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シューマッハ一家はドイツではなく、プライバシー保護(および[[税金]]優遇措置)のためF1ドライバーに人気のあるスイスに居住している。2007年には[[ジュネーブ湖]]湖畔に居住面積700平方メートルの新居が完成した。1996年から2006年まではウィンタースポーツを楽しむため、ノルウェーに別荘を持っていた。静かな生活を希望するシューマッハ家族のために、この別荘の持ち主の名前は長らく隠されており、ノルウェーの地元住民にもあまり知られていなかった。F1を引退した後、このノルウェーの別荘は売られ、その代わりにフランスのリゾート地[[クールシュヴェル]]に別荘を購入している。 | シューマッハ一家はドイツではなく、プライバシー保護(および[[税金]]優遇措置)のためF1ドライバーに人気のあるスイスに居住している。2007年には[[ジュネーブ湖]]湖畔に居住面積700平方メートルの新居が完成した。1996年から2006年まではウィンタースポーツを楽しむため、ノルウェーに別荘を持っていた。静かな生活を希望するシューマッハ家族のために、この別荘の持ち主の名前は長らく隠されており、ノルウェーの地元住民にもあまり知られていなかった。F1を引退した後、このノルウェーの別荘は売られ、その代わりにフランスのリゾート地[[クールシュヴェル]]に別荘を購入している。 | ||
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== F1での年度別成績 == | == F1での年度別成績 == |
2018/12/28/ (金) 19:40時点における版
ミハエル・シューマッハ (ミヒャエル・シューマッハ) | |
---|---|
基本情報 | |
略称表記 | MSC |
国籍 | ドイツ |
出身地 |
西ドイツ 同・フルト |
生年月日 | 1969年1月3日(55歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1991-2006,2010-2012 |
過去の所属チーム |
'91 ジョーダン '91-'95 ベネトン '96-'06 フェラーリ '10-'12 メルセデス |
出走回数 | 308 (306スタート) |
タイトル | 7 (1994, 1995, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004) |
優勝回数 | 91 |
表彰台(3位以内)回数 | 155 |
通算獲得ポイント | 1,566 |
ポールポジション | 68 |
ファステストラップ | 77 |
初戦 | 1991年ベルギーGP |
初勝利 | 1992年ベルギーGP |
最終勝利 | 2006年中国GP |
最終戦 | 2012年ブラジルGP |
ミハエル・シューマッハ/ミヒャエル・シューマッハ(Michael Schumacher [ˈmɪçaʔɛl ˈʃuːmaxɐ], 1969年1月3日 - )は、ドイツの元F1ドライバーである。愛称はシューミー (Schumi)、マイケル (Michael)。
ドイツ人初のF1ドライバーズチャンピオン。最多優勝91回、チャンピオン獲得7度などF1の主な記録を更新した。2006年に一度引退したが2010年に復帰、2012年に再度現役を退いた。
その冷徹で正確なドライビングから、日本では「ターミネーター」、日本国外では「サイボーグ」と呼ばれる時期があった。フェラーリ在籍期には、フジテレビのF1中継で「赤い皇帝」の愛称が使われた。
6歳年下の実弟ラルフ・シューマッハはウィリアムズなどで6勝を挙げた元F1ドライバーである。
Contents
来歴
F1デビュー前( - 1991年)
- カートとの出会い
1969年1月3日、ドイツノルトライン・ヴェストファーレン州ケルン近郊のフュルト・ヘルミュールハイム (Hürth-Hermülheim)で生まれる[1]。4歳の時、煉瓦職人の父から贈られた“原動機付きペダルカー”が車との出会いである。夢中で路上を走らせていたミハエルが電柱に衝突したため、心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的なレーシングカート”と遭遇した。このカート場は1961年に事故死したF1ドライバー、ヴォルフガング・フォン・トリップスの家族が所有しており、父はそこの管理を兼業するようになった[2]。
1975年には次男のラルフ・シューマッハが誕生。1980年、カート場の移転にともない一家はケルペン・マンハイム (kerpen-Manheim) に転居し、父はカート場の管理人とレンタルカート屋、母はカート場の軽食スタンドで働くようになった。
1983年に国内カートライセンスを取得し、1984年・1985年にはドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、1987年にはドイツとヨーロッパのカートチャンピオンとなった。彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うこともあったという。だが、恩師ユルゲン・ディルク(F1ドライバー時代にはファンクラブ会長を務めた)の支援により、十分な環境とは言えないもののレースを続けた。
- F3
中学卒業後は自動車販売店に入社し、整備士の資格を取得する。1988年、ジュニアフォーミュラにステップアップし、フォーミュラ・ケーニッヒ[3]とフォーミュラ・フォードに参戦。ドイツF3選手権に参戦するWTSレーシングのオーナー、ウィリー・ウェーバーに見初められ、マネージメント契約を結ぶ。
ドイツF3では1989年に2勝を挙げ、チャンピオンのカール・ヴェンドリンガーに1ポイント差のシリーズ3位。1990年には5勝してチャンピオンとなった。同年のマカオGPでは本命と見られていたイギリスF3王者ミカ・ハッキネンを下して優勝した。その1週間後、日本の富士スピードウェイで初開催されたインターF3リーグにも参戦し、F3の国際レースで2週連続優勝した。
- メルセデス・ジュニアチーム
1990年、メルセデス・ベンツが立ち上げた若手育成プロジェクトにカール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェンとともに選出された。3名は世界スポーツプロトタイプカー選手権 (WSPC) のザウバー・メルセデスチームに加わり、ベテランのヨッヘン・マスのパートナーとして交代で参戦した。シューマッハは4戦出場してドライバーズ選手権5位、最終戦のメキシコで初優勝した。
1991年はスポーツカー世界選手権 (SWC) に8戦出場し、ル・マン24時間レースでは5位入賞。ワークス最後のレースとなった日本(オートポリス)ではヴェンドリンガーと組んで優勝した。ドライバーズ選手権は9位。これらの好走がTWR・ジャガーチームのトム・ウォーキンショーとロス・ブラウンの目に留まり、同年のベネトン移籍に繋がることになる[4]。また、この2年間にはドイツツーリングカー選手権 (DTM) にも数戦出場したほか、1991年には全日本F3000第6戦・菅生にスポット参戦し2位を獲得した。
メルセデスはF1にワークス参戦を予定しており、シューマッハも起用される予定だったが、メルセデスの計画修正(ザウバーにエンジンのみ供給)によりこの時は実現しなかった。
ジョーダン-ベネトン在籍期(1991年 - 1995年)
- 1991年
当初はスポット参戦後も全日本F3000への継続参戦を予定していたが、1991年8月、ベルトラン・ガショーの刑事事件をきっかけにして、メルセデスが用意した持参金をジョーダンに持ち込み、第11戦ベルギーGPでガショーの代役として同チームからF1に初参戦した。F1デビュー戦ながら、難コースのスパ・フランコルシャンで予選7位を獲得。決勝は0周リタイアに終わったものの大型ルーキーとして注目され、FOCA会長バーニー・エクレストンの根回しでベネトンとメルセデスが接触した[5]。ジョーダンは訴訟を起こして抵抗したが、結果的にロベルト・モレノとトレードする形でシューマッハのベネトン加入が決定した。この騒動を受け、FIAは契約承認委員会 (Contracts Recognition Board,CRB) を設立することになる。移籍後最初のイタリアグランプリでチームメイトのネルソン・ピケを上回り5位初ポイントを獲得。続く2戦でも6位に入賞した。
第15戦日本GPでは、予選中130Rで大クラッシュを喫する。この時は何事もなく再出走したが、数年後検査した際、脊椎数箇所を損傷していたことが判明した[6]。
- 1992年
F1へのフル参戦初年度となった1992年は、ピケに代わるベネトンのエースとして期待され、第2戦メキシコGPで3位初表彰台を獲得。ドライからウェットへ移行する難しいコンディションとなった第12戦ベルギーGPで、この年のチャンピオンチームとなるウィリアムズ勢を見事な戦略で破り、デビュー18戦目でF1初勝利を達成した(これはマニュアル・シフト車の最後の勝利でもある)。シーズンを通じてコンスタントに上位を走行し、前年のチャンピオン、アイルトン・セナを上回るランキング3位を獲得した。
- 1993年
過熱するハイテク競争の中でB193Bの信頼性不足により、決勝は表彰台に登るかリタイアという両極端な成績の一年になった。マクラーレンがフォードエンジンにスイッチしたため、セナとの対決はフォードワークスの主導権争いという側面もあった。開幕戦南アフリカGPではセナを追撃中にセナの強引なブロックに遭い単独スピン。モナコGPではトップ独走中にマシンが炎上してリタイアした(セナが優勝)。
シーズン中はなかなか勝利に手が届かなかったが、第14戦ポルトガルGPでは予選6位からピット戦略でトップに立ち、アラン・プロストの追撃をしのいでF1通算2勝目を獲得した。ランキングは前年より1つ下げて4位。
- 1994年
開幕戦ブラジルGPでセナとの一騎討ちを制し、そこから勢いに乗って開幕4連勝を達成。チャンピオン最有力候補だったセナは第3戦サンマリノGPで事故死した。次戦モナコGPでは、自身初のポールポジションを獲得。決勝でも優勝し、ポール・トゥ・ウィンを達成した。
