「イギリス領マラヤ」の版間の差分
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イギリス領マラヤ(英: British Malaya)は、18世紀から20世紀にわたりマレー半島とシンガポール島に存在した海峡植民地とその他の地域からなるイギリス支配下の連邦。
日本国内に現存する公的資料では、英領マレーとされている[1][2][3]。
概要
マレー半島南部の北緯6度55分から1度16分迄とボルネオ東岸の一島峡、インド洋の一島峡一諸島から成り立ち、行政上からは海峡植民地とマレー連邦(マレー連合州)、非マレー連邦(非連合州)と概ね3種に区分される。
海峡植民地 | イギリス本国の直轄地 | シンガポール、マラッカ、ペナン、ココス島、クリスマス島、ラブアン島 |
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マレー連邦 | 英国海峡植民地総督の下で連邦を組織 | ペラ、セランゴール、ネグリ・セムビラン、パパン |
マレー非連邦 | イギリスの顧問が條約締結により統治に参加、連邦を組織せず地域間の相互協力を有しない | ジョホール、ケダー、ペルリス、ケダン、トレンガヌー |
錫鉱床
錫は1870年代に急工業化した欧州でおよそ枯渇してしまっていた。それ以前から、後に華僑となる苦力を集約した中国系の鉱山所有者が、マレーで地元農民を駆使しながら錫を採掘していた。イギリスは1874年からマレー西部の各地に駐在官を設置したが、当分は中国人事業が採掘を担った。錫の生産量は1871年に6000トンであったが、1895年には5万トンに膨れた。[4]
錫は、古来から合金にする使い方もあったが、1870年代以降に増えた利用法というのは缶のメッキである。1895年以降、錫の消費は電気メッキという技術革新によって増加の勢いが徐々に緩やかとなった。しかし、需要が減るなどということは決してなかった。[4]
そしてイギリス人と中国人は順に精錬と採掘において技術を競うようになった。イギリス人は株式会社をつくって技術革新に膨大な資本を投下できたのに対し、中国人は頑なに個人経営を続けたので、採掘の容易な鉱床が掘りつくされるに伴い、湿地からもゴールドラッシュで性能実証済みの浚渫機で深く掘れるヨーロッパ資本が徐々に台頭した。一方で労働条件と環境保護の両面から法規制が進み、これもヨーロッパ資本へ有利に働いた。やがて世界恐慌で中国人企業は次々に倒れた。[4]
錫は価格を吊り上げても、缶などのメッキされた製品は値上げ幅が知れている。1931年、マラヤ政府は生産を制限するためにオランダ領東インド、ボリビア、ナイジェリアとカルテルを結んだ。[4]
日本軍政期
マラヤは1942年から1945年まで日本の占領下にあり、シンガポールは昭南島と改称された。日本の軍政下では当初、統治者である日本軍と被統治者である現地住民の間に意思疎通に困難が生じた。日本はこのころシャムの協力に報いてケダ州を譲渡した。日本のポツダム宣言受諾後、マラヤとシンガポールはイギリス軍政下におかれた。
脚注
- 注釈
- 出典
関連項目
- イギリス帝国
- 海峡植民地
- マレーヤ (戦艦) - クイーン・エリザベス級戦艦の5番艦。英領マレーからの献金により建造されたため、マレーヤの名が冠された。