時において考えられないことだった。したがって、フランソワ1世としてもオスマン軍の役割を軽く扱う必要があった<ref name=":2" />。しかし、彼はその政策をさらに進め、[[トゥーロン]]をオスマン艦隊の冬営用にバルバロスに貸し出した<ref name=":2">Michael Mallett and Christine Shaw, ''The Italian Wars: 1494–1559'', p. 240.</ref>。
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− | [[アンギャン伯]]{{仮リンク|フランソワ (アンギャン伯)|en|Francis, Count of Enghien|label=フランソワ}}率いるフランス軍は1544年4月14日の{{仮リンク|チェレゾーレの戦い|en|Battle of Ceresole}}で勝利した<ref name=":2" />が、ロンバルディアへさらに深く進軍することはできなかった。同年6月4日、{{仮リンク|セラヴァッレの戦い|en|Battle of Serravalle (1544)}}で{{仮リンク|アルフォンソ・ダヴァロス|en|Alfonso d'Avalos|label=第6代ペスカーラ侯爵アルフォンソ・ダヴァロス}}率いる帝国軍がフランスのイタリア傭兵隊を撃破したことでイタリアにおける戦いが終わった<ref>Knecht, ''Renaissance Warrior'', 490; Oman, ''Art of War'', 242–243.</ref>。
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− | フランス本土では[[イングランド王]][[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が1544年7月14日にカレーに渡り<ref>Elton, ''England Under the Tudors'', 195; Knecht, ''Renaissance Warrior'', 491; Scarisbrick, ''Henry VIII'', 395. ヘンリーには乗馬ができず、[[輿]]に乗った。Eltonによると、54歳のヘンリー8世はすでに老人のようだった。</ref>、すでに進軍していたイングランド軍と合流、そのまま{{仮リンク|ブローニュ=シュル=メール包囲戦|en|Sieges of Boulogne (1544–46)}}は7月19日に始まった。
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− | このころ、カールは資金不足に悩まされ、さらに宗教問題にも対処しなければならなかった。カールとフランソワの代表は1544年9月18日に{{仮リンク|クレピー|en|Crépy, Aisne}}でクレピーの和約に署名した<ref>Blockmans, ''Emperor Charles V'', 74; Knecht, ''Renaissance Warrior'', 493. 当時、地名の綴りがCrépyではなくCrespyだったので「クレスピーの和約」とも呼ばれている(''The Columbia Encyclopedia'', 6th ed. (New York: Columbia University Press, 2013), s.v. "Crespy, Treaty of", http://www.encyclopedia.com/doc/1E1-X-Crespy.html (2014年7月22日閲覧)参照)。</ref>。
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− | 1545年9月までに戦争が完全なステイルメイトとなった。どの国も兵員と資金の不足になやまされ、ドイツのプロテスタント諸侯に支援を乞うたが失敗した<ref>Knecht, ''Renaissance Warrior'', 502–503; Scarisbrick, ''Henry VIII'', 399–400.</ref>。結局、最後まで粘ったヘンリー8世も折れ、1546年6月7日、{{仮リンク|アルドレス|en|Ardres}}の和約がフランス代表とイングランド代表の間で署名された<ref>Gairdner and Brodie, ''Letters & Papers'', 507–9.</ref>。
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− | === イタリア戦争(1551年 - 1559年) ===
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− | {{main|[[イタリア戦争 (1551年 - 1559年)]]|カトー・カンブレジ条約}}
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− | 1547年3月31日、フランソワ1世が死去し、息子の[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]が即位する<ref name="Albert Guérard p. 135" />。1551年、アンリ2世はカール5世に宣戦布告、イタリアを再征服し、ヨーロッパでの覇権をハプスブルク家から取り戻そうとした。フランスはまず[[ロレーヌ]]に侵攻、ある程度の成功を収めたが、続く[[フィレンツェ公国]]への侵攻は1553年に止められた。フランスは1554年8月2日に{{仮リンク|マルチャーノの戦い|en|Battle of Marciano}}で大敗するが、フランス語話者が主流な[[メス (フランス)|メス]]、[[トゥール (ムルト=エ=モゼル県)|トゥール]]、[[ヴェルダン]]は併合に成功した<ref>Albert Guérard, ''France: A Modern History'', p. 136.</ref>。
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− | 戦争の最中の1556年、カール5世は神聖ローマ皇帝からもスペイン王からも退位した。神聖ローマ皇帝はカール5世の弟[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]が継承、スペイン王位はカール5世の息子[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が継承した。すなわち、カール5世の退位はフランスを包囲したハプスブルク帝国を分割させた。これ以降、神聖ローマ帝国とスペインの結束はカール5世の同君連合時代の緊密さからだんだんと緩くなっていく。
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− | | |
− | この時点で戦場はイタリアから[[フランドル]]へと移り、フェリペ2世は[[サヴォイア公]][[エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)|エマヌエーレ・フィリベルト]]とともに1557年8月10日の{{仮リンク|サン=カンタンの戦い (1557年)|en|Battle of St. Quentin (1557)|label=サン=カンタンの戦い}}を戦い、フランスに大勝した<ref>Michael Mallett and Christine Shaw, ''The Italian Wars: 1494–1559'', p. 278.</ref>。しかしフランスはサン=カンタンでの敗北の後に元気を取り戻し、戦闘を再開した。1557年にイングランドが帝国側で参戦すると、フランスは1558年1月に{{仮リンク|カレー包囲戦 (1558年)|en|Siege of Calais (1558)|label=カレーを包囲}}、陥落させた<ref>Michael Mallett and Christine Shaw, ''The Italian Wars: 1494–1559'', p. 282.</ref>。さらに、フランスは[[ネーデルラント]]におけるスペイン軍を撃破した。