前半8戦中6勝してランキング2位のデイモン・ヒルに37点差をつけたが、後半戦はペナルティトラブルに見舞われる。第8戦イギリスGPでは、フォーメーションラップでヒルを追越したことによる5秒のピットストップペナルティを課せられたが、ピットインを指示する黒旗に6周にわたり従わなかったため25,000ドルの罰金を課された[7]。さらに、7月26日に行われたFIAの世界モータースポーツ評議会に召還され、そこでイギリスGPの失格と2レースの出場停止、ベネトンチームへの50万ドルの罰金という厳罰が科された[7]。ベネトンはこの処分を不服として抗議を行い、その聴聞が8月30日に行われることとなったため、聴聞会までの3レース(ドイツGP、ハンガリーGP、ベルギーGP)への参戦が認められた。ベルギーGPでは1位でゴールしたものの、スキッドブロックの規定違反により再び失格となった。聴聞後に出された裁定は、2レースの出場停止を即座に適用するというもので、その後2戦には出走することができなかった[8]。
この間、ベネトンに対して禁止されたトラクションコントロール使用の嫌疑や、給油装置の不正改造疑惑が取りざたされたが、いずれも無罪と判定された。
2レースの出場停止と2レースの失格によりヒルの追い上げを許し、タイトル争いはシューマッハの1ポイントリードで最終戦オーストラリアGPまでもつれこんだ。レース中にヒルと接触し、両者リタイアによってチャンピオンが決定したため、この接触は故意か否かで物議を醸したが、この結果、自身初、ドイツ人としても初のドライバーズタイトルを獲得した。
- 1995年
序盤は単独クラッシュを喫するなど出遅れたが、第5戦スペインGPの完勝からペースを掴み、第9戦ドイツGPでは母国初優勝を達成。第15戦パシフィックGPにて2年連続ドライバーズチャンピオンを決めた。シーズン17戦中9勝を挙げ、ナイジェル・マンセルが1992年に達成した当時のシーズン最多勝記録に並んだ[9]。
ヒルとはこの年もイギリスGP・イタリアGPで接触して両者リタイアとなった。ベルギーGPでは予選16位から路面状況を読み取って優勝したが、ヒルへのブロックで執行猶予付き出場停止処分を受けた。
シーズン中にベネトンとの契約を延長しないことを表明。メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの移籍が噂されたが、長くタイトルから見放されている名門フェラーリへの移籍を選択した。
フェラーリ在籍期(1996年 - 2006年)
- 1996年
カーナンバー「1」とともにフェラーリへ加入。ルカ・ディ・モンテゼモーロ社長とジャン・トッド監督の下、「今年(1996年)はチャンピオン争いは無理。年間3勝するのが目標」としてチームの再建に取り組み、マシンの戦闘力と信頼性不足に苦しめられ続けたが、大雨の第7戦スペインGPでの独走優勝、イタリアGPでの8年ぶりのフェラーリ優勝など、公約通り3勝を挙げてティフォシの信頼を得た。
- 1997年
ベネトンからロス・ブラウン(テクニカルディレクター)とロリー・バーン(チーフデザイナー)が移籍してきたことで、戦略のレベルアップとマシン開発に拍車がかかり、ウィリアムズのジャック・ヴィルヌーヴと激しいチャンピオン争いを展開した。第16戦日本GPでシーズン5勝目を上げ、ヴィルヌーヴを1ポイントリードして最終戦ヨーロッパGPに臨んだ。
ヨーロッパGPではスタートからレースをリードしたが、48周目にヘアピンでオーバーテイクを仕掛けてきたヴィルヌーヴをブロックして接触。コース外にはじき出されてリタイアとなり、3位でゴールしたヴィルヌーブに逆転されてタイトルを逃した。このブロックに関して、FIAはシーズン終了後の11月11日にシューマッハを召喚。重大な過失と判定し、1997年のチャンピオンシップからシューマッハを除外し、ドライバーズランキング2位を抹消した[10]。なお、ヴィルヌーヴとは偶然にもこの年に一度も同じ表彰台に立つことはなかった。
- 1998年
モンテゼーモロが「王座奪回の年」と宣言。ロリー・バーンがゼロから設計したニューマシンF300を、ジャン・トッドの指揮でテストも十分に重ね、満を持して臨んだが、開幕2戦はマクラーレンのミカ・ハッキネンが連勝。
それでも前年に引き続きエディ・アーバインのサポート、上方排気システム及びロングホイールベースへの変更をしたF300及び前輪をワイドトレッド化したグッドイヤータイヤの進化、ロス・ブラウンの戦略[11]が結集され、シューマッハの成績も向上。こうした後押しを受けてポイント首位のハッキネンと熾烈な争いを展開し、フェラーリ地元である第14戦イタリアGPでは ポールトゥーウィンで6勝目をあげ、ポイントでも80対80と同点で並んだ。第15戦ルクセンブルクGPと最終戦日本GPでは共にポールポジションを取り、いよいよ王座奪回かと期待させたが、両決勝ではハッキネンに逆転優勝を許し、2年連続最終戦でタイトルを逃した。
カナダGPやハンガリーGPで作戦を遂行するために果敢な走りを見せた反面、モナコGPではアレクサンダー・ヴルツ(ベネトン)とペドロ・ディニス(アロウズ)への接触とヌーベルシケインでスピン、オーストリアGPではハッキネンと首位争いしていた17周目のヨッヘン・リントコーナーを曲がりきれずにコースアウトと、ミスが目立ったシーズンでもあった。
- 1999年
第3戦サンマリノGP、第4戦モナコGPで勝利し、シリーズをリードしていた。しかし、第6戦カナダGPではトップ走行中に「チャンピオンズ・ウォール」と呼ばれる最終シケインの壁に激突してリタイア。ハッキネンから8ポイントのビハインドで第8戦イギリスGPを迎えた。
スタートで出遅れたシューマッハはハンガーストレートでアーバインをパス。しかし、ストウ・コーナーへのアプローチで減速できず、コースアウトしてタイヤバリアに真っ直ぐ突き刺さった。ブラックボックスの記録では衝突時の速度は107km/h、マシンには瞬間的に50Gが懸かっていた[12]。 シューマッハはモノコック内部に足を強打し、ヘリコプターで病院に緊急搬送され手術を受けた結果、「右足の脛骨と腓骨の骨折」により自身のレースキャリアで初めての負傷欠場に追い込まれた。事故状況についてシューマッハは「どんどんブレーキが効かなくなった。なんとかスピードを落とそうとしたが駄目だった」と述べ、病院で自身がクラッシュする瞬間のレースの映像を見て「(今自分が)生きていられるのは幸運」と語った[13]。フェラーリは事故原因を「リアブレーキキャリパーのトラブル」と発表した。
なお、このレースはスターティンググリッド上で動けない車を撤去するためスタート15秒後にレース中断が決定されており、シューマッハの事故は無線連絡で各車がスピードを緩めている最中に発生した。フェラーリピットからの伝達が事故の3秒前と遅れたことに加え[12]、シューマッハがアーバインとのバトルに集中していてコースサイドの赤旗を見落とした可能性もあった[12]。この時、シューマッハは「アーバインをパスするから、道を開けてくれ」と無線で言っていた[14]。
残りの全レースを欠場するという選択肢もあったが、自身の代役としてドライバーズタイトルを争う事となったアーバインのサポートと、チームのコンストラクターズタイトル獲得のため、6レース欠場後に第15戦マレーシアGPから、自身のF1キャリアで初となる「セカンド(ナンバー2)ドライバー」として復帰した。予選ではポールポジションを獲得し、決勝でもアーバインに次ぐ2位に入り、「ナンバー2ドライバー」としてアーバインをサポートした。最終戦日本GPでもポールポジションを獲得し、決勝ではスタート時にミカ・ハッキネンのブロックをすることができず、2位入賞。アーバインのドライバーズタイトル獲得には最終的には貢献できなかったが、フェラーリのチームとして、1983年以来となるコンストラクターズタイトル獲得に貢献した。
- 2000年
1999年のシーズン途中でF399の風洞開発を止め、代わりにF1-2000の開発を進めていったことが功を奏し[15]、開幕3連勝を含めて8戦5勝のハイペースでポイントリードを築いた。
しかし、第9戦以降3連続リタイアを喫し、ハッキネンとの熾烈な戦いにもつれ込む。第13戦ベルギーGPではハッキネンに「世紀のオーバーテイク」を決められて敗れたが、続くイタリアGPから連勝し、第16戦日本GPでのマッチレースを制して自身3度目、フェラーリ在籍ドライバーでは1979年のジョディー・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。
イタリアGPではセナの勝利数(41勝)に並び、このレースから翌年のマレーシアGPまで6戦連続ポール・トゥ・ウィンを記録した。
- 2001年
プロストが持つF1最多ポイント(798.5ポイント)、最多ファステストラップ(41回)と最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。カナダGPで史上初の兄弟1-2も果たしている(1位・弟ラルフ、2位・兄ミハエル)。なお、ミハエルは開幕戦の共同記者会見で「僕はもうグランプリ・ドライバーとして(これ以上)成長することはないと思う。これから先も勝てるとすれば、それは(自分自身が成長したわけではなく)フェラーリが進化、成長することを意味する」と印象的な発言をした[16]。
- 2002年
ファンジオに並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身(1995年、2000年、2001年)とマンセル(1992年)のもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台(決勝では全レースで1位・2位・3位のいずれかでフィニッシュ、リタイアは一度も無し)と言う離れ業を成し遂げた。7戦を残してチャンピオンを決定するという、圧倒的な強さを見せた。
- 2003年
シーズン開幕当初に躓いたことにより出遅れ、マクラーレンのキミ・ライコネンやウィリアムズのファン・パブロ・モントーヤらとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げた。第4戦サンマリノGPの決勝日に母を亡くした。このレースでポール・トゥ・ウィンを果たしたが、記者会見ではミハエル・シューマッハの代理でインタビューに応じたジャン・トッドはミハエルのことを「ドライバーとしてじゃなく、1人の男としてすごいことを成し遂げてくれたと思う」と答えた。最終戦鈴鹿で、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得した。また、ヨーロッパグランプリで、F1史上初の通算1,000ポイントを獲得した。
- 2004年
前年の苦境とは打って変わり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦モナコGPはクラッシュでリタイアを喫したもののその後は7連勝を記録し、F2004と共に2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、ベルギーGPでは、ついに5年連続で通算7度のチャンピオンに輝いた。また、同年の鈴鹿が弟のラルフとの最後の1-2フィニッシュである。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。
