「城下町」の版間の差分
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2018/9/20/ (木) 14:42時点における版
城下町(じょうかまち)
武家時代,領主の居城を中心として展開した都市。「城下」という表現が広く用いられるようになったのは江戸時代のことである。鎌倉時代に領主の居宅を中心とする小集落が生れ,その城郭が山や丘に営まれると,この集落は根小屋,山下,堀之内などと呼ばれた。こうした集落は,戦国時代末期から江戸時代初期にかけて,鉄砲の使用による大歩兵集団の平野地帯での会戦という戦闘様式の変化と呼応して,水陸交通の便がよく領国の政治的,経済的中枢をなす平野地帯の枢要の地に好んで築城が行われてから飛躍的に発展した。領主は直属家臣団,商工業者を強制的に城下に集住させ,楽市・楽座などの政策を通じて城下の繁栄をはかる一方,検地を通じて農民を土地に緊縛したので,都市と農村が分離し,いわゆる城下町が次々と成立していった。城下町では城郭を中心に武家居住地,町屋 (商人町,職人町) ,寺社などが整然と区分され,武家地が全市街の 50%以上を占める場合が多かった。江戸は最大の城下町であった。明治維新後,封建的な政治都市,消費都市としての機能を失いながらも,新たに地方官庁,学校などが設置されたため,地方の政治,経済,文教などの中心として,近代都市へと脱皮したものが多い。
脚注
関連項目