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− | 戦争はもうしばらく続くかと思われたが、その終わりは突如訪れた。1557年、スペインとフランスは相次いで破産を宣言した。さらにフランスは[[ユグノー]]にも対処しなければならなかった<ref>{{cite book|title=Europe Divided: 1559–1598 (page 11)|author=Elliott, J.H.|year=1968|publisher=HarperCollins|isbn=978-0-06-131414-8}}</ref>。アンリ2世は1559年4月3日の[[カトー・カンブレジ条約]]受諾を余儀なくされた。条約により、アンリ2世はイタリアへの請求を全て取り下げる<ref>Michael Mallett and Christine Shaw, ''The Italian Wars: 1494–1559'', p. 283.</ref>。これによってイタリア戦争は完全に終結する。
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− | == 影響 ==
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− | フランス王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]は1559年7月10日に平和を祝って行われた[[馬上槍試合]]で致命傷を負い、15歳の息子[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]が王位を継ぐが、フランソワ2世も1560年12月5日に死去する。フランスは混乱に陥り、1562年に[[ユグノー戦争]]が勃発したこともそれに拍車をかけた。イタリア諸国は二等国にされ、ミラノとナポリは[[スペイン・ハプスブルク家]]の支配下に置かれた。
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− | イタリア戦争は[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の作品にも影響を与えた。彼は1495年に{{仮リンク|レオナルドの馬|en|Leonardo's horse|label=グラン・カヴァッロ}}({{lang|it|Gran Cavallo}}、巨大な馬)と呼ばれる銅像を制作する計画を立てたが、この騎馬像制作のために用意された17tのブロンズは、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月に大砲の製作材料に流用されてしまった<ref name="DA">{{Cite book |first = Daniel |last = Arasse |title = Leonardo da Vinci |year = 1998}}</ref>。1515年の{{仮リンク|マリニャーノの戦い|en|Battle of Marignano}}の後、ダ・ヴィンチはフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城[[アンボワーズ城]]近くの[[クロ・リュセ城|クルーの館]]が邸宅として与えられ、死去までフランスで過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000[[スクード]]にのぼっている<ref name="Chiesa86">{{Cite book|first=Angela Ottino|last=della Chiesa|title=The Complete Paintings of Leonardo da Vinci|year=1967|page=86}}</ref>。
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− | イタリア戦争では軍事技術と戦術の大きな進歩が見られ、歴史家の一部にはイタリア戦争を中世と近世の分け目と見る者もいる<ref name="Max Boot 2006">Max Boot, ''War Made New: Technology, Warfare, and the Course of History, 1500 to Today'' (New York: Penguin Group Inc., 2006), 4–5.</ref>。
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− | {{main|{{仮リンク|イタリアの歴史 (1559年 - 1814年)|en|History of Italy (1559–1814)}}}}
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− | イタリア半島は大部分が「外国による支配の時代」と呼ばれる境遇に陥ってしまう。ルネサンス時代には先進国であったが、政治・社会的には立ち遅れた状態になってしまう。
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− | == イタリア戦争と同時代を描く芸術作品 ==
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− | === 小説 ===
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− | * [[ニッコロ・マキャヴェッリ]]『{{仮リンク|フィレンツェ史|it|Istorie fiorentine|en|Florentine Histories}}』([[1512年]]、[[フィレンツェ]])
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− | * [[ウィリアム・シェイクスピア]]『[[ヘンリー八世 (シェイクスピア)|ヘンリー八世]]』([[1612年]] - [[1613年]]、[[イギリス]])
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− | * [[ヴィクトル・ユーゴー]]『{{仮リンク|王は愉しむ|fr|Le roi s'amuse|en|Le roi s'amuse}}』([[1832年]]、[[フランス]])
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− | * [[アレクサンドル・デュマ・ペール]]『ボルジア家風雲録』([[1839年]]、[[フランス]])
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− | * [[フリードリヒ・エンゲルス]]『{{仮リンク|ドイツ農民戦争 (エンゲルス)|en|The Peasant War in Germany|label=ドイツ農民戦争}}』([[1850年]]、[[ドイツ]])
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− | * [[ジョージ・エリオット]]『{{仮リンク|ロモラ|en|Romola}}』([[1862年]]、[[イギリス]])