- 2005年
新レギュレーションに対応したマシンとタイヤがうまく機能せず、前年とは一転して苦戦した。サンマリノGPで首位を走っていたフェルナンド・アロンソを追い回すなど見せ場を作ったレースもあったが、優勝はおろか表彰台にすら上がれないレースが続いた。ミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にボイコットし、わずか6台のみで争われた第9戦アメリカGPで、ようやく勝利をあげることができた。ハンガリーGPではシーズン唯一のポールポジションを獲得したが決勝はライコネンに逆転され2位。しばしば表彰台に上ることはあったが結果的にはアメリカGPの1勝のみに終わり、21世紀になってから初めてチャンピオンの座をアロンソに明け渡した。
- 2006年
開幕戦バーレーンGPでポールポジションの獲得回数がセナと並び、第4戦サンマリノGPでセナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。ただシーズン序盤はマシンの信頼性欠如に苦しんでフェルナンド・アロンソにポイントでリードを許したが、シーズンが進むにつれて急速に差を縮める。同年のフランスGPにおいて68回目のポールポジションを獲得し、決勝では優勝とファステストラップを記録して結果的にハットトリックを果たした。
第15戦イタリアGP後の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明(後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていたキミ・ライコネン)した。会見では、ファン、家族、フェラーリの仲間とベネトン時代の仲間に感謝したいとも述べた。
次の第16戦中国GPでは雨中のレースを優勝し、ポイントランキングトップのアロンソと同点としたが、第17戦日本GPでは、2回目のピットストップの直後、トップを走りながらエンジントラブルによりリタイアした。最終戦ブラジルGPでは、予選の第2ラウンドではトップタイムを記録したものの、第3ラウンドの開始直後にマシンが故障しタイムを記録することができなかったため、10番グリッドからスタートすることとなった。決勝ではジャンカルロ・フィジケラと接触、左リヤタイヤがパンクし、優勝は絶望的となったが、フィジケラ、ライコネンらとのバトルを制し、ファステストラップも記録した。最終的には4位でチェッカーを受けた。結局アロンソに2年連続のチャンピオン獲得を許すこととなった。
F1現役引退後 (2007年 - 2009年)
2007年は、アドバイザーという役職に立場を変えてフェラーリのF1に関わり、チーム監督であるジャン・トッドや、ドライバーのフェリペ・マッサとライコネンなどを見守ることとなった。この年の開幕戦のオーストラリアでは、フェラーリに移籍してきたライコネンが優勝し、現場にいなかったシューマッハーは祝福の電話をライコネンにかけた。この年サーキットを初めて訪れたのは、ヨーロッパラウンド初戦のスペインGPであった。モナコGPでは、前年までのライバルだったフェルナンド・アロンソと握手を交わす姿がTVに映し出された。ヨーロッパGPには、表彰台でトロフィーを渡す役として登場した。また母国・ドイツのフランクフルトモーターショーではフェラーリブースに登場し、注目を集めた。シューマッハはブラジルGPをスイスの自宅で見ていたようで、ブラジルに行かなかったことを後悔したという。
スペインで開催されたイベントでドゥカティのMotoGPバイクに乗り、現役ライダーの5秒落ちというタイムをマークし、ジャーナリストらを驚かせた。また、このことで2輪レースに対する興味が湧いたのか、2008年3月にはイタリアのマイナーレースでレースデビューを果たし4位入賞、5月にはドイツ国内のスーパーバイク選手権に同国内の大手チームよりホンダ・CBR1000RRを駆って参戦したが、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わった。
2007年11月のバルセロナ合同テスト、同12月のヘレス合同テストに参加した。約1年ぶりにF1マシンのステアリングを握ったが、バルセロナでは2日連続でトップタイムをマークし、関係者を驚かせた。同年のシーズンオフに、シューマッハ最後のチームメイトだったフェリペ・マッサが主催のカートイベントに参加し、総合優勝(第1レース優勝、第2レース6位)を果たした。
その後、2009年用のスリックタイヤテストの際に、テストドライバーとして度々F2008を走らせている。
2009年のハンガリーGP公式予選走行中、フェリペ・マッサが事故により頭部を負傷、復帰まで時間がかかることがわかった。その代理としてヨーロッパGPからF1に復帰すると発表されたが、2月のバイクレースで転倒した際に負った首の痛みのために万全の体調で臨めないため、ドクターストップが掛かり復帰を断念した。
F1復帰メルセデス在籍期 (2010年-2012年)
- 2010年
2009年12月23日、メルセデス・グランプリから4シーズンぶりにF1に復帰することが発表された[17]。3年契約を結んでいる[18]。
開幕戦から第4戦中国GPまで、チームメイトであるニコ・ロズベルグに予選・決勝ともに負けていたが、第5戦スペインGPでシューマッハの要望に応えた改良型のシャシーが投入されると初めて全セッションでチームメイトを上回り、決勝でも今シーズン自己最高となる4位入賞を果たした。しかし、それ以降ロズベルグが改良マシンの特性を掴んでいくとレースでは再びロズベルグの後塵を拝するレースが増えた。第8戦カナダGP以降は、7戦中6戦で予選Q2で脱落しており、速さを取り戻せずに苦戦が続いた。
シューマッハがF1にデビューした当初のチーム代表エディ・ジョーダンは、再三に渡ってシューマッハは解雇されるべきだと主張してきたが、第15戦シンガポールGP後には成績内容があまりにも悪いため、チーム代表のロス・ブラウンからも「ミハエルでなければ解雇する」と言われた[19]。 このようにさまざまな方向からの批判が強まっているが、シューマッハ自身はカムバックを後悔したことはなく、自信を失ったことは一度もないと述べている[20]。
第16戦日本GPでは、決勝で非凡な走りを見せ徐々にではあるが復活の兆しを見せた。さらに第17戦韓国GPではウェット状態でセーフティカー先導でスタートし、4周目で赤旗中断となる荒れたレースであったがその間にチームが機転を利かせてマシンセットアップを雨用に変更し、レース再開直後、晴れ用セットの状態であったマクラーレンを操るジェンソン・バトンをオーバーテイクし4位でフィニッシュした。しかし最終戦アブダビGPではレーススタート直後にスピンを喫し、後続のリウッツィが避けきれずに接触、1周も走ることができずにリタイアという不本意な結果で最終戦を終えた。
結局フル参戦したシーズンの中で初の未勝利及び未表彰台に終わり、142ポイントを獲得したチームメイトのロズベルグに対し、自身は72ポイントと倍近い大差を付けられ、期待外れな復帰初年度となった。ランキングは9位。
- 2011年
2011年もメルセデスから参戦。チームメイトのロズベルグが開幕から毎戦で予選Q3に進出したのとは対照的に、開幕から3戦連続で予選Q2敗退が続いた。
第4戦トルコGPでは予選こそ今期初のQ3進出を果たしたものの、決勝レースでは全くペースが上がらずに次々とオーバーテイクされ、ペトロフにインを突かれた際には幅寄せした挙句に接触するミスを犯し[21]、結局ポイント圏外でレースを終えた。レース後には、「レースが楽しくない」とモチベーションの低下を感じさせる発言をしたことが物議を醸した[22]。
第6戦モナコGPでは今期初めて予選でチームメイトのロズベルグを上回ったが、決勝はマシントラブルでリタイアに終わった。
第7戦カナダGPは、雨の中断後2位走行という目覚ましい走りを見せた。結果は復帰後タイの4位フィニッシュ。表彰台まであと一歩届かなかったが今後の期待が高まる走りだった。
第12戦ベルギーGPでデビュー20周年を迎え、ヘルメットのデザインを変更した。予選では、第1セッションでピットアウト後タイヤが脱落してしまいバリアに激突、ノータイムで終えたことにより最後尾の24位からのスタートになった。決勝では19台抜きという驚異的な走りで5位フィニッシュ。数々のバトルがあったためシューマッハ自身も「追い抜きを心から楽しんだ」とコメントしている。
- 2012年
第1戦オーストラリアGPと第2戦マレーシアGPではそれぞれ予選で4位と3位になり復帰後自己最高位グリッドを獲得したが、決勝ではそれぞれリタイヤと10位に終わっている。
第3戦中国グランプリでは、予選でチームメイトのロズベルグに続く2位とフロントローを独占するが、決勝ではピットストップでのタイヤ交換ミスによりコース復帰後すぐにマシンを止めリタイアとなった。
第6戦モナコGP予選では、復帰後自身初のポールポジションを獲得するが[23]、第5戦スペインGPでのペナルティの影響で決勝レースは6番手スタートとなった。
第8戦ヨーロッパGPでは混乱したレースを冷静に攻略し、3位表彰台を獲得した。(シューマッハが表彰台に登るのは2006年中国GP以来。)
第10戦ドイツGPでは6年ぶりにファステストラップを記録した。
第15戦日本GPにて2012年末をもって二度目の引退をすると記者団に発表した。第17戦インドGPでは、走行周回数においてバリチェロを抜き、歴代1位となった。
二度目の引退レースとなった最終戦ブラジルGPではレース序盤のパンクにより一時最後尾に落ちるものの、雨天のなか力強い走りを披露。このレースでドライバーズタイトル3連覇を決めたベッテルに続く7位入賞を果たした。
F1現役引退後(2013年 - )
2度目の現役引退後、2013年8月にドイツの投資会社『ドイチェ・フェルメーゲンスベラトゥン社が、ミハエルとのスポンサーシップ契約を7年延長したことが報道された[24]。
2013年12月29日、フランス・グルノーブルのメリベル・リゾートでのスキー中に転倒事故を起こし、頭部を負傷してグルノーブル大学付属病院に搬送された。病院側の説明によれば「昏睡状態で重体」であるという[25]。
2014年1月30日、ミハエル・シューマッハの担当医が、昏睡状態から覚醒させるという報道があり、そして6月15日、意識を回復し、リハビリのために退院したことが発表された[26]。退院後は、リハビリのためスイスのローザンヌ大学病院に転院[27]し、クリスマスまでには、自宅へ戻るとの事。
