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[[Image:Al-Kamil Muhammad al-Malik and Frederick II Holy Roman Emperor.jpg|thumb|フリードリヒ2世(左)と会見するアル=カーミル(右)]]
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'''第6回十字軍'''(だい6かいじゅうじぐん、[[1228年]] - [[1229年]])は、[[神聖ローマ皇帝]]兼[[シチリア王国|シチリア]]王[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が[[破門]]されたまま遠征した[[十字軍]]で、戦闘はほとんど行わず、交渉により[[エルサレム]]を取り戻すことに成功した。
 
 
 
==背景==
 
[[第5回十字軍]]は失敗に終わり、原因の一つとして、[[教皇]][[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]との交渉により[[1220年]]に皇帝に戴冠し、十字軍遠征を誓いながら出発しなかったフリードリヒ2世が非難された。ホノリウス3世も破門をちらつかせて、新たな十字軍の遠征を迫った。しかし、元々宗教的に寛容なシチリア王国に育ったフリードリヒ2世は十字軍には熱狂せず、十字軍を[[イタリア政策]]における教皇との交渉材料として認識しており、[[地中海]]から[[パレスチナ]]に神聖ローマ帝国=シチリア王国の勢力を拡大することを目的としていた。
 
 
 
[[1225年]]には[[エルサレム王国|エルサレム]]王[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]の要請に応えて、その娘でエルサレム女王である[[イザベル2世 (エルサレム女王)|イザベル2世]]と結婚し、エルサレム王位を得た。しかし、さらに2年間の引き延ばしを行い、[[1227年]]に出発して[[ブリンディジ|ブリンディシュ]]まで行ったが、疫病が流行して多くの将兵が命を落とし、従軍していた[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ルートヴィヒ4世 (テューリンゲン方伯)|ルートヴィヒ4世]]も死亡したため引き返してしまった。同年に友好的だったホノリウス3世が亡くなり、新たに教皇となった[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は強硬派として知られており、この延期を誓約違反としてフリードリヒ2世を[[破門]]にした。
 
 
 
==破門十字軍==
 
フリードリヒ2世は破門を解くべく教皇と交渉を行ったが成功せず、遂に1228年6月に破門のまま十字軍に出発した。しかし破門された皇帝による十字軍に抵抗を感じて、帰国する者も多かった。9月に[[アッコ|アッコン]]に到着したが、ここでも[[聖ヨハネ騎士団]]と[[テンプル騎士団]]は従わず、現地諸侯も協力に消極的だった。
 
 
 
しかしフリードリヒ2世には、かねてから[[アイユーブ朝]]とのコネクションが有り、出立前には既に予備交渉が行われていた。[[スルタン]]の[[アル=カーミル]]は当時シリアの兄弟達と争っており、同盟を条件に[[エルサレム]]を返還する意向だった。ちょうどこの時期に、対立していた兄弟の1人である[[ダマスカス]]の領主が亡くなり、有利な状況になったアル=カーミルとの交渉は難航した。しかし、アル=カーミルは[[モンゴル帝国]]の脅威を感じており、ダマスカスも簡単に陥落しなかったため、1229年2月にエルサレム([[岩のドーム]]を除く)、[[ナザレ]]、[[サイダ|シドン]]、[[ヤッファ]]、[[ベイルート]]を割譲する条件で10年間の休戦条約を締結した。
 
 
 
平和裡にエルサレムの奪回に成功したが、キリスト教徒側における評価は低かった。「イスラム側がこれほど弱気なら戦闘で勝利すれば、旧エルサレム王国領全てを取り戻せたかも知れない」、「最初から馴れ合いであり、十字軍の目的はイスラム教徒と戦うことである」、「城壁もないエルサレム([[1217年]]にイスラム側により破壊されている)といくつかの都市を返還されても、これを維持するのは難しい」と言った批判が行われた。特に[[カトリック教会|ローマ教会]]側は破門皇帝の業績を認めなかった。
 
 
 
3月にフリードリヒ2世はエルサレムに入城し、戴冠式を行ったが、[[エルサレム総主教庁|エルサレム総司教]]や聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団の総長は出席しなかった。イザベル2世は前年、[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート]]を生んだ後に亡くなっているため、王としての正統性も疑わしく、現地諸侯の反応も芳しくなかった。わずかに[[ドイツ騎士団]]総長などが出席する中で、自らの手でエルサレム王に戴冠した。
 
 
 
間もなく、イタリアにおいて教皇は破門皇帝に対する十字軍を宣言。軍隊を帝国に侵攻させたため、フリードリヒ2世はアッコンなどに代官をおいて5月に帰国の途についた。
 
 
 
第6回十字軍は、第1回とならんでエルサレムの奪還という成果にも関わらず、教会から十字軍と認められることもなく、むしろ十字軍を起こされて終了という皮肉な結末となった。
 
 
 
==その後==
 
フリードリヒ2世はイタリアにおける教皇との争いに忙殺され、パレスチナへ赴くことはなかった。
 
 
 
[[1238年]]には[[シャンパーニュ伯]]兼[[ナバラ王国|ナバラ]]王[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]が聖地[[エルサレム]]への遠征軍を率いた。教皇グレゴリウス9世は破門十字軍の成果を敵との妥協であると考え、武力によるイスラム教徒打倒を構想し、公式な十字軍を送ろうとしていた。しかし頓挫し、テオバルド1世ほかフランスの諸侯による小規模な出陣となったのである。
 
 
 
[[1239年]]夏にパレスチナに上陸した彼らがほとんど戦うことはなかった。既にエルサレムや他の領土はキリスト教徒側にある上、休戦が続いており、テオバルド1世らはアッコンの宮廷で詩をよんで過ごし、[[アシュケロン|アスカロン]]で築城をした。彼らは[[カイロ]]とダマスカスに分かれて戦うアイユーブ朝宮廷の双方から援軍としての同盟を持ちかけられ、交渉により[[ヨルダン川]]と地中海の間にエルサレム王国の領土を拡大し、[[ハッティンの戦い]]以前に匹敵するほどにした。これは領土的な成果としては[[第1回十字軍]]に匹敵するものであったが、現地の政治情勢に乗じた結果でありテオバルド1世の遠征前の意図とは異なった。[[1240年]]末、[[イングランド王国|イングランド]]からコーンウォール伯[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]が到来する前に、エルサレムの主導権争いを嫌いパレスチナを去った。グレゴリウス9世の意を受けて遠征したコーンウォール伯も戦うことはなく、アイユーブ朝からの領土受領とアスカロン築城をしただけで帰って行った。
 
 
 
1239年に休戦期限が切れた後、[[1243年]]にはフリードリヒ2世が聖地に置いた代官に対する現地諸侯の反乱が起き、フリードリヒ2世の支配は失われた。さらに[[1244年]]、モンゴルに追われて流浪して来た[[ホラズム]]の一派がエジプトのアイユーブ朝に雇われ、ダマスカス政権の同盟国だったエルサレムを占領し、略奪と破壊を行った。海岸での争いに没頭してきた現地諸侯は内陸からの攻撃に虚を突かれた。城壁のないエルサレムはやすやすと侵入を許し、聖墳墓や歴代エルサレム王の墓は破壊され貴重品は持ち去られ、キリスト教徒の多くは殺害された。これをきっかけに西欧では再度十字軍派遣の声が高まり、[[第7回十字軍]]が派遣される。
 
 
 
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[[Category:十字軍|6]]
 
[[Category:シチリア王国]]
 
[[Category:アイユーブ朝]]
 
[[Category:13世紀の戦争]]
 
[[Category:1220年代]]
 

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