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− | * [[サマセット・モーム]]『昔も今も』([[1946年]]、[[イギリス]])
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− | * [[塩野七生]]『ロドス島攻防記』([[1985年]]、[[日本]])
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− | * [[塩野七生]]『神の代理人』
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− | === ドラマ ===
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− | * [[ボルジア家 愛と欲望の教皇一族]]
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− | == 脚注 ==
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− | {{Reflist}}
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− | == 参考文献 ==
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− | * {{citation|last=Bury |first=J.B. |year=1902 |chapter=Chapter 3: The Ottoman Conquest |editor-last=Dalberg-Acton |editor-first=John |editorlink=John Dalberg-Acton, 1st Baron Acton |title=The Cambridge Modern History, Volume 1: The Renaissance |chapterurl=http://books.google.com/books?id=yKo8AAAAIAAJ&pg=PA72 |pages=72–73 |publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]]|display-editors=etal}}
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− | * Elton, G. R. ''England Under the Tudors''. A History of England, edited by Felipe Fernández-Armesto. London: The Folio Society, 1997.
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− | * Knecht, Robert J. ''Renaissance Warrior and Patron: The Reign of Francis I''. Cambridge: Cambridge University Press, 1994. ISBN 0-521-57885-X.
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− | * {{citation |last=Mattingly |first=Garrett |year=1955 |title=Renaissance diplomacy |page=[http://books.google.com/books?id=2-0cVoc_fmoC&pg=PA155 155] |publisher=Penguin Books |isbn=978-0486-25570-5 }}
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− | * Scarisbrick, J. J. ''Henry VIII''. London: The Folio Society, 2004.
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− | == 関連項目 ==
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− | *[[イタリアの歴史]]
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− | *[[スフォルツァ家]]
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− | *[[ボルジア家]]
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− | *[[メディチ家]]
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− | *[[クレメンス7世 (ローマ教皇)]]
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− | *[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)]]
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− | *[[カンブレー同盟戦争]]
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− | *[[神聖同盟 (16世紀)]]
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− | *[[ローマ略奪]]
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− | *[[カトー・カンブレジ条約]]
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− | *[[第一次ウィーン包囲]]
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− | *[[スイス傭兵]]
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− | *[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]
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− | *[[フランチェスコ・グイチャルディーニ]]
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− | *[[イタリア統一運動]]
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− | *[[未回収のイタリア]]
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− | {{イタリア}}
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− | {{Normdaten}}
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| [[Category:イタリア戦争|*]] | | [[Category:イタリア戦争|*]] |