2014年11月19日に退院しジュネーブの自宅に戻ったが、友人であり元F1ドライバーのフィリップ・ストレイフによると麻痺と言語及び記憶障害が残っており、車椅子での生活を余儀なくされているとのこと[28]。かつてフェラーリのテストドライバーを担当したルカ・バドエルは、シューマッハの妻・コリーナから定期的な面会を許されている数少ない人間である事を明かした上で「家族は周囲に秘密を保つ事を望んでいて、僕はご家族の意志を完全に尊重している。ご家族はマイケルのためにできる事すべてをしているんだ」と語っている[29]。
評価
そのキャリアにおいて様々なF1の歴代記録を塗り替えた、F1史上に残るドライバー。ベネトンに加入後、4シーズン目にチャンピオンを獲得した。フェラーリに移籍後には、ベネトン時代に一緒に働いたロス・ブラウン、ロリー・バーンらを招聘し、2000年には1979年以来のドライバーズチャンピオンをもたらした。シューマッハ加入前の数年にはシーズン1、2勝で過ごしてきたベネトンとフェラーリを、結果としてチャンピオンに導いている。特にフェラーリにおいては、移籍後から2006年に最初の引退をするまで毎年優勝を飾っており、1997年 - 2006年まで、数戦を負傷欠場した1999年と不調に終わった2005年を除く全てのシーズンでタイトル争いをしている。
チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことでも知られている。スペアカーの使用権、ピット作戦における優先権のほか、チームメイトに優勝を含めレース中に順位を譲らせたことも数度あり、この点で批判を浴びることも少なくない。特に2001年、2002年のオーストリアGPでは、チームメイトのルーベンス・バリチェロに2年続けて露骨に順位を譲らせたことで物議を醸し、FIAがそれまで黙認状態だったチームオーダーを公式に禁止する異例の声明を出すに至っている。No.1待遇について、契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明であり、2006年にチームメイトとして組んだフェリペ・マッサはその存在を否定している一方で、1995年にベネトンでチームメイトだったジョニー・ハーバートは自身の引退後に待遇差があったことを認める発言をしている(シューマッハはハーバートの全ての走行データを自由に見られるが、ハーバートはシューマッハのデータを見ることはできなかった)。エディ・アーバインによると「チームの指示には常に従わなければならないと契約書に書いてあった。新しいシャーシが届けば、最初に使うのはミハエルだったし、ミハエルのためにタイヤの皮むきをするのが俺の役割だった[15]」と述べている。1995年サンマリノGPでは、シューマッハがリタイアした後、チームメイトのハーバートがレース続行中であったにも関わらず、チーム代表のフラビオ・ブリアトーレはサーキットから去った。1999年のイギリスGPでは事故を起こした際、命に別状はなかったにも関わらず、チームを指揮する立場のトッドが決勝レースを離れて手術に立ち会った。これらの出来事は、チーム内におけるシューマッハの立場を示している[14]。
他方、明確に批判と非難の対象となったものもある。F1においては過去に1994年と1997年の2度、ドライバーズチャンピオンがかかった最終戦でタイトルを争うドライバーとの接触を起こしている。1994年のケースについては故意か否か見解が分かれるが、1997年にヴィルヌーヴと接触したケースについては公式に故意とみなされペナルティを受けたばかりでなく、チャンピオンに相応しくない卑劣な行為とみなされ、その後も彼の評価と名声に汚点を残した。引退後には、シューマッハ自身も「F1キャリアにおいて取り消すことができる場面があるとすれば、それはヘレスでしょう」と、“南ドイツ新聞 (Süddeutsche Zeitung)”のインタビューの中で語っている[30]。これらの出来事に関しては、後にフェルナンド・アロンソが『F1史上最もスポーツ精神に反するドライバー』だと痛烈に酷評しており[31]、デビッド・クルサードなどもこれに同調している[32]。 2006年10月、インディペンデント紙のインタビューで、元F1ドライバーのニキ・ラウダ、スターリング・モス、ジャック・ヴィルヌーヴ、ハンス・シュトゥック、マーティン・ブランドルおよびF1ジャーナリストのデイヴィッド・トレメインの6人がシューマッハについて語っている。『英雄か、それとも悪人か?』という問いには、ラウダが「英雄」、シュトゥックも「もちろん、疑いなく英雄だ」と答えているのに対し、ヴィルヌーヴはシューマッハの本性が見えていないのが問題だ(すなわちこの問いには答えるまでもない)として彼の走法や人間性を酷評。そのほか、モスは「両方」、ブランドルは「英雄だが悪人の部分を持つ」、トレメインは「アンチヒーローと呼ぶのがいちばんいいだろう」と回答している。また『最も偉大なドライバーか?』との問いに対しては、ラウダは「YES」、モス、シュトゥックは他者との比較において「NO」、トレメインはライバルの少なさを理由に「NO」、ヴィルヌーヴ、ブランドルははっきり「NO」と回答している[33]。
レースにおいては、ポールポジションからの逃げ切りや、再給油が認められていた頃は少ないガソリン量でスパートをかけるピット戦略で前に出ることが多かった。ロス・ブラウンとの二人三脚でのレース作戦は度々語り草になるほどである。
他人の走行に対するブロックは露骨で危険なものとして、非難の対象となることが多い。F3マカオGPでのハッキネンとの対決では、ストレートでスリップストリームからオーバーテイクにかかったハッキネンの進路をふさぎ接触、1995年のベルギーGPでは何度もラインを変えてデイモン・ヒルの進路を阻んで接触、1997年のヨーロッパGPでのジャック・ヴィルヌーブとの接触では、完全に前に出たヴィルヌーブのマシンのサイドポンツーンに、自身のマシンのフロントタイヤをぶつけている。復帰後の2010年ハンガリーGPでは、背後からホームストレートで横に並んだバリチェロをコンクリートウォール直前まで幅寄せし、危険な行為として次戦での10グリッド降格ペナルティを受けた。これに対してシューマッハ自身はレース直後に、「何も悪いことはしていない」とコメントしていたが[34]、後に自身のホームページ上で非を認めるコメントを掲載した[35]。シューマッハとは家族ぐるみの間柄であるジャン・アレジでさえ、「ドライビングスタイルには敬意を持っているが、レースに関してはアイルトンほど好きではない。アイルトンとはリスクを感じずにレースでバトルができる。しかし、ミハエルを本気で追い越そうとすると、彼はなんらかのことをやってきて、接触することになるからね。ミハエルは自分が抜かれるという事実を認めることができないから、ジグザグに走ったりするんだ。ジグザグ走行というものをF1に持ってきたのは、ほとんど彼と言っていい[36]」と語っている。そのアレジ自身も実際に、1995年のオーストラリアGPでシューマッハと接触してリタイアを余儀なくされた経験がある。
開発能力は、ブリヂストンの浜島裕英によると「(タイヤに関して)他のドライバー(ルーベンス・バリチェロ、ルカ・バドエルら)では決めきれない部分を決めてくれる」一方で「差がないものは差がないと言って、無理にコメントしないところもありがたい」、「開発の方向性をバシッと出してくれるところがすごい」等と語っている。浜島曰く「テストドライバーとしてシューマッハに匹敵する能力を持つのは星野一義とデビッド・クルサードくらいである[37]」という。しかし「セッティングはうまくなかった」とチームメイトであったエディ・アーバインは証言し、「ミハエルはエンジン開発をするのはうまくても、テストはあまりうまくなかった。彼が新しいフロントウィングを試してみて気にいらないと言ったのに、俺が同じウィングを使ったら、コンマ5秒も速くなったんだから[15]」と語っている。
デビッド・クルサードは、「ミハエルは決してプレッシャーに強いタイプではない、彼は追い込まれると文句ばかり言う。人が文句を言う時は、何かに脅威を感じているからなんだ」と評している[38]。
特筆されるレース
以下、しばしば特筆されるレースを挙げる。シューマッハ自身はF1デビュー20周年(2011年)のインタビューにおいて2000年日本GPをベストレースに挙げ、その他のランキングには1994年ブラジルGP、1994年スペインGP、1995年ベルギーGP、1998年ハンガリーGP、2006年ブラジルGPを挙げている[39]。
- 1991年全日本F3000選手権第6戦
- シューマッハは国際F3000には参戦しなかったが、1991年の全日本F3000第6戦・菅生にチーム・ルマンの3台目としてスポット参戦している。イギリスで行われたラルトのテスト時に、ラルトの開発ドライバーのデビッド・ブラバムと共にシューマッハを走らせたところ、初めてのF3000マシンにも関わらずシューマッハの方がブラバムより速かったため起用された[40]。レイナードやローラに対してハンディのあるラルトに乗り、チームメイトのジョニー・ハーバートが予選21位に沈む中、予選で4位を獲得。決勝でも2位に入る活躍を見せた。
- このレースでシューマッハから0秒4差の3位に入った中谷明彦は「後ろから見ていて、シューマッハは大した奴だと思った。ミスをしないんだよ。とてもF3000が初めてだとは思えないね」と語り[41]、当時エディ・アーバインを擁して全日本F3000を戦っていたセルモの佐藤正幸は「優れたドライバーというのは、あらゆる点で優れている」とシューマッハの印象を語った[42]。
- 当時の国際F3000以下の下級フォーミュラがバイアスタイヤを使用していたのに対し、全日本F3000はF1と同じラジアルタイヤを使っており、来日した外国人ドライバーは今までの経験と異なる感覚に、タイヤの使い方の習得に苦労を強いられていた。後にF1でともに仕事をすることになるブリヂストンの浜島裕英は、タイヤの特性を詳細に質問する彼の姿勢と、それを元に実際に短時間の練習走行でタイヤを使いこなしてしまったその才能に強い印象を受けたという[43]。
- シューマッハは全日本F3000への参戦理由について「フォーミュラでの経験が欲しかったからなんだ。特に日本を選んだ理由は、予選用タイヤの存在だ。そのフィーリングを自分の身体で覚えておきたかったからなんだ。将来への経験としてね」と語っている[44]。弟のラルフも1996年に日本でレースを行っていたとき、フォーミュラ・ニッポンでは同じチーム・ルマンに所属していた。
- 1992年第12戦ベルギーGP
- F1デビューを果たした地での2回目のレース。濡れた路面が乾きつつある時点でコースアウトを喫し、チームメイトのマーティン・ブランドルに先行された。そこでブランドルのリアタイヤを観察し、レインタイヤにブリスターが発生している状況を見て取ると、すかさずピットインしてスリックタイヤへ履き替えた判断が功を喫し、自身初優勝を遂げた。
- 1994年第5戦スペインGP
- レース前半、ギアトラブルにより5速以外は使用不能となる。首位の座こそウィリアムズのデイモン・ヒルに讓ったものの、残り40周以上あったレースを5速ギアだけで走りきり2位に入賞した。通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速でストールさせることなく行っており、ドライビングテクニック、集中力、体力とその実力をあらためて評価された。シューマッハは「Cカーでの経験が役立った。異なるラインを取って、スムーズに走ることを心がけた[45]」と語り、ロス・ブラウンは冗談交じりに「彼に6つもギアが必要なのか考えてしまうよ」とコメントした。
- 1995年第14戦ヨーロッパGP
- この年のチャンピオン争いの実質的な最終局面で、ウエットな路面で始まったレース。残り10周を切った時点でタイトルを争っていたヒルがリタイアしていたため、チャンピオン争いの帰趨はすでに見えていたが、地元レース(ニュルブルクリンク)において勝つことをあきらめず、残り3周というところで1ストップで勝負したジャン・アレジを最終コーナー手前のシケインでアウト側から抜き去り優勝をもぎ取った。
- 1996年第7戦スペインGP
- 豪雨の中でコースアウト続出、完走6台という荒れたレースとなった。シューマッハはスタートで6位と出遅れたが、他のマシンよりも4秒速いペースでトップに浮上し、最後には2位のアレジに45秒差をつけてフェラーリ移籍後の初優勝を遂げた。この年の両タイトルを獲ったウィリアムズのパトリック・ヘッドは、シーズン後に「我々のチームは今年全てのレースに勝てる車を用意したと自負している」と述べた上で「ただ、スペインGPのミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った。
- 1998年第13戦ハンガリーGP
- シューマッハとロス・ブラウンのコンビネーションを象徴するレース。オーバーテイクが難しいハンガロリンクでマクラーレンの2台に前を塞がれた状況を打開するため、ピットストップ回数を予定の2回から3回に変更。2回目の給油時間を短くしてマクラーレン勢の前に出ると、燃料の軽い状態で自己ベストペースを維持し、「19周で25秒のマージンを稼ぐ」というミッションを遂行して3回目の給油後もトップを守り切り、逆転優勝した。
- 1999年第15戦マレーシアGP
- 第8戦イギリスGPで脚を骨折して以来7戦ぶり、3か月ぶりのレースであったが、予選でポールポジションを獲得。決勝では3周目にポイントリーダーでチームメイトのエディ・アーバインを先行させ、自身は2位に下がり、マクラーレンの3位クルサードと4位ハッキネンの前を走行。すでにタイトル争いから脱落していたクルサードには抜かれたが、アーバインと争っていたハッキネンに対して高速コーナーで突然アクセルを戻すことをしながら、ブロックし続けた[14]。アーバインはそのまま逃げ切り優勝し、シューマッハは2位、ハッキネンは3位であった。この活躍により、最終戦を残してアーバインはドライバーズタイトルに、フェラーリはコンストラクターズタイトルにそれぞれ王手をかけることとなった。
- 2000年第16戦日本GP
- シーズンを通して続けられたハッキネンとの対決の最終戦。予選から僅差の争いとなり、決勝ではスタートでハッキネンに先行されたが、小雨が降り出した状況で2回目のピットインを遅らせて逆転優勝。フェラーリ移籍5年目で念願のチャンピオン獲得を果たした。シューマッハはのちに「ピット戦略も含めて、最初から最後までものすごい勝負だった。他のレースとは一線を画していた」と振り返った[39]。
- 2003年第6戦オーストリアGP
- ピットでの給油作業中、給油口付近のガソリンに引火。ピットクルーが慌てて消火剤をかけたが、シューマッハはコクピット内で動じることなく、バックミラーで消火作業を確認してから再発進して優勝した。インタビューでなぜ動揺しなかったのかと尋ねられると、「メカニックたちは普通に作業をしてくれた。コックピットから出ろという指示がないかぎり、私は走るべき立場だから」と答えた[46]。
- 2004年第10戦フランスGP
- ルノーのフェルナンド・アロンソとのトップ争いになったが、常に先手でピットストップを行い、当時常識的な作戦とされた3回を上回る4回のピットストップを行いながらも、レースペースで圧倒して優勝を飾った。上述の1998年ハンガリーGPと並ぶ、シューマッハとブラウンのコンビによる戦略的勝利と位置づけられるレースとなった。
- 2006年第18戦ブラジルGP
- ルノーのアロンソに10ポイントのビハインドで迎えた最終戦。アロンソのチームメイトであるジャンカルロ・フィジケラと接触してパンクし最後尾に転落したが、最後まで諦めず4位まで挽回。マクラーレンのキミ・ライコネンとサイド・バイ・サイドのバトルを展開し、力の衰えという限界説を一蹴して1度目の引退レースを締めくくった。
- 2011年第12戦ベルギーGP
- デビュー20周年を迎えたメモリアルレース。予選Q1でピットアウト後タイヤが脱落してしまいバリアに激突。最後尾の24位からスタートしたが、ピット戦略が上手くいったこともあり、19台抜きという驚異的な走りで5位フィニッシュした。数々のバトルがあったためシューマッハ自身も「追い抜きを心から楽しんだ」とコメントした。
物議を醸したレース
- 1990年マカオGP
- マカオGPの第1レグではハッキネンから約5秒遅れの2位。第2レグでも先行しながらハッキネンを引き離せず、総合タイムでハッキネンの優勝が濃厚かと思われた。しかし、ファイナルラップのメインストレートでオーバーテイクを仕掛けてきたハッキネンをブロックして接触。ハッキネンはクラッシュし、シューマッハはリヤウイングが脱落したものの、残り1周を走りきって総合優勝を手にした。
- シューマッハはハッキネンのガレージに行き「すまなかった。君が後ろにいるなんて見えなかったんだ」と謝ったが、ヨーロッパに戻ってテレビ出演した際、接触のことを聞かれると「ミカのことは見えていたよ。だからブロックしたんだ。あの状況では、僕は勝つために当然のことをしたと思うよ」と答えた[47]。
- 1994年第16戦オーストラリアGP
- 1点差のランキング1位で迎えた最終戦。タイトルを争っていたデイモン・ヒルとバトルを繰り広げたが、36周目にトップを走っていたシューマッハはコースアウトしコース脇のウォールに車体右側を当ててしまう。この機を逃すまいとしたヒルは次のコーナーでインを刺すが、シューマッハがアウト側から阻んだことで両者は衝突し、シューマッハのマシンはヒルに弾き出されタイヤバリアに突き刺さり、この時点でシューマッハはリタイアとなる。ヒルもスローダウンしながらピットまでは戻ったものの、左サスペンションロッドが曲がっておりリタイアを余儀なくされた。当時のビデオを見ると、最初に単独コースアウトした時点でシューマッハのマシンはダメージを受けており、ステアリング操作に問題を抱えていることが判る。そのままレースを継続することは不可能と考えられ、ヒルをブロックする正当な理由は見あたらない。またシューマッハのヘルメットの動きから視線を追うと、後方からオーバーテイクを試みるヒルのマシンの動作を認識していることが確認出来る。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から物議を醸した。
- 1995年第11戦ベルギーGP
- 雨絡みの予選で16位に沈むが、レースでは他がレインタイヤに交換する中で唯一スリックタイヤを履き続けて首位に躍り出る。レインタイヤを履くデイモン・ヒルが追いつき抜きにかかるも、シューマッハは何度もラインを変えて2周にわたりヒルをブロックし続けた。その後ヒルに抜かれたが、コンディションの回復により再び首位に立ち、最終的にギャンブルを成功させたシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。しかし、ヒルへ危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。また、次戦から「後方のマシンをブロックする際の進路変更は一度のみ」という新たなレギュレーションが設けられた。
- 非難を浴びた一方で、全91勝の中で一番後方のスタートから追い上げ、雨が降っている中、2周に渡ってドライタイヤで抑えきったということで、FIAの処分も下手な演出だと笑い飛ばすジャーナリストたちもおり、イギリスの『F1 Racing』誌(2008年6月号)が掲載した「史上最高のドライバートップ100ランキング」では、キャリアハイライトと捉えている[48]。また、シューマッハ自身は過去のベルギーGPの中でこの1995年が一番良い思い出と語っている[49]。
- 1997年第17戦ヨーロッパGP
- 1994年と同様、1点差のランキング1位で迎えた最終戦。前回のこともあり、FIAの配慮により、レース前にタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴと、お互いにフェアなレースをする誓い合いが行なわれた。決勝では1位シューマッハ、2位ヴィルヌーブのまま、2度目のピットイン終了。シューマッハのペースが落ち、ヴィルヌーブが0.5秒以内に差を詰めてきた。48周目のドライサックヘアピンへの進入でヴィルヌーブがシューマッハのインをつき、切り込んだシューマッハの右前輪がヴィルヌーブの車体の左サイドポンツーンに接触。シューマッハは弾き出されグラベルに嵌り、後輪が空転して脱出できずにリタイアした。一方のヴィルヌーブは3位で完走し、タイトルを獲得した。
- FIAは「シューマッハがヴィルヌーブに故意にぶつけ、リタイアへ追い込もうとした」と判断。シーズン終了後の11月11日、FIAに召喚されたシューマッハは、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁の一環として、シューマッハはFIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。
- 1998年第7戦カナダGP
- ピットアウト直後にシューマッハは後方から接近したハインツ=ハラルド・フレンツェンをブロックし、フレンツェンはグラベルに押し出される形でリタイヤとなる。これに激怒したウィリアムズのパトリック・ヘッドがフェラーリ陣営に猛抗議し、シューマッハは10秒のピットストップペナルティを課せられた。シューマッハは優勝記者会見で「ミラーを見ていなかった」と主張したが、この出来事により以後、ピットレーン出口に白線が敷かれ、この白線を踏むとドライブスルーペナルティが課せられるようになった。
- 1998年第13戦ベルギーGP
- 決勝当日の雨で波乱続きのレース、2回目のスタートでヒルに続く2位を暫く走行の後、8周目のバスストップシケインでヒルを交わして首位に浮上する。しかし周回遅れのデビッド・クルサードを抜こうとして追突する格好になり、左フロントタイヤ周りを吹き飛ばしてリタイア。ガレージでマシンを降りるや、鬼の形相でクルサードに詰め寄り、罵声を飛ばす。評議会にも訴えたが、クルサードに故意は認められないとして却下される。この背景には毛嫌いしているヒルに序盤先頭を走られた事で冷静さを失った、と複数のジャーナリストが推測している。
- 2002年第6戦オーストリアGP
- 首位を走るルーベンス・バリチェロに続く形でフェラーリの1-2体制で走行中、ファイナルラップのフィニッシュライン直前でバリチェロが順位を譲った。チームの判断によるものだったが、チームオーダーによる露骨な順位の変更に、観客から罵声を浴びせられた。これに配慮する形で、表彰台ではバリチェロに最上段を譲ったが、表彰式のルールに従わなかったとしてFIAから罰金を課せられた。FIAは2003年よりチームオーダー禁止規定を導入した(2010年まで)。
- 2008年11月25日、ブラジルのテレビ局「Rede Globo」の番組「Fantastico」に出演したバリチェロはこのレースに言及した。バリチェロによると、首位走行中に残り8周に差し掛かかった時点で、ピットから指示が入った。そして「後ろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要なことか分かるな」と言われ、周回が進むにつれて言葉が強くなり、「もし従わない場合は、契約を考え直す」と言われたという。さらにバリチェロは、このことを「シューマッハが知っていた証拠がある」とも語った[50]。
- 2006年第7戦モナコGP
- 前年度覇者、ルノーのアロンソとの新旧王者対決シリーズとして注目されたが、予選の最終局面で先にトップ・タイムを出したシューマッハは「ドライビングのミス」によりラスカスコーナー出口でストップし、結果としてアロンソらのアタックを妨害する形となった。これによりポールポジションを獲得するも審議対象となり、故意と裁定され、予選タイム抹消のペナルティが課せられた(通称「ラスカスゲート」)。
- 2010年第12戦ハンガリーGP
- レース終盤、ブレーキの不調からペースの上がらないシューマッハに対して、ウィリアムズのバリチェロが背後に迫り、ホームストレートでオーバーテイクを試みるが、シューマッハはイン側に出たバリチェロに対して幅寄せし、バリチェロは時速300km以上のスピードであわやコンクリートウォールに接触する寸前まで追い込まれた。これが危険なドライビングとみなされ、次戦での10グリッド降格ペナルティを受けた。
- 3度のワールドチャンピオン、ニキ・ラウダはこの行為に対し「あのような方法でライバルを危険にさらす必要性はまったくない。なぜ彼がこういうことをするのか理解できない」とコメントした[51]。その他にも元チームメイトのアーバインや[52]、ロータスのマイク・ガスコイン、デビッド・クルサード[53]、アレクサンダー・ヴルツ、マルク・ジェネ、ジャッキー・スチュワート、ジョン・ワトソンなど[54]各方面から批判の声が寄せられた。
- 各国のメディアもこの件を厳しく批判した。イギリスのデイリー・テレグラフ紙は、「シューマッハのF1における傲慢な行いは、もはや許容しがたい」として再度引退することを要求[55]。イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は、「傲慢なシューマッハは後悔の念を示してこなかったが、今回も同じだった。彼が間違いを犯すことはないようだ。今回、最悪の結末にならなかったのは奇跡だ」とした[56]。
- このレースでスチュワード補佐を務めた元F1ドライバーのデレック・ワーウィックによると、レース中にシューマッハに黒旗を提示して失格にしたかったが、時間がなく間に合わなかったという。次戦での10グリッドペナルティについては妥当だとしながらも、2戦にわたって出場停止にすることも考えたという。また、レース後の事情聴取の際のシューマッハの対応も、非常に残念なもので落胆したとコメントしている[57][58]。
- ただし、この件に関して、小林可夢偉は「ストレートで並んだら、幅寄せされるのが当然」というように、バリチェロへの対応に対して他とは違った意見を述べた[59]。
- 2011年第13戦イタリアGP
- マクラーレン勢、特にルイス・ハミルトンとの激戦となったレース。ハミルトンをかわして3番手に浮上すると、20周近くに渡り、互いに何度もポジションを入れ替えあう激しいバトルを展開した(シューマッハ自身も「ルイスとの距離が近くて、僕のミラーが小さく見えるくらいだったよ」とコメントした)。厳しいディフェンスを続けたため、FIAからメルセデスチームへ警告が出され、ロス・ブラウンは「ハミルトンにもっとスペースを残すように」と無線連絡した[60]。
- レース後に、スチュワードのデレック・デイリーは問題のシーンを見逃していたと述べ、ビデオを見返した結果「シューマッハにはドライブスルーペナルティーを科すべきだった」と述べた[60]。
人物・エピソード
- ドイツ語の発音原則に従えば「ミヒャエル・シューマッハー」の方が原音に近い表記となる。本人は名前をどう発音してほしいか尋ねられ「英語式にマイケルと呼んでほしい」と答えている。
- ジャン・アレジ、後藤久美子夫妻とは家族ぐるみで仲が良く、互いの家族と一緒にパリのデパートでショッピングをしているところをパパラッチされている。
- 同時代のあらゆるアスリートの中でも屈指の高給取りで、最盛期には年間8000万ドルの収入があると言われていた[61]。アメリカの経済誌「フォーブス」が発表するアスリート長者番付では毎年タイガー・ウッズと1位を争った。しかし、多くのF1レーサーの居住地である所得税ゼロのモナコではなく、政府と免税契約をした上で「静かな生活が送れる」スイスに住居を構え、移動に使う自家用ジェット機は弟ラルフ所有機の豪華さに対し、スピードに勝る機能優先の仕様であることでも知られている。生活は至って堅実であるとされ、実際に問題めいた話は一切聞かれない。また、服装にもそれほど頓着せず、イギリスのマスコミなどはしばしばシューマッハのファッションセンスを取り上げて茶化すことがある。
- サッカーの腕前は趣味の粋を超えプロフェッショナル級であり、38歳の頃に自宅付近のスイス3部のチームに所属していたこともある。また、FIFA公認のチャリティーマッチ「ジダンフレンズ vs ロナウドフレンズ」において、ジダンフレンズの一員としてピッチに立ったこともある。ブンデスリーガの1.FCケルンのファンでも知られ、尊敬する人物としてケルンのスター選手であるハラルト・シューマッハーと答えたことがある。(ミハエル自身はハラルトの愛称である“トニ”を用いて尊敬する人物はトニ・シューマッハと答えた)
- UEFA EURO 2008がスイスで開催された際には(オーストリアとの共催)、ロジャー・フェデラーやペーター・ザウバー、シモーネ・ニグリ=ルーダー、ステファン・シャプイサらとともに親善大使に選ばれた。
- アイルトン・セナが事故死した1994年の第3戦サンマリノGP後、フジテレビのインタビューで「セナは僕の憧れだった」と語った。
- 2000年イタリアGPでセナと並ぶ41勝目を挙げた。レース後の記者会見ではミハエルへの最初の質問で「これで勝ち星がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」に、「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん……」とミハエルが泣き崩れた為、インタビュアーが2位ミカ・ハッキネンと3位ラルフ・シューマッハを先にインタビューするハプニングが起きた。テレビ中継後の会見で再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ。ここはイタリアだよ。そして僕はここ数戦ずっといい結果が残せていなかった。でも、今日やっと復活したんだ。この41勝には多くの人々の支えがあったんだ。だから、1998年に優勝したときよりもすごくうれしいんだ」と答えた[62]。
- 2007年12月には、家族を連れて子犬を受け取るためにドイツ・コーブルク郊外の村へ向かった際、帰りの飛行機の時間が迫っていた関係から、乗っていたタクシー運転手に頼み込み、自らタクシーのハンドルを握って猛スピードで空港へ向かった。ただこのことが世界的に大きく報道されると「ドイツ国内の交通法規に違反しているのではないか」と問題となり、シューマッハが警察の捜査対象となる事態に発展した[63]。
- 2007年にはバレンシアサーキットで、ロードレース世界選手権(MotoGP)用のマシンであるドゥカティ・デスモセディチをテストし、同年にダニ・ペドロサが記録したポールポジションタイムの5秒落ちの好タイムを刻んだ。2008年にはドゥカティのテストライダーが負傷したため、急遽代わりに走りレギュラーライダーの0.8秒落ちのタイムを記録した。引退後は2輪レースへ散発的に参戦もしているが、本格的に転向する意志はないとしている。
- F1界でその名声を確立した1990年代後半頃からは、チャリティに熱心に取り組むようになり、先にも述べたチャリティ・サッカーにも積極的に参加しているほか、ユネスコに毎年200万ドル程度の寄付を行うなどしている。2004年のスマトラ島沖地震に際して1000万ドルもの寄付をした時は、普段F1を取り上げることも稀な日本のマスメディアにおいても話題となった。この地震ではシューマッハのボディガードを務めていた男性とその息子が、タイでこの地震による津波に巻き込まれて亡くなっていた。
- ビル・クリントン元合衆国大統領が運営する人道支援基金寄付者リストの上位に、名を連ねている。これまでに寄付した金額は500万-1,000万ドルであると推測されている。寄付金は、エイズ対策や温暖化対策などに利用されている[64]。
- 以前より、BBCの人気自動車番組『トップ・ギア』に登場する覆面ドライバー、ザ・スティグ(2代目)の正体ではないかと噂されていた。2009年6月に第13シリーズのエピソード1にはその噂に答える形で同番組にシューマッハがスティグの格好で登場し話題を呼んだが、司会のジェレミー・クラークソンも「私はスティグがシューマッハではないと思う」と発言し、エンディングのスタッフロールでも他のゲスト同様「スペシャルゲスト」としてスティグとは別にクレジットされた。[65][66]。なお、同エピソードにはスティグに代わり、フェラーリ・FXXのパワーラップにドライバーを務めており、パワーラップ最速記録1:10.7を出した(ただし、FXXはイギリスの公道を合法的に走行できない(スリックタイヤを使用)により、次エピソードにはこの記録が除外する)。
- 2007年のピクサー製作のアニメーション映画『カーズ』で、擬人化されたフェラーリ・F430の声優としてカメオ出演している。
- 2004年前半、シューマッハは元WRC世界チャンピオンのペター・ソルベルグとスウェーデンで会い、彼とパートナーを組んでこの年のスウェーデンラリーに出場した。雪の森の道だったために26キロ地点でリタイアと言う結果に終わった。
- ドイツ語圏でのニックネームは、ミハエルのが「シューミー」、弟のラルフが「シューミー2(ツヴァイ)」、義理の弟のセバスチャンが「シューミー3(ドライ)」である。
- 2010年の復帰時、最初のエントリーリストでのカーナンバーはニコ・ロズベルグが3、自身が4だった。これを直接交渉し、入れ替えてもらったという話がある。理由は「チャンピオンは常に奇数のナンバーだから」ということだった。以後3年間、シューマッハは若いナンバーをもらっていたが、ロズベルグはQ3未出走の時にカーナンバーによって順位が決められる事もあり、ロズベルグの方が後ろのグリッドになってしまうため、あまり良い思いはしていなかったと語っている。ちなみに、ジョーダンでのデビュー戦以外、全てのレースを奇数のカーナンバーで戦っている。また、ジョーダン時代を含めた全レースで若いカーナンバーを付けている。似たエピソードを持つドライバーとしてジャン・アレジやクリスチャン・アルバースがいるが、アレジが付けた27はフェラーリのエースナンバー、アルバースは若いナンバーを譲っているためシューマッハのケースとは少し異なる。
家族構成
父ロルフと母エリザベートの間に生まれた長男で、元F1ドライバーのラルフ・シューマッハは実弟。両親は離婚しているが、ロルフが再婚後もうけた義弟セバスチャン・シュタールもレーサーとなっている。
2003年サンマリノGP決勝の数時間前、母エリザベートが死去し、ミハエルは腕に喪章を巻き、ラルフは黒いヘルメットでレースに臨んだ。ミハエルは優勝、ラルフは4位入賞を果たした。
妻はコリーナ・シューマッハ(旧姓ベッチュ)。コリーナはメルセデス・ジュニアチームのミハエルの同僚だったハインツ=ハラルド・フレンツェンの恋人だったが、フレンツェンとの関係が破局し、ミハエルに慰められるうちに交際するようになった[67]。1995年、ふたりの結婚式がドイツ中部のペーターズベルクで4日間に渡って行われ、結婚式最終日の8月1日にミハエルの地元ケルペンで入籍した。ペーターズベルクは中世の城を活かしたリゾート地で、小高い山の上の古城ホテルやレストランなどがある。ドイツきっての2人のF1レーサーを巻き込んだ恋の鞘当ては、当時のマスコミの格好のネタであったため、ペーターズベルクの山頂への道を一切シャットアウトして結婚式が行われた。
その後、1997年に長女ジーナ=マリア、1999年に長男ミックの2子を儲けている。ミックは2008年にカートレースデビューし[68]、2015年にADAC・F4選手権に参戦[69]。2016年はADAC・F4とイタリアF4選手権に参戦し両方とも2位の成績を収め、2017年はヨーロッパF3へステップアップする[70]。
シューマッハ一家はドイツではなく、プライバシー保護(および税金優遇措置)のためF1ドライバーに人気のあるスイスに居住している。2007年にはジュネーブ湖湖畔に居住面積700平方メートルの新居が完成した。1996年から2006年まではウィンタースポーツを楽しむため、ノルウェーに別荘を持っていた。静かな生活を希望するシューマッハ家族のために、この別荘の持ち主の名前は長らく隠されており、ノルウェーの地元住民にもあまり知られていなかった。F1を引退した後、このノルウェーの別荘は売られ、その代わりにフランスのリゾート地クールシュヴェルに別荘を購入している。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | カーナンバー | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | ジョーダン / ベネトン | 32/19 | 4 | 12位 | 5位・1回 | 0回 | 5位・1回 |
1992年 | ベネトン | 19 | 53 | 3位 | 1位・1回 | 8回 | 2位・1回 |
1993年 | 5 | 52 | 4位 | 1位・1回 | 9回 | 2位・1回 | |
1994年 | 5 | 92 | 1位 | 1位・8回 | 10回 | 1位・6回 | |
1995年 | 1 | 102 | 1位 | 1位・9回 | 11回 | 1位・4回 | |
1996年 | フェラーリ | 1 | 59 | 3位 | 1位・3回 | 8回 | 1位・3回 |
1997年 | 5 | 78 | 2位(後に剥奪)* | 1位・5回 | 8回 | 1位・3回 | |
1998年 | 3 | 86 | 2位 | 1位・6回 | 11回 | 1位・3回 | |
1999年 | 3 | 44 | 5位 | 1位・2回 | 6回 | 1位・3回 | |
2000年 | 3 | 108 | 1位 | 1位・9回 | 12回 | 1位・9回 | |
2001年 | 1 | 123 | 1位 | 1位・9回 | 14回 | 1位・11回 | |
2002年 | 1 | 144 | 1位 | 1位・11回 | 17回(全戦) | 1位・7回 | |
2003年 | 1 | 93 | 1位 | 1位・6回 | 8回 | 1位・5回 | |
2004年 | 1 | 148 | 1位 | 1位・13回 | 15回 | 1位・8回 | |
2005年 | 1 | 62 | 3位 | 1位・1回 | 5回 | 1位・1回 | |
2006年 | 5 | 121 | 2位 | 1位・7回 | 12回 | 1位・4回 | |
2010年 | メルセデス | 3 | 72 | 9位 | 4位・3回 | 0回 | 5位・1回 |
2011年 | 7 | 76 | 8位 | 4位・1回 | 0回 | 5位・1回 | |
2012年 | 7 | 49 | 13位 | 3位・1回 | 1回 | 1位・1回* |
- 1997年については、ポイントテーブル上は2位に相当するが、最終戦でのジャック・ヴィルヌーヴとの接触行為についてのペナルティとしてランキングから除外された(ただし、各レースでの成績は有効とされた)。
- 2012年第6戦モナコGPは予選でポールポジションを獲得したものの、第5戦スペインGPでのペナルティにより決勝グリッドは6番手に降格。
グランプリ別・年別の優勝回数
下記の表中の数字は、その時点での通算勝利数を示す。(例:1995年ベルギーGPでは通算16勝目)
年 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2010 | 2011 | 2012 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ベルギーGP | 1 | 16 | 21 | 26 | 52 | 63 | 6勝 | |||||||||||||
ポルトガルGP | 2 | 1勝 | ||||||||||||||||||
ブラジルGP | 3 | 11 | 37 | 55 | 4勝 | |||||||||||||||
パシフィックGP | 4 | 18 | 2勝 | |||||||||||||||||
サンマリノGP | 5 | 34 | 38 | 56 | 65 | 74 | 85 | 7勝 | ||||||||||||
モナコGP | 6 | 13 | 23 | 35 | 48 | 5勝 | ||||||||||||||
カナダGP | 7 | 24 | 29 | 40 | 59 | 68 | 77 | 7勝 | ||||||||||||
フランスGP | 8 | 14 | 25 | 30 | 50 | 61 | 79 | 88 | 8勝 | |||||||||||
ハンガリーGP | 9 | 32 | 51 | 82 | 4勝 | |||||||||||||||
ヨーロッパGP | 10 | 17 | 39 | 49 | 76 | 86 | 6勝 | |||||||||||||
スペインGP | 12 | 20 | 47 | 57 | 66 | 75 | 6勝 | |||||||||||||
ドイツGP | 15 | 62 | 81 | 89 | 4勝 | |||||||||||||||
日本GP | 19 | 27 | 43 | 53 | 64 | 83 | 6勝 | |||||||||||||
イタリアGP | 22 | 33 | 41 | 69 | 90 | 5勝 | ||||||||||||||
アルゼンチンGP | 28 | 1勝 | ||||||||||||||||||
イギリスGP | 31 | 60 | 80 | 3勝 | ||||||||||||||||
オーストラリアGP | 36 | 45 | 54 | 71 | 4勝 | |||||||||||||||
アメリカGP | 42 | 70 | 78 | 84 | 87 | 5勝 | ||||||||||||||
マレーシアGP | 44 | 46 | 72 | 3勝 | ||||||||||||||||
オーストリアGP | 58 | 67 | 2勝 | |||||||||||||||||
バーレーンGP | 73 | 1勝 | ||||||||||||||||||
中国GP | 91 | 1勝 | ||||||||||||||||||
0勝 | 1勝 | 1勝 | 8勝 | 9勝 | 3勝 | 5勝 | 6勝 | 2勝 | 9勝 | 9勝 | 11勝 | 6勝 | 13勝 | 1勝 | 7勝 | 0勝 | 0勝 | 0勝 | 91勝 |
- 最多勝利数グランプリはフランスグランプリの8勝で、国別ではイタリアの12勝(サンマリノグランプリ7勝とイタリアグランプリ5勝)である。
年度別戦績
脚注
- ↑ “F1復帰シューマッハーの略歴はこちら”. nikkansport.com. (2009年12月23日) . 2011閲覧.
- ↑ ZEITGEIST MEDIA 『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡 - Danke,Schumi!』 原田京子訳、ブックマン社、2007年、57。
- ↑ フィアット・パンダのエンジンを搭載する小型フォーミュラカー。
- ↑ 『F1 RACING 日本語版』、三栄書房、2011年10月、 62頁、. 2011閲覧.
- ↑ 『F1速報特別編集 ミハエル・シューマッハ全記録 1984 - 2006』 イデア、2007年。
- ↑ 『週刊オートスポーツ』2011年11月2日号、三栄書房、2011年、 32頁。
- ↑ 7.0 7.1 「PADDOCK NEWS」『F1グランプリ特集』9月号、ソニー・マガジンズ、1994年、29頁。
- ↑ 『週刊オートスポーツ(1994年10月15日号)』 三栄書房、1994年、30-31。
- ↑ マンセルは16戦9勝であり、勝率では劣る。
- ↑ ただしシューマッハの通算個人記録および「コンストラクターズ」部門に関しては不問とされた。
- ↑ ルールの隙をついた第9戦イギリスGPや、第7戦カナダGPと第12戦ハンガリーGPでの卓越したピットストップ作戦がある。
- ↑ 12.0 12.1 12.2 「シューマッハ クラッシュの真実」『F1速報 オーストリアGP号』 ニューズ出版、1997年、p30。
- ↑ 『F1速報 オーストリアGP号』 ニューズ出版、1997年、p5。
- ↑ 14.0 14.1 14.2 『F1速報1999総集編(12月16日号)』 ニューズ出版、1999年、pp.19 - 21, 36 - 39, 113 - 115, 138 - 140。
- ↑ 15.0 15.1 15.2 『Sports Graphic Number』第688号、文藝春秋、 44-46頁。
- ↑ 「赤井邦彦のF1多事多端」、『F1倶楽部』第35号、双葉社、2001年、 117頁。
- ↑ “メルセデス ミハエルのF1復帰を正式発表”. Gp Update. (2009年12月23日) . 2009閲覧.
- ↑ “シューマッハ、メルセデスGPとは3年契約”. Topnews. (2009年12月23日) . 2010閲覧.
- ↑ “ミハエル・シューマッハでなければクビにしていたとメルセデスGP”. Topnews. (2010年9月30日) . 2010閲覧.
- ↑ 『週刊オートスポーツNo.1253(2010年5月27日号)』 三栄書房、2010年。
- ↑ シューマッハ 「レースが楽しくない」
- ↑ 「楽しくない」。シューマッハーの発言に波紋広がる
- ↑ Qualifying Session Preliminary Classification FORMULA 1 GRAND PRIX DE MONACO 2012 - Monte-Carlo (PDF) FIAプレスリリース(英語)、2012年5月26日付
- ↑ ミハエル・シューマッハ、27億円のキャプスポンサー契約を締結 F1 Gate 2013年8月30日閲覧
- ↑ 頭部外傷のシューマッハは重体 ESPN Japan 2013年12月30日閲覧
- ↑ “シューマッハ氏 意識回復、退院していた”. スポーツニッポン (2014年6月16日). . 2014閲覧.
- ↑ “シューマッハ氏 意識回復、退院していた”. TopNews F1 (2014年9月10日). . 2014閲覧.
- ↑ “Michael Schumacher: 'paralysed and in a wheelchair”. デイリーテレグラフ (2014年11月19日). . 2014閲覧.
- ↑ ルカ・バドエル、ミハエル・シューマッハの元へ「定期的に」訪れている TopNews 2018年4月28日、同6月8日閲覧。
- ↑ autosport 2006/11/24
- ↑ アロンソ、シューマッハの“古傷”に言及
- ↑ クルサード、アロンソに同調
- ↑ Hero or villain? Schumacher reaches the end of the road
- ↑ Pablo Elizalde (2010年8月1日). “Schumacher gets 10-place grid penalty”. AUTOSPORT.COM. . 2012閲覧.
- ↑ シューマッハ、バリチェロに謝罪
- ↑ 『Sports Graphic Number PLUS F1 未知への疾走』 文藝春秋、March2000、136-139頁。
- ↑ 『GRAND PRIX SPECIAL』 2008年2月号、93-97頁。
- ↑ 『F1倶楽部』 双葉社、34号、2000年、30-33頁。
- ↑ 39.0 39.1 『F1 RACING 日本語版』2011年10月情報号、三栄書房、2011年、47頁
- ↑ 『週刊オートスポーツ (1991年9月15日号)』 三栄書房、1991年。
- ↑ 『Racing On (1991年9月15日号)』 武集書房、1991年、p.28。
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- ↑ 『世界最速のF1タイヤ』 新潮社、2005年。
- ↑ 『週刊オートスポーツ(1991年9月15日号)』 三栄書房、1991年、p.18。
- ↑ 『F1速報 1994 総集編』、ニューズ出版、1995年、32頁。
- ↑ "世界最速のF1タイヤ -ブリヂストン・エンジニアの闘い-". 新潮社、2013年3月27日閲覧。
- ↑ 「99 F1 Calendar」、『GPX(F1 Grand Prix eXpress)』第226号、山海堂、1998年、 38頁。
- ↑ F1 RACING 2008 6月号 歴代ドライバー100傑の2位ミハエル・シューマッハのキャリアハイライトより ASIN 4779604133
- ↑ 2010年ベルギーGP木曜日の記者会見より
- ↑ F1-Live.com
- ↑ ラウダ、シューマッハとベッテルを批判
- ↑ “「ミハエルの危険行為は昔から」と元チームメイト”. AUTOSPORT web (2010年8月4日). . 2012閲覧.
- ↑ シューマッハ、ベルギーGPは10グリッド降格
- ↑ Haug calls for end to Schumacher move criticism
- ↑ Michael Schumacher's arrogance can no longer be tolerated in Formula One
- ↑ ミハエル・シューマッハにメディアからの集中砲火
- ↑ シューマッハー、“時間切れ”で黒旗を免れる
- ↑ ワーウィック「シューマッハ、重罰を逃れてラッキー」
- ↑ 『週刊オートスポーツ臨時増刊 「AUTOSPORT Formula1」』 三栄書房、2011年。
- ↑ 60.0 60.1 "「ミハエルを処罰すべきだった」とスチュワード". オートスポーツweb.(2011年9月15日)2013年3月27日閲覧。
- ↑ スポーツ選手の長者番付発表、1位はF1ミハエル・シューマッハ選手。
- ↑ 『GPX』 Round 14 Italian GP、山海堂、2000年、3頁。
- ↑ MSN産経ニュース 2007年12月19日
- ↑ F1-Live.com 2008年12月20日
- ↑ トップ・ギアのスティッグ役を務めるシューマッハ - f1-live.com・2009年6月23日
- ↑ “Schumacher 'revealed' as the Stig”. BBC. (2009年6月22日) . 2012閲覧.
- ↑ ZEITGEIST MEDIA 『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡 - Danke,Schumi!』 原田京子訳、ブックマン社、2007年、40。
- ↑ “シューマッハJr.がカートデビュー”. レスポンス. (2008年4月24日) . 2011閲覧.
- ↑ “シューマッハーの息子、F4で四輪デビューへ”. AUTO SPORT web (2015年3月2日). . 2016閲覧.
- ↑ “ミック・シューマッハ、来年はF3へ”. ESPN F1 (2016年12月24日). . 2016閲覧.
関連項目
外部リンク
- ミハエル・シューマッハ公式サイト (ドイツ語)(英語)
タイトル | ||
---|---|---|
先代: カール・ヴェンドリンガー |
ドイツF3チャンピオン 1990 |
次代: トム・クリステンセン |
先代: アラン・プロスト |
F1ドライバーズチャンピオン 1994年-1995年 |
次代: デイモン・ヒル |
先代: ミカ・ハッキネン |
F1ドライバーズチャンピオン 2000年-2004年 |
次代: フェルナンド・アロンソ |